和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂の個展は2021年3月30日(火)から4月4日(日)の予定です。

 

 

著作 

 2014年2月

  「大諷の映画狂時代」

  2018年1月「大諷のへそ曲り

            読書日記」

  2019年7月  「大諷の観音の道」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

2020年

7月

04日

「日本の思想」丸山眞男  岩波新書 

「日本の思想」丸山眞男 岩波新書

     1957年11月 岩波講座「現代思想」第11巻「現代日本の思想」所収

 

1.2018年「はじめての新書」岩波新書80年記念で出版された中に「はじめての新書」

      読書案内があり、87人が其々づゝ推選している。

     その中で最も多く取り上げられているのが「歴史とは何か」E・H・カーと「日本

     の思想」丸山眞男である。

 

2.こゝでは「日本の思想」を取り上げてみたい。

      日本史を通じて思想の全体構造としての発展をとらえようとすると、誰でも容易に

      手がつかない所以は、研究の立ち遅れとか研究方法の問題をこえて対象そのものに

  ふかく根ざした性質にあるのではないかと問題提起している。

 

3.更にそれが同時代の他の諸観念と、どんな構造連関をもち、次の時代にどう内的に

  変容してゆくかという問題になると、ますますはっきりしなくなると問題点を明ら

  かにして、そしてそれは自已を歴史的に位置づけるような中核、あるいは座標軸に

  当る思想的伝統はわが国には形成されなかったと結論づけている。

 

4.ヨーロッパでは最も頑強な「公式」であるキリスト教が長年涵養した生の積極的

  肯定の考え方が普遍化している社会でこそ、そこに現実との激しい緊張感がうまれ

  るとし、又社会的栄誉をになう強靭な貴族的伝統や自治都市、特殊ギルド、不入権

  (フニュウケン 註)をもつ寺院など国家権力に対する社会的バリケードが日本では

  いかに本来脆弱であったかゞ指摘される。

 

5.マルクス主義の登場

  大正末期からのマルクス主義からは日本の知識世界に初めて社会的な現実を政治と

  か、法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づ

  けて綜合的に考察する方法を学んだ。

  又多様な歴史的事象の背景にあって、これを動かして行く基本的導因を追求すると

  いう課題を学んだのである。

 

6.しかしマルクス主義のよってたつ歴史を捨象して上澄みだけを輸入したことで、マ

  ルクス主義が日本にもたらした巨大な思想的意義は近世合理主義の論理とキリスト

  教の良心と近代科学の実験操作の精神を前提としたマルクス主義が日本には前提条

  件なしで受け入れたことで、その重荷にたえかねたとみることが大量に思想的転向

  を出した原因ともみられるのである。

 

7.㋑ 異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとして、しばしば

    流通したのは周知のように"何ん即何そ" あるいは "何々一如" という仏教哲学

          の俗流化した適用であったとしている。

      ㋺ 本来カルチェアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異な

          るものと措定して、これに対面するという心構えの希薄さ、その意味での物分か

          りのよさから生まれる安易な接合の伝統が日本に根強くあったのである。

 

8.明治以降の近代化は政治、法律、経済、教育等あらゆる領域におけるヨーロッパ産

      の「制度」の輸入と、その絶えまない「改良」という形をとっておこなわれた限り

  合理的機構化にも徹しえず不断の崩壊感覚に悩まねばならなかった。

  その第一は日本の実情が共同体的習俗に根をおろしているかぎり、それは本来合理

  化、抽象化一般と相容れないものであり、いかなる近代的制度も本来実情に適合す

  る事は不可能なのである。しかも「制度」は既成品として各部門でバラバラに輸入

  され、制度化の全体的計画性と個別的実態調査との結合ぬきに実施されることが少

  ないので、いよいよ理実との間に悪循環をひこおこしたと述べ、日本に新体制を敷

  くにあっての現実を見極めることなくすすめたこと、つまり日本の生活風習、宗教、

  ならわしを無視して強行したことをあげている。

  結論として、日本の伝統的宗教がいずれも新たな時代に流入したイデオロギーに思

  想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果しえず、

  そのために新思想はつぎつぎに無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性がいよ

  いよ甚だしくなったとしている。

 

9.加藤周一の第7巻に「日本の雑種性」があげられている。

  そこに英仏両国民の自国の文化に対する極端に国民主義的な態度があるとして、要

  するにイギリス的な特色は学問芸術から服装や生活様式の末端にまで及んでいる。

  イギリスの文化は日本でのように医学は外国式で美術は又別の外国式だが、生活様

  式は日本流だというような混雑したものではない。又外国の文化に対する強い好奇

  心があるが、外国との接触によって本来の原理の展開を豊かにするということにす

  ぎない。一種の文化的国民主義が発達している。

  日本では港の桟橋も起重機も、街の西洋建築も風俗もすべて日本人が自分達の必要

  をみたす為に自らの手でつくったものである。西洋文明がこのような仕方でアジア

  に根を下ろしているところは植民地を除いては日本以外にはない。

  つまり英仏の純粋種の文化の典型あるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型

  ではないかという事で、日本風といわれるものは常に精神的なものばかりである。

 

註)「不入権」とは 中世ヨーロッパにおいて教会領や俗人の所領が有していた特権で

①  所要内の土地と住民とか負担すべき国家に対する貢租や労役からの免除

②  国家の役人が所領内に立ち入り、その権限を行使する事の禁止(裁判権と警察権)

③  領主ないしはその代理人が国家の役人にかわってその権限を役使することを意味

  する。   

2020年

6月

22日

作品紹介 子規歌集 巻子

2020年

6月

19日

作品紹介 自宅の庭の花 今年の白牡丹

2020年

6月

18日

作品紹介 自宅の庭の石佛

2020年

6月

16日

作品紹介  懐素「自叙帖」 

2020年

6月

11日

作品紹介 葛飾区 新宿4丁目 路傍の石佛

葛飾区の新宿(ニイジュク)4丁目の舗道傍らに立つ石佛は観音像か明王像か判別

できないが、明王は忿怒の姿が通常であることからもしかして准胝観音かもしれない。

二面六臂の像である。この石佛の外に13体の石佛が並んでいる。

2020年

5月

31日

『荷風随筆集』より 

荷風随筆集より
1.荷風ほど変貌する東京に悲憤慷慨した文筆家は少ない。

『日和下駄 *一名 東京散策記*』に

  「日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無情悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたら埃及

(エジプト)、伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思いをさせ

るところはあるまい。今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る

時には必ず貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒(ユイショ)の

ない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれる

のである」

 「東京の都市は模倣の西洋造りと電線と銅像とのためにいかほど醜くされてもまだま

だ全く捨てたものでもない」「庭を作るに樹と水の必要なるは云うまでもない。都会の

美観を作るにもまたこの2つをのぞくわけには行かない。幸いにも東京の地には昔から

夥しく樹木があった」

 「青山竜巖寺は青山練兵場を横切って兵営の裏手なる千駄ヶ谷の一隅に残っていたが、

堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家に、松は愚か、庭らしい

閑地さえ見当たらなかった」

 「現今の東京は全く散歩に堪えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便

りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに擬し帝国劇場を

以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人には

あるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式文明が森永の西

洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩に対しては東京なる

都会の興味は、勢 尚古的退歩的たらざるを得ない」

 「現代官僚の教育は常に孔孟の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の

水を過る度々『仰高』の2文字掲げた大成殿の表門を仰げば、瓦は落ちたるまゝに雑草

も除かず風雨の破壊するがまゝに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが

如きに至っては、われらは唯唖然たるより外はない」

 「およそ近世人の喜び迎えて便利と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生が

アメリカ人が如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が

見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして能く時間の節倹を実施させている

であろうか」
 「日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少し深厚なる愛情を持っていた

なら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損せずに

済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、または昔からなる名所の眺望や由緒のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の

高い家を建てる現代の状態は、実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙

といわねばならぬ」
 「近年見る所の京都の道路家屋並に橋梁の改築工事の如きは全く吾人の意表に出でた

ものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の2旧都をそのまゝに保存せしめたりと

てもしそれだけの埋合わせとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業よ

り見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみあくせくして世界に二つ

とない自国の宝の値踏をする暇さえないとは、あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた

話である」

 「表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層私をしてその陰にかくれた

路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」他大正4年4月に書かれた

「日和下駄」には、日本の文化が次々と破壊されていく事に対する怒りの思いが縷々述

べられている。

 

2.加藤周一が55年頃に「日本文化の雑種性」でこの問題にふれている。

「日本の街はすべて日本人が自分達の必要をみたす為に自らの手でつくったもので、西洋文化がそういう仕方でアジアに根を下しているところは、アジアでは植民地以外では日本しかない」旨述べている。

 

3.ポーランドのワルシャワはナチスの爆撃で完膚なきまでに破壊されたが、ワルシャワの美術学校の画学生が描いた街のスケッチが大量に残っていて、これを元にして昔の街を再現している。自国の街の景観に誇りを持っていたのである。一方、戦後焼ヶ野が原となった東京は都市計画もないまゝに、建物がバラバラに建ち始めた。更に田中内閣の日本列島改造によって、未だ古さの残る都市は完全につくり変えられ、江戸の風情を残した多くの掘割は埋め立てられ、江戸の街特有の多くの樹木は切り倒され、今日の東京は一体いずれの国か解らぬような高層ビルが、統一性も計画性もなく立ち揃び、汐留界隈等は街にもビルにも人影が見えず、建物の名前も表示されず、番地も判らない。

まるでゴーストタウンのようになっており、荷風が嘆息した日本の街はついに、ここまできたかとの感がある。

 

2020年

5月

27日

葛飾の寺 浄心寺 2.26事件で犠牲の清水巡査部長の墓石も

浄土宗林光山称名院と号し、芝増上寺旧門末 慶長19年(1619年)起立とも云われる。

墓地内の阿弥陀三尊は優品である。


境内に清水巡査部長の墓がある。
昭和11年2月26日陸軍内部の皇道派青年将校は武力によるクーデターを図り、1400人余の部隊を出動させて国会、首相官邸一帯を占領し陸軍上層部に国家改造の断行を要請、2.26事件である。墓背面の碑文によれば、当時警視庁巡査部長の職にあった清水與四郎は総理大臣官邸警戒勤務中に、この事件に遭い機関銃などの乱射を受けて死亡。
この事件の責をとり岡田啓介内閣は3月に総辞職。

岡田啓介によって6月この墓碑が建立された。 

 

  浄心寺 全景

  

      観音石佛 大諷画 石佛の年は寛文6年と読め1667年である。   

 

        石 佛 群

2020年

5月

22日

作品紹介 佛頭 一点

2020年

5月

20日

葛飾の古刹 親鸞聖人ゆかりの寺 光増寺

光増寺 正式名称

    浄土宗 摂取山 蓮池院 光増寺

  (せっしゅざん れんちいん こうぞうじ)


葛西神社の北200m程、旧水戸街道の左側に光増寺はある。

親鸞聖人ゆかりの古刹で貞応元年(1222年)聖人直弟子随信房法海の草庵に始まる。

 

縁起によると、元仁元年(1224年)5月上人が葛西の領主葛西三郎清重の招きにより

常陸稲田から葛西渋江の館に赴く途中金町の一草庵に一夜の宿をとったが、庵主法海は

喜びのあまり、聖人の弟子になり随信房の号を贈られた。貞永元年(1232年)8月再び訪れ草庵を光増寺と称し、自筆の阿弥陀仏画像と三名号を与えた。

 

以後天文、永禄の2回にわたる国府台の合戦で兵火により荒廃。天正15年(1587年)江戸の芝増上寺の常誉上人が法脈の絶えることを惜しんで、浄土真宗を浄土宗に改め再興。文縁元年(1592年)急火だで焼失。慶応年間に再興したが天保3年(1832年)再び焼けさらに3度炎上した。(3度とも1月8日に焼けている)とある。

 

明治43年8月再建、昭和49年現在の堂舎に改築された。境内には本堂の他に法隆寺の夢殿を模した八角形の屋根を持つ倶会堂(くえどう)が建てられている。門をくぐると左手に葛飾区有形文化財の舟形地蔵が立ち元禄7年(1694年)7月建立とあり、同文化財の道標が石に刻されている。(元禄7年の銘有)「そう可(か)迄2里半 これよりミぎいわつきぢおんじミち」と記され、片方(元文6年銘)には「これより左いはつき志おんじ道」とある。


墓地の入り口左側に俳諧師 鈴木松什 の墓がある。

松什は寛政10年(1798年)柴又村に生まれ、通称を安五郎。俳号を 無有庵松什 と号した。瓦の製造を生業としたが、若いときから俳諧の道に入り江戸の俳諧師 蓼松(リョウジュン)の門下となる。俳句のほか書画にも堪能で「芭蕉翁発句類題集」ほか多数の作品がある。 

        

住職の話では自身 作家の司馬遼太郎と親交があったとのことである。

倶会は倶会一処の事で阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の人々おとともに一処に会同

する事をいう。  

 

     光増寺石佛 大諷 画

    光増寺 本堂

      舟形地蔵

          鈴木松什の墓

2020年

5月

12日

5月8日 丸山眞男座談全9巻を読んで (続き ) この座談が行われた当時

1.個人的には1960年代初めキューバ危機をめぐり公然化した中ソ論争の中、「世界政治資料」誌に繰り広げられたベトナム戦争を中心とした中国の彭真(ホウシン)、ベトナムのレ・ズアンの論文を待ち望んで読んだものである。


2.彭真は(1902~1997) 山西省出身
23才で共産党に入党した。1945年共産党第7回大会で中央委員に選出、1951年北京市長、1956年党第一書記となり、理論面で大きな役割を演じた。文化大革命で批判を浴びて1966年6月北京市長解任すべての地位を失う。1979年文化大革命収束と共に中央に返り咲いた。


3.レ・ズアン(1908~1986)は1930年インドシナ共産党創立に参加。
1931~35、1940~45 フランス官憲に逮捕投獄される。1939年中央委員会議長。
1959年党第一書記に就任(ベトナム労働党)。1986年書記長。
ホーチミン体制下の党内有数の理論家。1960年の南ベトナム解放民族戦線の結成を指導。1969年のホー主席死去のあとは党・政府両面で主導権を掌握。1975年のサイゴン攻略に断を下したのも彼であった。
当時両者、特にレ・ズアンは社会主義諸国のなかで、とびぬけた論客で鋭い理論展開は見事であり、国防相の将軍ボー・ゲンザップと共にベトナム解放戦争を勝ち抜いた立役者であった。

2020年

5月

08日

丸山眞男座談 全9巻を読んで

1.1946年から1995年まで実に50年にわたって日本の文化と政治、社会をめぐる

  座談の形で論評している。

座談の相手は

大塚久雄、中村哲、古在由重、清水幾太郎、

林健太郎、宮城音弥、吉野源三郎、

大岡昇平、野間宏、猪木正道、天野貞祐、

渡辺一夫、田中耕太郎、高見順、武田好、

久野収、長谷川如是閑、埴谷雄高、

加藤周一、矢内原伊作、江藤淳、南原繁、

永井道雄、日高六郎、石母田正、鶴見祐輔、

中村光夫、吉田秀和、木下順二、山本安英、

開高健、村松剛、桑原武夫、高野悦子

  等多岐にわたっている。


2.唯物史観と主体性、日本の軍隊を衝く、何を読むべきか、現代社会における大衆、

現代革命論、映画思想と政治、戦争と同時代、民主主義の後退を憂う、現代の政治的

状況と芸術、芸術と政治、学問と政治、現代における平和の理論、日本の言論、日本

の反動思想等文化と文明、政治について幅広くとりあげて論議されている。

取りあげている時代ごとに踏み込んだ話題が繰り広げられており、全体としては、

民主主義がとりくずされていく反動化が全体を通してみると良く分かる。

 

3.中でも9巻にのる「平和問題談話会」については一際光彩を放っているようだ。

石田雄、久野収、坂本義和、日高六郎、緑川亨、吉野源三郎、そして丸山眞男の面々

で1968年の座談である。戦後23年経ち国際的にも国内状況もきわめて流動化した現象

がみられるようになって、その転換期に一定の方向性を定める必要があるとの認識に

立って戦後の日本の平和思想の形成にとって大きな基盤を提供してきた「平和問題談

話会」の思想的原理と論理を明らかにしようとした座談である。


4.1948年12月10日世界人権宣言が発表され、それにともなって、ユネスコの8人

の社会科学者の声明が出された。8人の人達は、内4人が自分の正しいと思う考えを捨

てる事を拒否した為に生涯のある時期を牢獄で送った思想的弾圧の経験者であり、

2名は亡命しなければならなかった人達であり、2名は第2次大戦中肉体的虐待を受け

たおそらくユダヤ人としてのつらい思いをした人達であった。


5.8人の声明を受け入れ、これに対する日本の科学者の声明を発表し、そこから

「平和問題談話会」が形成された。日本の問題は東西両陣営の対立のなかでこれから

いろいろな問題に直面せざるを得ないわけで、ユネスコの声明を日本の問題に引きつ

けて行くことは日本のインテリゲンチャとして孤立し、分散し、各個に蹴散らされた

戦争にいたる体験を経て、新しく出発する覚悟をもたねばならない事や、東西両陣営

の狭間のなかでどのような態度をとるか等極めてむつかしい問題だったのである。

つまり戦前は世論に影響力をもつような知識人の間の交流の場は全くなかったのだから。


6.当時の日本の政治状況
敗戦の直後には「自由懇談会」というものがあり、ずっと左の人まで集っており

「民主人民戦線」が盛んに主張されており、野坂参三が中国から帰国した際には歓送

委員の中には石橋湛山がいたという状況があった。マルクス主義に対する信頼は極め

て高かった。

つまり思想としてはマルクス主義のみが戦争に抵抗したということが最大の原因である。


7.しかし肝心の日本共産党の実情はどうだったか。ファシズムと闘った仏、伊の共産

党と異なり日本共産党は1933年6月7日佐野学、鍋山貞親の転向声明を始めとして雪崩

を打って転向。残った数少ない指導部は戦後になって牢から出てきており、世界の状況

も日本の実状も理解することが出来なかった。またディミトリフによるコミンテルン

の戦略転換が1935年社会民主主義者こそもっとも悪い階級敵だと攻撃の戦術転換を行

った。

以降日本共産党も長い間社会党を敵の補充物として攻撃する立場をとり続けていた。
いわゆる疑似左翼は右翼よりなを悪いという見方である。又戦前の党は拠点を生産現

場に築くことが出来ずに、一部インテリゲンチャに依拠していた為にあっけなく剪滅

されてしまったのである。又民主主義的権利の闘争に充分習熟する事もなく、戦術面

での未熟さもあった。共産党員の転向も含めて日本の民衆の中に「人権」の観念が不

足していた事が大きい。人権とは人民という集合体の権利ではなく、個人個人の権利

で所有権から言論の自由までみんなそれに入る。つまり絶対主義の政府でも「人権」

にそれこそ「絶対」に足を踏み入れてはいけないという観念で、国会にしろ行政府に

しろ政権はどんなに集中しても人権は不可侵なものという思想は今の日本でさえ定着

していないのだ。

ヨーロッパでは17,8世紀の自然思想はみなそれで、いわゆる近代民主主義の勃興以

前の問題で、政治形態の問題ではない。いかなる政治権力であろうと踏み込んではな

らない領域という思想が日本にはない。民主主義もマルクス主義もヨーロッパからそ

の上ずみを輸入して、その歴史を身につけていない事が大きいのではないか。

まるで着物を着たり脱いだりしているような気持がみえる。共産党も国民も民主主義

を勝ち取った経験もなく、従って守る事もないまゝ中味が伴っていなかったつけが巡

って来たとも云えるのではないか。


8.又ソ連は世界革命のリーダーとしてコミンテルンの中枢に君臨していたがレーニ

ン死後スターリンが党の実権を握るや、次第に民主主義の抑圧者となっていった。

1936年スペイン内乱が起りヘミングヴェイ等世界各国から義勇軍が国際旅団として

人民戦線に参加、一方のソ連は武器援助する条件として人民戦線の中のアナキストを

排除するように強く要求。人民戦線の内部ではアナキストの勢力が強い為に、その要

求に応ずることが出来なかった。ソ連の反ファッショを額面通りに信じていた世界の

共産党からは大量の脱党者が出た。ついで独ソ不可侵条約である。これで2度目の転

向者を出す事になる。更にソ連の原爆実験によって世界の民主化運動の分断は深刻と

なり日本でも反原爆禁止運動は分裂「いかなる国の核実験にも反対」か「ソ連の実験

を帝国主義の実験と同一視出来ない」かをめぐり原水協と原水禁に分かれていく。


9.一方共産党は「劇的な文書「赤旗」第一号の冒頭「人民に訴う」に徳田、志賀の連

名で「ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の進駐によって日本

に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対し我々は深甚の感謝の意を表する」と

記された。

更に46年2月第5回大会で戦後進駐軍が英、米、ソの反ファッショ連合を代表していた

面だけをみて、その帝国主義的本質を見おとし無条件に「解放軍」と規定、占領軍は

革命の発展に干渉は行わず、しかも占領は早晩講和によって終結するであろうとのまこ

とに能天気な現状分析のもと「占領下革命論」が指導理論として打ち出された。

闘うべき敵を見失ったこの戦略は50年コミンフォルム批判で「帝国主義占領者美化の理論」と痛烈に批判され反マルクス・レーニン主義の理論として捨てられたのである。
国内外の共産主義勢力の誤りもあってマルクス主義の影響は次第に低下し続けて行くこ

とになる。
しかし戦争直後の1948年多くの知識人が先駆的に日本を民主主義の国とする為に何かしなければとの必死の思いは痛い程伝わってくるのである。

 

2020年

5月

07日

「エルザの瞳」とルイ・アラゴン

2018年9月16日付けで 私の好きな歌手その9「コラ・ヴォケール」を取り上げました。その中で『アンドレ・クラヴォーはシャンソン歌手に珍しい甘い美声の落ち主で

「パパと踊ろうよ」で父と幼い娘とのデュエットがある。またルイ・アラゴンの詩に

よる「エルザの瞳」はその底流に民主主義渇望の思いをこめて絶品の歌唱である』と

紹介した。

 

今回その続きとしてその詩「エルザの瞳」を作った詩人ルイ・アラゴンについて加藤周一の著作集2から紹介します。

 

ルイ・アラゴンについて
1.加藤周一は著作集2の「途絶えざる歌の中」で抵抗の文学を語るには何よりもまず

詩からはじめなくてはならないが、誰よりもまずルイ・アラゴンから始めなくてはなら

ない。ナチス占領下のフランスの代表的詩人は、その仕事の量において、また質におい

て衆目のみるところ等しくアラゴンであった。
その大胆で、誇りにみちた作品は、彼の詩作の原理がなんであるかを端的に示している。
抵抗の詩集は憎悪ではなく怒りの、正しく人間的な怒りの作品であるといえよう「傷心」「エルザの瞳」「フランスの起床ラッパ」「祖国のなかの異国にて」に至る彼の詩集ほどあきらかに語っているものはない。憎悪は愛とともにありえないが、怒りは愛とともに、むしろ愛に支えられてはじめてあり得るものだ。

フランス人に、フランスに対する愛がなければ、フランスをふみにじるものに対する怒りもなかったはずであるし、拷問と強制労働に対する反抗はありえても、あのように堂々たる人間的な怒りに支えられた抵抗はありえなかった筈である。憎悪は人を盲目にするが、怒りは人の目をひらく。
詩人アラゴンが怒れるフランス人ではなく、憎悪に燃えるフランス人であったならば、彼の詩集が祖国愛と人間愛とを同じものとしてうたることも、そのことばをあれほど美しく鍛えることも出来なかった筈であると述べている。


2.第一次大戦後、アンドレ・ブルドンを中心におこった超現実主義のもっとも輝かし

い一人としてアラゴンは登場したが、超現実主義から大衆が離れた事と、マヤコフスキーと接触することによって超現実主義を克服。「社会主義リアリズム」に転換したが、詩

作はかっての輝きを失っていった。ダンケルクを境としてうたをとり戻す。
「傷心」についてアンドレ・ジードは「アラゴン、彼の初期の作品は俺たちを驚嘆させた。次期の作品最近までの作品は、それほど、或いは全然われわれを喜ばせなかったばかりか、その或るものは彼が文学にとって永遠に失われたのではないかと心配させるほど

われわれを呆れ返らせるものだった。

ところが彼はおそらく誤謬をみずから悟ったらしい。ああ、彼ははるばる帰ってきたのだということが出来る」と語った。


3.エルザの瞳
ロシア生れの小説家エルザ・トリオレは抵抗の間もアラゴンの良き伴侶であった。

アラゴンは彼女への愛を、ダンケルクの砲煙弾雨のうちにうたった。


『僕は叫ぶだろう 僕の愛を・・・・
ぼくは叫ぶだろう 弾丸よりも強く
傷ついた人々よりもまた溺れゆく人々

   よりも

ある美しい夕暮に世界は砕けた
遭難の人々の燃えあがらせた暗礁に
わたしはみていた海の彼方に輝いている
エルザの瞳 エルザの瞳 エルザの瞳
わが愛の名はたゞ一つ若き希望が

     それである
わたしはいつもみつけだす 

      その新しい交響を
苦しみの底でそれを聞く 君たち
フランスの美しい子よ眼をあげよ
わが愛の名はただ一つ わが頌歌は

    今終わる』


こうしてアラゴンはその詩的天才を抵抗の戦いそのもののなかに実現したのである。

 

2020年

5月

04日

作品紹介 如来像 3体

2020年

4月

28日

鈍翁  益田 孝とその時代 丸山眞男 座談 8巻より 丸山眞男 白崎秀雄 

鈍翁・益田鈍翁とその時代 丸山眞男座談巻8より   丸山眞男、白崎秀雄


三井物産をつくり育てた益田孝がとりあげられている。

1.益田孝は(1848年~1938年)、幕末から明治にかけての資本主義勃興期から昭和10年代の太平洋戦争直前までの日本の資本主義発達史を身を以て生き、また率いた人物で、大茶人であると共に、古美術の一大コレクターであり、あれだけの美術に関する見

識を持った人間は他にいない。


2.益田は三井のリーダーとしては井上馨、中上川彦次郎、団琢磨、池田成彬という人々にくらべて光が当てられなかったが大組織の巨人である。


3.益田をふくむ勃興期の日本ブルジュワジーの洗練された教養は茶会を通じて、財界や政界のネットワークが自然と成熟したと述べられている。


4.益田孝は佐渡相川の地役人の家に生まれ、父の転勤で箱館、江戸で少年時代を送る。英語を学び、江戸幕府の通訳となり1863年使節団の随員として渡欧に認められ、1872年大蔵省に入り造幣権頭となるが、翌年井上とともに退官、井上の創設する先収会社に参画し1876年これが三井家に吸収されて三井物産が設立。経営の最高責任者としてその発展に寄与した。1909年三井合名会社設立理事長として銀行、物産、鉱山を株式会社化し、三井の財閥体制を確立した。
一般には佐竹本三十六歌仙を分割し籤引きで、財界人に割振ったので知られている。


5.我家に鈍翁の書状が3通ある。
この2015年頃に購入したものである。
1通は「拝見 久々御疎遠に打過仕候、益御清栄欣賀至極候云々。
   7月日付西22村芳□様宛
2通、3通は鈍翁作の茶杓と添状付きで購入したものである。
  1通目 珍しき鵞の羽箒 云々        12月念日とある。
  2通目 再應之御書に候へ共かゝる際に八迎春之明も謹み出申候 欽禮仕候まゝ夫

    を銘と致し候 末客ニ苦しみ筆採る間も無之遅延御怒を乞ふ 謹言 

             昭和1年初〇 孝

    蓬〇学兄侍史 とある。

 

2通目は茶杓の添状の1通で前年末に作成した茶杓については大正天皇崩御の為に「迎春」の銘は謹しみがあるので銘は「欽禮」がよろしかろうとした旨述べ返事が遅れたこ

とを詫びている。   高橋蓬庵(彦三郎)宛

 

私は茶を嗜なまないが茶杓は20本程作った事がある。茶杓に添状がついていた為に購入したが、2通の添状は掛軸に仕立てゝ12月、1月には茶室に掛けて楽しんでいる。

 

(注)2015年鈍翁の茶杓を購入した際、同年4月28付けにてアップした記事を下記に再アップします。茶杓の銘「欽禮」のいきさつ等詳しく載せてますのでご参考ください。

 

2020年

4月

28日

「再 録」益田鈍翁 茶杓購入 2015年4月28日ブログ 

茶杓、同添書、書状。 
・銘は大正天皇の崩御を悼むとともに昭和天皇の即位を慶賀して益田孝が記したもの。
・欽禮 天皇陛下における慶事。
・諒闇 天皇または太皇大后・皇太后の崩御により服喪する期間。
宛先の蓬庵は龍渓の茶号を有する名古屋の茶人、実業家高橋彦二郎のことか。

自邸内に蓬庵を設け、大正3年(1924年)に益田孝を招いていることが知られている。

12月29日の添状は益田の方からは羽箒の箱などへの書付を依頼し、蓬庵主からは茶杓への書付を頼まれ、即吟を記したことを、また葉が紅く色づた風情の筒を正月に使用することにつき、天皇の崩御、即位の時期だけに茶事を行うのも如何かなど伝えている。

また正月3日の添状では再度の連絡を受け取った益田孝が「迎春」の銘は謹みがあるので銘は「欽禮」がよかろうとした旨を述べ、揮毫が遅れたことを詫びている。

 

「益田鈍翁」 (マスダ・ドンノウ)
近代の実業家、茶人。大師会、光悦会などの大茶会を催すなど、茶道復興に大きく寄与した。茶道具をはじめ、佛教美術、古筆などを多く収集し、数寄者としても名高い。1938年没(91歳)。

 


2020年

4月

24日

「日本の言論」丸山眞男 座談より 1966年1月

日本の言論 丸山眞男 座談より 1966年1月

 

丸山眞男と朝日新聞の最高責任者森恭三の対談である。

戦後20年経過し、当時の日本は政治、経済、外交、防衛、思想、教育と極めて複雑な状況に直面していた。その中で言論の自由とどう取り組むかを正面から語っている。


森の発言 第一は第二次大戦について
1.反省として、「新聞が本当にしっかりしておれば、あの戦争は避けえなかったとしても、その抵抗精神は戦後の日本人に誇りと勇気を与えることができたであろうと思います。この反省が、良心的なジャーナリストには強いと思います」


2.第二は「占領政策に対する反発です。平気で180度の転換をやってのけるアメリカの政策のご都合主義に対する反発が日本新聞の批判精神を強めたことは否定できなません」


3.第三はイデオロギーです。戦前戦中の天皇制や国体論の神秘主義とは正反対の「科学的なものと考えられたイデオロギーにとびついていたこと。そのイデオロギーがどのような風土に育ったものか、といった理解や反省もなく、かって全体主義を受け入れたのと同じ安易さをもって受け入れたのです。


4.第四は安易な自由観です。戦前派のジャーナリストは、不自由の経験をもっているだけに、言論の自由のありがたさや、その限界をわきまえているのですが、戦後派の中には、言論の自由に 随伴すべき責任感をもたぬものも なきにしもあらずです。


5.事実報道の仕方をめぐって では
いわゆるマスコミ論のなかには、ブルジォア新聞は独占資本に奉仕するものだ。そこには真実の報道はないと、頭からイデオロギー的にきめてしまい、具体的な観察に基づかない議論が多いと思うのです。業務局による編集局による介入や、広告資本の圧力といった問題はわれわれに関するかぎりないと断言できます。

 

6.選挙と不偏不党について
私達としても、今度の選挙ではどの政党を支持するかということをいいたいのです。しかし実際問題として、新聞として支持し、読者に対しても支持を要請しうるような政党が、悲しいかなないのです。不偏不党ということが問題になると思います。それは真ん中とかどっちつかずという意味ではない。特定の政党や組織の機関誌ではなく、独自の判断によって決定し、選択するという意味なのです。


7.事実報道について
私個人の考えを申しますと、日本ではもう少しかたい、広い意味における政治専門新聞が必要じゃないだろうかと思います。


8.報道の画一化
資本主義のもとにおいては画一性は不可避です。日本の新聞記者は、だいたい大学を出て入社試験を受ける。その若い人たちの考え方がすでに画一されている。もう一つの問題は経営者の心構えです。経営者の独自の見識が欲しいと私は思うのです。

 

 ************

以上にみるとおり丸山の鋭い問題提出に対して、森の確信に満ちた応答と自己に対する厳しい誠実な意見の吐露は、今日の新聞界にも通ずる考え方であろうと思われる。
今日の朝日新聞の論調をみると、やゝ情緒的なきらいはうかがえるが、政府権力をチェックしようとする矜持はまだ失っていないようにみえて、森恭三の思いは繋がっているようにみえる。

2020年

4月

20日

「芸術と政治」丸山眞男 座談より 1958~1959年

丸山眞男 座談より 「芸術と政治」 1958~1959年

 

丸山眞男と吉田秀和の間で興味深い座談が繰り広げられている。
20世紀を代表する指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーである。
1.吉田「トスカニーニはさっぱりとイタリーをすてゝ国外に出ちゃったんですね。それは音楽家としてのトスカニーニがやってきたことゝ首尾一貫していると思うんです。

一つはファシズムが嫌いだから出てしまった。もう一つは聴衆に対する態度なんですね。ファシストイタリーにだってナチドイツ同様、本当の音楽好きの公衆は存在した。

トスカニーニはいわば未練なくその人達を捨てちゃったんですね。そしてニューヨークへ行って、そこで世界一流のニューヨーク・フィルハーモニィーと演奏する。又彼の為につくられたNBCオーケストラが編成される。
トスカニーニという人は指揮者として革命的な人ですが、一口に言って楽譜に忠実にやる行き方ですが、ご承知のように楽譜は音楽的思考の記録として、けっして完全なものじゃない。早い話がフォルテといゝアレグロといっても、どのぐらい強く、どのくらい早く弾くか。楽譜の区切りでテンポをどうもっていくか。たとえばベートーベンの場合はアレグロといってもハイドンのそれとちがう。そういう伝統があり、それが受けつがれつゝ演奏家の個性による変化をうけてきたんですが、トスカニーニは簡単に言えば、そういうものを一切無視しちゃってあくまでも譜面どうりに、イン・テンポでやる。

機械化され能率化された世界にピッタリなんですね。イタリーであろうとアメリカであろうと、パリであろうと世界のどこへ行っても通用するんですよ。

 

2.フルトヴェングラーの場合はまさにこれと反対でドイツの聴衆に聴かせるときが、その音楽がいちばん生きてくる。フルトヴェングラーにとっては演奏が抽象的に存在するのではなくて、音楽を共鳴し理解する公衆が必要なんで、その理想的なものは、彼と同じ伝統をもったドイツの公衆でなくちゃならない。そのつながりを重要視するからこそニューヨーク・フィルの常任の位置にトスカニーニから推薦されたが、結局ゆかないでしまっている。政治のある部分には目をふさいでもドイツに残らざるをえなかった。
フルトヴェングラーの場合にはドイツの国土、ドイツ人との一種の運命的な連帯感情を持っており、又、ドイツ文化の伝統は一時期の政治形態などによって押しつぶされるようなチャチなものではない。もっと深く永続的なものだという確信があると思うんです」

「ドイツ文化を通じて世界の人類に貢献することが、ドイツを離れては自分にはできないんだという確信がいつも流れている」
フルトヴェングラーによれば第3帝国で指揮する者はみんなナチだというトスカニーニの考え方は、芸術をもって時の政権の宣伝と見るナチの考え方を奇妙にも反対の立場から継承しているじゃないか。戦後のアメリカも「ヒットラーの馬鹿げた芸術観と政治観を身につけているじゃないかということになる。ところがトスカニーニはどこまでも奴隷の国には芸術の自由も創造性もない。問題は奴隷国か自由国かの二者択一だと考える。

 

3.一方フルトヴェングラーは多くのユダヤ人や彼を頼ってきた人達を献身的に助けていますね。そういう人達にとっては彼はナチの手から弱い者を守る為に立ちはだかった大きな翼であった訳です。それが大きいだけに不可避的にナチとの接触を深め、そこからナチへの妥協を彼に強いたのじゃないか。

そう考えるとフルトヴェングラーに悲劇的なものを感ずる。
フルトヴェングラーは驚くほど政治、社会情勢について無知なんですね。「いきなりナチがキノコのように大地から生えてきた」と言っていますが、ラジオも持たず、ほとんど新聞も読んでいなかった為かナチの政権獲得の少し前にヒットラーに会っているいるのに、ほとんど何の印象も残っていない。まさかあんな男が・・・・と思ったことであろう。

ナチを甘くみていた。当時のドイツの第一級のインテリに共通に見られる傾向なんです。
30~33年にかけて哲学、社会科学等々雑誌を見てもナチというものを真正面から分析の対象にしたものがほとんどないということ、つまりまったくバカにしているわけです。

 

4.(注)●アルトゥール・トスカニーニ(1867 ~1957)
イタリアの指揮者 
1886年リオ・デ・ジャネイロでオペラ「アイーダ」を指揮し成功を収めるや、以降イタリア各地でオペラ指揮者として活躍。1898~1908ミラノ・スカラ座の音楽監督。
08~15年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場指揮者を務め、29~36年ニューヨーク・フィル常任指揮者、37年トスカニーニの為にニューヨークにNBC交響楽団が組織される。


●ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)
1906年指揮者としてデビュー、ドイツ各地に客演して頭角を現した。1922年ベルリン・フィルの指揮者に就任。ウイーンフィルの指揮者も兼任した。
戦後 戦犯容疑をかけられたが無罪。
47年活動を再開、ヨーロッパ楽界に君臨した。
ベートーベン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスは絶品と称賛されている。


私の手許にあるCD(フルトヴェングラー)
1.ベートーベン交響曲第5番 1937年録音
  ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61 1947年録音
  ブラームス、ハイドンの主題による変奏曲作品56a 1952年録音
2.ベートーベン交響曲第6番「田園」
3.   同      9番「合唱」 1951年録音
     同              1953年録音    
  シューマン交響曲第4番      1953年録音
4.ワーグナー 「トリステンとイゾルデ」全曲   1952年録音
     イゾルデ:キルステン・フラグスタート
     トリスタン:ルートヴィヒ・ズートハウス
     クルウュナール:ディートリッヒ フィッシーヤ・デスカウ

5.ワグナー 「ニューベルグの指輪」  1950年録音
      ハイライト
     ブリュンヒルデ フラグスタート

ナチス治下のドイツから実に多くの芸術家が亡命している。他占領下のフランスでも同様ヨーロッパ中がいかにナチスの被害にあっているか。そのうちの一つフルトヴェングラーの現実がみられる。こればかりでなくアメリカの赤狩り、ソヴィエトの恐怖政治と同様でフルトヴェングラーは結果的にナチスに利用されて協力してしまった事になる訳でその苦汁の念はいかばかりであったであろう。
そして戦後の忸怩たる思いは果たして・・・・・ 

2020年

4月

16日

丸山眞男 座談 全9巻 岩波書店「民主主義を憂う」より

「民主主義を憂う」より1958年12月 1959年1月

 

ー 地方文化 ー
丸山眞男、大内兵衛、南原繁3氏による鼎談

「日本には地方文化というものはない。地方文化を振興しろといっても、それはいいことをしろということと同じであって、振興するだけの基礎がない」「たとえば地方団体にしましても、地方自治体にしましても補助金、交付金というものは40%でしょう。だいたいほとんど地方財務の半分以上が中央に依存している。けっきょくそうすれば、中央で金をとってくることがうまいやつが地方のリーダーになっていくわけです。そういうことを通じて官僚支配といものが地方自治体というものを、いかにインチキであるか、戦後はそれがもっともひどい」「ヨーロッパでもアメリカでも都市化が進んでいるが、地方都市があってローカルのカラーがあって全部ベルリンになるとかニューヨークになるとかはない」「日本の近代化は東京がモデルになって、地方に東京のイミテーションができて、政治、経済、文化とあらゆるものが東京に集中しちゃう」したがって「地方文化といものがないんだから、いくら地方文化を振興したほうがいいといっても、地方文化というものがない」「地方文化というものは城を、名古屋城とか、姫路城を再建することになる。

それになんの意味があるのか」

 

ー 国際的問題について -
「本当に腹の底から、日本がいわゆる自由世界というものに一辺倒になって、そして将来も世界に処していけるということについての確信と、そのなかにおける日本の具体的なあり方についてのイメージが保守党にあるかというのです。ないと思う。」「安保条約を改正してアメリカと同盟してやるということはアメリカどおりの政体とか、アメリカどおりの生活の仕方というものを理想にして、日本もそれに賛成・・・・」「けっきょくそこまで考えないで、多少ちがいはあっても世界的原理としては、共通の立場にたつのだということを考えないで、この問題を処理するということは、非常に危険なんだ」
「できるだけある程度のーーもちろん失地回復だねーー。日本の帝国主義的な、かってのものを持ちたいということをリアルに考えている。その為にはアメリカと一緒にやって

  ・・・・。そういう帝国主義的信念と世界観と、それにともなう政策を考えていい。それは恐ろしいものですよ」「それなら反動ですよ」
「日本の保守党はなにを守ろうという理論がないですよ。つまり守る利益はあるが世界的理論がないということになるんじゃないか」

 

ー 選挙制度 ー
「二大政党ということになると、少数党の発生を防ぐために、小選挙区制いうものが起ってくるわけですよ」「ニ大政党じゃないと安定しないということになると小選挙区の方が安定するというほうに持っていかれる危険性がそうとうあるとおもいます」


今から60年前に3人の論者はこうした見解を述べ、警鐘を鳴らしているのだ。
今日考えてみれば、二大政党はおろか、一党支配、更には官廷支配が強まり、民主主義を否定するような、論議を無視して思うがままの政治を断行、公文書の改竄・破棄と無法の限りを尽くす政治が行われているのが実情である。

 

2020年

4月

14日

小野田寛郎と鈴木紀夫

 

1.小野田寛郎は1943年頃フィリピンのルバング島守備隊に配属され、日本の敗戦後も残置諜報の任務を継続。小野田少尉以下5人の兵士が残っていたが1名投降、3名は村民により銃殺され小野田1人が30年孤独な闘いを続けていた。

 

2.終戦後小野田少尉の生存が日本にも伝わり、幾度か捜索隊を組んで発見に当ったが

果たせず、1973年頃に最後の大捜査団をルバング島に派遣し、捜索したが発見する事は不首尾に終わった。

 

3.鈴木紀夫は大学2年の時突然学校を無断で休学し、世界中を放浪すること3年、日本に戻って自宅でテレビをみていたが、小野田発見の為の調査団の有様をみて、よし、俺が見つけようと思いたった。24才である。彼の作戦は探すのではなく、小野田に鈴木を発見させるというものであった。

 

4.早速一人ルバング島に着くと、ガイドを1人雇って小野田の出没した場所を確認するや、1人でその場所に粗末なキャンプを張って小野田の出現を待った。そのうち夜になって小野田が銃を構えて近づいて、鈴木に「誰か」と誰何した。鈴木はガイドに小野田に合ったら先ず敬礼しないと撃たれるぞとの話を思い出し敬礼。小野田はこの男はどこの国の男かと探るが決め手となったのは鈴木が履いているサンダルであった。現地人は裸足でサンダルを履くのに、この男は厚手の靴下を履いている事から日本人と確信する。更に鈴木の住所を問い正し、その上で自分の潜伏先に連れて行く。
次第に打ち解けた2人は色々話し合ううちに、小野田が現在の日本の現状をよく知っている事に気づく。70年万博のこと、「こんにちは、こんにちは、1970年のコンニチワ」の三波春夫も知っていたのである。彼は現地で手に入れたラジオも所持していた。

数枚の写真も撮ったあと、どういう条件がととのえば帰国するのかと問うと、小野田は当時の直接の上官谷口義夫少佐の帰国命令があればその命に従うと約束。

 

5.日本に帰った鈴木はこの事実を警察に届け出る。たちまちのうちに各新聞に大々的に報じられる。何しろあれだけ最後は1億円もかけて調査団を送って見つけられなかった小野田を24才の鈴木が一人で発見したのだから。

 

6.谷口とも連絡がとれ、早速谷口と2人ルバング島に上陸する。小野田のかくれ家近くで鈴木が呼びかけると、しばらくして小野田が現れた。谷口元少佐の命令書を読み上げた上で口達、小野田はこれを受けて帰還することが決まった。

特殊任務を受けた隊員は上官の口達(口頭で命令を伝える)なくしては文書だけでは受ける事が出来ないのである。既に小野田達は現地人30人程を殺害していたこともあった。

 

7.1974年3月12日羽田空港に降り立った小野田は軍服に銃を捧げて軍人として帰国、記者会見では発見者鈴木も同席した。小野田は一躍有名人となり、当時の田中首相にも会い、政府から100万円の慰労金を受けるが、小野田はこれを何れかに寄付している。

それは小野田に対する世間の風当たりが強くなり始め事もあり(現地での殺人の事もあり)日本到着から6ヶ月後小野田は単身ブラジルに移住し牧場づくりに励むこととなる。

 

8.鈴木は当時堀江謙一、植村直己の二人が冒険家として宣伝されていた時代的背景もあって、新しい冒険家として囃されることとなった。

 

9.鈴木は何かを探していたが、ヒマラヤの雪男の話を聞くや、即断直ちに1975年ネパール入り、ヒマラヤ山脈のカルナリ地区にあるダウラギリ山第4峰(7,661m)に登攀3,700mに千葉ポイントとしキャンプを張った。1975年7月29日雪男突然現れたが、驚きと慌てた為と対象が遠かった事から8mmのピントが合わずに撮影したが証拠となる映像は確認する事は出来なかった。同年11月再度ネパール入り、4300mにキャンプを張るが雪崩に巻き込まれポーターを失う。

 

10.鈴木は1978年作家林房雄の娘京子と結婚。1980年喫茶店を経営するが経営の才無く翌年閉店。

 

11.1986年10月6回目の雪男捜索でネパール入りしたが、ここで消息を断つ。ネパールから京子夫人宛ての長文のラブレターが届いている。享年37才。

 

12.その間小野田は何度か来日し鈴木を尋ねていたが、1988年鈴木の死を悼んでダウラギリに登攀している。当時の日本は70年の安保条約改正の争乱もおさまり、高度成長の速度も鈍ってやゝ低成長の形を示すようになったが経済規模が米国に次ぐ資本主義国になった時代である。明治以後の軍国日本から平和主義になり、平和主義が少しずれてGNP信仰になってきた時代でもある。一方で先進資本主義国の中でも所得格差が少なく、80%の人が自分自身を中産階級だと感じた時代でも又ある。
今思えば戦後日本人にとって一番良い時代とでも云えたかもしれない。

日本の総体的な経済力が鈴木紀夫のネパール行きの背景にあったとも思える。

 

2020年

4月

13日

新しい作品 篆刻 3作品

戦国時代瓦当文

戦国時代瓦当文

新石器時代

2020年

4月

11日

「魂の中の死」自由への道 三部作の内3  サルトル

「魂の中の死」

1. 家族と別れてアメリカに亡命したゴメスは「フランコがバルセロナに入城したときフランス人達は頭を振って残念だと云った。だが誰一人として立ち上がって出かけようとした者はいやしない。だから今度は奴らの番だ。奴らが苦い経験をする番だ。俺は嬉しいよ。嬉しくって仕方がないよ」と怒鳴る。ナチスに信条的に気持が以降して行く。

 

2.ユダヤ人のサラは息子のパブロをつれてスーツケースを下げて徒歩でジャンまで炎天下24㎞の道を逃げて行く。人と車の波の中だ。丁度映画「禁じられた遊び」の中で大勢のフランス人がパリから地方へ逃れる場面があり、途中両親をドイツ軍の機銃掃射で失って、幼い娘ポーレットが戦争孤児となる場面を思い出させる絶望的な逃避行である。

 

3.戦場で敗戦を迎えたフランスは将校たちはいち早く逃げ、虚無感、頽廃におちいった。兵士たちの中で、召集で心ならずも戦争に参加したマチュは今までの優柔不断の生き方をこれこそ今まで自分が待っていた何かだと感じて自ら、数人の仲間と共にレジスタンスに参加する。圧倒的な人数のドイツ兵を銃撃戦を繰りひろげて、味方は次々と倒れマチュは一人となる。しかしマチュは一貫して知識人でありブルジョアジーの一員であることは変わることはなかった。

 

4.マルセーユ 14時、ボリスはローラと共にいる。ローラは最悪の事態を予想して銀行から金をおろす為にパリへ戻り、マルセーユに帰ってくる。二人の間に気持ちの食い違いがあらわとなってくる。

 

5.ボリスの姉イビィチは絶望して身をまかせたジョルジュと、妊娠したことを知ったジョルジュの懇請で結婚。男の両親と暮らすがボリスの「ご主人はどうしているんだい」の問いに「あの人死ねばいい」と答える。

 

6.2万人の捕虜の一人となったコミュニストのブリュネは捕虜収容所内で共産党の組織つくりと活動に狂奔する。しかし39年8月29日独ソ協定の締結を報じられる。フランス共産党はファッショの独裁に対して政治的自由の擁護を政綱として選んだが、これらの自由が幻影にすぎない事となる。「今日デモクラシーは屈服し、ソ連はドイツに接近し、ペタンが権力を握り、共産党のファッショの社会あるいはファッショ化する社会で仕事をつづけなければならない。ブリュネは指導者もなく指令も、連絡も、情報もなしで、この陳腐な政綱をブリュネ自身のイニシャチブでふたたび取り上げようとしている人民戦線は死んで埋葬すみだ。これは1938年には歴史的関係に於いて、意味があった。

今日ではもう少しも意味がない。ブリュネは暗闇で仕事をするようになる」とシュネーデルに指摘されてブリュネはコミニュズムに幻滅するのである。

 

7.思いがけない早さでの開戦すぐでの敗戦でフランス中の人々が茫然自失、魂の中に死を抱えた中で動揺する様を時系列にサルトルは生々しく描き出している。

第4部を書く予定であったが、完成を見ないまゝ中断した。

 

(注)ヴィシー政権
フィリップ・ペタンは第一次大戦時は大佐、開戦と共に、ドイツ軍猛攻下のベルダン要塞を死守して、ベルダンの勝利者と称えられた。1917年全フランス軍総司令官に就任した。大戦後元帥となり1925~26年のモロッコのリフ人の反乱を鎮圧し、フランス陸軍の大御所的存在となった。1940年ドイツ軍の大攻勢の最中にレーノー内閣の後任として首相に就任。フランス中部の鉱泉都市ヴィシーに首都を移したことからヴィシー政権と呼ばれた。ペタン政権は対独協力政策を実行し、レジスタンス運動を敵対。フランス解放後、対敵協力の罪で死刑を宣せられたがド・ゴールにより終身刑に減じられた。

 

(注2)ド・ゴール
フランスの軍人、第2次大戦中対ドイツ降伏後1940年ロンドンに自由フランス政府をつくり本国の抵抗運動を指導。1944~46年共和国臨時政府主席となる。

 

8.サルトルは実存主義とマルクス主義との宥和を探り、意識の自由を根底に人間の自由を追求。第二次大戦中召集され、捕虜となるが保釈されパリに戻り対ドイツ抵抗組織をつくることを試みた。戦後は戦闘的ヒューマニズムの立場で活発な発言を展開した。
占領下ではナチ占領軍に、植民地戦争ではフランス政府権力に、ハンガリー事件ではソ連政府に、ヴェトナム戦争ではアメリカ帝国主義に反対し続ける。
昭和34年(1959年)当時の日本は翌年の日米安保条約をめぐる大衆運動が空前の盛り上がりを見せる時代で、日本中が政治的関心に満ちた政治の時代だった。

サルトルも若者を中心に良く読まれた。私も亀有の駅前にあった本屋で、サルトルの「汚れた手」「賭けはなされた」「出口なし」「蠅」「恭々しき娼婦」「悪魔と神」等を極めて熱心に読んで、この「自由への道」の出版されるのを待ち望んでいて深い共感を持って読んだのを思い出す。

2020年

4月

05日

「猶予」自由への道 三部作の内2 サルトル

1.1938年の「分別ざかり」から3ヶ月後の9月23日から30日までの出来事である。

 

2.さてナチスは1938年3月オーストリア併合後チェコスロバキアに侵略の矛先を向

ける。ドイツと国境を接するズデーテン地方は1916年以降深刻な民族的対立が引き起こされてきたが、この時期ドイツ人党が結成され、ナチスと連絡をとりつゝ「カールズバート綱領」を作成。チェコ政府にドイツ人の自治を要求運動が起きた。

チェコ政府はナチスの圧力のもとほとんどこれを受け入れたが、ドイツ人党はさらにドイツへの帰属を求めた。これに乗じたヒトラーはズデーテン地方問題の解決の為には世界戦も辞せずと表明。一気に戦争の危機は高まりフランスに動員令が下る。
1938年9月29日~30日ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエ(注1)の英仏独伊の首脳によるミュンヘン会談が行われた。しかしチェコと同盟を結んだソ連は会談に参加する事は出来なかった。ソ連を仮想敵国とするイギリスの考えが根強くあったのである。
「ドイツ、大英帝国、フランス、イタリアの四大国はズデーテン地方のドイツ人の領土をドイツに譲渡する事に合意した」ミュンヘン会談。

 

3.30日の新聞に載ったこの記事をみてフランス全土の多くの人達は平和が戻って来たと手放しで安堵し喜ぶ。招集令状が来てもフランス国民はこれはナチスの脅しであろう、フランスが何らかの譲歩をすれば何とかなると思っていたし、政府も同様だったようだ。召集令状を出したにも拘わらず兵士用の軍服も充分間に合わなかったのであるから。

しかしこれは全面戦争までのつかの間の猶予であり平和であった。
1939年3月ドイツ第三帝国にチェコ全体が併合されたのである。

 

4.第一部の主人公マチュ、兄のジャック、ダニエルとその妻ローザ、文盲のグロルイ。将軍の息子フィリップ、カリエスで寝た切りのシャルル、旅芸人のモウ他数多くの人物が登場し、入り乱れて自分の職業、生活、戦争についての思いを詳細に語る。

 

(注1):ダラディエ(フランスの政治家)
1936年に社会協力なって人民戦線結成。同5年総選挙で大勝レオンブルムは首相となる。1938年4月これを引きついだダラディエは人民戦線を解体に追い込み、政府への援助「国際旅団」をも解体し、スペインをフランコのクーデター勝利へと力を貸す事となる。更に大戦後はフランス共産党を弾圧したが1940年3月ヴィンー政権に逮捕されている。

 

2020年

4月

03日

ニコライさんの扁額「孤籟亭」

日本とロシアを行き来している茶道表千家及び華道池坊の教授山田みどりさんから扁額

の依頼があった。

友人のニコライ氏に寄贈する由、コライでとの事で「孤籟亭」で作成することとした。

『孤独で静謐な屋敷に笛の音が聴こえる』の意。

2020年

4月

02日

「分別ざかり」自由への道 三部作の内1 サルトル

1938年6月中旬のパリを背景として物語はすゝむ。パリの高等学校の哲学教師マチュ・ドラリュを主人公とし、その恋人マルセル・デュフィ、マチュの教え子ボリス・セルギン

その姉イヴィッチ、友人で共産党員ブリュネ等が登場する。
マルセルは小さなアパートに母と暮らしていてマチュとの関係は7年になり、週4回マルセルのアパートに会いに来る。
マチュは生活費を工面するのに四苦八苦している。「俺はマルセルの為に何一つしてやらない」と忸怩たる想いを常に抱いている。マルセルは妊娠していた事をマチュに告げる。マチュは「そんなら堕したらいいだろう、いやかい」と応ずる。

堕すのには4,000フランが要る。マチュは心当たりを皆当たるが皆断られ、やっとみつけたユダヤ人の婦人科医は近くアメリカに出発すると言い、2日のうちに現金なら引き受けるとの事。進退窮まったマチュは19才のボリスの40半ばの愛人ローラの金を盗むのである。一方でマチュは友人ブリュネに入党の勧誘を受けるが「僕は最後には実在の感覚を失いそうなんだ。なに一つ僕にはもうまったく本当らしく見えないんだ」「僕に入党は出来ない。それをするだけの十分な理由が自分にはない」と語り入党を断る。

彼はブリュネの前で不決断で下手に年を取り、半分生(な)まであらゆる非人間的なめまいにとり囲まれて存在している。「おれはまさしく人間らしい様子をしていない」と自分をみつめる。

マチュとマルセルの共通の友人ダニエルがマルセルに問う。「あなたは本当に子供を欲しくないと思っているんですか?」マルセルの体の中を貫いてすばやくかすかに崩れるものがあった。マルセルは「ダニエル、あたしのことを心にかけてくれるのはあなただけだわ」と自らの本当の気持に気づく。
ダニエルはマチュを訪ねて「僕はただマルセルとの結婚を知らせたかったんだ」「マルセルは僕の申し出にすぐにとびついてきた」と語る。そのあとダニエルは「マチュ、僕は男色者なんだ」と打ち明ける。マチュは「おれはひとり残された」と思った。「誰ひとりとしておれの自由を束縛しなかった。おれの生活が自由を呑みほしたのだ」彼は思った。

無駄だ。まさしく人生は無駄に彼に与えられた。彼は無駄な存在であり、しかもはや変わり様がない。そのように彼は出来ていた。
この物語のすべてはマチュの内的独白で成立している。

           

      🔹🔹🔹🔹🔹 一部終了 🔹🔹🔹🔹🔹


1938年のスペインの状況(小説の背景)


1936年7月共和諸派による政府を組織スペイン人民戦線政府の誕生である。この政府に対して軍部、右翼諸勢力が起こしたクーデターに対しいち早く対処したのは労働者でスペインの2大労働組合であるアナキスト系の労働全国連合と社会党系の労働総同盟は武器を労働者に分配する事を要求、政府は労働者団体を武装することに決定。反乱軍は7月20日までにほとんど鎮圧された。しかしモロッコで蜂起に成功したフランコ将軍が反乱軍で指導権を握るやドイツ、イタリアに援助を要請。ドイツはフランコ側に経済援助を5億4千万マルクを供与、1万の兵力をスペインに送る。イタリアはドイツの2倍の68億リラを援助、7万2千人の兵力を送る。サラザール独裁のポルトガルは国土をドイツ、イタリアの輸送路として提供、フランコ軍のクーデターは短時日のうちに国際的内戦へと拡大した。
1938年9月ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、グラディエ(仏)の各首脳が集まりミュンヘンで会談がひらかれた。チェコのズデーデン地方をドイツに割譲することを決定。これにより一時的に全面戦争の危険が回避された。チェンバレンは「われわれの時代の平和」を唱えてイギリス国民の賞賛を浴びた。しかし小国の犠牲の上に平和を得ようとする英国の両国の対ナチスドイツ宥和政策の典型とされる。
パリの状況、従ってこの物語の1年半程でフランスはドイツに占領されるのである。従ってその危機感はパリに充満していた。ミュンヘン会談は見せかけの平和な時期だったのである。

 

2020年

3月

30日

「美しい国へ」安倍晋三  2006年7月     文芸春秋

「美しい国」安倍晋三 2006年7月                文芸春秋

安倍晋三が政治目標とする「美しい国」とは何かを一冊の本にして語っている。
まず私の原点として
① 「高校授業の時だった。担当の先生(担当の先生とはいったい何のこと?)が70年を機に安保条約を破棄すべきであるという立場に立って話をした。私(安倍)は新条約には米国との経済協力がうたわれていますがどう思いますかと反論すると、先生は不愉快な顔をして話題をほかに変えてしまった」として「中身を吟味せずに何かと云うと革新とか反権力とか叫ぶ人達をどこかうさんくさいと感じていた」と語っている。
反権力の人達つまり自分と異なる意見をもった人達を極めて単純化して一派一絡げにうさんくさい人達と片付ける非論理性をよく表している。

 

②第2次大戦の責任について
軍部の独走であったとのひと言で片づけられることが多いとそれこそ一言で片づけ、昭和17、18年の新聞には「断固戦うべし」という活字が躍っていてマスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないかと結論づけている。
まさに驚くべき考えで、絶対天皇制のもとで言論の自由、報道の自由を弾圧し、「治安維持法」で国民を恐怖のどん底におとし入れた実態を全く無視している意見である。

③さて日本の独立を取り戻すための目標としてサンフランシスコ講和条約によって形式的には主権を回復したが、日本国民の自らの手で白地からこれをつくりだすべきとし、自主憲法をの制定を強く主張している。経済成長によって自民党は一つの目標を達成したが、弊害もあらわれたとし、家庭の絆、生まれ育った地域への愛着、国に対する想いが軽視されるようになったとしている。
振り返って事実関係を見てみると
昭和22年8月当時の文部省が学校用の準教科書として「あたらしい憲法のはなし」という小冊子を出した。これは政府みずからの出版である。
これによると「これまであった憲法は明治22年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、国民に与えられたものです。しかしこんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、日本国民ぜんたいの意見で自由につくられたものであります」とある。
押し付けられたなどオクビにも出さなかった。しかし昭和24年7月4日アメリカ独立記念日にマッカーサー元帥は「日本は不敗の反共防壁となるであろう」と明言。アメリカの変化は昭和24年10月中華人民共和国の成立、昭和25年には朝鮮戦争が勃発した為である。更に28年10月池田。ロバートソン会談のあと共同声明では日本の自衛力増強の為に憲法が支障になっているとし、同年11月9日副大統領ニクソンが日本に来て「戦争放棄の憲法を制定させたのは誤りであった」の有名な演説がある。これを受けて27年重光葵

(注1)は「必要ならば徴兵制を」と発言。

28年3月鳩山自由党を結成するときには憲法改正を基本政策の一つにかゝげている。アメリカの政策転換に従って方向転換したのだ。

しかし、昭和21年8月24日憲法改正特別委員会の委員長芦田均は「侵略戦争を否定する思想を憲法に法制化した前例は絶無ではありませぬ。しかしわが新憲法のごとく全面的に軍備を撤去し、すべての戦争を否認することを規定した憲法はおそらく世界において、これを嚆矢とするでありましょう」とし「改正憲法の最大特色は大胆率直に戦争の放棄を宣言したことであります。これこそ世界平和への大道であります。われわれはこの理想をかゝげて全世界に呼びかけんとするものであります。かゝる機会を与えられたことに対し、わたしは天地神明に感謝するものであります」と語った。

しかしその芦田均(注2)は昭和31年2月28日「もし憲法が国の為に武器をとることさえ禁じているというなら、そんな憲法は一日も早くなくしたほうが良い」とこきおろしているのだ。その節操の無さには唯々呆れるばかりだ。
ちなみに昭和21年4月戦後第一回総選挙のあとの議会で現憲法が衆議院を通過したときは賛成421反対8の事実がある。
その後改憲派議員も多くこの賛成票を投じているのだ。
安倍自身が座右の銘ともする「自ら反(カエリ)みて縮(ナオ)くんば千万人といえども吾ゆかん」(注3)は当時の安倍の先輩たちの誰一人として唯々アメリカの顔色を窺う信念の無い風見鶏ばかりあったのある。
安倍のいうところの美しい国とは一体何か、この本の中ではこれをつまびらかにしていない。
しかし本の内容をつぶさにみてみると、それは憲法改定を行い、軍隊を有してアメリカに従属して軍事行動も可能に出来る国とし、国民の義務を家族内に押し込める政策を国民を無視して強行する事のようだ。
森友では公文書を改竄し、国有財産を恣意的に売り渡し、加計学園開校を様々な疑問を無視して強行し、桜を見る会での参加
者名簿の破棄などの暴挙等の秩序破壊を平然と行うこれらのやり方を貫くことがどうやら安倍の考える「美しい国」であるようだ。

 

(追記)
平成24年4月27日決定された自由民主党の日本国憲法改正草案には第24条に「家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」と記されている。これは自分では生活できなくなった人が生活保護を申請しようとしても「憲法に書いてあるので、家族で助け合えない人は援助出来ない」という解釈を導く可能性が出てくるのだ。家族を大切には一般論としては至極もっともであるが、これを法律に定めるのは全く別の事であり、個々人の考え方の問題であり、憲法に定め国家に強要されるべきものではなく「それこそ大きなお世話」であるばかりでなく極めて危険性を内包しているのだ。

 

(注1)重光 葵(しげみつ まもる)
    東條内閣の外相、第2次大戦後A級戦犯として服役。50年仮釈放。改進党総裁
    鳩山一郎内閣外相を歴任。

(注2)芦田 均(あしだひとし)
    民主党総裁 1948年首相在任中昭電事件の責任を理由に政界を引退。

(注3)吉田松陰が好んで使ったとされる孟子の言葉で意味は(自分なりに熟慮した

    結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし

    という意味である。)著書より

2020年

3月

19日

1990年代半ば友人と青森行 石探しと猫の話

金木村「太宰治の斜陽館」「三十三湖」を廻ったあと、旅行のお目当ては七里長浜で石

を拾う。年に30日程しか海岸に石は打ち上げられなく、平常はほとんど石はない。

幸い当日は延べ5㎞に亘って30㎝の厚さで見事に打ち上げられていた。

赤い錦石(ニシキイシ)が有名であるが、瑪瑙(メノウ)も多く見られ他にも色々珍しい石が採取される。夢中で拾って自宅に宅配便で送った。その後青森の友人から林檎箱で2箱が送られて来た。
これを素材として合計80個程猫を描いて何度か個展に並べた。猫の人気が出て来た事もあづかってか、私の手元には一体も残っていない。

最近思いついてまた描き始めたものである。もともと石好きで拳大以下の石を探した。

岩手県の碁石海岸で碁石に使用される石、高知の桂浜の石も有名(みやげ物屋で売っている)、京都の賀茂川、山梨の釜無川も良石が採れて有名であったが、釜無川では昨今護岸工事の為石は拾えない。

多摩川は”つげ義春”の「無能の人」に漫画家で仕事が無く、多摩川で石を拾い多摩川の河川敷に小屋を建てて石を売るという作品である。多摩川は知る人ぞ知る良石が出る。

都会の川は河川敷がなくて石を拾えないのが残念である。

石を拾うのは実に楽しいのだが・・・・    

2020年

2月

01日

ジョルジュ・シムノン 2作『ビセードルの環』『リコ兄弟』

★ 『ビセードルの環』                 2020年 2月1日

ルネ・モーグラは突然倒れて30年来の友人べソン・ダングーレ教授の関係する病院に

収容される。

モーグラはある新聞社の社長であり、成功した人種の集まる様々なグループに所属している。いわば有名人である。病院内では身動き出来ないし、言葉も発せられない状況の中で、過去の出来事、最初の妻マレセルと、不具の長女、離婚のあと社長になってから再婚したリナとの関係に苦しみ、付添看護師のブランシュの事、医師を始めとする周囲の人たちを冷静に見詰め、自分の今迄の生き方を見詰め直すのだ。

又「彼は使徒や救済事業の婦人達、慈善施設にたむろしている人たち総てを好きになれなかった。彼らが自分を尊敬し、他人よりもえらいと思っているのではないかと疑っていた」「異常な生活を送っているのは彼等ではなく、又例外となるのは彼等の貧しさではない。彼の方にこそ例外と不道徳があるのだ。彼の不快感はその夜ずっと続いた」と記述しており、身動きできない状態になって、自分の心の内部を振り返ってみる部分である。

ルネは死を目前としてよみがえるが、その先は短い。しかしこれまでの人生を再確認し

今後も又生きていかねばならない。
この作品を書いたシムノンはすでに60才であり、人生の最終盤に書いた際立った作品である。

アンドレ・ジッドは「シムノンは大作家だ。おそらく現代フランス文学で最も偉大な小説家らしい小説家である。」とし「シムノン研究ノート」をとっていて「とても美しいシムノンの作品を読み始めた。シムノンが耐えがたいほどみごとに描き出すあの悪夢の底までおりてゆく勇気が私には欠けているような気がする」と述べている。
シムノンは1920年代の10年間に180冊もの小説を書く娯楽読物作家でもあった。
30年代はメグレ警部物に見る探偵小説作家であり、正当な評価を公認されるのは実に50年代に入ってからである。

 

★『リコ兄弟』1952年作品               2020年2月16日
ブルックリンの貧しい家庭に育ったエディ、シド、トニーの3兄弟は暗黒街に身を置い

て生活している。
エディ38才、ジノ36才、トニー33才。ジノは独身、エディは組織の中で小ボスとして成功、幸福で裕福な生活を送っている。若くて美人の妻アリスと3人の娘がいて、サンタクララでも一番の高級地にまばゆいばかりの白いモダンで真新しい自ら「シーブリーズ」(海の微風)と名づける豪華な家に住んで十分満足な生活をしている。

エディは与えられた地域を期待通りかそれを上回る成績で管理組織に嘘をつくことなく慎重に行動し何の問題もなかったがある日組織の幹部フィレから電話で呼び出される。

弟のトニーが組織を裏切って逃亡したのだ。その始末をつけるように命令をうける。

拒否すれば自分の身の破滅である。進退窮まったエディはトニーを組織に売り渡すのだ。その過程でエディは自分の母親や兄弟の関係を子供の頃から遡って思い出す。妻や娘の事や現在の自分をめぐる様々な関係を思い出し恐怖と後悔に苛まれていく。
この過程が克明に生々しく濃密に描き出されて行く。シムノンが大衆小説から本格小説家に転身してゆく重要な作品である。


尚1957年フィル・カールソン監督、キャサリン・グラント、リチャード・コンテ、
ダイアナ・フォスター共演で映画化されているが日本では上映されていない。

 

2019年

9月

24日

地球温暖化防止をめざす国連気候行動サミット

19.9.24付 朝日新聞

 

地球温暖化防止をめざす国連気候行動サミットが23日米ニューヨークで開かれた。

この席で登壇したスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんは各国政府代表をにらみつけ拳を振りかざし、強い口調で責めた。

 

「間違っている。私はここにいるべきじゃない。海の向うの学校に戻るべきだ」

「あなたたちは私の夢を、子ども時代を空っぽな言葉で奪ってきた」

「苦しんでいる人たちがいる。死にゆく人たちがいる。生態系は破壊され、多くの種の絶滅が始まっている。そして、あなたたちはお金の話や、終わりなき経済成長のおとぎばなしばかり」

「科学は30年以上にわたり、極めて明白だった」とし、

「あなたたちは私たちを見捨て居ている」

「子供たちはあなたたちの裏切りに気づき始めている。もしあなたたちが私達を見捨てる道を選ぶなら、私はこう言う、絶対に許さないと」

「子供の権利条約ができて30年、世界のリーダーたちはたちの権利を守るという約束を破り続けてきた」と語った。

 

18世紀イギリスで開始された「産業革命」以降、今日に至るまでに地球の気温は1.1度上昇し、その為に地球規模で異常気象が常態化し、世界的に自然災害が多発している。

このままいけば、21世紀半ばには1.5度~3.5度の昇温が予想されるまさに異常事態であるのに、主要排出国の1位中国、2位の米国、3位のインド、4位のロシア、5位の日本で二酸化炭素排出量の半分以上を占めるのに、動きは鈍く、極めて消極的であるのが実情である。

2019年

9月

08日

身近にみる日本の伝統技術の衰退

1 和紙販売の老舗で佛画を描く為に長く使用していた和紙を購入しようとしたところ、既に製造を中止していた旨告げられた。それまで全国様々な和紙を使用してきてやっと理想の紙に巡り合った、越中小原紙である。従来大小2種類あったが、使用していたのは30×45判でこれが無くなった。大判の方は小判とは異質でこれに礬砂(ドウサ)を引いたり胡粉を塗ったりしたが思うにまかせず、満足いくものとならず、替るべき紙を探す事となった。極めて残念としか言いようがない。

 

2 馴染の書道用品店で、金・銀泥の書に使う濃茶に染めた和紙を注文したが、6ヶ月経っても出来上がって来ない、紙漉き職人か染色職人かは不明であるが、職人が不足している為、仲々注文に応じられない為と説明を受けた。更に銀泥4gを10袋注文したがいつ店に届くしか分からないと云う。私のライフワークである金・銀泥で書く日本の古典文学はこの紙と銀泥がないと継続不可能であり、唯々困惑している。

 

3 以前京都の名旅館「俵屋」の主人、佐渡年さんが語っていた「この建物が建て直しの時期が来たらもうそれは不可能である」と、京壁を塗れる職人がいない素材の稲荷土等が無くなっている事、手斧を使える職人や良いブリキ職人等、集める事が困難となった事等があげられていた。

 

4 日本の誇るべき職人は仕事に対する応分な報酬が払われておらず衰退しているのが至るところで見る事が出来るのだ。

2019年

9月

07日

私が選んだボクシングのパウンド・フォー・パウンド②

④さてそこで私の選んだ、パウンド・フォー・パウンドである。全17階級各4団体(主要)で計68人のチャンピオンが乱立していて、スーパーチャンピオンや暫定チャンピオンも含めれば80人を超すのが実情である。観客を集める為のボクシング界苦悩の策でもある。そうした中で、体重差を勘案して並べて誰が強いのかの順位をつけたらどうなるかがパウンド・フォー・パウンドである。

 

No.1 WBA・WBOライト級(61.23kg)王者ワシル・ロマチェンコ オリンピック2連覇、アマチュア戦跡396勝1敗、鳴り物入りでプロ入り、オリンピックメダリストがプロ転向して世界タイトルに挑戦するのはどんなに早くとも2年後が通例であるが、彼の場合、2戦目がタイトル戦であったこの試合は既に10敗以上しているが常にタイトルを何度も獲得。常にトップ戦線に残っている歴戦の勇オルランド・サリドが相手であって、いかにも相手が悪かった、タフでしぶとく相手を乱戦に持ち込む。アマには決していない選手であったのだ。1:2の判定負け。しかし3戦目にゲイリー・ラッセルを大差の判定で下して戴冠するや、WBO Sフェザー級でローマン・マルチネスを衝撃のKOで下し2階級制覇、その後は4試合強豪相手に次々にギブ・アップに追い込みロマチェンコ勝ちの標語を生んだ。ライト級に上がって、ホルヘリナレスをKOに下し3階級制覇。日本のファンの予想ではややリナレス有利であったが天才対決を制した。

 

当初テクニックの点ではズバ抜けている事は誰もが認めるところであったが、やや力強さに欠けていたが次第にプロ仕様にスタイルを替え、テクニックの華麗さを十分に披露しながら、最期はKOに仕止める。観客を楽しませるエンターテイナーとなった。

 

ロ.完璧な防御技術に絶対の自信を有しており、その上にたって超接近戦を誰に対しても挑み相手の懐に入り込み、数多くのパンチを自在に相手に浴びせる。相手は自分の射程距離を確保する為に後退するが、これを許さず足の速さ身体の素早い動き、絶え間ないパンチの数に煽られて、後退一方を余儀なくされ、身体が浮くところに軽いパンチを合されても、ダウンを奪われる羽目に陥り、一方自分のパンチは全く当らず、一方的に打たれ続ける事から、中盤に至って勝利が全く望めないことを思い知らされ戦意喪失してしまうのである。

 

ハ.中盤以降一段とスピードをあげ、パンチにも力を加えて、ギア・チェンジを図る事ができる「ハイテク」のニックネームを有し、相次いで強敵を撃破。ボクシング始まって以来の最高傑作と評されている。

 

No.2 WBOウェルター級(66.68Kg)テレンス・クロフォード ライト級と2階級を制覇。全勝王者

2014年6月 ライト級で共に全勝のエリオルキス・ガンボアと対戦9回TKOに下し、スター街道にのる。一方のガンボアはこの敗戦によって従来の輝きを失い平凡な選手となった。左・右いずれもこなす、スイッチ・ヒッターであるが、最近は左構えになる事が多い。攻防兼備でボクシングが巧みで、パンチの威力も充分。ここぞという時の連打もきいて、その安定感は際立っている。ポカを犯してという事のない選手。

 

No.3 WBA・WBC、IBFミドル級(72.57kg)王者のサウル・カネロ・アルバレス。1敗しているが、天才フロイドメイウェザーに1:2で惜敗している。

何よりの魅力は、パワフルに振うパンチで、ゴロフキンとの第1戦までは時折、後退してロープに詰まる癖をみせていたが、第2戦以降そうした消極性は影を潜めてきた。あまり注目されないが、防御も巧みであり、今ボクシング界1の人気者であり、脂ののりきっている所である。

 

No4 WBA・IBFバンタム級(53.52kg)王者井上尚弥 3階級王者 WBSS(ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ)の準々決勝戦、準決勝戦を1R、2R KOで下して、WBAスーパー王者ノニト・ドネアと決勝戦を行うが、余程の事がないかぎり負ける事はないと思われる。戦跡18戦全勝16KOにみる一発必倒のパンチの凄まじさはニックネームの「モンスター」そのもので、近い将来フェザー級まで制圧する事がみこまれる。

 

No.5 IBFウェルター級(66.68kg)王者エロール・スペンス。実力者ケル・ブルックを下して王者となって、一気に株が上がった。左ジャブからの手数の多さと特に左フックのボディブローが強烈。ここぞのパンチ力と終盤になっても落ちないスピードとパンチ力は魅力満載の選手。ブルック以外の強敵と対戦していない事がネックとなっている。

テレンス・クロフォードとの対戦が待たれ、これに勝利すれば目時通りのパウンド・フォー・パウンドに位置する選手となる。

 

No.6 WBA Sフェザー級王者シャーボンティ・デービス 戦跡21戦全勝20KO サウスポー小柄であるが、右ジャブが鋭く早い、飛び込みのスピードが抜群で、左ストレートは力強く、リーチの短さを充分カバー、序盤から攻撃全開で畳みかける攻撃でKOの山を築いている。今後スピードのある早い足もある選手、強打で体力のあるタフな選手に対処出来るか、打たれ強さはどうかビックマッチを経験してその真価が問われるところだ。この選手の最大の欠点は自己管理が充分でない事で、タイトルマッチの際、体重リミットが守れずにタイトルを剥奪された経験があり、その後もリミットを守るのに4苦8苦している。しかしその体格から考えてその点が解決されるかは疑問である。メイウェザーの秘蔵っ子で溢れる才能は目を見張るばかりだが、その才能も十分に生かされるか危惧が拭い切れない。

 

私が選んだボクシングのパウンド・フォー・パウンド③につづく

2019年

9月

07日

私が選んだボクシングのパウンド・フォー・パウンド①

①ボクシングに関心を持つようになって半世紀が経つ。WOWOWで放映されるようになり、一層のめり込んだ。

ボクシングの歴史は古く、古代ギリシャで行われた古代オリンピックの正式種目でホメロスの叙事詩(イリアス)にも登場している。

17世紀後半になってやっとルールらしきものが制定され始めた。それまでは反則すら決められていなかったのである。その後のボクシングが文献に現れてくるのは18世紀半ばで本格的にルールが制定されてくる。

 

②しかしボクシングは社会が安定するにつれて次第に衰退してくる。ボクシングには常に否定的、悪の臭いがつきまとっていて、裏社会と繋がりがあり、賭けの対象となり、八百長が常習化していたからだ。1970年代大プロモーターのボブ・アテムとドンキングがいてキングはオハイオ州クリーブランドの路地裏からのし上ってきた人物で、ナンバー賭博を扱うブックメーカー(書物を濫作する人)を生業とし、殺人を犯して服役しているが、ボクシング界の大立物である事からも窺い知る事ができる。

従って、社会的に健全なスポーツとはみなされなかった。

 

③そうしたことからボクシング界は幾度となく退潮期を迎えてきたが、その都度スターが誕生して、その危機を救ったのである。

60年代後半から70年代半ば「蝶のように舞い、蜂のように刺す」のフレーズで、従来のヘビー級にない軽やかなステップを踏み、シャープなパンチを繰り出し、大言壮語し、ベトナム戦争への従事を拒否し、タイトル剥奪で勇名を馳せた「カリスマ」モハメド・アリ。80年代のミドル級に輩出した、マービン・ハグラー、トーマス・ハーンズ、レイ・レナード等。80年代から90年代に恐怖のパンチ力で対戦相手を戦慄させたアイアン・マイク・タイソン等登場してボクシング熱は大いにもり上った。そして90年代、中量級にも6階級を制したオリンピック金メダルを引っ下げてプロ入りしたゴールデンボーイ、オスカー・デラホーヤの登場をみるのである。

甘いマスクとスタイリッシュで華麗なテクニック、試合後の垢抜けたコメント等で、それまでボクシングに縁のなかった層、特に女性のファンを引きつけファン層が大きく拡がった。ボクシングの社会的認知度が急速に上ったのである。

近年に至って、西欧(特にイギリス)東欧のボクシングの隆盛もあってボクシングは世界的なスポーツに変貌してきた事もあって、その技術も急速にレベルアップしてきている。

 

私が選んだボクシングのパウンド・フォー・パウンド②へつづく

2019年

8月

24日

モスクワ大学内の茶室

友人の山田みどりさんは今から30年以上前にロシアに移住。池坊花道をロシアに拡め現在に至り、弟子500人以上を有しており、墨絵も指導、日本での墨絵の全国大会1000点以上展示される中、10人以上以上のロシア人弟子の作品を出品入選者を多く出している。

 

そのかたわら「奥の細道」等の日本文学をロシア語に翻訳、モスクワ大学でも講義を行っており、お茶、お琴の名手でもある。長年に亘る日本文化の紹介の功績により日本政府から叙勲も受けている。ロシア政府からもその功績を讃えられて、モスクワ大学の植物国内の温室に設置された茶室を賜られた。

 

その扁額の作成を山田さんから依頼され、作ったのが「翠月庵」である。2019年6月22日に茶室開きが行われ、扁額の除幕式が行われ、モスクワのロシア大使香月夫妻も参加し、盛大に開かれた。山田さんから参加を熱心に勧められたが辞退した。

これでロシアに寄贈した茶室の扁額は3枚となった。

2019年

7月

22日

バレエ「アンナ・カレーニナ」をみる

上野の文化会館にて、サンクト・ペテルブルグのバレエ団「エイフマン・バレエ」の公演「アンナ・カレーニナ」をみる。トルストイ原作のアンナ・カレーニナは夫・子供もいるアンナが青年将校にひかれて彼のもとに夫・子を捨てて走る物語である。

 

エイフマンは長大なこの作品を思い切ってアンナと高級官僚カレーニン、青年将校ウロンスキーに絞って極めて解りやすく進行させている。

 

バレエではカレーニンが原作と異なって恰好良すぎて戸惑うがエイフマンは何を狙ったのか、或は源氏物語、宇治十条で浮舟が薫と匂の宮の間で女の二心に苦悩するような状況を考えていたのかは不明である。63年程前になるが、原作を読んでウロンスキーに会ったあと、アンナが駅に迎えに来ていたカレーニンが指をボキボキ鳴らす癖を改めて見て嫌悪感を催す場面など、自分が将来終始して、突然相手がそうみえたとしたらと不安に襲われた事や、アンナの鉄道に飛び込む際に自分の過去が走馬灯のように頭を巡る場面ウロンスキーが真剣に愛に向き合っていない事から精神に異常を来して自殺する等、トルストイは本当に凄いものだと驚嘆したのを思い出す。さてバレエはストーリーをアンナ・ウロンスキー・カレーニンの3人に絞って制作している。物語を知っていれば極めて解りやすく舞台は進行する。抜群の身体能力を誇る3人のダンサーは、兎に角素晴らしく、人間の身体でこれ程表現する事ができるのかと思い知らされる。

 

時代は、ロシア皇帝アレキサンドル2世、ツアーリズムと貴族帝国の時代で、農奴制の上に成立していたが、ロシア経済の後進性と官僚政治の欠陥によって、改革の時代を迎えでた。改革の中心は農奴解散であり、不十分ながらこれによって農業の資本主義的発達を促進したが、一方ポーランドの反乱、クリミヤ戦争、農民の反乱等、動乱の時代に直面していた。こうした中でロシア文字は一挙に花開いたのである。

19世紀ロシアの貴族階級社会は爛熟の極みに達しており、働かないでいい男女は遊びが生活の本質となり、当然の如く色好みが美徳とみなされていた。貴族婦人達は競って愛人を持ち、これをステータスとしていたのである。恋愛で思いつめて駆け落ちするとか、切実に心中するとかとは種類の違うものであった。

 

そうした時代に深刻な恋愛は貴族社会の通例に逆うもので社会に受けいられなかったのである。

社会主義革命が成功し、プロレタリア文字が声高に求められたとき、指導者であるレーニンは「アンナ・カレーニナで充分だ」と謳っている。

つまり民衆の文化的レベルは「アンナ・カレーニナ」を理解する水準に遠く達していないと判断していたのである。誠に興味深い。

2019年

5月

18日

丸谷才一の「文章読本」より

その第4章に実に興味深い文章が記載されている。先ず「文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言わんとする内容をはっきりと読者に伝えて誤解の余地がないこと、あるいは極めてすくないことが文章には要求される」と述べ、次いで「どんなに美辞麗句」を並べ立て歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしている文章は名文ではない、駄文である。いや文章としての最低の資格が怪しいのだから駄文ですらないというのが正しいだろう」と文章のあるべき姿を明確にした後に本題に入る。

現代憲法と明治憲法である

現行憲法は曲がりなりにも伝達という役目を果たしており明治憲法にくらべてずっと上等なのである。明治憲法の文章が粗悪なことは第1条「大日本帝国八万世一条ノ天皇之を統治ス」によっても明らかであるとし、まず「大日本帝国」という名のり方が威張りくさっていて、愚劣で、趣味が悪い、次に「万世一系ノ天皇」がをかしい。これは過去に関しては虚像で、さらに未来に関しては何の根拠もないあやふやな話だからである。真赤な嘘をつくのが恥しらずな振舞いであり、予見不可能なことを断言するのが滑稽なことは言ふまでもない。そして恥しらずで滑稽、醜怪で笑止千万な文章が、読者にまともに受入れられるはずはないのである。それに感嘆することができるのはただ後世の無学で下等なアンポンタンだけであろう。

更に、明治憲法第一条最大の弱点とするのは「天皇之ヲ統治ス」である。この「統治」という概念は不分明なことこの上ない。それはイギリスふうの単なる君臨(すれども統括せず)を暗に指しているのか、それとも天皇親裁と主張しているのか、はたまた、その中間のへんをぼんやりと言っているのか、いっこうにさだかでない。

それは曖昧至極、どうでも伸び縮みがきくチューインガム条項なのた。近代は本史の悲劇はおほむねこの朦朧在る一文に由来する。何のことはない、亡国の文章の見本にほかならない。又、第三条「天皇八神聖ニシテ侵スへカラズ」も又奇怪である。天皇の何を侵してならないのが明記してないからだ。果して天皇の肉体が神聖かどうかはともかく、一般に人間の体に害を加へてならないことは当然だからである。そもそもこういう粗雑な言葉づかいによって君臨すれども統治せずという複雑な内容を述べようとするのはどうみても無理な話である。それはもはや文章家の態度ではなく、暗号作成者の態度だろう。つまり暗号コードの持主にしか解読できないからだ。しかしこの断乎として何かを言い、しかも何を言っているか客観的にはつひに判らない文章は、国政をみだす密呪として作用した。さらにこの文章がその悪文性と呪術性のゆえに一国の精神をどれほど暗うつにし、沈滞させたかはいまさら記すまでもない。

すなわち、この第三条もまた亡国の駄文であった。

それは、威勢がいいだけで内容は貧弱というよりもむしろ空虚であったゆえに文章の本義に反しているのである。このような文章としての政治的な欠陥は第一条と第三条に限らず、明治憲法のかなりの条文について言えるだろう。

明治憲法の文章の伝達の能力を論ずるときは第一に個々の文がちゃんと内容を伝達し、第二に互いに辻褄が合う仕掛けになっていることが要求されるのが当然であるにもかかわらず、明治憲法は第二の条件もまたみたしていない。最もあらわなのは臣氏の権利の条項で第19条から第36条まで、あれやこれやとうるさく保留をつけながらではあるが、権利を保障しているのに、その反面、まず第8条の緊急勅令で、次に第14条の戒厳令で、さらに第31条の非常大権で、それらの権利を根こそぎ奪い取るのである。文章論の立場で言えば混乱と支離滅裂のしるしだろう。ここには文章が常に持たなければならない秩序が全くない。

伝達と論理を伝達であるとの文学者の観点から明治憲法を読み解いているが、まさに快刀乱麻を断つ如く、明治憲法の駄目さ加減を明らかにしてゆく、その小気味良さは胸がすくようである。

 

文章読本 中公文庫 丸谷才一

2019年

5月

11日

うひ山ふみ 本居宣長著

うひ山ふみは、本居宣長が寛政10年(1798年)69才の著であり、初めて学びの山にふみ込む人々の為に国学研究の態度と方法を具体的に説いたものである。

(1)詮ずるところ、学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びようはいかようにてもよかるべく、上のみかかはるまじき事や。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば功なし、晩学の人もつとめはげめば、思いの外、いとま多き人よりも功をなすものや。されば才のともしきや学ぶ事の晩まや、暇のなきやによりて思いくづをれて、止むことなかれと学問に対する基本的な考え方をまず示している。

 

(2)教え方についても、人の心心なれば、吾はかやうにてよかるべきと思へども、さてはわろしと思う人も有べきなれば、しひていふにはあらずと決めつけた教育を厳にいましめている。

 

(3)次に古事記、日本書記を必ず読むようすすめたあと、書物の読み方について、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとすべからず、まず大抵に、さらさらと見て、他の書に移り、あれやこれやと読みては、又さきに読みたる書へ立ちかえりつつ、幾編も読むうちに始めに聞えざりし事も、そろそろ聞ゆるようになりゆくもの也と書物の読み方を指南している。

 

(4)書をよむにはただ何となくてよむときには、いかほど委しく見んと思ひても限あるものなるし、みづから書の注釈をもせんと、こころがけてみるときには、何れの書にても格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、外にも得る事の多きもの也としている。

 

(5)万葉の歌の中にても撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば古ながらもあしき歌も多しと注意をうながし古と後世の歌の善悪を世の治乱盛衰に係りているも一わたりの理論として事実にはうときこと也とし今の世の人は、己が今思ふ実情のままによむをよしとせば今の人は今の世俗のうたうやうなる歌をこそよむべけれ古人のさまをまねぶべきにはあらずと指摘している。

 

(6)芸道についても、宗匠の歌などをば、よきあしきを考へ見ることもつよく、ただ及ばぬこととしてひたぶるに仰ぎ尊み、他門の人の歌といへばいかほどよくても、これをとらず、心をとどめて見んともせず、すべて己が学ぶ家の法度掟を、ひたすら神の掟の如く思ひて、動くことなく、これをかたく守ることをのみ詮とするから、その教法度にくくられて、いたくなづめる故によみ出る歌みなすべて詞のつづけざまも一首のすがたも近世風又一やうに定まりたる如くにて、わろきくせ多く、このさまいやしく窮屈にして、たとへば手も足もしばりつけられたるものの、うごくことかなはざるごとく、いとくるしく、わびしげに見えて、いささかもゆたかにのびらかなるところなきを、みづからかへりみることなく、ただそれをよき事と、かたくおぼえたるは、つたなく愚かなること、いはんかたなしと述べている。

 

(7)宣長の言っている事は、どんな権威や、常識と言えども、そのまま受け入れるな、何事もどこが良くて、どこが悪いのかは他人の評価だけで見るのでなく、自分で判断せよ、書物はとにかく理解出来る範囲で読み通して、その後一定の読書経験ののちに再度、取り組むべきであるという事である。

 

(8)しかし宣長の主張の否定する実態が今日厳然として存在しているのだ。例えば大小様々な会派の書道展が至る処で開催されているが、大半が会の主催者の手本に忠実に、いかにそれに近づけるかを競っているようにみえる。

会場一杯に同じような作品ばかりが並ぶようになり、一般客には著しく面白さが失われてみえるのだ。宣長が鳴らしている警鐘が顧みられていないことを痛感する。うひ山ふみの主張はつまるところ、独学のすすめと言えよう。

うひ山ふみ 鈴屋答問録 岩波文庫

2019年

4月

29日

扁額制作

1.ロシア政府から山田みどりさんにモスクワの茶室が贈られここにに掲げる扁額「翠月庵」刻字つくる。

5月早々山田さんはこの扁額を持参してモスクワへ出発する。

2.ロシアには2014.5サンクトペテルブルグの国立植物園内に建設された茶室に掲げる扁額を寄贈し茶室開きに参加した。

3.モスクワの茶室に扁額「灯台庵」寄贈。でロシアに都合3枚の扁額を寄贈した事になる。

2019年

4月

28日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その五)

12.白川静の登場

白川は甲骨文字の数10万の字をトレースする事により古代人の魂に寄り添う事により、新しい文字学を切り開いて「設文」の虚構成を破壊して文字の成り立ちと構成を解明したのである。

日本国内の抵抗もあり理解は仲々進まなかったが序々にその真理性は広がりつつあり中国でも理解者が増大している。

 

13.甲骨文字の発見

1899年当時国子監祭酒(今の国立大学総長)の地位にあった王懿栄(オウイエイ)は瘧(オコリ)の持病があり、その特効薬としてすすめられた龍骨(小さな骨の破片)を買い求めさせた。

そのころ南方の江蘇丹徒(コウソタント)から出て来た劉鉄雲(リュウ・テツウン)が王の宏壮な邸宅の食客として滞在していた。2人とも金石の学に精通し、古代文字に造詣(ゾウケイ)深い人達であった。

2人は龍骨の表面に刻り込まれた文字らしいものに気づいて調べたところ、金石文字よりもなを古い文字である事に気付き、捜集(ソウシュウ)が始まった。王氏は1年後義和国の変に殉節(ジュンセツ)して没したが、その後の収集で劉氏のもとに5000片もの小片に達し、1903年劉氏はそのうち1058片を選録して「鉄雲蔵亀」6冊を刊行した。甲骨文字が世に表れたのである。

 

14.書が歴史的に集大成した唐の時代が文化・芸術も最も栄えた文化の爛熟時代であった。今回これだけの作品が系統的に網羅した展覧会は今後望めるか解からない。

特に拓本の素晴らしさは実物をみなければその美しさは理解できない。中国文化のレベルの高さにただ驚嘆するばかりである。それにしても書が、政治、社会に密接しており、そこに力強さの根源をみることができるのである。日本の万葉集にしても社会性のあるものは山上億良にほんのわずかにみられるのみであり、今日に至って新聞の歌壇欄にみる短歌・俳句でも社会性のあるものは著しく少ないのが現実である。

現実は醜いものと言った観念が日本人の中に根強く存在しているのであろうが、残念な事である。ここにも日本人の政治離れの風潮が良くみられるのである。

(注3)

徴宗皇帝は19世紀のバイエルン王、ルードヴィヒ2世と良く似ていて、ワーグナーに心酔し、政治的には無関心で現実の政治からは逃避して、芸術を愛好し、莫大な費用をかけて財政破綻をまねき、医師の精神鑑定を受けてシュタルンベルク湖畔に幽閉されそのすぐあとにこの医師と湖で溺死している。

最後に今回の展示の目玉「顔真卿」について顔真卿の俗受のする丸形の字は、私の好むところでない為にあえて言及しなかったのである。

 

図 亀甲全形 殷(武丁)

1936年、河南省(小屯)の第13回発掘の際、YH127抗のトレンチから出土した甲骨1万1千数百片中の1つで完璧な亀の腹甲の形を残している。

穀物の豊凶を貞うたもので、この時代に於て農業が産業として重要な地位を占めていた事実が知られる。(白川静)

2019年

4月

27日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その四)

9.懐素

唐中期の書家で早くから仏門に入り顔真卿から張旭に学び、ある夏の夕方、国に漂う雲のありさまを見て筆意を悟ったと伝えられる。千変万化の狂草を得意とした。良寛は51才から狂筆と呼ばれる。懐素の「自叙帖」を習いはじめ良寛風へと書体は変っていくのである。

 

10.宗の文化

隆盛を極めた唐王朝も玄宗と楊貴妃の時代を最後に以後200年変動期を迎える。律令制・均田制を基礎とした中国の中世社会は崩壊したが、その後ほぼ200年をかけて不死鳥のように甦ったのである。その大きな柱となったのが、隋代に創始された高等文官試験「科挙」である。1年に100~200人の合格者を出す超難関な門を突破した超エリートの官僚集団が形成され、以後1000年に及ぶこの体制が続くことになる。10世紀半ば中国を統一した宗王朝は目覚ましい文化の発展を遂げるのである。

ここで忘れてならないのが8代皇帝徽宗である。彼は政治にはやや不向きであったが、詩書・画をよくし、特に花鳥画に巧みで、自ら美術学校を設立して「校長」に納まり直接指導に当っている。我国の大名達にも愛された「桃鳩図」は日本の国宝にも指定されている。

書は痩金体と呼ばれる独特の書体を創始している。中国皇帝の中でも屈指の文化人皇帝であったし文化の発展に大いに力を注いだ(注3)

書では蔡襄、米芾、蘇軾、黄庭堅の4名を輩出している。

特筆すべきは、ヨーロッパの美術の古典はギリシャ・ローマ彫刻であるが、アジアでは宗時代に創造された水墨画がそれに相当する古典であり、又青磁の名品が多く造られ特に「汝官窯」の神品はまるで宝石に優る優品と当初から喧伝されて、その美しさは類例をみない。

宗文化の高さは我々の想像をはるかに超える高さにあったことは間違いない。

今回の展示で徴宗皇帝の「痩金体」がみられなかったのが残念である。中国史上の美術の黄金時代をつくった功労者であるからだ。

甲骨文字、金文から唐代宗代の書まで習得するのは拓本から直接独学で学ぶのが良い。間に中間書家を挟まないことを願うのみである。

 

11.許慎の説文解字

許慎は後漢の人で広く五経の学問に通じており紀元100年に文字を字形によって分類し、その意味と構造を説いた「設文解義」を成書上進した。

「説文」は15編、字形によって分類した最古の字書で奏の小篆を中心として9353字及異体字1163字を六書の原理で分析し、540部に分類し一文字毎に説明解釈を施して本書としている。

後漢から今日に至るまで久しく文字学の聖典とされていたが、今日許慎がみることが出来なかった文字創成の時代の資料が大量に出土してい以来「設文」の不備が言われるようになり。従来の権威を維持する事は困難となった。

しかし新しい文字学を樹立する為には従来の文字学についての徹底的な検討を通じてその虚構性を破壊することが必要であったが中国・日本の文字学者達の多くが「設文の理論体形に一貫性を有している設文の一部を改める事によってその矛盾を遁れようとしたのである」

自らの従事を引きついだ学説を否定されるのを恐れた事に外ならない。

2019年

4月

20日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その三)

ハ.褚遂良 (ちょすいりょう)

唐の太宗が侍中魏徴(注1)に向かって「虞世南の死後はともに書を論ずるものがいない」と嘆いたのに対して魏徴が「褚遂良は、甚だ王逸少の體を得ております」と答えたので太宗は即日褚遂良を召して侍書を命じたという。

遂良はこの年起居朗(注2)という天子の側近の官に移っている。遂良の先祖は代々南朝に仕えた名家で父は褚亮で博覧強記、詩文に優れ、隋の煬帝の時には太常博士となり、書法も一かどの見識をもっていたと想像される。

魏徴は書の収集家として著名であったので亮の子遂良も彼の家に出入りして強い影響を受けていたと思われる。書は始め虞世南に学び極めてめぐまれた環境にあったと云わねばならない。

太宗は王羲之の書を購求する勅を発し高価に買とることとした為に四方の妙蹟が悉く集り起居朗、遂良等に参校させて、2290紙を得装して13帙128巻とした。

太宗の集収した書の管理を総て行ったことから誰よりも多く古書蹟を見る桟会をもって自分の書法に大きな影響を与えたに相違ない。

やがて欧陽詢も没し、書道の第一人者となった、細身でありながら流麗さを増し近代的な書法を作りだした。

 

注1 魏徴

 唐初の功臣 高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕え、しばしば諫言したことで知られる。

 

注2 起居朗

唐代 起居舎人と共に皇帝の宮中での言動を記録する官。

 

ニ.玄宗皇帝

太宗の死後、皇帝側近の権勢と攻争で攻情不安の時代が続いた。中宗の皇后韋一族が実権を握り帝を毒殺、帝の甥隆基はクーデターを敢行し韋氏一派を打倒し父の旦を即位させやがて帝位につく、玄宗皇帝の誕生である。

彼は名宰相姚崇、李環を信任して政治に励み前代の悪弊を除いて公正な政治の再建に努めた対外的には突厥を圧服し、契丹奚を帰順させて北方の平和維持に成功。経済文化の発展と相まって平和と繁栄の時代をつくりだす。しかし律令政治が整備される一方で官僚化はあらゆる面で空洞化が始まり玄宗自身も政治姿勢が緩み始めて、寵臣を宰相とし政治をゆだね高力士らの宦官を重要し、息子寿王の妻楊太真を奪って自身の貴妃としたあたりから帝国の危機は進行していった。一方イラン系の父、トルコ系の母をもつ安禄山は6種の言語を操り、やがて唐の辺防軍全体の3分の1に及ぶ大兵力を握った。とくに楊貴妃にとり入って養子にしてもらい宮廷に食い込む。しかし楊貴妃の兄楊国忠は宰相となるや、禄山の勢力を恐れて禄山に謀反の疑いありと皇帝に讒言する。この時代一たん皇帝に疑惑をもたれたらこれに弁明する手段はなく、反乱するしか残された手段はなかったのである。やがて楊国忠と安禄山の両軍は激突し玄宗は蜀に逃れるが途中、兵士の間から楊一族の専横に責任ありとの不満が噴出し楊貴妃は高力士に縊り殺されるのである。

乱後、長安に戻るも幽閉された玄宗は獄中で死去する。

均田制は崩れて農民の没落が始まり、府兵制も行わなれなく寡兵制が採用されるようになるがその為に安禄山の台頭が起ることになる。

荘園は王侯貴族や官僚、寺観によって大々的に開発され農民は小作人化した為に国家財政は逼迫、律令政治は行きづまった。中央の権威は失墜、中国の古代帝国の最後を飾ったこの国もやがて終焉を迎えるのである。

2019年

4月

13日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(そのニ)

5.王羲之

400年続いた漢帝国の滅亡のあと、魏・呉・蜀の3国並び立つ時代に入ったが、魏の王位を簒奪した司馬一族は3国を平定して、晋帝国を建設する。

王羲之は西晋時代に生れ東晋時代に活躍した名門の出身で護軍将軍等を歴任。351年会稽内史に任じ、353年3月3日の佳節に同地方の名勝蘭亭に地元の名士とその一族等41名を招いて曲水を流れる盃(サカズキ)を手に自作の詩を朗詠した。そのときの詩27編を編んだものが「蘭亭集」であり、その巻首に羲之が毫を揮って書いた序文が「蘭亭序」である。

唐代に入って本人も能書家である太宗皇帝が「蘭亭序」を切望し、やがて羲之7代の孫の智永の所蔵となっていた「蘭亭序」は太宗の陰謀の果てに略奪に等しい手段で我が物にして、当時の名だたる欧陽詢、虞世南、褚遂良に下命して臨書させた。「定武本」「張金界奴本」「神龍平印本」等数多く残る。太宗の死後、遺命によってその昭陵に陪葬されて、永遠に元本は失われたが、写本によって残された「蘭亭序」がみられる事は誠に有難い事であると云わねばならない。その点での太宗の役割は大きかったのである。

 

6.北魏の書

中国で439年北魏が華北を統一。江南の宗と対立してから589年隋王朝が起るまでの、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が対立した150年を南北朝時代と云う。

北魏代6代孝文帝の時代、親政期の政策は漢化政策と称され、鮮卑の言語、衣服の使用を禁じ、姓を漢族的に攻める。帝は詔勅も自ら書く等の中国的教養が深く、朝廷の儀礼も中国風に攻められた。均田制、祖庸調制、俸禄制などを断行した。これは唐代まで歴代国制の基本となっている。

文化的にも隔絶された北魏は独特な文化の発展をみる。多くの石碑が残され、中でも白眉の作品が523年に造られた「張猛龍碑」である。

孝文帝の親漢政策の結果とも云うべき北魏の名品である。癇症の強い、清潔で力強い楷書で北魏様式の一つではあるが、良く精錬されており、鄭道昭の一群と「張猛龍碑」は北魏の楷書の頂点に立つものだと思う。欧陽詢の楷書につながるものであろうか、私も一時期「張猛龍碑」の臨書にのめり込んだことがある。

 

7.初唐の三大家

初唐に古今その比を見ない名人・大家が排出して、中国書道史上の黄金時代を創りあげている。久しく南北両朝によって分断されていた中国は、新しく文化も統一融合をみるに至った。

中国史上稀に見る英主といわれる太宗の時代は文化の統一が完成した時代であるが、南朝の文化は純漢民族の文化であり、鮮卑族に支配された北朝の文化に対して圧倒的に優位を占めたのは当然とも云うべきであり、書も当時栄えた貴族政治を反映したものとなった。

 

イ.虞世南(ぐせいなん)

南朝の陳生まれ、やがて隋に使え、唐に帰している。太宗の信頼が極めて厚く、天下の名蹟の鑑定も任されている。智永の指導を受け南朝の優雅な書風を継承した。孔子廟堂碑は原石が亡失して、三井氏聴永閣に残る唯一の唐拓本によってみる事が出来る。均斉美を保った貴族的な匂いを感ずる柔らかな美しい作品であり、書を始めた女性に好まれる作品でもある。

 

ロ.欧陽詢

彼も虞世南と同様な経過をへて、唐に帰し天才的な頭脳をもっていたと云われて後年天子の最高顧問・給事中という要識についている北朝の書(特に張猛龍碑)を学んだのではないかと思わせる俊抜さに及てほかの追従を許さない楷書の代表格の位置づけは今日に至るも変わることがなく、群を抜いている。現代の様々な書展を見ても「九成宮」を臨書しているのは極めて少ない。ごまかしのきかない作品で、実力が剥き出しになる事は勿論、書いた人物の人格や人間性まで曝される事になるからである。永遠の楷書である。一般的に書家の間では「つまらない」と考えているご仁が多いようである。あまりに無表情にみえるからであろう92年の春にさるグラフ誌に九成宮の特集が出され、当代一流の書家の面々が、各々に自分の臨書を載せたのは良いが、いずれも九成宮とは似てもにつかぬ縁もゆかりもない字ばかりであった。欧陽詢の書は刃物で紙の上から下の机までも切り裂くような力強さと切れ味が命であり、筆で捏ねて書く字ではない。

2019年

4月

11日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その一)

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して

2019.1.16~2.24

 

2.漢字の体系が整備されたのは紀元前16世紀殷の時代と考えられている。

文字の始まりは人間が神と交渉し、この世界をどのようなものとして理解し、又それを日常の生活の上にどう実践していたのかを知らなければならないのだ。漢字は単なる絵画的な方法から生まれたものではなく、描写的であるよりも、優れて構造的である特徴をもっている。エジプト文字を始め皆、文化圏の中でも最も高い文化段階に達したところでだけ成立したもので、その総てが神事や儀礼に用いられた神聖文字であった。楔形文字、エジプト文字、漢字がそれである。しかし漢字以外は民族の興亡が激しく文化の降替に伴って著しく変化し、本来的な意味を離して音標化され、それを免れた中国のみで漢字が残ったのである。

漢字が発生から今日に至るまで継続しているのは、その2つの理由によるものと考えられる。

 

2.甲骨文字

殷王朝は始祖の成湯が西夏王朝を倒して建国と伝えられるが、確かな史実のわかるのは第14世紀の20代目盤庚の時代あたりからで、青銅器文化が栄え、都を安陽に移し、この地から亀の腹甲や牛骨に刻された文字が発見された。

絶対権力者が占いによって総ての政治を行っており、亀の甲や牛骨に穴をあけ、そこに火をあてて焼き、裂け目が生じたことにより吉兆を判断したのである。やがてト辞は形式的となり、絶対権力者の行為の権威付けと変わっていく。

甲骨文字が栄えたのは武丁期から殷末の紂王までの7代9王に至るもので2~3百年続いた。無論の事ではあるが、その間、文字を使用。理解したのは王と貞人(神官)だけであり庶民は文字があることすら知られていなかった。

 

3.金文

前11世紀後半 周の文王は、渭水のほとりで釣り糸を垂らしていた。大公望呂尚に何が釣れるから問うたところ、釣り針のない糸を垂らしていた大公望は天下を釣っていると答えたと伝えられ、文王は「三顧の礼」をもって大公望を軍師として招いた。文王の子武王は、大公望の力を借りて、紂王の殷を亡ぼし、周主国を建設する大公望は、その功績によって青倭に封ぜられ斉の国王となる。春秋時代には、斉、晋、楚、呉、起の5覇と称せられ、各々天下に号令する強国となるのである。この周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝で800年以上に及んでいるが、盛期は西周時代(1050年?~770年BC)であり、都を洛陽に移してからの東周からは名目上の王位を保つことになり春秋時代(722~481BC)戦国時代(480~256BC)の時代となるのである。

殷時代の末頃から製作され始めた青銅器は全盛を極め、蔡器、礼器として巨大なものがつくられ、表面には霊獣が鋳こまれ、その蓋裏等にへらで掘られたのが金文である。

甲骨文、金文ともに高度の美的直観と構造上の苦心が必要とされ、何らかの美的配慮があったことは明白と云わねばならない。

漢字は誕生した時点から美しさに満ちていたのである。

 

篆書

戦国時代に入ると大篆が表われ始めて、221年BC)奏の始皇帝が中国史上始めての統一国家を建設すると、丞相李斯に命じて字体の統一をはかったのである。天稟の政治家であった李斯は、この事業を成し遂げたが、これを小篆と呼ぶ。現代でも印鑑に多く使用されているのがこの小篆である。李斯は史上最初の書家という栄誉を担うこととなった。彼の書は今日に泰山の碑、瑯邪台刻石として残っている。

やがて始皇帝が没すると宦官の超高が実権を握り、宮廷斗争に明け暮れて李斯もこの斗争に敗れて刑死している。急速に弱体化した奏帝国はやがて漢の劉邦に滅ぼされて劉邦は楚の項羽との垓下での斗いに勝利した。漢帝国を建設する漢代に忘れてならない人物が居る。

劉邦の糟糖の妻呂后である(作品展示あり)が皇后の名が史書に記される初例である。

呂后の産んだ病弱な盈の皇太子の地位を守る為に呂后は全力をあげていたが、劉邦の没したあと盈は恵帝となるが、呂后は劉邦の諸王子を次々に殺害。劉邦の生前寵愛していた戚夫人の手足を断ち、眼球をえぐり、薬で聾唖にし厠に投げ込んで「ひとぶた」と呼ばせた。これを見せられた恵帝は気が狂って死ぬ。更に夫劉一族を殺害、排除して呂一族で王朝を固め、自らを臨朝称制して政権を握るのであるが呂后が没するや、劉氏の功臣達が呂氏一族を制圧して呂氏は族滅させれている。中国には時折烈女とも云うべき女性が出現する。

 

イ.則天武后

14才で太宗の後宮に入り、帝の死後高宗の寵を受け、自分の生んだ子を縊り殺して時の皇后王氏を陥れ、皇后に成り上り690年国号を周と改め、自ら皇帝と称して中国史上唯一の女帝となった(尚武則天とも呼ばれるが武とは、後宮の役人の呼称で4夫人9賓妃、27世婦81後妻とある役職のうち9賓妃の中に美人、才人、武人とありその中で武人であった。項羽の愛妾盧美人はこの中での美人である)

 

ロ.西太后

皇后慈安太后が東太后と呼ばれたのに対し、紫禁城西六宮の儲秀宮(チョシュキュウ)に居住したので西太后と呼ばれた。2人で摂政となった。

東太后を樽に塩付けにしたことで有名。

次々に皇帝をたてるが、実権を握りつづけた。

義和国の農民闘争を利用して列強に宣戦布告したが敗れてまもなく死去。

しかし呂后が、中でも烈女の先頭に立っていると云えるであろう。

 

やがて後漢後期、黄巾の乱が各地で勃発し、漢帝国の内部に司馬懿を中心とした清流派グループが力を増して来て、これを恐れた政権は主要人物の多くを獄中に捕まえていたが、清流派と黄中の乱が手を結ぶことを警戒して、清流派を牢からとき放つ懐柔策をとる。しかし、魏の曹操は鎮圧された黄巾派の残党36万を味方に引き入れ、清流派もとり込んで一大勢力となり、全国統一を狙って動き出し、赤壁の戦いに挑む。曹操軍は軍師筍或、率いるは80万の軍勢、対する呉軍は周瑜率いる5万の軍勢である。この海戦は風を読んだ呉の火攻めの戦術に曹操軍は大敗を喫し、統一国家の狙いは一時頓挫するが曹操の死後、司馬懿の孫炎が魏の王位を簒奪し、蜀、呉も滅して晋王朝を建国するのである。

 

4.隷書

春秋、戦国時代 書写するのに時間がかかる小篆を簡略化するために、漢字第2の公式書体としての隷書が発達、後漢時代の後半に完成してくる。乙瑛碑(153年)礼器碑とその完成度の高い作品が残り、今から40年程前に日本で公開された礼器碑の前に立ったときの驚きは忘れられない。印刷されたものとは比べるべきもない美しさに圧倒された記憶が残っている。

そして隷書の掉尾を飾る曹全碑はもうこれ以上行けば品位が落ちると思わせる程、流麗極まりない美しさで書としての美しさは、空前絶後と言っても良い。この後、隷書の形は崩れて悪く言えば醜悪とも思える形と変って行くのである。

2019年

1月

16日

ニューイヤー2019 宮殿祝賀コンサート

東京文化会館大ホールにて開催

指揮はイタリア生れのサンドロ・クレウレーロ。1990年彼が設立したウインナー・ワルツ・オーケストラを率いての20回目の来日公演である。私が足を運ぶのはこれが4回目で例年通りのプログラムであった。

スッペの「軽騎兵」序曲で始まり、トリッケ・トラッチポルカ「山賊のギャロップ」「皇帝円舞曲」「こうもり序曲」ポルカ「雷鳴と稲妻」等、シュトラウスの曲が続いてワルツ「美しき青きドナウ」で締め括った。

アンコールに応えての3曲目、ヴァイオリンのシャンドル・ヤヴォルカイとチェロのアダム・セヴォルカイの兄弟が、舞台の前に出て、ハイドンのパッサカリアの演奏で、それまでの軽い曲続きでややマンネリ化した聴衆の空気を引き締めたとみるまに終盤に至って突然テクニックの極限ともみられる。超絶技法を駆使した演奏が始まり最後はチェロとバイオリンの掛け合いとなり、聴衆を驚かせかつ魅了した。このアンコール曲を聴くだけで、コンサートホールに足を運んだ甲斐があったと云うべきであった。

尚スロヴァキア出身のパトリシア・ソロトウルコヴァのソプラノはやや声が太すぎて透明感に欠けたが声量はあり、舞台栄えのスタイルはまことにオペラ向きで、さだめしカルメンを歌わせたらまさにピッタリと思わせた。

2018年

11月

30日

図書2018年12月号「夕陽妄語」を読む

図書 2018年12月号「夕陽妄語」を読む(注1)

著者はソーニャ・カトー 翻訳は高次裕

ソーニャはオーストリヤ人女性とエジプト人男性の娘として生れ、すぐに加藤周一、ヒルダ夫妻の養女となった。養父加藤はドイツ語、イタリヤ語、フランス語、英語に堪能で、娘と比較的濃密な関係を保っておりEメールでのやりとりが可能になっても定期的な手紙のやり取りを好んで政治、社会、文字や芸術について彼女を刺激した。彼女は彼を「せんせい」に向いていて他者の立場に敬意を払い、深い知と洞察を追求する人で普遍的学識人と名付けられるような「博学の人」でもあった。多方面の教養があって偏見がなく宗教的教義からも独立していた。又、彼女は2001年から2010年までウィーン市議会でオーストリア社会民主党の議員として活躍している。

最後に「彼が亡くなって10年経った今、知識に溢れ、それを伝えようとし、人々をそれぞれの考えに対する愛に溢れ、好奇心に溢れ、そして平和への献身に溢れた人だった」と結んでいる。娘の父加藤周一への賛歌である。

ソーニャの語った中で始めて知った事は 1.ヒルダと加藤が夫婦としてウィーンで生活していた事 2.ソーニャが血縁関係のない加藤夫妻の養子であった事 3.以前に戒壇院でお目にかかった加藤夫妻の妻、矢島翠が加藤の3番目の夫人であった事である。加藤の「日本文学史序説」は2~3度読んでいるが、改めて全集24巻を改めて読み直してみたいと思う。又加藤が晩年力を注いだ「九条の会」について、私もその末端に連ねる一員として微力ながら力を注いでいきたいと思っている。

注1 夕陽妄語は「朝日新聞」1984年7月2日から1994年6月2日まで連載

加藤周一は著作集全24巻の他、多くの著作があるが、自分自身の事は「羊の歌」注2に書かれた以外には全て見られない。

注2 羊の歌は朝日ジャーナル1966年11月6日から1967年2月19日、及び1967年7月9日から10月22日に亘って連載されている。

2018年

11月

25日

森鴎外記念館みる(特別展)

鴎外の「うた日記」詩歌にうたった日々を編んである 鴎外が日露戦争中に戦地で創作した詩歌を戦後自ら編集し、1907年9月刊行した短歌331首、俳句168句、新体詩58篇、訳詩9篇、長歌9首である。

他に常設された中に2冊揃った「日本からの手紙」は伝わる原本は滞独時代の鴎外が両親や兄弟などからの手紙を日本に持ち帰ったもので、長男於莵が第2次大戦中に外国に居て持参していた為に無事残ったものである。

全体として資料は良く保管されており、ボランティアの男性が我家4人の為に約1時間に亘って庭から館内まで説明に当たってくれたこともあって充実したものであった。

尚、原稿、書簡、遺品等の鴎外資料と生前発行の貴重書、研究資料等11,000点余りの資料を所蔵している。

記念館の建物は敷地面積886㎡

建築面積400㎡、延床面積1,360㎡の堂々たるもので2011年11月に開館している。

土地は元々区が所蔵しており建物も区が建築した。建築費用は聞いたが説明しなかった。

2018年

11月

25日

第7回大時代錯誤展

11/24・25日に文京区千駄木の国登録有形文化財「島薗家住宅」にてにて7回目となる大時代錯誤展が7団体及個人の共催で開かれた。

日本橋の竹細工を取扱う「花筥」からの案内である展示販売であるが内容は竹を使ったオブジェや平安時代の大壺、現代の漆器や陶芸の作品等時代を越えて多様であった。

会場の島薗家住宅は1932年島薗順雄の結婚を機に建てられ、「和洋並置式」である。しかし、この建物は相続税の関係からかこの後の存続が危ぶまれているとの事であった。

2018年

11月

18日

第11回葛飾現代書道展 始まる

2018年

11月

10日

京都姉小路で墨のパフォーマンス

1.来年の干支「亥」を隷書で書く。

   2m x 3mの画仙紙だが、3年目の今年は姉小路在住の「山中青緑堂」の山中祥吾

     氏によって既に掛け軸に仕立てられていた。さて、今年書く来年の干支「亥」の余白

     部分は例年通り参加者が思い思いの文字を墨書した。

 

     昨年の作品「狗」は1年間「ひと・まち交流館 京都」(注)の中にある「景観・ま

   ちづくりセンター」に展示されており、一昨年の作品「鳳」は姉小路界隈まちづくり

   協議会」事務局の隣のギャラリーに展示されている。

      (注)京都市下京区西木町上の口上る梅湊町83番地の1(河原町5条下る東側)

   平成30年11月10日 来年の干支「亥」を書く

 平成29年のパフォーマンス 「狗」。上記「ひと・まち交流館京都」に飾られている

    

       平成28年 墨のパフォーマンス「鳳」

                 

                  平成29年の一年間 「ひと・まち交流館 京都」の2階から吊り下げ

      飾られた書「鳳」

             

                 姉小路 地図

2.姉小路界隈は姉小路通りを中心に寺町、烏丸、御池、三条の各通りに囲また地域で、

  繁華街に近い街の中心にあって、さまざまな生業を営む老舗と小さな町家を含む、

  低層住宅が建ち並ぶまちである。

 

3.姉小路界隈に点在する老舗の文人・墨客の手になる「看板」に着目した「看板に似

  合うまちづくり」をコンセプトにして発足した「姉小路界隈を考える会」は設立23

  年を迎える。建設協定や地区計画といった独自のルール作り、新築を含め修景事業 

  を始めとする数々の実践、風情溢れる町並みを育てるという高い志をもって活動し

  てきた。

.今回の路上パフォーマンスは姉小路通りを14:00~16:00まで封鎖し、警察官が

  2名立って車の進入を制御している。また京都市環境政策局から課長、係長の2名

  が職務として参加した。これは京都の行政が「考える会」の活動に前向きに協力し

  ている姿勢を良く示している。

 

.翻ってみると我が葛飾区では区の施設であるシンフォニーヒルズにおいて「葛飾美

  術会」が要請した建物前のエントランス前の空き地に墨のパフォーマンスの許可を

  申請して却下されている。 京都市の姿勢との大きな差を痛感した。

 

.押し寄せる事業利益優先のビルの建設は古い街並みを守る鬩ぎ合いの中で、地元の

  住民の懸命な努力によって辛うじて古き良き京都の景観が守られているのだと実感

  した。  

2018年

9月

29日

「歌麿とその時代」みる

雨の中熱海のMOA美術館で「歌麿とその時代」をみる。

浮世絵の肉筆画、版画展である。天明期から寛政期に歌麿の大首絵、写楽の役者絵が出現し、文化、文政期には最盛期を迎えるのである。歌麿の「文読美人」がとりわけ群を抜いて存在感を示している一方、写楽の「大童山土俵入」での絵のうまさに驚嘆した。

 

「文読美人」をみて直ぐに思い出すのはフェルメールの「手紙を読む女」である。

1657から58年に制作された「手紙を読む女」は多分アトリエの中で描かれたもので、女の服装は「兵士と笑う娘」と全く同じ椅子、窓も同様である。カーテン、食卓、窓と何の装飾もない壁面であるが、オランダの風俗や生活振り、その空気までも色濃く漂っていて人物もその中の一部のようである。女の内面まで描くことはしていな一方、その150年程後に描かれた歌麿の「文読美人」は大首絵で女の手紙を読む一瞬の場面を描いている。

女は地方から単身で江戸に出て来て働いていたものであろう。勤務先の店の看板美人で江戸中の評判を得ていたかも知れない。

手紙は故郷から身内の病気等の異変を伝えるものでもあろうか。驚きと緊張感が顔の表情と手の表情で良く表わしている。

浮世絵画家としての歌麿が肖像画家としても第一級の画家であることを証明している。

この一点だけでも熱海まで来た甲斐があったというものである。

歌麿「文読美人」

                          フェルメール「手紙を読む女」

2018年

9月

26日

吉村 昭の本

吉村昭の作品を始めて読んだのは「北天の星」である。南部藩領下の貧しい農村に生まれ、やがて北海道に渡って、エトロフ島で番人小頭の地位を得て、アイヌの若い妻を娶

り安定した生活を送っていた五郎治は、当時はピヨートル大帝のもと勢力を拡大し、カ

ムチャッカ半島まで侵出してきたロシアがエトロフ島を攻撃。五郎治と佐兵衛はシベリ

アに抑留される。ロシアの海軍少佐ゴロウニンが千島周辺の測量の為に、国後島に上陸

したところを幕府に捕らえられ、その交換要員として五郎治と、漂流民6人が日本に返

還された。日本に戻って半ば幽閉された状態でひっそりと生涯を閉じる筈であったが、

ロシアで得た種痘の技術が生きて、日本で初めての牛痘による種痘の施術によって、歴

史の舞台に登場する事になる。


この「北天の星」の出来栄えは素晴らしく以後「羆(ひぐま)」「三陸海岸大津波」

「零式戦闘機」「海の史劇」「ポーツマスの旗」等吉村昭の作品の大半を読んできた。

吉村昭の作品はすべて情緒に流される事なく、登場人物の心理描写に深入りする事もない。事実を積み重ねていく、男性的とも云える文体で、それは宮本顕治の「百合子断腸」に通底しているようにみえる読者としての私に心情的に良く合う作品であった。

作品の総てが丹念に調査を重ねて出来るかぎりの事実を究明して作品をつくりあげる姿勢に深く共感を抱いていた。

 

さて「史実を追う旅」である。
「闇を裂く道」の取材で、大正初年の時刻表を手に、沼津から御殿場のジーゼルカーに乗って隣に坐る年輩の婦人と会話を交す。「東海道線がこの線を通っていた頃、ちょう

ど、このあたりでしたが、車内から勤め帰りの男の人が線路ぎわに立った若い奥さんに

鞄を投げるのです。そしてデッキから飛び降りる。近くに家があって、駅で降りると遠

くなりますのでね。それ程汽車の速さはおそかったのです」と生々しい話を聞いている。又当時の担当の技師は「丹那トンネルが掘られた時は上の盆地の水がなくなり、大騒ぎ

になりましたが、現在の工法ではそのような事はありません。当時トンネルの160m上

方にある丹那盆地は豊かな水に恵まれた地であったが、トンネルが掘られたことで地下

水の水位今西はが急速に低下し、トンネル内に噴出、この為盆地の川の流量が激減し、田はひび割れ、ワサビ田に水は絶えた。農民達は驚き、その怒りが騒動に発展した事等。

 

「破獄」での脱獄の天才では戦前青森県警察所(署)の刑事課長P氏の話として受刑者

Sがひそかに入手したスプーンの柄をコンクリートの床でこすり獄房の合鍵を作った事や、Sは3回脱獄した事を聞く。小菅刑務所から秋田刑務所に護送中に、護送指揮をと

った看守の橋本氏の話として「上野を列車が出まして宇都宮を過ぎて間もなくでした。

Sには前手錠をかけていたのですが、いつのまにか片肘を窓ぎわにのせて頬杖をついて

いるのですよ。驚いて手首をみると片方の手錠がはずれて、垂れていましたね。部下が

顔色を変えて立ち上がり、足錠をかけて縛りましょうと言いましたが、私は、「S、ちゃんとかけとれ」とたしなめました。するとSは手がだるかっただけで他意はありませんよと云って手錠をはめました。凄い奴だと思いましたね。」と語っている。

 

「海の史劇」では日本側の資料はもとより、ロシア海軍の公式記録その他も調べて、
「回天」では薩摩海軍史を始め、外務省外交資料館や東京大学資料編纂所、国立公文書

館でも調査している。最後に吉村昭は「昭和41年から7年間、戦史小説を書いたが、そ

の間あくまでも史実に忠実であることを念願とし非力であるのを知りながらも自分なり

の努力はしたとし、零戦戦闘機の執筆の折の忘れがたい記憶として『零式の戦闘機の設計・製作者であった堀越二郎のお宅へしばしば足をむけご教示を受けた。
氏は私の書く技術的な説明に克明な指摘を下さり、私はそれをメモして小説の中に活か

した。その中で堀越氏はプロペラの箇所について書いた部分が80%の正確さしかないと云い、この部分は私の論文をそのまゝ写して書いて下さいときつく云われた』それは出来ないと断った上で理由を説明した。小説家である私には文章が最も大切であり、たとえ

氏の論文が技術的に正しい内容であろうと、その文章は氏自身のものであり、それを挿入する事は、私が小説家であるすべてを放棄することになる。」「老練な編集者は多少誇張があるかもしれませんが、小説家の書く文章の一行を読んだだけでも誰のものかわかるのです。私は学生時代から小説を書いてきていますが、それは文章との闘いということにつきます。堀越さんの論文をそのまゝ引き写せば、私が今まで小説を書いてきた意味はなくなります。正確度80%でもいいと言ったのはこのような理由からです。」
吉村昭の小説家としての矜持がここに高らかに語られている。

2018年

9月

25日

2. 印材を彫る。

佛画を描いて書も書いて作品にするにあたって雅印が必要となる。

作品中の自分の印は作品の一部であると思っていたので、自分で刻するこ事とした。

先ずは先人の残した印を模する事から始め、自分の印は50程彫ったであろうか。
それと共に篆刻作品も手掛けて手許に残っているものを集めてみた。
目指したのは斉白石と2世中村蘭台であったが、所詮無理な事が良く分かって、平凡な

作品に終ったのは残念なことであった。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 不憂貧
     貧乏を憂えず。 361

 

 

 

 

 

  2. 不同轍
    同じ轍を踏まない。 362

 

 

 

 

 

  3. 間中至楽  清蔡軾
             363

 

 

 

 

 

4. 烏兎忽々   364
中国の古い伝説に太陽には3本足の烏が住み、月の中には兎がいるという。

このことから烏はからすで太陽の意。

兎はうさぎで月を指し転じて歳月、
月日の例えとなった。

忽々はあわてゝ急ぐの意。月日のたつのは早いさまを云う。

 

 

 

 

 

 

 

5. 俱会一処    365
阿弥陀仏の浄土に往来して浄土の人々とともに一処に会同すること。

 

 

 

 

 

 

 

 

6. 一鳴驚人    366
  一声鳴いて人を驚かす。

 

 

 

 

 

 

 

 

7. 書画禅     367

 

 

 

 

 

8. 空釣坐魚亦釣楽 高枕臥遊山目前

             368

餌なき釣り針で釣られる心配が無いか ら魚も楽であろう。柴門を出でずに浮世
を知らぬ顔で臥すれば青山は眼前にあらわれてくる。

 9 王維 詩  369      

            酌酒興君君自寛 人情翻覆以波瀾
             白首相知猶按剣 朱門先達笑弾冠
               草色禅経細雨湿 花枝欲動春風寒
             世事浮雲何足問 不知高臥且如餐   

 

 

 

10.  静不備 動靡遠  No。 372
 静にして一方によらず、動にしても 違う如き事があってはならない。

 

 

 

 

 

 

 

11.  仁者寿 智者楽 孔子  373

 

 

 

 

 

 

 

 

12.  五言絶句  杜甫  289

13.  漢魏六朝  張湛
       衿厳礼を好む 動止則有り 幽室に居処し、必ず自ら修整す。

2018年

9月

23日

1.  印材とその作家について

書に関わって40年程となり、収集の意志がないままに、いつのまにか印材が集って来
た。その中には著名な作家もいたのである。

 

1.徐星州 獅子紐印材 心間夢穏 349(1853~1925年)徐新周字は
星州皇周 心周 いづれも新周の諧音である。
江蘇呉県の人、少時より篆刻を好み、他事に渉ることなく後に呉昌石に益を受け、
呉の代刻をする事が多かった。呉の作風を承けたものであるが、より整斉、穏健に
して、自ら一格(自分一人の主義で立てた格式、一流)を有しており、また上海に
寓しその刻料も廉価であった為に、邦人の刻印を求める者が多く、犬養木堂、河口
慧海、滑川澹始、田口未航等が依頼している。写真の作品は黒檀造りの箱に入って
おり、表面に朱基石藏、田黄獅子鈕方印とある。

2. 石井雙石 (1873~1971) 346、347
千葉県山辺郡四天木村生まれ、四天木学校に4年通い、16才で上京、22歳で陸軍
に入隊。1906年日本新聞主催の篆刻作品展で2席になり、篆刻家になる事を決意
した。1928年5世浜村藏六に入門、2年後に藏六死去。河井荃廬(センロ)を師
とした。戦後葛飾区堀切に居住、1962年紫綬褒章授与される。昭和期の日本を代
表する篆刻家の一人である。最晩年に東村山市に移住。99年の生涯を閉じた。
当然の事ながら書も素晴らしい。この2作のほかに4点の印を所蔵している。


3. 趙之琛(チョウシチン)(1781~1860) 343
字は次閑、献父を号とし、宝月山人とも号した。浙江銭塘の人、終生仕官せず、
布衣に了った。陳豫鐘の門に出て金石学に長じ、また黄易 奚岡、陣鴻寿の長所を
取り、嘉慶、道光以降における浙派第一と称された。西泠8人の一人。兼ねて絵も
よくし、書も巧みであった。晩年大平軍の乱に遇い、所在不明のまゝ没した。

4. 奚岡(ケイコウ)(1746~1803) 353
初名は鋼、字は純章、鉄生と号した。もと安徽省新安の人。浙江銭塘に寓居した。
9才で隷書をよくし、長じては行草に巧みであった。また詩詞をよくし、絵にも
とりわけ優れていた。方薫と交遊し、相並んで方奚と称された。抗郡4家と呼ば
れている。西泠8人の1人。平生酒を愛し、酔えば意気は淋漓として虎のごとく、 意に合せぬことがあると同席した人を大罵して、人から酒狂と呼ばれた。
終生布衣に了った。

5. 新間静邨 (1879~? )351、345
4世浜村蔵六~安達鋳印を師とする。また松丸東魚の師でもある。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

6. 3世浜村蔵六 (1791~1843) 352
名は籍、字は子収、号は南渓。晩年は訥斎(トッサイ)、亀禅。
江戸の人、本姓小林氏。のち金山氏を冒し、2世没後、高弟として浜村氏を称し伝家の亀鈕古銅印を承け、蔵六居を襲ぎ、よく家声を落さずその配金山耀も遷鶯と号し、絵、篆刻をよくしたが、子がなく塩見大澥があとを継いだ。
 

7. 源伯民 (1712~1793) 356
清水氏、名は逸、字は伯民 通称は利右衛門頑翁と号し、南山樵夫、義和堂、雕虫館、掬翠軒など別号する。源氏の出身で源民又は揚伯民とも称した。
長崎玉之浦の人、その篆法は蒼秀、刀法は雄健と称され、晩年益々壮んであったと云う。当時は長崎に古切屏風と呼ぶ。
明末の蘇暁、黄震2氏の刻した酣古集の大印があり伯民はこれを模刻して迫真の力量を示したという。 

8. 益田香遠 (1836~1921)遇所の長子
益田遇所(1797~1860)358 本姓 山口氏、名は肅、字は士敬、号は遇所。
浄碧居と称す。江戸の人。幼くして長橋東原に書を学び、ついで益田勤斉に師事 して篆刻を学び、その技は同門のいづれをもしのいだ。師没後嗣がなく、推され て嗣子となり益田氏を冒す。
その名声は日に高く、安政2年幕府の命令で官印二顆を刻して賞され、貴神土庶 となく彼の印を求めたという。作風は常に泰漢古印の法により加うるに近世名家の筆意も用いた。さて香遠は遇所の長子で名は厚、名は士章、通称は重太郎、勤斉、遇所の跡を襲ぎ、江戸泉橋通に住し、明治篆刻家として著わる。

9. 桑名鉄城 (1864~1938)354
名は箕、字は星精、鉄城又は大雄山民と号した。富山の人、幼時、郷儒小西友義
について、句読と書法を学ぶ。その後、山岡鉄斎の門に入り剣道を修業し、金沢
に移って北方心泉より篆法、金石学を学ぶ。明治25年京都に移り、28年台湾
総督府の印を刻するのを命ぜられた。円山大迂とゝもに京都に於ける新作風の大
家と称せられるに至る。没後京都相国寺に葬られた。

10. 三雲孝 (1769~1844) 357
名は宗孝又は孝、字は子孝、仙嘯と号した。通称中書、先祖は近江国三雲村の人、 代々施薬院使を継ぎ御所に出仕したが、孝は家業を好まず洛西嵯峨に住み、読書、 詩作に耽った。篆刻は葛子琴に学び、高芙蓉に私淑して一家をなした。
しばしば仙嘯堂に印会を催し、快哉社と名付ける。嵯峨大覚寺慈性法親王の命に
より、文館詞林の模刻事業に携わる。俳諧や点茶を善くした。

11.鳥海北岳 355
名は銀次郎、号は北岳、白鳳山人 字は君貞庄内藩士。鳥海良顕の次男として鶴
岡二百人町に生れる。兄良民が早世した為に家督を継ぐ。漢学を遠藤厚夫、赤沢
経言に学び、長じて小学校教員となるが、実業界に転じて鶴岡士族授産場に勤務する。次いで松ヶ岡製糸所に入って、1901年社長、1919年まで勤める。
この間県製糸同業組合役員、済急社監査役を兼務し、鶴岡町会議員を5期20年
勤める。書を黒崎研堂に学び、さらに日下部鳴鶴の指導を受け、能書家として著名となる。その後谷中に寓居し、書道振興会を創設、書道の普及に務める。
墓碑銘は「北岳鳥海君の墓」。

12. 田黄石 348
福建省福州の北40kmの寿山郷の田黄周辺の田の中、川の付近から産出する。
明末から採石され始め、良材はほとんど清の乾隆時代初期までに採り尽くされた
と云われている。採出する高山系の中で田抗、水抗、山抗とあるが田抗で採れる
ものゝ中に田黄はある。寿山郷へ通ずる坂道周辺の田畑から産出さえるもので、
寿山から流れ落ちる渓流によって運ばれた石が、土の中に埋もれ、周辺の田や畑
から彩石されたところから田抗と呼ぶ。
田黄名の多くは微透明、半透明の状態を呈しており、石面中に極めて細密な蘿蔔紋がみられ、また多くに紅筋が存在する。中国では古来黄色を尊重した為に田黄は金と同一、またはそれ以上とされる程高価であり、近年中国の経済の急速な発展により田黄の価は更に急上昇している。此の田黄は10年程前に手に入れたもので、蘿蔔紋と紅筋がよく見られており、石材も極めて良質とみられるものである。田黄石は

印材の中でも鶏血石と並んで群を抜く人気石である。

13. 兎と白菜の紐 痩鉄の作 344

銭 痩鉄(ソウテツ)

江蘇州無錫の人、篆刻は呉昌碩に師事。

画は石涛に私淑している。一時上海の美術学校の東洋画の主任教授に就任していた。在住していた日本から昭和14年頃離れたが、その際、橋本関雪(長い間の友人)が「中国にて文化事業方面に指導もしくは提携を必要とする時には、あの男は全く必要なる立場にありまことに口惜しき事に侯…他日卓を囲んで朗笑の裡に再検討可仕時有るべしと存じ侯」と書いている。関雪はその後亡くなり「他日卓を囲んで」とはならなかったが、痩鉄は日本の敗戦後戦勝国の代表団の一人として来日している。

痩鉄は関雪や白沙村荘等多くの印を刻している。

(注)石涛(1642-1707)

中国清の画家 俗名朱若極 出家して法名を道済又は原済と言い、特に山水に優れた。

 

14. 古寿山石 葡萄 栗鼠紋 350

 

15. 寿山石 馬肉紅 359 15. 寿山石 馬肉紅 359 

2018年

9月

21日

私の好きな歌手 その14.ヴィクトリア・テ・ロス・アンヘルス その15.テレサ・ベルガンサ

その13.  ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘルス
1923年11月スペイン、バルセロナに生れる。 ソプラノ
1944年リセオ音楽院の主催するコンサートでデビュー
1951年メトロポリタン歌劇場の舞台を踏み国際的名声を得る。
日本には1965年72、74年に来日したが、1984年来日したときは横浜市立図書館
を会場としてリサイタルを開いた。
晩年であったが相変らずの美声であり、予想外の可憐な声に改めて驚いたものだ。

 

その14. テレサ・ベルガンサ
1943年3月マドリード生まれる。 メゾソプラノ
1977年~78年アバド指揮で歌ったカルメンは絶品であった。
1957年コシ・ファン・トウッテを歌い注目さら、古今のスペイン歌曲を多くレコードに
入れている。
ロス・アン・ヘルスと並んでスペイン歌手の双璧である。私の推奨のする一枚は
 ”イタリア古典歌曲集” ピアノ:リカルド・レケホ である。

 

2018年

9月

18日

かつての名歌手シリーズ第3回 イヴ・モンタン

イヴ・モンタンは1921年10月イタリア フローレンス近くの石黄土質で小石があるやせたアベニン山脈の一寒村モンスマーノに生れた。本名はイヴォ・リヴィ、港町マルセイユで幼い頃を過し、労働者としての生活が始まり、18歳のとき喉自慢シャンソン大会に出場して優勝。やがてイヴ・モンタンと名乗りムーラン・ルージュで活躍中にエデット・ピアフに認められ46年ピアフ主演の「光なき星」で映画デビュー、同年「夜の門」に主演。その主題歌「枯葉」を歌い続けて世界的なスタンダード・ナンバーに育てた。

俳優としては53年に「恐怖の報酬」が高く評価された。
イヴ・モンタンという名は子供の頃から母から「イヴォ・モンタ」(イヴォ モンタ『あがっておいで』)と呼ばれたのをもじったと云われる。

第二次大戦直後から1950年代モンタン・シニヲレ夫妻はフランスで最も有名な共産党員のシンパであった。フランス議会で共産党が第一党の座にあった頃の話である。当時ヨーロッパでナチスドイツと闘った唯一の政党がフランス、イタリアの共産党であり、その為国民の共産党に対する信頼はベリンヴェル率いるイタリア共産党が常に30%を超える支持率を有し、もし大統領制度があれば、貴族出身でスタイリッシュなベリンヴェルの当選は間違いないと云われていた。

一方マルシェ率いるフランス共産党も劣らずの勢力を有し、ヨーロッパで議会主義のもとで最も社会主義への移行の可能性が高いと思われていた。

 

1956年11月のモスクワ公演を追ったドキュメント映画「シャンソン・ド・パリ」では黒い長袖シャツに細く黒いズボン履いたシンプルなスタイルでスポットライトを浴びたモンタンの舞台は水際だった真に見事なもので、ソヴィエトの聴衆の熱狂的支持を受けたものである。それは世界の共産党の中で最もソヴィエト政権と親密な関係にあったフランス共産党のシンパであったモンタンである事も理由の一つであったろう。

しかし、もはや戦後ではなくなった60年代半ばあたりからモンタンは姿勢を変える。
それは頼みのソヴィエト政権が民主主義の擁護者からその抑圧者に変り、大国主義が露骨になってきた事。又経済政策に失敗しミッテラン政権の支持率が急落する等からモンタンは「共産党は赤いファシズムで社共連合政権は破廉恥かつ危険きわまりない政権だ」として「アメリカは社会主義国家が目標として果せなかった理想を実現した国」とアメリカを礼賛した。明らかな変節であるモンタンは大衆の動向に添うようにその考え方を左右に振らしたのである。ジュリエット・グレコの「お金持ちになると人が変るのかしら」を始め、世の批判、悪口、後ろ指にダメージを受けるどころか燦然と輝き続けたのである。

 

さて50年以上前の事である。モンタンがボップ・カステラ楽団を率いて、東京公演に来日が決った。会場は築地のセントラル劇場である。前売り開始は12月10日であり始発の電車に乗って日本橋「赤木屋」に着いた時は既に10数人並んでいたのである。中には毛布にくるまっている人も数人いた。4~5時間寒さに震えながらチケットを手にした時は本当に嬉しかった。むろん勤務先は休んでいた。しかし理由は何であったか突然公演は中止となった。残念!

 

シャンソン・ド・パリで見せたモンタンの「バットリング・ジョー」では連戦連勝を続けていたボクサーのジョーがリングで突然目が見えなくなる話を始め軽やかにステップを踏みながら唄い、やがて目が見えなくなるドラマをまざまざと再現していた。
流石に「枯葉」の歌唱は深い感銘を我々に与えたのである。「枯葉」も「バルバラ」も詩人ジャック・プレヴェールの作でプレヴェールはマルセル・カルネ監督の「悪魔は夜来る」「天井桟敷の人々」のシナリオも書いている。ナチス占領下で、抵抗の意志を示した輝かしい作品として今も高い評価をがある。

 

         「バルバラ」の詩は

  「思い出せバルバラ、忘れるな しあわせな君の顔に、

   しあわせなあの町に、あのおだやかな雨、海にも、

   海軍の工場にも、ウェッサン通りの船にもあの雨。
   あゝバルバラ、じつに愚劣だ。
   戦争は、この鉄の雨、火の雨、血の雨、鋼の雨の中で

   今君はどうしている。

   いとしげにきみを抱き、しかし、あの男は死んだか、

   行方不明か、それともまだ生きているのか。

   あゝバルバラ、ブレストは昔と同じように

   ひっきりなしの雨ふりだがもう同じ雨ではない。

   すべては悪化して恐ろしい荒んだ弔いの雨だ。

   もう鉄や鋼や血の篠つく雨ですらない、ただの雲、

   犬のように野垂れ死にする雲だ。

   ブレストの潮の流れに犬どもは姿を消し、

   やがて遠くで腐る、ブレストのはるか彼方で腐る。

   この町に残るものなし」

(詩の一部)「プレヴェール詩集より」より

2018年

9月

18日

私の好きな歌手 その11. ポール・ロブスン その12.へルマン・プライ

その11. ポール・ロブスン
1898年ニュージャージー州、プリンストン生まれ。ラトガス・カレッジ在学中フット

ボール、野球、バスケットボール、短距離の有名選手となっており、同校開校以来の最

優秀成績で卒業。フットボールでは2年連続で全米最高選手に選ばれている。
その後コロンビア大学で法律を学び1923年卒業後、法律事務所で就職したが、白人

の書記が黒人のロブスンから口述される事を拒んだ事件によりロブスンは法律と縁をきり、1924年俳優として友人ユージン・オニールの劇「すべて神の子に翼あり」と「皇帝ジョーンズ」は出演、劇中で黒人霊歌を歌って絶賛を浴び、俳優として又歌手として不

動の地位を確立した。1930年ロンドンでシェークスピア劇「オセロ」に出演するなど舞台で活躍。又黒人の完全自由解放への情熱、国際的な反ファシズムと平和擁護活動への

積極的参加。1949年パリで開かれた世界平和会議における活躍等により非米活動分子とみなされアメリカ国務省はロブスンの海外渡航を禁止する。
1958年にはついに8年間の闘いによって旅券取り消し措置も撤回させたのである。
彼の歌は「オールマン・リヴァー」「ディープ・リヴァー」「ウオーター・ボーイ」

「セントルイス・ブルース」等いずれも高い精神性を感じさせる深味ある力強さと共に

哀愁を感じさせるのである。

 

その12. ヘルマン・プライ
オペラ、リート歌手としての人気はフィシャー・ディスカウと並んでいた。
オペラ、オラトリオ、リート歌手として輝かしい成功を納め「宮廷歌手の称号をもち、
バッハのカンタータからミュージカルまで幅広いレパートリーを有して活躍、1993
年に来日し鮫島有美子と一緒の舞台に立った。生で聴くヘルマン・プライの声は
低音部分でも硝子をふるわせるような音量であった。
この幸運な出来事はプライの伴奏者としてのヘルムート・ドイチュ、鮫島夫妻とプラ
イ夫妻が個人的にも親しくしていた事によるもので有難い事であった。
プライの「冬の旅」はフィシャー・ディスカウの歌とは又一味異なる味わいで聴き比
べると、曲の解釈の違いが良く分かるのも楽しみである。 

 

2018年

9月

16日

私の好きな歌手 その9.コラ・ヴォケール その10.ダリダ 

その9. コラ ヴォケール
映画「フレンチ・カンカン」の中で「モンマルトルの丘」原名は”丘の嘆き”ジョルジュ・
ヴァン・パリス作曲。ジャン・ルノワール作詞を吹替えで歌っているのが詩人フリップ・
ボケール夫人のコラ・ボケールである。
当時日本ではボケールのレコードが発売されていなかった。その後CDが出されて
聴くことができるようになった。彼女の唄う「さくらんぼの実る頃」「オー・マルシュ・
デュ・パレ」(お城の階段)「ソフィ」「グレゴリー」「白いバラ」等いずれも1曲で

フランス映画の短編1作品となるようなものばかりだ。

「モンマルトルの丘」歌詞 以下いずれも要旨。
  聖ヴァンサンの街角で、かの詩人が名も知れぬ女と過ごしたひと時の
  逢瀬は二度とめぐりこず、春の朝今ひとたびの邂逅を何処かの街の片
  隅に、詩人は女を偲びつゝ、託した夢がこの愛の歌 云々・・・と続く

 

「白いバラ」
  てんの帽子をかぶったあの娘はモンマルトルの丘に無邪気な様子で
  いたのだった。人はあの娘をバラと呼んだ。きれいだった。
  咲きそめた花のように彼女はいいにおいがした。サン・ヴァンサン通りで。 
  あの娘は生活の為に働いていた。春をひさいで。
  夏むし暑いたそがれにジュールにめぐりあった。
  男はとてもやさしかったので一緒に古い墓地のそばで、まる一晩過ごした。
  しかしジュールはひもの一味だった。この男はこの娘が客をとりたがらない
  とみると、ナイフでぐさりやってしまった。サン・ヴァンサン通りで。
  戸板の上に体を横たえた時、この娘はもうまっ青だった。
  葬儀屋たちは「かわいそうに、この娘は死んでしまった。婚礼の日に、
  サン・ヴァンサン通りで」

 

映画の中の歌手たち
ウージェニー・ピュフェをエデット・ピアフが。ポール・テルメェをアンドレ・クラヴ
ォーが。イヴェット・ギルベールをパタシューが歌っている。(注)

映画 「フレンチ・カンカン」はジャン・ルノワールが1939年アメリカに亡命、195
5年帰国第一作としてこの作品を作った。ムーラン・ルージュの創始者シャルル・ジードレールを中心に芸に生きる人々の人間模様を描いた作品である。
ルノワールは戦前迫り来るファシズムに反対する立場からフランス人民戦線結成に熱い支持を表明し名作「大いなる幻影」を製作した頃の社会への参加の熱意を総て失ってしまって、フランスの敗戦後の人々の現状や将来の希望等に全く興味を失ったかのように見える古きよき時代をひたすら懐かしんで描くようになってしまったのである。敗戦後の占領下の厳しい環境を逃れて緊張感を失ったアメリカの地での15年は取り返すべくもなく、フランスに止まって作品を作り続けたマルセル・カルネとの差は途方もなく広がっていたのである。
作品としての出来は流石にそつのないないものになっており、それなりに楽しめるものになっていたが。  

(注)
① エディット・ピアフは曲芸師の父とストリートシンガーの母の間に生まれた彼女は母と同様に街頭で歌で投げ銭を受けていたが、やがてステージ・デビュー。
ダミアについで現実派シャンソンの象徴的存在となった。
交通事故の痛み止めで用いたモルヒネやアルコール依存症に苦しんだが、モンタン、アズナブール、ムスタキ等多くの若い才能を発掘している。
人気曲「愛の賛歌」は試合の為にアメリカに行く途中、飛行機事故死した恋人でボクシング ミドル級世界チャンピオンのマルセル・セルダンに捧げられたものである。

 

② アンドレ・クラヴォーはシャンソン歌手に珍しい甘い美声の落ち主で「パパと踊
ろうよ」で父と幼い娘とのデュエットがある。またルイ・アラゴンの詩による「エルザの
瞳」はその底流に民主主義渇望の思いをこめて絶品の歌唱である。

 

③ ベル・エポックのイヴェット・ギルベールは南仏生れの貴族画家トウルーズ・ロ
ートレックがモンマルトルの盛り場に出入りし、パリの風俗を生き生きと描いた。
石版によるポスターで描いたギルベールで有名となっている。

 

その10.ダリダ
1935年イタリア生れ、幼年期エジプトのカイロに移住。父はオペラ劇場の第一ヴァ
ィオリン奏者であった。1954年ダリダはミス・エジプトに選ばれ1956年ミュージック
ホール「オランピア」のオーデションを受け1957年「バンビーノ」でデビュー。
大ヒットして一躍スターダムに昇る。粘りのある天賦の声と、スケールの大きいフィー
リング情感タップリで歌うシャンソン歌手となったが、イタリア生まれからイタリア的な
節まわしがあり何といってもイタリアのカンツォーネを歌うダリダ一番魅力に溢れて、
力量を発揮すると云えよう。美人で大人の成熟した女性の魅力充分の歌手である。

しかし、私生活では恋愛に翻弄され54才で自殺して愛と悲哀に満ちた人生を送っている。

2018年

9月

11日

「もののけ姫」と中世の魅力 網野善彦と宮崎駿の対談から

「もののけ姫」と中世の魅力
網野善彦と宮崎駿が「もののけ姫」の時代である中世から近世に移行する転換期の15

世紀室町時代を語り合う。


1.当時は日本の西半分は照葉樹林の森に覆われていたが室町時代に人間社会が中心と

  なり、森は失われている。鎌倉仏教が誕生した。


2.15世紀は百姓も皆腰刀を持って武装していたし、鉄砲まで持っていた。黒澤明の映

  画「七人の侍」の出来があまりにも優れていた為に以後呪縛の要に日本の時代劇を

  縛ってしまった。


3.百姓の中には色々の生業の人がおり商人や職人も多く、農民の割合は多くみても

  40%に満たないものであった。百姓一揆は困窮した農民が一揆を起したと考えるの

  は間違いで、自由民権運動の秩父事件の先頭に立っていたのは博打打ちの田代英助

  であった。士農工商はイデオロギーであって実態ではない。士農工商をはっきりさ

  せたのは明治政府である。


4.室町期は完全に銭の交換経済で、現銭だけでなく手形が流通する時代になっていた。

 

5.  女性は養蚕をやり、絹や布は女性が作って自分で市場に出して売っており、おかね

  は女性のものだった。土地は公のものである為に名義上は男のものであったが、動

  産は女性の管理下にあった。宣教師のルイス・フロイスは「日本では夫と妻がそれ

  ぞれ財産を持っていて、妻が夫に高利で貸す」と述べている。


6.  日本の小型の馬が甲冑をつけた侍をのせてあんなに走れるわけがない。

  せいぜい3分半で馬は喘いでしまう。


7.世の中全体が豊かになって銭が流通し始めると、合理的計算が始まり富への欲が非

  常に強くなり、その欲が自然の恐ろしさを超えてしまう。
  それまでの日本人の暮らしは自然とうまく調和していたが、そのバランスが崩れ始

  めたのが室町時代である。


8.江戸時代の終わり日本人庶民のもっていた職能的な能力、商業の帳簿の組織などは

  非常に高度でヨーロッパ文明をまたゝく間に取り入れる事が出来た。

等が縦横に語られている。

       ー 網野善彦対談集 その2よりー

2018年

9月

11日

硯の話 その12 (完)

硯の話 その12
雲漢七星硯。
東京プリンスホテルで例年開催される骨董市で、もう20年以上に亘って催されており、友人が出店していることもあり毎年欠かさず参加している。

その骨董市で馴染みの硯店で大西洞水厳の七星硯を勧められた。硯面は温潤ですこぶる

石質が良く、鸜(谷に鳥)眼ークヨクガンーとみられる眼が7個並んでいる。大西洞は既に閉鎖しており、現存する大西洞硯も数は少なく、仲々お目にかゝる事の稀な硯であった。長さ22cm、5.9kgの堂々たるもので、こんな硯が未だ市中にあったのだとの感が深い。(1~303)

2018年

9月

11日

硯の話 その11

硯の話 その11
大振りの雲龍硯である。龍が全身、硯の左側に彫られており、この部分だけ黄色味を帯

びている。雲は立体的に彫られており、その細工に工夫がみられる。1-45

 

2018年

9月

11日

硯の話 その10

硯の話 その10 
明代の歙州石井田硯 1-51
安徽省に産する。「歙石は龍尾渓に生ず。その石は堅勁、大抵は発墨す。故に前世は多くこれを用い、金星を以って貴と為せり。手を以ってこれを磨するに索々として鋒鋩あるもの尤も佳なり」とある。歙州硯は端渓硯と並んで2大名石である。1-51

 

2018年

9月

11日

硯の話 その9

硯の話 その9  1-41、42
良い松花江緑石を探していたところやっと手に入った。中国東北地区の中心部を流れる黒龍江最大の支流で、吉林、ハルピン、チャムなど沿岸の都市と結んで北朝鮮との国境にある白頭山の天地に源を発して流れるのが松花江である。
清朝は北満女真族の後裔で、中国に於ける征服王朝である。清代前半の康熙帝、乾隆帝と
った英主が現れて、文化は大いに育った。特に康熙帝は清朝発祥の地吉林省より松花江緑
石を得て、製硯を大いに奨励した為に「温潤なること玉の如く、紺緑にして瑕無し。

質は堅にして細、色は 嫩(どん)にして純、滑して墨を拒まず、渋して筆を滞らせず、能く松煙をして浮艶させる」と云わしめた。


康熙、雍正、乾隆3代に亘って採掘されたが大半は官制品で採掘の困難さと産出量の少なさから廃坑となり、伝世する松花江緑石の名品は希少であり、産出はない。
この硯は裏面に青銅尊の浮彫があり、鉄民の刻あり。

2018年

9月

11日

硯の話 その8

硯の話 その8 
蘭亭硯のあと引き続いて同店より端渓緑石の蓬莱硯が持ち込まれた。中国の神仙思想に説かれてる3神山の一つ東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山を模った硯で、硯の形として蘭亭硯と並んで代表的な様式である。

蘭亭硯に劣らぬ出来栄えで希望通りの硯2面が揃った。1-33、34、35

端 渓 緑 石 の 蓬 莱 硯 表、裏、側面

2018年

9月

08日

硯の話 その7

硯の話 その7
硯の収集の意識が明確になったのはこの硯の入手からである。
長年取引のあった書道用品店の主と酒を飲む機会があって、硯の話となった。その後1週間程たって我家にその店から一面の硯が持ち込まれた。一目みて驚愕した。二玄社で出版した5冊本「古銘硯」に載っていたような洮河緑石硯が目の前に現れたのだから。
(洮河緑石は現在端渓緑石とされている)12吋8kgの堂々たる端渓緑石「蘭亭硯」であった。1-48、49、50 

  洮河 
  中国甘粛省南西部を流れる黄河上流の1支流、一時採掘されてその石質の良さに
  大いに人気となったが洪水の為に採掘場所が不明となり、以降採出されていない
  幻の名硯である。

 

東晋の王羲之が永和9年(353年)3月3日、会稽の内史であった右将軍王羲之は謝安、許詢、孫綽等名士を会稽郡山陰県紹興の名勝蘭亭に招いて、子の玄之、献之ら一族も加え総勢42名で曲水の宴を催し、各自の詩27編を編んだものが蘭亭集であり、その序文を王羲之が書いたものが「蘭亭序」である。鼠鬚筆を用いて書いた蘭亭序は熱狂的収集家であった太宗の所蔵となったが、太宗の死後、遺命によってその昭陵に陪葬されたが欧陽詢、虞世南、褚遂良等によって写本が下命によってつくられ「定武本」等の臨書本や模本が現存している。

 

硯は蘭亭序を王羲之が書いている場面と曲水を表面に、裏面に柳と羲之が好んだ鵞鳥を彫し、側面には集った名士達を彫している。精繊でまことに見事な出来栄えで、多分清朝初期に官命で制作されたものであろう。
1965年秋から10年間に亘って中国全土を揺り動かした文化大革命は中国を未曾有の混乱に陥れた。従来の文化や権威を悉く否定され中国文化の粋、文房四宝も大打撃を免れることは出来なかった。多くが略奪、破壊されたのである。この硯も何とかしてこの嵐の中をくぐり抜けて日本に渡ってきたものであろう。その詳細は定かではない。

 

蘭 亭 硯 ( 表、裏面、側面 )

2018年

9月

08日

硯の話 その6

硯の話 その6
端渓の5福紋硯(1-53)鵞鳥紋硯(1-39)角浪羅紋雲月硯(1-36)と

集まってきた。

端渓 福紋硯

鵞鳥紋硯

角浪羅紋雲月硯

2018年

9月

08日

硯の話 その5

硯の話 その5
前述の骨董店で硯2面購入。氷紋の入った雲龍硯と(1‐325)馬尾紋の入った大西洞水巌の小さな硯である。(1-46)他に世尊寺行成の和漢朗詠集切れの軸とマチスの書簡も入手した。

雲 龍 硯

大 西 洞 水 巌

2018年

9月

08日

硯の話 その4

硯の話 その4
お茶の水の骨董店が集っていた一角に硯の店があり、素晴らしい硯が目にとまった。

端渓雲龍硯で石も彫刻も見事で思わず購入した。その後もこの店で数面買う事となる。
店主は良寛の研究家であり、日本の古美術にも特に書関係の造詣が深く何を聴いても感心するばかりである。1-44

2018年

9月

08日

硯の話 その3

硯の話 その3 
神田の著名な日本画材店で胡粉と辰砂等を購入した際に主の母親が店番をしていた。

話が弾んで、彼女はやおら店の奥に置いてあった箪笥をガタガタと開けて「うちの硯は安いよ」と云って数枚の硯を拡げてくれた。どれも仲々良い物ばかりとみえたが懐具合をみて、4吋に満たない円形の端渓雲龍硯で眼もある真に彫刻の細かく見事な硯を購入した。銘は「雙龍戯瑞之墨海宝硯」とあった。

2018年

9月

08日

硯の話 その2

硯の話 その2
文房具を主として扱う骨董店で明代制作と説明された端渓の6吋程で卵型の雲龍海馬硯を購入した。眼を有した本格的な古硯であり、しかもこの硯の拓本が添付されていた。作者は中国の篆刻家茅大容の拓であった。私の手にした始めての古硯である。308、307、317

始めて手にした硯 雲龍海馬硯 ( 表、裏、側面 )

2018年

9月

07日

硯の話 その1

硯の話 その1
30歳台半ばから書を習い始めた。8吋の羅紋硯を使用していたが、5年程して実用以外の硯を始めて購入した。10吋程の澄泥硯(ちょうでいけん)である。
今見ると焼成したものではなく、自然石で当時は澄泥硯であると評せられていた。
その後、硯作家明石良三氏と識る事となり、笠間の工房で氏の作る本物の澄泥硯をみる機会を得て制作過程も知る事が出来た。
先ず素材の土は中国から輸入、中国は黄砂の国で粒子が細かい土があって、殷時代の青銅器制作の鋳型はこの土あってこそ出来たのである。この土を桶に入れて良く撹拌し、沈殿したものは捨てゝ、水中に浮遊する更に細かい粒子の土を乾燥させて、これに接着剤となるべき物質を加えて成型する。これを天日干しにすること数ヶ月して、いよいよ焼成に入るが、釜の中で最初100度程で加熱し少しづつ温度を上げて焼いていく。硯の厚みから表面と中の部分の温度差で亀裂するのを防ぐ為だが、それでも3分の1は亀裂が入って商品にならない。
形は円形状の硯板が大半で、出来上がった作品は数年に1回の割りで麻布飯倉の会場(ウナックサロン)で展示販売された。決して安くはない値段であったが、いつもほとんどが完売であった。名前は「尋花澄泥硯」と銘打っていた。澄泥硯は過去に青木木米が作っていたとも云われるが、定かではなく、現代で澄泥硯を作っているのは中国でも、日本でも明石氏唯一人であろうと思われる。
私の手許に3面保有している。彼は硯以外の作品は作っておらず、その傍らで松煙墨を趣味的に造っていた。 No.614 

2018年

8月

23日

私と落語 (Ⅴ) 3代目三遊亭 円歌

私と落語(Ⅴ)3代目 三遊亭 円歌 

歌奴時代「山のアナ、アナ」で知られる「授業中」でフィーバーし、後年円歌となってからも高座に上ると客から「山のアナ」をやれとよく声が掛かったという。

 

生来の浪曲好きから自作の「浪曲社長」を始めとした新作落語を中心として活躍したが、その極めつきが「中川家の人々」である。

円歌自身の家族の話で、自分の両親、先妻の両親、そして料亭の女将である2番目の細君の両親計6人を引き取って共に一つ屋根の下で暮らした日常生活(老人達の)を噺としたもの、で老人達の生活は見方によっては老惨を曝すことになる為に、老人虐待ではないかとの批判も受けたそうである。

 

しかし老人達の日常生活を良く観察しリアルであるからこそ、客観的に聴くと真に面白い。

2018年

8月

17日

私と落語(Ⅳ) 3代目 桂 米朝

3代目 桂 米朝 本名 中川 清 1925年11月6日生まれ 2015年3月19日89歳没
1947年4代目桂米団治に入門。米朝を名乗る。上方落語の発展の為に尽力、落語研究者としても第一人者である。96年に人間国宝に認定されている。著書も多い。


1.はてなの茶碗
京の清水、音羽の滝の前に茶店があり、そこでお茶を飲んでいた大店の主とみえる客が、飲み終った茶碗をひっくり返したりして見ていたが「はてな」と云って立ち去る。

これを見ていた荷を担いでの油売りが、茶店の主に聞くと有名な茶道具屋のあるじ茶金であると云う。油屋はこの茶碗を2両で買うや、直ぐに茶金の店に持ち込むが、番頭に一蹴されてしまうが、奥から出てきた主茶金から3両で引き取ってもらう。

実はキズもないのにポタポタと漏るので「はてな」と云ったことが解るのだが。
これが町の評判となり大阪の豪商 鴻池善右衛門がこれを千両で買いたいと申し出る。

茶金は半分の五百両を油屋に渡すが油屋はこれに味を占めて、大きな水瓶の漏るのをみ

つけてくる。

 

2.宿屋仇
兵庫の威勢のよい3人組が宿屋に泊まる。宿屋の番頭伊八とのやり取りが面白い。

そこに武士が1人宿泊。3人は酒盛りで芸者も呼んで大いに盛り上がるがその騒ぎも武士から苦情が出る。一旦は静かになるが、暫くしすると忘れたように騒ぎ出す。一向に止まないうるさゝに業を煮やした武士はまた始まった隣室の源兵衛が話すのろけばなしから始まる2人の殺人に至る自分の諸行(実はうそ)を聞いて、実はその2人は自分の弟夫婦で自分はその兄であり長く仇を捜して旅していたと明かし、あだ討ちを申しでる。

明朝の出会仇を言い渡し、もし逃したら宿の者を皆殺しにすると脅す。まんじりともせずに朝を迎えた3人組と宿の人々を前に実は寝かしてもらう策だったと明かす。

 

3.質 屋 蔵
質屋の蔵に夜な夜な化け物が出るという噂が町に広まる。主人は番頭に確かめるように指示するが、これがいたっての臆病者で助太刀が欲しいと云う。出入りの職人で喧嘩自慢の熊五郎を頼むが、これも実は臆病者でそれでも2人で寝ずの番をするが夜も更けていよいよ化け物が登場する。・・・・・

 

4.菊江仏壇
上方落語の中での大ネタである。道楽息子が嫁をもらうが直ぐに飽きて遊びを始める。

嫁はこれを苦にして病に伏して実家に養生の為に戻るが、息子は勿怪の幸い遊びにはげむ。船場の大店の親旦那は嫁をいたわり、息子の極道を責めるが実家で嫁は病死。

一度も見舞いに行かなかった息子は行くに行けずに父親のみ駆けつけるが、息子は親父の留守に店に芸者等を大勢呼んで店の者も合せてドンチャン騒ぎを繰り広げる。

そこへ親旦那が帰ってきて・・・・・・・・

 

5・地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)
何んと云っても米朝の噺でこれを外す事は出来ない。実に1時間を超える大作である。

終始賑やかにお囃子、鳴物が入る。よそから大きな鯖をもらって、3枚に下ろし片一片は戸棚に納めて、それを刺し身にして一杯飲んでゴロッと横になり気が付いてみると前に行く者、後から来る者は各々額に三角の布を当てゝいる。そこへ大金持ちの若旦那が出てくる。遊びたいだけ遊んで、もうやる事もなくなって、一つあの世へでも行って遊ぼうかと云う事となり、取り巻きの芸妓、舞妓から料理屋の女将から太鼓持ちまで、大勢がこれのお供となり、ふぐの肝を皆で食べて地獄にやってくると云う咄である。

 

米朝はこれら上方の噺を中心に語るが古くなって誰も語らなくなった噺を丹念に発掘して、新しい解釈をして高座に乗せている。
東京に押されてすっかり衰退していた上方落語の復活に精力を注ぎ、上方ことばの柔らかさで、噺に深みを持たせて、上方落語を今日に復活させた大功労者である。
噺はいづれも知性に溢れて、品も良く、無理なく構成され上方落語の面白さを全国に知らしめたのである。ー 米朝は80話、全集 ー 
若くから親しんだ志ん生、圓生、文楽、正蔵、米朝のCDは100枚を超えて手元にあり、日常的に聴いており、現在は米朝を聴く事が圧倒的に多い。

 

2018年

8月

12日

第159回 芥川賞 受賞作品 読む

高橋弘毅希作「送り火」

舞台となるのは津軽地方のいくつかの町や村が合併して、新しく出来た市で、商社務め

の父親の転勤に伴って移住して来た15歳の少年歩が主人公となっている。

転校してきたのは3学年の全生徒が13人の歩達3年生の卒業と共に廃校となる運命の学校である。そこに切れ長で一重瞼の少年晃がいてクラスを頭脳と力で支配しており、頭の良い都会育ちの歩に対して、保護者的態度をとるのだ。

この物語の進行は以前どこかで読んだ誰かの作品に酷似しているのを思い出す。

戦争中都会から疎開して来た成績の良い少年を、それまで頭脳、腕力共に優れてクラス

に君臨していた大人びた少年が、転入生の少年を表面温かく、厳しい鄭重に扱うが・・・という物語であった。

物語が進行するに従い晃の隠れた暴力的性向がかいま見え、担任の先生もそれを察知して

歩に実情をそれとなく聞き質す。晃は肉屋の息子稔をターゲットにして陰湿ないじめを

くり返し、、やがて突然残忍な終末を迎えることとなる。銭湯からの帰りの風景を「河辺りは鉄柵で区切られており、柵の向うは5m程の護岸壁となっている。河はその護岸の

底を流れる。対岸は急竣な山の斜面と繫がっておりおり、谷底を流れる川にも見える。

村の落葉樹は裸の梢に萌黄色の葉を僅かにつけたばかりで未だ隙間が目立った。

夏になれば、この山は緑の堆積を増すだろう。等作者は入念に町の佇まいや風景を細部に亘って克明に語り、その視点は登場人物にも及んでおり、物語の世界に読者を引きずりこむ。やがて訪れる破局を予感させるのだ。作者の筆力は認められるが、几帳面で穏やかで礼儀正しい日本人がいざ戦争に突入するや、恐るべき蛮行を振って大量虐殺を行った現実が厳然として存在しており、日本人の心の底に潜む残虐性を書きたかったのであろうか、定かでない。

 

 

 

2018年

8月

12日

私と落語 (Ⅲ) 8代目 林家 正蔵

第3回 8代目 林家 正蔵 本名  岡本 義 
              1895年5月16日生まれ 1982年1月29日没 86歳


1925年5代目古今亭今輔と落語革新派を起すが、間もなく解散。1950年7代目林家正蔵から一代限りで8代目襲名。

7代目正蔵死去に伴って名前返上。林家彦六に改名している。


上野稲荷町の4軒長屋に住み、下町住いの稲荷町の師匠として親しまれた。曲がった事が大嫌いですべてに筋を通すことから若い頃は「トンガリ」と渾名された。
寄席に通うために利用した地下鉄の通勤定期は私用で出掛ける時は通勤ではないとして切符を買ったという。


正蔵落語は一点、一画、疎かにしない楷書芸でっ滑稽咄のほか、人情咄、怪談、芝居噺など芸域は広かった。「中村仲蔵」「一眼国」等、何度聴いても面白い。

2018年

8月

10日

私と落語(Ⅱ) 6代目三遊亭 圓生

第2回  6代目4三遊亭圓生    1900年9月3日大阪生まれ。


母さだが橘家円蔵門下の三蔵と結婚。円蔵死去に伴って5代目円蔵襲名。

義父円蔵は25年1月圓正の大名跡を継いで5代目圓生襲名。圓生は6代目円蔵となって以後16年間円蔵時代が続くが人気は低迷した。1940年1月義父圓生死去、41年5月6代目圓生を襲名する事となる。
1945年5月志ん生と共に仕事で旧満州に渡って程なく終戦。1947年春にようやく帰国。4月中席から寄席に復帰した。苛酷な体験からか圓生の芸は生まれ変わったように注目を集めるようになる。53年ラジオ東京専属となって放送落語ブームに乗った。

人情噺や大ネタ落語の第一人者としてその名声は上ったのである。

1965年落語協会の長となり、74年圓生落語百席の録音に着手、77年10月に完了した。( LP30巻90枚 )79年9月3日録音修正編集作成に参加し、最終立会い、後3週間を待たず仕事先の習志野市で急逝した。79歳であった。

 

どの作品も完成度が高いが特に大ネタの「品川心中」「中村仲蔵」「文七元結」は見事という他ない。

「中村仲蔵」の中で仲蔵が芝居の定九郎の工夫がつかずにいるうちに蕎麦屋で浪人に出会うを圓生は従来の解釈の旗本ではおかしい、浪人とするのがふさわしいと考え、どんなに零落しても天下の旗本に破れ傘を貸すのは不自然と判断している。

またサゲも圓生の考案である。また定九郎の型と手順については6代目尾上菊五郎の著書「芸」を読み込んでおり、口演に当っては竹本土佐広に依頼して定九郎と与市兵衛の掛け合いのところの義太夫の節をじっくり検討している。


しかし圓生の真骨頂は人情噺「真景累ヶ淵」であろう。宗悦殺しから聖天山まで延べ8時間43分の長丁場である。


『 深見新左衛門が皆川宗悦を殺害しその祟りが妻女を斬殺、狂乱の末斬り殺され、家はとりつぶされる。その長男新五郎は父に愛想をつかして出奔、家の廃絶を知り自害しようとして下総屋惣兵衛に助けられ奉公、お園に恋して誤殺。小塚原で獄門となる。

新左衛門の次男新吉は家廃絶の為門番堪蔵の甥として育つが、小唄師匠豊志賀の愛人となるが、新吉の裏切りにあって死に怨霊となって新吉にとりつく。豊志賀の弟子お久は新吉との仲を豊志賀に疑われ新吉と故郷の羽生村に逃れる途中、豊志賀の怨霊にとりつかれた新吉に鎌で殺される。美男の新吉に◎文の名士のお累は惚れて世帯を持つが新吉に疎まれ自害する ・・・・』と物語りは複雑に進行し絡み合う。まさに演者の腕のみせどころで
あり、圓生は息もつかせずに聴く者を彼の世界に引きづり込むのだ。美しい色気が漂い一分の隙もない風格があり、今後も圓生を凌ぐ演者が現れるのは想像出来ない。


圓生は落語を一流の芸術に高めた功労者である。圓生は後年、道場では負けるとは思わないが野戦では志ん生にかなわないと述懐している。

 

2018年

8月

05日

私と落語 (Ⅰ) 5代目古今亭 志ん生

小学生時代、ラジオで盛んに落語を放送していた。3代目三遊亭金馬の歯切れの良い解り

やすい話や、5代目古今亭今輔の新作落語のお婆さんものを楽しんで聴いていたが、何と

なく物足りないものを感じていた。
暫くして5代目古今亭志ん生や 6代目三遊亭円生を聴くようになり次第に落語の魅力に取り憑かれるようになった。

 

 取り上げる落語家は 下記の4人 8月5日のブログから順次掲載予定

   ◎ 古今亭 志ん生 ◎ 三遊亭 円生    ◎ 林家 正蔵  

         ◎ 桂 米朝          ◎ 三遊亭円歌 

第1回  5代目 古今亭志ん生 本名美濃部孝蔵

 

1890年6月5日神田亀住町の長屋に生れる。父の名は美濃部戌行、母は志う。
その5男である。1908年次男死没、3人は98年民法施行されて以前に死没しており、
戸籍に載っていない。

美濃部の本家は3千石の旗本で孝蔵の祖父は分家で800石、小石川水道町に大きな屋敷を構えていた。ちなみに1万石以上が大名、旗本は200石以上。それ以下は御家人と云われる。明治維新で明治6~8年にかけて秩録処分にあい財産没収。旗本クラスで50石。

 

当時100万円で家が買えた時代に200万円程が支給された。祖父は本郷の切通しに立派な家を建てたが父が連帯保証の借金で家を売り亀住町の裏長屋に引越し、二等巡査の役人

となった孝蔵は下谷尋常小学校を4年で中退。10才頃から酒の味を覚え、博奕の面白さにのめり込んで親は心配して、京城(現在のソウル)へ印刷工として送るが日本に舞い戻って15歳で家出、遊び歩いた。

しかし好きな落語から「天狗連」に入り、三遊亭円盛に「どことなくフラがある」(どことなく他の人にないおかしさがある)と云われ彼の口利きで三遊亭小円朝の弟子となる。以降19回芸名を変更している。

 

前座時代、道具入り芝居噺を継承した。頑固者8代目林家正蔵、洗練された名人芸で「富久」「明烏」などが当り役の8代目桂文楽などが同世代で皆住居もなく、食うや食わずの惨憺たる生活振りであった。1945年5月には円生と共に仕事で旧満州に渡っている。


芸名甚五郎あたりからやっと人気が出てきて1957年には落語協会の長となった。
1961年12月15日贔屓の頼みを二つ引き受け上野の料理店で一席やってから高輪のプリンスホテルの巨人軍の優勝祝賀会の余興で、気のりはしなかったが飲み食いが始まる前ならと条件で已むなく承知したが、川上監督の到着が遅れて、主催者の挨拶が終り志ん生が高座に上ると司会者の「どうぞ召し上がりながらお聴き下さい」の言葉で参加者はバイキング式テーブルに群がった。とても一席演ずる状況ではなく動揺した志ん生は話の途中自分が何を喋っているのか解らなくなって倒れた。脳出血である。入院した志ん生は脳の血管が切れたのと一緒に、長年の酒で胃壁が破れ、生死の境をさ迷って戻り、62年2月のある朝目が醒めて「おい、どうした」再起第一声ある。窓の外は雨であった。


同年11月11日72才で11ヶ月振りの新宿末広の昼席、高座に復活した。
高座に上った志ん生はしばらく黙っていたが「永らく起きられなくて、何しろ2ヶ月ばかり世の中の事が分からないという事があった。あちらの方に行きかけたが、地獄の入口で断られ、おめえもう少し喋ったらどうだ、と云われ帰って来た」が高座第一声であった。73年9月21日84才で没した。

 

満州から帰国後のこと柳橋の料亭に呼ばれ余興に「冬の夜に風が吹く」という大津絵を唄ったら突然小泉信三がハンカチを目に当てて落涙した。

それ以来、三田の家にも広尾に移ってからも毎年呼ばれるようになったが落語のあとは大津絵を唄うきまりが出来て、小泉信三はその度にハンカチを眼にあて、家族も集まっている中で嗚咽を漏らした。

「志ん生さんの大津絵は声に哀れがあって好きなんですよ」と云っていた。

『冬の夜に風が吹く、知らせの半鐘ガジャンと鳴りやこれさ女房、わら出せ、刺し子、

襦袢に火事頭巾48組おいおいにお掛衆の下知をうけ、出てきや女房じ、そのあとで、うがい手洗にその身を浄め、今宵うちの人に怪我のないよう南無妙法蓮華経、清正公菩薩、ありやりやんりゆうとの掛け声で勇みゆく、ほんにおまえはままならぬ、もしもこの子が男の子ならおまえの商売させやせぬぞえ、罪じゃもの』
うがい手洗いから清正公菩薩までを何度もくり返して唄う、誠に哀愁に溢れた唄である。

 

高座でも志ん生はほとんどお辞儀をしなかった。
何を喋るか分からない持ち演目は200以上、小噺まで入れると300に及んで、その演ずる時間は定まらない。15分のものを30分のものを10分に、気がのらなければ途中で降りてしまう。「二階ぞめき」「蛙の女郎買い」等の廓ものが絶品で、話し始めると客をまるで江戸時代の落語の世界へ誘い込んだ。志ん生以外にない独得の世界であった。

生涯借家暮。40才台半ば4子の志ん朝が生れて、名前を志ん生に変える頃まで酒を飲、博奕をうち、女郎買いをするいわゆる飲む打つ買う家計のやりくりはすべて妻のリンの内職に頼っていたのである。

 

「志ん生一代」結城昌治作の解説の中で山田洋次が書いている。

『 志ん生が始めて服を着たのは紀元2600年の祝典に参加する時だったそうである。

すでに軍部によって支配されていた政府はこのインチキな建国スローガンの下に国民を戦争に巻き込む為の大キャンペーンを展開したのである。志ん生たち寄席芸人もこの記念式典に参加する事を強制され、無理矢理買わされたぺらぺらのカーキ色の国民服というものを着てみたが、なんとも似合わないことおびただしい。しかも初めて履いた靴が痛くて仕方がない。「愛国行進曲」を唱いながらゾロゾロと歩くうちにすっかりくたびれてしまって仲間の「おれんちに寄ってちょっとナニをやるか」ナニとは博奕なのだが、志ん生はその言葉に二つ返事で数名の仲間と共に行列から抜け出してしまい、宮城前に東京中の各団体が集まって整然と隊列を組んで「天皇陛下万歳」を叫んでいる頃、博奕に負けてその国民服を巻き上げられていたというのである。まことに非国民である。カーキ色の服に軍靴を履いて宮城に向かって行進するなどという事は全く性に合わなかったのである。

それが志ん生という人の、あるいは志ん生のように芸に生きる人たちの偉さ、素晴らしさなのである。アメリカとの戦争が始まると落語界にも積極的な人が出て来て時局に便乗した軍国調落語が流行しだしたのだが、志ん生は決してそんなものはやらなかった。
彼の芸はそんな怪しげなものを受けつけなかったのである。志ん生の姿に似合うのは安物であっても着物に下駄であり、その声にふさわしいのは俗曲であり廓噺であり色であり酒なのであった 』と。

 

2018年

7月

31日

庭の花 はす つぼみから開花へ

 

 蓮の花 つぼみ。自宅に植えてから4年目。やっと一輪が咲いた。

 (7月24日のブログご参照)つぼみが開花しました。

2018年

7月

24日

柴又グランドで打上げ花火 

江戸川の河川敷で花火は打ち上げられた。観客は夏草の生い繁る堤防の坂に座って観賞するのだが、東京では例年先頭を切って行われ、規模は大きくないが見物客は多い。
今回は新葛飾橋を渡って松戸のゴルフ場内で見物した。

10年程前は数人しか見物人は居なかったが、今回は2~3百人が集まっていた。奇麗な芝生に寝ころがってのんびりと観る事が出来、川面に映る風情もあって、すこぶる楽しい場所である。

 

例年南西の太平洋からの海風が吹いて、松戸側は煙も渡ってこず、煙で花火が妨げられる事もないのだが、今年は始まって40分過ぎた8時頃から南東の風に変って、松戸側に煙が流れて、花火の塵も降って来た。あっと云う間に付近は煙に包まれたが、それでも尚、これ以上ない状況で楽しむ事が出来た。

気が付けば30年以上に亘って殆んど毎年参加している。

 


2018年

7月

23日

庭の花々

ミニトマトの花 ナス科の一年生の果実   ミニトマトの実              


         ミニトマトの実 

 木 槿 アオイ科の落葉大低木

溝 萩(ミソハギ) 禊(ミソギ)萩の意

 

   スイレン科の多年草

擬 宝 珠 (ギボシ) ユリ科の一属

女郎花(オミナエシ) オミナエシ科の多年草 秋の七草

          漢方では根を乾して利尿剤とする

2018年

7月

20日

かつての名歌手シリーズ第2回 ハンス・ホッター

ハンス・ホッター
フィッシャー・ディスカウの歌を聴いてドイツリートが好きになった。

シューベルトの「春の想い」「音楽によす」「ミューズの子」等そして「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」CDで何度聴いた事であろうか。リートはシューベルトに極まると思っていた。


以前ハンス・ホーターを爺くさい感じで好きになれなかったが、最近改めて聴いて何と印象が全く異なるのに驚いた。あの面白味のない甘くもなんともない、バスに近いバリトンの歌声がジーンと来るではないか。特にシューマンの「誰がお前を悩ますのだ」「なつかしいざわめき」「新緑」を歌うハンス・ホッターの深く低い声は歌の総てを表現するという風でもなく、内容を暗示するかの如き歌唱で若い時代に理解出来なかったのは当然であろう。


シューマンはさしたる悲愴感もなく、大ホールで歌うにふさわしないが、情感こまやか
にひっそりと歌うのがふさわしとみえる。
ホッターならではの名演である。

 

2018年

7月

03日

かつての名歌手シリーズ第1回 岡 晴夫、三橋 美智也

岡 晴夫

戦後並木路子が歌う「リンゴの歌」が爆発的に日本中に拡まった。

外地から帰国した堀田善衛は帰国した日本での革命的状況を予想していたが「リンゴの歌」が流れるのをみて「これは駄目だ」と即座に判断したと云う。徹底的に破壊された

日本国民の生活は未だ復活の目処もたゝず生活は困窮していた。
その時代に登場したのが岡晴夫であった。彼の代表歌は「憧れのハワイ航路」で

     晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音たのし 
     別れテープを笑顔で切れば 望み果てない 遥かな潮路
     あ ゝ 憧れのハワイ航路             と唄う。


当時の日本は外貨保有はほとんど無く、まして観光旅行で外国に行く為にドルを使う事

など不可能な時代でハワイ旅行等夢のまた夢であった。
多くの日本人は苦しい現実を忘れて岡晴夫の歌に一瞬を夢みたかったのである。
岡晴夫の歌は鼻にかかった甘い声で思い切り良く歌い切る特徴をもって、当時絶大な人気を誇っていた。
1950年姉に連れられて行った当時の浅草の国際劇場の演奏会には長蛇の列が出来て、人気の凄さを示しているた。出演者は岡晴夫、田端義夫そこに20才台前半の高峰秀子がピンクのワンピースを着て「銀座カンカン娘」を唄ったのを覚えている。


岡晴夫の唄う時代は紙テープが雨のように乱れ飛んで観客の亢奮はピークに達していた。
キングレコードに所属していた岡晴夫はSP盤を出す際、会社に「レコードを買う人は私の歌を聴く為だからB面も私の歌にして欲しい」と申し入れた。当時B面は人気のない歌手またはこれから売り出したい歌手をのせるのが通常で、A・B面とも同人とは他に例がなかったと云われている。
しかし、日本経済が立ち直りつゝあると共に人気も急速に失われていった。

三橋 美智也

1930年 北海道函館市生まれ 民謡歌手から歌謡界に入り「おんな船頭唄」1955年)が大ヒット、スターダムにのし上がる。翌年の「哀愁列車」が代表歌 
    " 惚れて~、惚れて~惚れていながら行く俺に
      旅をせかせるベルの音 辛いホームに来は来たが・・・・・”


戦後朝鮮戦争の軍事特需を機に復活を始めた日本経済は、地方の中卒者を「金の卵」と呼んで大都市に安い労働者として送り込んだ。
この時期から出稼ぎも増え、彼等が故郷を出て幼なじみ、恋人、家族と離れ望郷の念に駆られ、また故郷に残る人達は離れた家族を思い心配する心情を三橋美智也の歌は強く揺さぶったのである。


民謡で鍛えた喉はハイトーンのボーカルで、現代の森進一や五木ひろしのように独得の声と情感溢れるテクニックの歌唱と異なり、高音の美声とテクニックを弄さない歌い方はストレートに聴く者の心に直接訴えかける力強さを有している。
また都会的でない歌声も魅力の一つであった。
この歌声はディ・ステファーノやマリオ・デル・モナコに通ずる処があるに思う。

2018年

6月

25日

スロバキア・フィルハーモニー管弦楽団 2018 東京公演

                          サントリーホールにて


1.1949チェコ・スロバキアに創立されたスロバキア最初の国立オーケストラである。
指揮はチェコ生まれのチェコを代表するレオシュ・スワロフスキー
   本日の演奏
        1)スメタナ「わが祖国」より「モルドウ」
        2)ドボルザークのチェコ協奏曲 
          演奏は日本芸術院会員でもある堤 剛
        3)ドボルザークの交響曲第9番「新世界」より
          スメタナもドボルザークもチェコ生まれの作曲家

          で19世紀後半に活躍した。

 
2.1526年ハプスブルグ家のフェルディナントがチェコ、ハンガリーの王となり後に神聖ローマ帝国の皇帝となる。以後ドイツ人の皇帝が君臨し、その支配は第一次大戦まで暗

黒時代が続くのである。
1867年オーストリア・ハンガリー協約後第一次大戦までの間圧迫強化の為、79万人が

アメリカに逃亡している。1918年大戦終了後、チェコ・スロバキアの独立宣言あり、長く続いたハプスブルグの主権は排除される事となった。

1933年ナチス台頭により独立は犯され、政府はロンドンに亡命、1945年4月ファシズ

ムからの解放されるが、今度はソヴィエトの圧力のもと1990年まで苦しむ事になるの

であう。

 

3.4スメタナもドボルザークもハプスブルグの支配のもと呻吟した時代に生きた事を除いて考ることは出来ない。
独立と自由を渇望したチェコ・スロバキアの人々にとって彼等の作る音楽は民族を団結

させる上でも大いなる力となった事であろう。

 

4.演奏会は「モルダウ」が始まるやいなや民族の希望やその思いが横溢し、聞く聴衆
を魅了した。そして「新世界」である。分かりやすく又民族色豊かな旋律はチェコの
指揮者、演奏家達によって、彼等でしか奏でられない音色で聴衆を大いに盛り上げた。



2018年

6月

20日

銀座ハヤシ画廊で土井 豊展みる

メルヘン的小品ばかりの展示である。

土井氏は元中央区の教員であり、関係者からのお祝いの花が飾られていた。

葛飾区の美術会会員である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真下 右 土井氏

    左 ハヤシ画廊 林 正道氏

2018年

6月

20日

鳩居堂にて26回 国際架橋書会 選抜展みる

2018年

6月

20日

銀座ギャラリー あづま にて 小野寺正光展みる

展示の大半は「矢切の渡し」でその他数点は花が展示されていた。

小野寺氏は葛飾区美術会会員である。

2018年

6月

19日

銀座 和光 6階 で福田千恵展みる

                             福田千恵さんは葛飾の人で芸術院会員である。

                             今回の作品群は花を中心として、一部人物と

                             いう構成で花の美しさは流石である。

2018年

6月

19日

国立新美術館でルーブル美術館展みる

目玉作品となるヴェロネーゼの「美しきナーニ」を始めとして110点の展示である。
アングル、ボッティチェリ、レンブラント、ベラスケスも1点でづつあったが、いづれ
も精彩を欠いていて、工房で作られたのではと疑問を持った。

さてベラスケスの肖像画は工房で作られたものであるが、ベラスケスの特徴ある色彩の調和とも云うべき、その作品の肖像画の人物を描く範疇を超えるような色彩の美しさは展示作品には見えない。
レンブラントの絵に表わされる絵画を通じてその人物の人生の苦しさ等がにじみ出ていて、それがレンブラントの魅力となっているが、展示された聖母子親子像には見るものを捉えて話さない雰囲気を感ずる事が出来なかった。

 

かって小学生の頃日本に始めて来たルーブル展は東京国立博物館を5列で取り巻き、5時間並んでの入場だった。中でもルーベンスの「王女メディア」の大作に圧倒された。

ギリシャのイオールコスの王子イアーソーンは伯父に簒奪された王位の返還の条件として黒海の地コルキスから「黄金の羊皮」を奪ってくることを要求される。
イアーソーンはコルキスに赴き、コルキス王女メディアの愛の協力もと「金の羊皮」の奪取に成功。メディアを連れてコルキス脱出を図る。船で逃亡を図るイアーソーン、メディアを父王が船で追うがそれを阻止せんとしたメディアは同行した弟をバラバラに切り刻んで海に投げ、これを拾う父王の手間どる間に逃げるのである。
イアーソーンは勝気で嫉妬深いメディアに嫌気がさして裏切るのだが、その復讐の為にメディアはイアーソーンとの間の子供を殺害するのである。
ルーベンスはそれを200号(?)程の絵に描いている。メディアが今まさに子供を短刀をもって殺害せんとする場面である。

そのあまりの迫力と美しさにしばし呆然として絵の前にたゝずんでいた事を今更のように思い出す。小学生ながら、その物語を何かで調べた記憶が残っているのだ。


またオランダの国立美術館でみたレンブラントの「夜警」での感激は今回にはなかった。

2018年

6月

15日

庭の花々

  未 央 柳  

  アガパンサス ユリ科の一属名 アフリカに4種分布する多年草

  キクイモ キク科の多年草

  ハ  ス ハス科の多年生水草

  半 夏 生 ドクダミ科の多年草

  サ ル ビ ア シソ科 サルビア属の総称 低木性の多年草

2018年

6月

14日

私の好きな歌手 その8. マヘリヤ・ジャクソン

9.マヘリア・ジャクソン
マヘリアを始めて知ったのは映画「ニューポート58」(真昼の世の夢)を観てから

だった。
ジャズに全く関心がなかったが映画の中でチコ・ハミルトンやアニタ・オディを聴いて

いるうちに次第に馴染んできた。トリに出てきたのがマヘリアで「こんなに拍手されると、まるでスターになった気分です」と語り、観客の笑いを誘った。
野外に作られた仮設ステージで「夕べの祈り」から唄い始めると、その圧倒的な歌声と

深い音色は観客の魂を揺さぶる素晴らしいもので、黒人独得の微妙な節まわしは、日本

民謡をも思わせたて、たちまち私もその田舎の太ったおばさん風のマヘリアの虜になっ

てしまったのである。
マヘリアは「ゴスペルは希望の歌です。人々はゴスペルを歌うことによって哀しみや苦

しみを癒すことが出来ます」と語っている。彼女はナイトクラブの舞台やTVのお笑い番組には一切出る事はなかった。

2018年

6月

10日

6月10日 国会前大行動

戦争させない、9条壊すな、総がかり行動実行委員会主催、9条の会外21団体が共同して雨の中2万7千人の人々が集った。

政党も立憲民主党福山哲郎幹事長、共産党小池書記局長、社民党吉田党首が登壇し、決意表明は10数人の各団体の代表が立ち、各人が安倍政権の無法振りを生々しく語った。

  集会の感想は
1.昔は多かった労働組合組織の参加が少なくなったこと。
2.若者の参加が少ない事。
3.集会で必ず繰り返される政治的に方向付けに誘導するようなシュプレヒコール
  には参加する個人、個人の意志を尊重する観点から見ると何となく違和感を覚え
  るのは私だけであろうか。

私達は家族等6名で参加した。

2018年

6月

04日

庭の花々

紫 陽 花


 

柏葉紫陽花

ツルバキヤ

ツ ツ ジ

       ソ バ ナ

ケムリソウ

2018年

6月

03日

私の好きな歌手 その7. エリザベート・シュワルツコップ

6. エリザベート・シュワルツコップ
我家に8枚のCDがある。シュワルツコップは1915年12月にポーランドのヤロット
に生れた。ウィーン国立オペラの先輩エリザベート・シューマン(1927~49年録
音のシューベルト歌曲集のCDがある)がいて2人のエリザベートと呼ばれた。
曲に対して理性的な態度と洗練性は他の歌手と異なり、また情緒ににやゝ溺れがち
になる主観的な歌唱と一線をかくす。緻密で繊細な歌いぶりからリートの現代的歌
唱はフィッシャー・ディスカウとシュワルツコップによって完成したと言える。

モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人や同じく「コシ・ファン・トウッテ」
のフィオルディリージ等のドイツオペラは一つの典型と見ることが出来る。
伴奏者のジェラルド・ムーアはこう語っている。「あんなにうっとりさせるような
容姿をもち、同時にあんなに美しく歌える人がいるなんて、私には全く不公平なこ
とに思える。しかし彼女の容姿は神の賜物だが歌手としての名声はひたすらな努力に
よって得られたものだ」と。

2018年

5月

26日

「背教者ユリアヌス」辻 邦生著(中公文庫全4巻)

コンスタンティヌス帝がローマからコンスタンテノポリスに遷都する大事業の中心となって働いた腹違いの弟ユリウス・コンスタンティウスはコンスタンティヌスが先帝リキリウスやマグネンティウスを弑逆した事を悪として認めながら協力して来た。
皇帝が野心の為に妻も子供も殺す、友人を裏切れば親も売り飛ばす、彼のまわりは血の海だ。野心と冷血と忘恩に憑かれた怪物なのだと語る。皇帝は先妻ミネルヴァとの間に生れたクリスプスの政治、軍事の才能を恐れてこれを殺害、6人の子をなした後妻ファウスタ
を義理の子クリスプスとの間を疑って殺害しており、コンスタンティヌスの治世25年の後半はまさにユリウスの述懐通りなのである。

 

ディオクレティアヌス帝による数度に亘るキリスト教徒迫害令以来の弾圧政策からコンスタンティヌス帝によるキリスト教解禁に続く半ば国教化政策によって、宮廷内は徐々にキリスト教徒に席巻されて行く。大帝の死去に立ち会ったニコメディアの司教エウセビウスはユリウス一派が反キリスト教であり後継者の権利者であることから、帝亡きあとキリスト教の公認が取り消される事への恐れからコンスタンティヌス帝の死亡前に洗礼を受けたとし、大帝の言葉として長男コンスタンティヌス2世をガリアにコンスタンテウスをティグリス源流にコンスタンスをイタリアに各統治とした。


エウセビウスは大帝の死は病死でなくユリウスによる毒殺であるとの噂を流し、ユリウス一族は皆殺しとなるがガルス、ユリアヌスの異母兄弟は幸運にも殺害を免れる。

ローマ帝国西部を担当したコンスタンティヌス2世はローマ帝国中央部を担当した3男コンスタンスに殺され、更にガリアで叛乱が起こりコンスタンスも殺害される。

 

ひとり皇帝となった次男コンスタンティウスは後釜としてガリア出身の将軍ヴェトラニオンを副帝に任命したが、実利的で猜疑心の強い彼は謀判の罪を着せてヴェトラニオン父子を殺害する。ガリア出身の副帝殺害によってガリアの皇帝への反感は強まり、これを抑える為に、半ば幽閉していた従兄弟ガルスを呼び寄せ、お目付役として皇帝の妹コンスタンティアをガルスと結婚させてガリアに副帝として送る。コンスタンティア死去に伴って皇帝はガルスを殺害。残る唯一人の従兄弟ユリアヌスを後釜として送るのである。

 

幽閉されて学問に励んでいたユリアヌスは350人程の少人数の軍隊を宛がわれて赴任するが、予想をこえて軍事的才能発揮し、行政的手腕も優れてローマ帝国中・西部を安定させる。

これに警戒心を抱いたコンスタンティヌスはガリアから大量の軍隊をコンスタンティノポリスに派遣するように命令を出すが、これにガリア人は激しく反発し、ついにユリアヌスを皇帝に担いでコンスタンティウス帝と対決する事となる。

ガリアを出発し、コンスタンティノポリスを目指し進軍する軍事的勢力はコンスタンティウスの軍の10分1にみたなかったがユリアヌスの進軍の途中でコンスタンティウスは突然病死。元老院の承認を得てユリアヌスは新皇帝となる。

 

税金の大幅縮少人事の改革など積極的政策を実行していくが「キリスト教容認令」も出して、キリスト教の手厚い援助や従来の国教化を廃し、旧来のローマ神教の復活を図るが深く浸透したキリスト教はこれに頑強に抵抗する。

 

やがてユリアヌスはペルシャとの戦争に出陣するが、ペルシャ軍兵士の放った投鑓で志半ばで若くして死亡する。キリスト教徒はキリスト教を擁護し、国教化したコンスタンティヌスを大帝と呼び、キリスト教徒でもないユリアヌスをキリスト教の特権を剥奪したとして背教者と呼ぶのである。

 

辻邦生は各々の人物をコンスタンティウスをギョロッとした灰色の目と表現し、大司教エウスビウスを浅黒い、ぬるりとした感じの顔とし、親友ゾナスを金髪のくちゃくちゃの髪とし、ユリアヌスを顔をガクガクと動かして登場する度に形容詞として使って読者に一定のイメージを与えようとしており、安易な方法である。

 

ギボンのローマ帝国衰亡史にはコンスタンティヌス帝についてこう述べている。

「コンスタンティヌス帝と息子達にとって多事な時代であり、帝国の衰亡を早めた。

コンスタンテノポリスに本拠地を定めたのは強力な自然の要害と商業交易の利点、気候

は温暖、地味は肥え、港は広濶とその選択の正しさを認めあっているが新都の為にギリシャ、ローマや他の都市から悉く財宝、装飾品を召し上げ、納税者市民の税負担はルイ15世時代の4倍に達した」。


巨大化したローマ帝国は延びた防衛線を守る為にその軍隊を属州から報酬を支払って確
保、やがて将軍も属州から大半が選ばれる事となり財政は逼迫、また「帝の晩年の14年は宮殿に貯蓄されていた夥しい財宝は湯水の如く乱費、その貪欲と浪費は止まる事を知らなかった。統一されたものはすべて分割、傑れたものは一切弱体化、従順なものばかり誤信した。小心、怯懦の政策が大帝の全制度を貫いていた」。

 

また「キリスト教公認は帝の最大重要事であった。40歳頃まで伝統的宗教の信奉者であったが、その後カトリック教会と結んだ連携関係は一つに利害観念に基づき帝の野望達成を助けていたにすぎないとし、信仰集団の結束的精神は民衆指導者にとり、十分大きな力となりうるとし忠実な支持者達と増大される目的である」と手厚く保護されたキリスト教は従来の伝統的宗教を抑圧し、またキリスト教内部で教義をめぐって激しい内部抗争を繰り広げた。


肥大した官僚と軍隊への支出も相俟って財政危機は深刻さを増し、属州出身の軍隊も統
制が難しくなる等、西ローマ帝国の衰亡を早めたのである。ユリアヌスは税金を従来の3分の1に減らし、キリスト教への特別扱いを廃止してローマ帝国の建て直しを図ったが若くして戦場で倒れたのである。

 

2018年

5月

23日

私の好きな歌手 その6. フェリッチョ・タリアヴィーニ (テノール歌手)

その7.フェリチョ・タリアヴィーニ

1913年8月生れ。1942年「セヴィリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵でデビュ
ー、ベニャミーノ・ジーリの後継者と目されたベルカントのスペシャリストである。
無類の親日家であり、1954年5月来日、翌年10月愛妻で歌手のピア・タッシナーリ
を連れて来日2人だけの舞台で共演している。
1959年に来日し、「愛の妙薬」ネモリーノが歌う「人知れぬ涙」を歌っている。
軽妙なベルカントの甘い歌声で「愛の妙薬」のネモリーノ役はまさに嵌り役で、彼
以外にこの役は考えられないほどである。これでもかと美声のかぎりを尽して歌う
その歌はイタリアオペラそのものと思える。

2018年

5月

19日

オナガ くる

オナガが庭のシャラの木に巣を作り

始めた。残念ながら巣作りは失敗し

巣だけが残った。

2018年

5月

15日

松本竣介展、良寛展、旧古河庭園 を見る

松本 竣介展

新聞に載った小さな案内を見て、文京区本駒込5丁目の「ときの忘れ物」で展示され
た松本竣介のドローイング約10点をみる。皆小品ばかり。
10年程前まではA4版で120万程であったがその半分で、内容も薄かったが150万~
200万の値がついていた。30代半ばで夭折し、その後高い評価を受けるようになり、
最近になって人気も高まり、価格も高騰してきたのであろう。
代表作に「立てる像」がある。

こころのふるさと良寛展みる

永青文庫で4月21日~7月11日迄 前・後半に分けて展示されている。


良寛は18歳の時突然出奔し曹洞宗光照寺の禅僧となり4年間修行。その後国仙和尚と出会い倉敷市玉島の円通寺で修行に入る。30歳頃に住職の隠居所である庵室を与えられ、諸国行脚の旅に出る。39歳でふるさと越後に帰郷、翌年燕市国上山の中腹にある五合庵に住庵。こゝに20年孤棲。托鉢に出て近所の人々と交流する。しばらくして友人や親戚が援助を始め、書道に力を入れるようになる。


五合庵時代に熱心に懐素の「自叙帳」を学んだ。また小野道風の「秋萩帖」も臨書
している。
1816年59歳の時乙子神社草庵に移る。ここに10年間住庵。書や和歌、俳諧、漢詩などの多彩な作品が生れてくる。この時代懐素の「千字文」を学んで、更に孫過庭の書も学び一段と品格の高い作品を作るようになる。


晩年に至って、その線は一層細くなり、幽玄の境地を示すようになる。宗教的修行と絶え間ない学習、世俗の欲と一切隔離した中で、何ものにもとらわれない自由で伸びやかなでかつ品格を備えたこれ等作品を生み出したのであろう。

 

永青文庫は足の便も悪いこともあってか、入場者は疎らであって老人(男)ばかりの
入場者であったが、思う存分観賞することが出来たのは有難い事であった。

旧古河庭園みる

バラで有名だが予想より早くバラの盛季が過ぎていたが、70歳以上の入場料が70
円である事もあってか老人の入場者が多かった。

2018年

5月

04日

私の好きな歌手 その5. 鮫島 有美子 

日本の唱歌、歌曲については音羽ゆりかご会の会唱等で音楽的に質が低いと長い間評価

されてきた。その中で中沢桂や倍賞千恵子がやっと孤塁を守っている状況であった。
何とかしっかりとした日本歌曲が聞きたいものだと思っていたところ1982年2月たまたまレコード店で購入したのが鮫島有美子の「日本のうた」だった。

それは従来のクラッシック歌手の発声や発音のバタ臭さが全くない、自然でしかも格調の高い歌声に魅了された。

 

生れて始めてのファンクラブなるものに入会。会員名簿の中に元首相の小渕恵三の名があり、住所は衆議院会館であった。会員は500人程いたであろうが鮫島有美子から全員に年賀状と暑中見舞が律儀に送られてきた。会報も年に4~5回出されていた。

 

金泥の書と佛画を描く等作品をつくるときには100枚程所有する落語と彼女のCDをいつもかけていたのである。


鮫島有美子は1952年生まれ、75年オテロのデズデモナでデビュー。82年にドイツ ウル
ム劇場の専属歌手となり85年「日本のうた」でレコードデビュー、その後の活躍は目を見張るものがある。


以後日本の歌シリーズ、日本の抒情歌、イギリス民謡、アメリカ、ロシア民謡、アメリカンラブソング、ミュージカルナンバー、シャンソン、映画音楽、シューベルト、ブラームス、マーラー、リスト、モーツアルトの各歌曲集、モーツアルトアリア集等多岐に亘って50枚に及ぶCDを世に出した。

 

中でも私が気に入っているのは「日本の歌」第2集の中の「お菓子と娘」「浅き春に寄せて」「曼珠沙華」「さくら横ちょう」「水色のワルツ」が出色である。

又映画音楽の中の ” 会議は踊る ” の「たゞ一度だけ」 ” 歎きの天使 ” の「また恋したのよ」 ” リリー・マルレーン ” の各ドイツ語で歌う3曲である。

 

舞台は92年に「夕鶴」のつう、” 漂泊者のアリア ” で砂原美智子役で「ある晴れた日に」を歌い、メリーウイドゥで主役のハンナ・グラヴァリー夫人がある。

芝居では95年「オセロ」のデズデモナ役で平幹二郎、村井国夫と共演している。

 

東京で催されたリサイタル、舞台はほとんど足を運んでいるが日本語、英語、ドイツ語、フランス語の美しさは云うまでもなく、語りの日本語も美しい。

2018年

4月

29日

庭の花々

 酢漿草(カタバミ) カタバミ科の多年草

 

 紫 蘭 (シラン) シラン科の多年草

 

 姫 女 菀 (ヒメジョオン)キク科の多年草 

          同属の春紫苑(ハルジオン)と間違えられることが多い。

 

  露 草 (ツユクサ) ツユクサ科の一年草 

 

     泡 盛 升 麻 (アワモリショウマ)ユキノシタ科の多年草

2018年

4月

28日

韓国・北朝鮮 両首脳が板門店宣言

韓国と北朝鮮による南北首脳会談が行われ、朝鮮半島の「完全な非核化」と「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」に署名した。
非核化の実現に向けけた具体化は米朝会談に持ち込まれたが、歴史的な出来事であったことに変りはない。

 

世界的に注目されたこの会談はトランプ政権を始めとして総じて歓迎されたが、日本を始めとして懐疑の表明もみられた。会談は入念に考えられて進行し、両首脳の熱意が良く表れたもので、特に叔父や側近を次々と処刑し兄も暗殺した冷酷な独裁者と世界中から見られていた金委員長が、年長を立てる、相手の話を良く聞き交渉術にも長けて政治的能力も充分持ち合わせた頭の良い今後米国とも交渉の相手になりうる人物である事を世界に知らしめた。冷酷な独裁者の反面、気配りと政治戦略に長けて、かつ懐の深さを示した。


日本の保守的論者の中には「この宣言は欺瞞であり騙されてはいけない、これまでさんざん裏切られて来た。中距離ミサイルも放棄しなければ日本にとって何の意味もない」との意見も出されている。

しかし従来幾度となく約束を破ってきた北朝鮮であることは確かであるが、アメリカの言
いがかりにより突然のイラク全面攻撃や、9.11によるイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢
軸と呼び、テロ支援国家と認定し、圧倒的な軍事力を背景に、意に反する国を攻撃するアメリカに、核を持ちICBMを早く装備して対処しようとした北朝鮮のみを非難することは出来ない。

その為に自国の国民の生活を始めすべてを犠牲にして核武装に走って時間を稼ぎ、やっと実のある交渉がアメリカと出来ると踏んでの方向転換であろう。

 

言うまでもなく1.経済制裁によって自国の経済が瀬戸際に来ている事。
2.アメリカの国力が低下し世界の警察官の役割を返上しつゝある事。
3.韓国の文在寅大統領に替わった事。等が大いに幸した事であろう。

これらの事を踏まえての金委員長の戦略的方針のしたたかさが見えてくる。
北朝鮮の後戻り出来ない現状の中での本気度を表わしているのは明らかで、今回の宣言の意味する事は極めて大きいとみるべきであり、朝鮮半島の非核化が現実味を帯びてきたとみる。


一方の安倍政権は一貫して圧力一辺倒できたが、外国から経済的圧力を受けた戦前の日本が戦争に突入したのを忘れたのであろうか。

北朝鮮の核問題を国難として、憲法改定の絶好のチャンスとしてきたが、これが大きく
崩れてさぞかし残念なことであろう。日本が朝鮮半島問題から外されて蚊帳の外に置かれ強いてはアジアからの孤立もしかねない状況だ。

 

2018年

4月

27日

松田宏子さんから本戴く。

松田宏子さんから本戴く。(小学生時代の思い出)

近所にお住まいの松田さんから母親千代さんの書いた本人の思い出を綴った文章を松田さん姉妹が本にしたものだ。


千代さんの父親は愛知県小坂井の岩田長左衛門さんの次男として生まれ、東京で一旗あげるべく上京、金町に居を構えた岩田長作さんである。妻のふじさんとの間に長女春子さん、次女房子さん、三女千代さん、四女喜代美さんの四人の娘達である。

石田邸は金町にある数少ないお屋敷の数少ない一軒で敷地は600坪、築地塀に囲まれ、見事な日本庭園が設けられて、中に形の良い百日紅の大きな木があった。敷地内に長作さん
隠居用に建てられた木造2階建ての洒落た建物があったが、戦中、戦後の数年は二女の福谷房子さん一家4人が戦火を逃れて疎開して来ていた。

 

私が小学入学1、2年の頃、房子さんの長男幸一さんと親しくなって福谷家に出入りするようになった。母親の房子さんは小柄で、色白、細面の美しい人で遊びに行くと、白いポットで紅茶を淹れて呉れた。当時金町中で子供にそんな応対をして呉れる人も、白いポットも紅茶もお目に掛かる事がない時代だあったのである。それだけに私にとって強い印象が残っている。

 

長女の恵子さんは私の姉の同級生で3才上、色浅黒く、親分肌で子分を引き連れて幅をきかす頭の良い生徒であった。それだけに腺病質で頭もあまり良くない消極的な弟が歯痒いらしく、心配もしていた。
私が入学したのは昭和22年で、校庭に日章旗を掲げる台や奉安殿の壊した跡が瓦礫として残っていた。坊ちゃん刈で半ズボン、靴を履いてベルトを着けていた幸一さんと、母親の着物の細帯をベルトと替わりに、下駄を履き、父親の戦地帰りの背嚢を使用していた大半の男子生徒と、もんぺと上っ張りと下駄が定番であった女生徒との差はあまりにも大きく、幸一さんは当然の如く他の生徒から完全に遊離していて阻害されたのは止むを得ない事であった。

友達もいなかったのを見て、子供ながら義憤を感じて友達としては面白くなかったが、親しくなったのである。子供でもこの子にはメンコ、ビー玉、ベーゴマ等を持ち出すのは控えたのは学校で禁じられていたからでもある。福谷さんの二階には壁ぎわに厖大なクラッシックを中心として美空ひばりまで多岐に亘るSPレコードが父親のコレクションとしてあり圧倒された。

 

2年程でクラス替えもあり又福谷家の引越しもあって疎遠となり、交流は全く途絶えて
しまった。恵子さんはその後東大医学部に進み医者になったが、幸一さんのその後は親戚の人達とも付き合いがなく、消息は不明との事であった。

 

さて三女の千代さんであるが、昭和3年境野七五三男さんと結婚。岩田長左衛門さんの妹疋田初さんの願いを聞きいれ、廃家再興なり境野、岩田から疋田姓を名乗る事となる。
新居は岩田邸近くに木造平屋建の家を構えて疋田七五三男と墨書した表札を90年に亘って一度も書き替える事なく掲げ続けた。当時は下見板を張った木造平屋が大半で、抜けた節穴がコウモリの巣となって夕方になるとこゝから飛び出した蝙蝠が空を乱舞していた。

 

千代さん夫妻には宏子さん、和子さんの二人の娘がいて宏子さんは旧岩田邸近くに住んでいる。30年程前に岩田邸も等価交換のマンションに変って味気なくなって仕舞った。

戦時立法であった相続税はそのまゝ続行され、金町に数軒あったお屋敷も相続税の為にほとんど無くなって、歴史を感じさせる建物もなくなるのは残念である。何とかならないものであろうか。

千代さんは平成29年3月20日98歳で天寿を全うした。