和田 大諷

東京都 葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作。

個展は都内、ひたちなか、米国のロスアンゼルス、ロシアのサンクトペテルブルグで開催、20数回に及ぶ。

過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

2022年鳩居堂「和田 大諷 金泥の世界」は終了いたしました。

本来2021年の個展(2021年4月)が新型コロナウィルス感染防止の為延期となり1年遅れて開催となったものです。2022年 4月 5日(火)~

      4月 10日(日)

 

   

著 書

 2014年2月

  「大諷の映画狂時代」

  2018年1月「大諷のへそ曲り

            読書日記」

  2019年7月  「大諷の観音の道」

  2020年11月  「大諷の無辺楽事」

  2021年11月「続 ・大諷の無辺楽事

         ボクシング編」

  2022年 目下制作中 8,9月頃予定

          和田大諷「金泥の世界 」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

2022年

7月

29日

「期待と回想」 鶴見俊輔   2022年7月23日

「期待と回想」  鶴見俊輔

  

1.「思想の科学」「べ平連」での活動や同時代の知識人について語っている。

鶴見和子

「思想の科学」同人として武谷三男、都留重人、武田泰淳はマルクス主義に理解をもつものとして、ある程度の理解を示すものとして丸山眞男、距離を保っていたのは鶴見俊輔、渡辺慧であった。同人になるについて鶴見は共産党に異をたてることになるから参加したくないとの見解に対してマルクス主義者の武谷は「共産党に引きまわされない団体があってもいいじゃないか」と、云い、後に渡辺が宮城音弥を連れてきて、反マルクスの論陣を張って武谷等と対決するが、武谷等はこれも認める鶴見俊輔は若干23歳の若さで「思想の科学」の責任者となったが、武谷の示したこの考えが50年続いた理由の一つであろう。

鶴見は「姉和子が人間関係を全部つくり、その据え膳を私が食べたもの」と語っている。

 

2.加太こうじについても「加太さんは戦前からの左翼なんです。戦後『赤旗日曜版』をつくった一人なんですよ。加太さんは共産党本部に行って、一度としてインテリとして扱われたことがないとね。加太さんは小学校のころから紙芝居の絵を描き、卒業するとそのまゝ紙芝居の作家になったでしょ。共産党本部は、彼の知識人としての実力をちゃんと見ることができなかった。ところが「思想の科学」に来ると、どんな議論を出してもきちんとやる。そういってました。加太さんは公式のマルクス主義者なんですよ。しかし「思想の科学」の編集、刊行に対して責任をもち、糖尿病で倒れるまで長くつゞけました。80年に発行人になり、たいへんな額の金銭を負担したんです。あるときから大学風じゃなくなるのですよ。つまり加太さんがリーダーになるような会になったんです。」と共産党の権威主義に対しての批判も語っている。

 

3.このなかで藤田省三、桑原武夫、竹内寛子、林達夫、小田実、中沢新一、加藤周一、今西錦司等多くの言論人等が語られており、辻元清美が好き、彼女はアホだからともある。

また鶴見は葛飾の金町に一時住んでおりその家族の一歳の女の子と一緒に暮らしていたとの記述もある。

加太こうじについては長く金町に居住していた。金町小学校のPTAの文化講演会に当時既に有名人であった加太こうじが講師として呼ばれ、加太こうじは「ナチスの国会焼き討ち事件」とそれにまつわる宗教の欺瞞性について語り、校長や地元神社の宮司であるPTA会長、PTA役員たちを狼狽させている。

 

2022年

7月

27日

「失われた時を求めて」プルースト     2022年7月13日

「失われた時を求めて」  プルースト 

1.「失われた時を求めて」は20世紀を代表する作品で、世界の文学に絶大な影響を与えた。日本の文学者でこの作品に影響を受けない作家はいないと云える。

この大作の冒頭に「長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった。ときには蠟燭を消すとたちまち目がふさがり ”あゝ眠るんだな” と考える暇さえないこともあった。しかし30分程すると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる」という眠っているか起きているか不安定な意識の描写から始まる。丁度フロイトが「夢の解釈」を出版して直ぐの作品である。

「母が召使いに命じて熱い紅茶とプチット・マドレーヌを持ってこさせ、そのマドレーヌのひとかけらを紅茶と共に口に含んだ途端に、ある快感に襲われ、満たされた気持ちになる」というあまりに有名な一節が出てくる。無意志的な記憶の言語化が始めてプルーストによってなされた。

 

さて、第一章の「スワン家の方へ」でコンプレーのまわりには散歩の為の二つの方向があって、一方はスワン家の前を通る為に、スワン家の方と呼ばれ、他の一方はゲルマント家の屋敷の方である。スワンは裕福なユダヤ人で演劇や文学、絵画などにも造詣の深い教養人でゲルマント家のサロンにも出入りが許されていたが、高級娼婦(ココット)だったオデットと結婚した為にゲルマント公爵夫人から出入りを拒否されるようになる。

地方の古くからの領主ゲルマント家はその歴史もある事から特別な存在とみられており、ゲルマント公爵夫人のサロンに出入りする事が出来るのは貴族の中でもとりわけ選ばれた人達のみで、社会的身分、地位があるとみられていた。ここには学者や芸術家も招待されて一大文化の殿堂となっていた。とりわけゲルマント家の人々と個人的に親しいとなると又別のステータスとみられた。公爵家の内輪の晩餐会に参加するとなれば、上級階級の心臓部に入り込む事となる。一方ブルジョワのヴェルディラン夫人のサロンでは貴族社会には近づけない裕福な人達が集まり、ヴェルディラン夫人は貴族を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑する振りをしていたが、やがて夫の死後にゲルマント大公と結婚して、貴族に成り上がるのである。

巧みに変身していくのだ。これぞ ”スノッブ” そのものである。

 

時は晋仏戦争で、仏が敗北し、またユダヤ人が多くフランス内に入り込んできた時代であるり「ドレフィス事件」が起こり、ユダヤ人の軍人ドレフィスがスパイとして摘発され孤島に流刑となる。

この事件をめぐって、貴族階級を中心とした保守系が反ドレフィス派となり、親ドレフィス派と国を二分する事となる。親ドレフィスのスワンはこれで決定的に上流階級から排除されていく。夫人のオデットは反ドレフィスの旗幟を鮮明として上流階級に受け入れられてゆき、スワンとの間に亀裂が入って行く。

 

2.この作品のテーマの一つにスノビスムがある。

貴族社会の中でのスノビスムが執拗に語られる。貴族社会の多くの人々が世評の定まった物事をのみ自分の評価とし、自分達がゲルマント公爵夫人のサロンに入った事を他人に知られたい、他人の目に映る自分の姿こそが何よりも彼らに満足を与えるのである。

この作品はそのほとんど総ての人がスノビスムに侵されているのだ。

プルーストはこのような見栄の張り合いで滑稽なスノビスムに侵された人達をこれでもかと熱心に描いていたが、今日に至るも人間誰もが持っている普遍的な法則とも云うべき性格であるからであろう。私自らを顧みても、自分の主体的判断そのものゝ大半が他者に支配されていると思わされる事が実に多い。

 

ここに描きだされたスノップ達を笑う事は出来ないし、プルースト自身がスノップであったのかも知れない。

 

3.ドレフィス事件

1894年にフランス中を揺るがせたもので、スパイに仕立て上げられたドレフィス大尉が位階を剥奪されて、南米ギアナの悪魔島に流刑になり、フランス中にユダヤ人〇売国奴の大合唱が起こる。1898年にゾラが「われ弾劾す」の一文を書いて公然と軍部を中心とした陰謀を糾弾。国論を支持派、反ドレフィス派に二分したが、無罪確定したのは1906年の事である。ユダヤ人達が必ずしもドレフィス支持派となったとは言い難く、自分達の身を守るために自分達よりも当時下層とされていたユダヤ人達を攻撃する事態も多くあったのである。

 

4.同性愛

当時同性愛はタブーで、最も罪深い事とされていた。典型的な同性愛者として、ゲルマント公爵夫人オリアーヌの叔父シャルリス男爵が登場しているが、彼は金もあり、身分も高く、高い教養もあり社交界で絶大な権威を誇っていた。ゲルマン家のサロンの常連であり美男ではあるが、酷薄な性格のヴァイオリニストのモレルを愛人としていた。そのモレルにも捨てられて尚快楽を求めて、自分の身体をベットの縛り付けさせて鞭で若い男に打たせて血まみれになりながら快楽に浸る老いたシャルリス。しかしまた晋仏戦争に突入すると国を挙げて戦争に協力しドイツ憎しが、フランス中を覆う中で、この風潮を嘲笑し嫌悪する知的な人物でもある。同性愛者はゲルマント公爵も夫人の甥のサロ・ルーも同じ性癖を有しており、マルセルの愛人アルベルチーヌも同じである。

 

5.嘘

アルベルチーヌとパリのアパートで同棲を始めたマルセルは彼女の嘘に悩まされる。また彼女の同性愛にも疑いを持ち嫉妬に苦しむ。そして彼女を部屋に閉じ込めるのだ。

彼は彼女と別れる決意をするが、アルベルチーヌはある日突然置き手紙をして家を出る。彼女は叔母の家に身を寄せていたが落胆して命を落とす。その後彼女の素行を知ったマルセルはすでに亡くなった彼女の同性愛に苦しめられる。

 

プルーストはアルベルチーヌを特別な嘘つきとして描いてはいない。善意である事の為にも、日常生活を円滑進める為にも嘘をつくものなのだと思い知らされる。プルーストは人間を描いているのだ。

 

6.見出された時

マルセルはこれらの経験を踏まえて、また記憶の持つ役割も見定めて、文学に取り組む決意をする。プルーストは子供の頃の柔らかい感覚や等しく誰もが持っている夢や無意識下の出来事の思い出を描き出して壮大な全体小説を作り出したのである。

 

日本の文学者で最もプルーストの影響を受けたと思われる作家に中村真一郎がいる。

5部作の第一部「花の影の下に」を1944年の春に起稿し、第二部「シオンの娘達」を1945年の夏から翌年にわたって書きあげている。

主人公の栄が父の死に「永い間の苦しい不安から今こそ決定的に開放されたという利己的な喜びに興奮する」場面、また「想い出と云うものはそれが自発的にこちらの心の闇の底に或る神秘的な動機によって眼覚めたのでなければ何らの感慨を呼び起こさない」等はプルーストに強い影響を受けている事を明らかに示している。

中村は既に戦時中1942年に「マチネ・ポエティク」を結成して(加藤周一、福永武彦等と)当時からこの作品の腹案も充分に練っていたものであろう。

 

2022年

7月

03日

作品紹介 木彫り、絵画      2022年7月3日

牡丹と燕子花

詠物の詩  口ずさむ  牡丹哉      蕪村  作 

 

大津絵 鬼の念佛

近江国大津の追分 三井寺辺で生まれた民衆絵画 元禄の頃から戯画風のものが登場

鬼の念佛、藤娘、瓢箪鯰等がある。

 

兜と具足

 

牡 丹

我庭の牡丹は毎年真紅、桃、黄色、白 と120本程  大輪の花をつける。これは2021年4月に咲いた桃色の牡丹である。

2022年

7月

03日

幻の『陶貨』について     2022年7月3日

一銭陶貨 裏 (未完成品)

一銭陶貨 表(未完成品)


2022年7月3日の日経の春秋欄に、日本銀行や造幣局の博物館で陶貨の展示を見たことがあるとして、太平洋戦争末期の1945年につくられたという。

様々な金属が軍需品にあてられてしまった故である。一般には流通せず、大半が粉砕されたそうだ。とある。

 

実は50年程前になろうか、京都に旅行した際にある骨董屋の店頭でこれを見つけて購入している。千円程の値がついていたと思う。年号は入っていないが、昭和20年に試作された1銭陶貨であった。店主の説明では京都で製造され、総て粉砕されたが一部残ったものであると。調べてみると、この一銭陶貨は1945年(昭和20年)に佐賀県有田町・協和新興器有限会社及び京都、瀬戸にて製造されたもので、直径15㎜、その品質は三間坂粘土60%、泉山石5%、赤目粘土⒖%、その他10%である。

その他に2種類の陶貨が試作されており、同じく1945年に10銭21.9㎜、5銭18㎜ があり、いずれも未発行で破砕されている。 

2022年

7月

01日

E. H. カーの「歴史とは何か」1961年初版   2022年7月1日

E.H. カーの「歴史とは何か」 1961年初版

① 岩波新書が発行されて今日に至るまで、最も評価の高い本が 1位「歴史とは何か」で2位は丸山眞男の「日本の思想」である。

 

② E.H. カーは「歴史とは歴史家の経験である。歴史をつくるのは歴史家以外のだれでもない。歴史を書くという行為だけが歴史を作るのである」

「歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶え間ないプロセスであり、現在と過去のあいだの終りのない対話なのです」

「科学とは一方で『多様性と複雑さに向かって』、他方では『統性と単純さに向って』同時に進歩していると指摘したうえで、この二方向で矛盾して見えるプロセスこそ○の必要条件なのだ。「科学におけるあらゆる進歩とは、始めに一つと見えた生の状態からさらに論理学でいう前件と後件の大きな分化へと、そしてますます広範囲の前件が関連しているのだという認識へと私達を連えて行くものである。」

「文明の没落とかいうお話のすべてはじつのところ何を意味しているのかと云うと、昔の大学教授は家事使用人を雇っていたが、今や自分で台所に立って洗い物をしているというにすぎない」

「歴史家は勝利した諸力を前面に引き出し、敗北した諸力を後方に押しやる事によって現存の秩序に必然といった容貌を○える。」等のまことに示唆に富んだ発言を多く述べている。又ギボンの「ローマ帝国の衰亡」という重いテーマにも動じることなく、彼の自説「すなわち世界のあらゆる時代は人類の本当の富、幸福、知識をあるいはまた美徳をも増進させてきたし、これからもなお、増進させるもであるという愉快な結論」をしっかり記したのだ。進歩の崇拝はイギリスの繁栄、権力、自信が高みにあったときに絶頂に達した。そしてイギリスの文筆家や歴史家は、この崇拝のもっとも熱心な唱道者であったのです。とヨーロッパで第二次大戦まで人類の歴史は進歩の歴史であるという確信がギボンの文章にも良くみえる。

E.H. カーは歴史について実に様々な考察を行い、私達を多方面に誘う。ユーモアを交えた語り口は実に楽しく、知的興味を呼び起して尽きることがない。

 

2022年

6月

27日

映画『黒猫』1963年 ルキノ・ヴィスコンティ監督作  2022年6月23日

映画「山猫」1963年  ルキノ・ヴィスコンティ監督作品 

 

1860年シチリアに上陸したガルバルディの軍隊はシチリア王国の首都パレルモを解放し、イタリア王国が成立した。主人公はシチリアの名門ファブリッィオ・ディ・サリーナ公爵が将来を託す甥のタンクレディは解放軍に加わり、解放後はガルバルディ軍を離れて復活した王軍支配下に入り、新議会の下院議員を目指す野心家である。彼はサリーナの娘と結婚する予定であったが、平民の娘アンジェリカに夢中となる。サリーナは甥の野心の実現には娘の財産では到底足りないとして、平民あがりの貴族で俗物の娘を金の為に結婚の許可を父親に頼み込む。大貴族のサリーナは戦争中と雖も自己の行動スタイルは変える事なく一族を引き連れて別荘に出掛ける。馬車による一大行列である。非常線も何のその、世の中はどうかわっても我々の生活は何も変わらないと豪語する。

サリーナ邸に常駐する神父は人々に貴族の考え方は我々にも到底理解できないととして「私達にはどうでも良いと思われる事にも強いこだわりを持っているかと思えば、こんな重大な事と思える事にでも重きをおかない等、計り知ることが出来ないと語る」革命後の新政権から貴族院議員を要請されるがこれを拒絶する。我々は元々は山猫かライオンであった。我々のあとは多分ジャッカルが引きつぐ事だろう」と華麗な舞踏会の夜、彼は自分達の時代が終わった事をしみじみと感ずるのであった。3時間を超える大作である。

 

サリーナをバートラン・カスター、タンクレディをアラン・ドロン、アンジェリカをクラウディア・カルディナーレが演じており、ランカスターの大貴族の演技は相当なものであった。大貴族の日常的に行われる様々な形式的行事や毎夜のように催される舞踏会、大邸宅は自分でも開いたことのない多くの部屋が存在しており、この絢爛たる大貴族の生活振りがこれでもか展開されており、ヴィスコンティ以外では作ることの不可能な世界も描き出している。

 

本人自身が大貴族であったかは知らないが、イタリア共産党の創立者アントニオ・グラムシとも考え方を共有していたヴィスコンティはファシスト警察に監視されながらパルチザンの運動に挺身。警察に狙われた人々を自分の広い別荘にかくまうのが彼の仕事であり、又国境を越える援助もしていたが、ついにファシストに捕まり収容所に入れられ、銃殺が決まった。ファシスト達は彼をドイツ軍に引き渡して銃殺を依頼する事したが警察の一部が彼を助け出すことに成功し、病院に身を隠して連合軍の到着で助け出された。

 

イタリア映画人の多くがこうした経験をしており、イタリア・ネオ・リアリズムの作品群がこうして生まれたのである。ヴィスコンティ伯爵はコミュニストとして作品作りに参加していったのである。

革命の必要性を主張しながら一方ではお互い貴族に共感するヴィスコンティの内部の矛盾をこの作品は良く表わしている。イタリア共産党のこの意識は共産党の党主だったヴィリングェルも貴族出身で国民から絶大な支持を得ていたが、ヴィスコンティと共通するところがあったのであろう。

 

2022年

6月

25日

日本共産党について思うこと     2022年6月25日

 日本共産党について思うこと        2022年6月25日

                                                        

1.はじめに

1970年代に入って日本共産党が掲げる「民主連合政府」構想は明らかにレーニンの主張とは大きく異なってきた。その後の革命路線は唯々選挙に勝つことに特化していくようにみえた。

 

2.日本共産党の創立と潰滅

1922年7月15日 日本共産党創立として、平和で民主的な日本をつくりあげることを当面の目標としてたたかったとしているが、実は独自の組織ではなく、世界で初めて社会主義革命を成功させたソ連の国際部とも云うべき、世界の社会主義化を目的としたコミンテルンの日本支部として結成されたもので、その政策から人事、運動資金に至るまですべてに亘ってコミンテルンの支配下に置かれていた。しかし労働運動にも大衆運動にも全くその基盤がなく、ましてや政治活動にも経験が乏しかった。日本共産党は1927年の3・15事件、1929年の4・16事件により、又雪崩を打っての幹部以下の党員転向によって肝心の階級闘争の本番前に組織は壊滅し、革命政党としては全く機能しないまゝに権力に敗退してしまったのである。しかし日本共産党の2020年1月18日の綱領では戦前の党の闘いについて「他の総ての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」と手放しで自画自賛している。まことに能天気というか、おめでたいと云うべきである。

 

3.丸山眞男による批判 

丸山談「ここで敢えて取りあげようとするのは個人の道徳的責任ではなく、前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。ところが不思議なことに、ほかならぬコミュニスト自身の発想において、この問題の区別が、しばしば混乱し、明白に政治的指導者の次元で追求されるべき問題が、いつの間にか、共産党員の奮闘力闘振りに解消されてしまうことが少なくない。つまり当面の問いは共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったか、負けたかということなのだ。

政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般大衆と違って、単なる被害者でもなけれは、況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと、日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将はたとえ彼自身いかに最後まで踏み止まったとしても、依然として敗軍の将であり、敵の砲撃の予想外の熾烈さや、その手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって指揮官としての責任をのがれることは出来ない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見透しの上に立てられる筈のものだからである。もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいい。」と直言している。当然の指摘と言えよう。

 

4.日本共産党の理論の変遷

1961年7月の第8回大会で採択された日本共産党綱領では「労働者階級をマルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義でかため、国会を反動支配から、人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることが出来る」としている。

更に「プロレタリアート独裁の確立、生産主段の社会化、社会主義的な計画経済にすゝむ」としている。

しかし1951年8月の綱領では「日本の解放と民主主義的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と明記している。暴力革命不可避論である。

この決定的違いを、一体何を根拠として変更したのかを一切説明していないのだ。

1961年綱領で暴力革命を放棄し、議会主義に転じた党は1970年の11月大会で「党はマルクス・レーニン主義を行動の指針とする」から「理論的基礎とする」と、レーニン主義の暴力革命不可避論から距離を置き、ついにはマルクス・レーニン主義を放棄し、「科学的社会主義の理論」と云う訳の分からぬものにすりかえたのである。

尚レーニンは「国家と革命」の中で「プロレタリアートはまずブルジョワの支配下で行われる選挙で過半数を獲得しなければならない。しかる後にはじめて支配しようとする事が出来るなどと考えるのはペテン師か白痴だけだ。われわれはこれと反対にプロレタリアートは先ずブルジョアジーを打倒し、権力を手中に納め、それから労働者の多数の共感を得るようなやり方で、この権力、すなわちプロレタリアートの独裁を自己の道具として使用せねばならないと主張する」と述べている。つまり資本主義的経済構造の上には、資本主義的な政治制度、法律体系がのっており、下部構造の変化が上部構造を変化させるのであるとの社会科学の常識からしてレーニンの主張はむしろ当然と云えるのだ。

日本共産党の理論の変遷は暴力革命とプロレタリアートの独裁をなし崩しに変更しようとする、まことに姑息な手段と云うべきである。日本共産党はレーニンの云うペテン師か白痴だけが考えるやり方に移行したのである。

 

5.ソ連を始めとした東欧社会主義の崩壊

2020年1月18日に採択された日本共産党綱領によれば1989年~91年に起ったソ連、東欧の支配体制の崩壊について「レーニン死後スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義、専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げて行われただけに、これらの誤りが、世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響はとりわけ重大であった。(中略)これは社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義、専制主義の破産であったと」総括している。又1966年に始まり10年続いた中国の文化大革命についても「赤旗」に長文の論文が掲載されて「これは毛沢東一派の奪権闘争である」と結論づけている。つまり、いずれも事実はその通りであったとしても、何故この暴走を止める事が出来なかったか、それを許した社会制度、全くチェック機構がなかったのか又はあっても働かなかったのか、社会制度そのものに原因があったのかを明らかにするのが、科学的社会主義の理論で武装した日本共産党の役割ではなかったのか。もし、指導者が悪かったからの人的原因を理由としたならば、日本共産党が権力を握ったあと、同じ誤まちを冒さない保証はどこにもないからだ。

 

6.民主集中制について

日本共産党が大きく変貌する中で唯一変わらないものがる。それは組織原則の中心 民主集中制である。

中央集権制はそもそも軍隊組織の要であり、敵と戦う際、その作戦をその都度、民主主義に則り討議にかけて決定していたのでは戦えないのは当然であり、上位下達が必然的に要求される最高責任者の命令が絶対なのだ。階級闘争前戦で闘う革命政党にとっても不可避の体制であり、かつ敵から自己の組織を守る為に党員各自が自己の所属する組織以外の連絡は禁止されている。本来革命が成就した時点で解消されるべき体制である。

現在の日本は問題はあっても一応民主主義が保証されていて、党の集中制は害の方がはるかに多いとみられるが何故か党はこれを手放さない。

1977年9月号の「現代と思想」に田口富久治 名古屋大学教授(当時)の論文がある。

「先進国革命と前衛政党組織論」である。

ここでは当時「民主集中制」が今日の発達した資本主義国の共産党のあり方をめぐって一つの鋭い争点を為しているとして、共産党のもっとも基本的な組織原則とされている民主集中制を取り上げている。1800年代からドイツ社会民主党等のヨーロッパの多くの社会主義政党が党委員会の独裁を可能なかぎり防止する為に統制委員会等を設置し、党委員会の執務遂行を監督する、等の党内民主主義の制度的保証を採っている。(探る)

しかし日本共産党は第7回大会で、中央統制監査委員会を中央委員と並ぶ大会選出機関としていたが、第10回大会では統制委員は中央委員会が任命する統制委員によって構成されると変更した。

それは中央委員会の指導のもとに統一して行うほうが党建設の為に効果的であるからとした。中央委員会を掣肘する勢力を削ぐ方針をとったのである。これは実質的には党執行部の自己責任、つまり政治学の常識でいえば「無責任」に陥る危険がないかと云うことである。

1920年8月6日 共産主義インターナショナル第2回大会で採択された加入条件第12条に「共産主義インターナショナルに所属する党は「中央集権制」の原則に基いて建設されなければならないとし、現在のような激しい内乱の時期には党がもっとも中央集権的に組織され、軍事的規律に近い鉄の規則が必要であるとしているが、レーニンは同じ論文で「政治的自由の行われている国々では党組織において第一に完全な公開性「しかもその組織の成員だけにかぎらない「公開性」を自明のこととして承認している。

民主集中制の原則はやがて政敵ないし異端を党内から排除し、党指導部というよりも、書記長スターリンの絶対的支配を確保するように転化していったと論じている。

田口富久治の論文が「現代と思想」誌に発表されるやいなや、民主集中制の危険という逆鱗に触れたか、日本共産党は「前衛」誌にヒステリックで猛烈、執拗な反論を展開。共産党に対する批判は許さないとばかりの激しさであった。これによって田口の政治に関する論文の掲載は無くなっていったのである。

又、当時の党副委員長 上田耕一郎は現代における前衛組織で「選挙制と報告制とだけでは党内民主主義を充分に保証することは難しい。とくに党組織が巨大になればなるほど、指導部に少人数の強度に中央集権化された幹部組織が固定化する傾向が増大する」と危惧の念を表明している事が、注目すべき発言である。

 

7.ローザ・ルクセンブルグの批判

レーニンの民主集中制に当時共産主義運動の中心であったドイツ社会民主党の指導者の一人ローザ・ルクセンブルグは民主集中制をレーニンに反対し、党中央だけが考え、決定を下し、残りはそれに盲従することになると厳しく批判した。更に2,3ダースの党指導者が指導し、支配し、実際にはその中の1ダースほどの人達が指導し、そして労働者の代表は時折会議に召集されて指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになると予言していた。

 

8.「寡頭制の鉄則」論

ロベルト・ミヒェルス(1876~1936)

「官僚制支配においては、上層部が命令権をもち下層の構成員は上の決定に従うように仕向けられる。極めて民主的な組織であったとしても、時がたてば少数者による寡頭制支配に移行する傾向は避けられない」という寡頭制の鉄則論を展開している。

ミヒェルスは1902年ドイツ社会民主党に入り、フランスのサンジカリズム運動や、イタリアの社会党に参加して社会活動に参加したが、やがて政治活動から手を引いて研究に専念。「現代民主主義における政党の社会学」を著し、徹底的民主化を目ざす革命的組織であれ、組織の拡大につれて必然的に官僚化し、少数者の支配にならざるを得ないと主張している。

 

9.日本共産党の民主集中制の現実

私の知るかぎり地区委員会では党大会の決議案が「赤旗」に発表されるとき、各選挙の時期、地区委員の改選の時期等に地区委員会が開催される。各支部からは人員数に比例する代表がこれに召集される。選挙以外の行事は型通りの委員長の報告と参加者の全会一致の賛成で決定される。委員の選挙は一応立候補も認められるが決意表明も政策発表もなく、当選の可能性は100%無い。委員の候補は地区委員会から推選され、候補の個人の何たるかも分からないまゝ投票が求められる。白紙委任状である。もし一票でも反対票があれば、あたかも反党分子が混入していたかの如く、遺憾の表明が選管からされるのである。決議案に反対しようとしても、例えば支部で反対するとしても、地区委員会で阻止されることはもとより、反党分子の集まりとみなされる。されば他の組織と意見を交換しようとしても規約で禁止されており、党中央に意見を表明する事は事実上出来ないシステムが構築されているのだ。

 

10.民主集中制の典型

1964年の 4.17ストをめぐる共産党の対処にみる事が出来る。常に熱心なスト推進派であった共産党がスト一週間前に突然このストライキは権力の挑発であるとしてストに反対する論陣を張って、我々を驚かせた。しかし病気療養中(ルーマニアであったか)で海外に居た宮本委員長が帰国するや「赤旗」に長文の論文を発表「4.17ストと当面する労働運動の諸問題」で中央委員会の決定を誤りだと指摘、この決定を撤回した。数十名の党中央員の面々は、いずれも一騎当千の理論家のつわもの揃いで彼等が衆知を集め、当然権力の動向の逐一も情報を集約して決定した事は明らかであったと思われる。それが宮本委員長の意見によってこうも簡単に覆えされてしまうとは、多分人事権も握った絶対権力者の宮本委員長に忖度したとしか思われない。田口論文にみる民主集中制は結局、一人の独裁者を生むこと、意見の異なる者は排除して行く事は、過去多くの反対意見を有する人々が反党分子として党から放遂されていったのである。一たん権力を握ると余程の事ないかぎり地位は安泰、権力は一層強まって、独裁者を生む必然性が高くなるのは明らかである。

民主集中制を手放さないの真の理由もそこにあるのではと思われる。

 

11.一方で27万人とも云われる一般党員は党を信じ、真面目で、正義感に溢れ、意志が強い人達が多い。

半植民地化となっている日本を憂い、沖縄の現状を怒り、原発に反対し、政府の横暴を糾弾し、日本の社会を真の独立と平和な国にしたいと念ずる人ばかりである。原発反対のデモに参加するが、参加者の多くが昔からの党員で活動してきたと思われる中高年の婦人が多い。共産党はこのような党員に支えられて、現実路線をとり、政策もその反映でもあるのだ。その点で農業を捨て、食料の自給の道を放棄し、エネルギー改革に目を背けて化石燃料と原発に依存する環境破壊の道をすゝみ、公文書偽造、破毀と前代未聞の暴挙を行う自民党の反国民的な政治に唯一対抗している事もまた事実である。その事からも共産党が民主集中制の組織原則を止め、開かれた政党になる事を切に望みたい。(完)

 

2022年

6月

18日

作品紹介 書 蘇東波 二題 2022年6月18 日

一、望海樓晩景 五絶 蘇東坡

青山断ゆる処 搭層層たり

岸を隔つる人家 喚ベば応えんと欲す

江上の秋風 晩来 急なり

為に鐘鼓を伝えて西興に致る

  

二、 蘇東坡

読書万巻なれども律を読まざれば

君を堯 舜に致す事 術無きを知る

農を勧むる冠蓋は閙がしきこと雲の如く

老を送る韲塩は甘きこと密に似たり

虀塩は甘きこと密に似たり

門前万事眼に掛けず

頭は長しえに低ると雖も気は屈せず  

 

2022年

6月

17日

作品紹介 刻(絵) 四題  2022年6月17日

戦国時代 瓦当文 

 

旧 石器時代

2022年

6月

15日

「破船」 吉村 昭   2022年6月15日

『 波打ち際に古びた菅笠が所々に動いている。

岩礁のつづく遠い岸に砕けた飛沫があがると次々に飛沫が近づき、伊作の立つ岸の海水もにわかにふくれ上がって岩に突撃すると散った。』

 

  で始まるこの作品はたちまち吉村の世界に我々を誘い込む。焦点を当てられているのは父が3年契約でうられており、残る母と伊作、弟の磯吉、妹のてる、かねの4人である。

貧しい漁村で作物も殆んどとれない漁だけでは生活が出来ずに17戸のいずれの家でも男、女に拘らず何人かは金で売らねば生活が成り立っていかない。

小説の中心には「お船様」がおかれ、冬の海が荒れる頃に米を積んだ船の座礁を狙った夜の塩焼きが行われるし、米を中心に船に積まれた品々の略奪は村の幸福の為に欠くことができない。この事は村の秘密として厳格に守られている。

しかしある船の座礁は村に災厄をもたらす、天然痘だ。これが村を不幸のどん底に落とすのだ。いつの時代かは不明である。完全に封鎖された社会の中で、個人の生活は村社会と一体化しており、生き延びていく上での協力、共同は不可欠であり個人の秘密などは存在しない。自分達の略奪行為に怯えながらもそれを頼りにせずには生きていかれないのだ。

 

極力余分な文章を一切拝した乾いた文体はここでも吉村昭の特徴を良く表しており、心情的な表現は切り捨てゝいる事で登場人物の現実をよりよく表している。

いつも文章はこうありたいと思わせる文体である。

2022年

5月

15日

第30回記念 葛飾の美術家展始まる 2022年5月15日

会期 2022年5月13日(金)~ 22日(日)10時~18時(最終日17時迄)

会場 葛飾シンフォニーヒルズ 本館2F 

 

 葛飾美術会の歴史は1986年(昭和61年)9月 第1回 私の葛飾美術展~(1991年 第5回)。1991年(平成3年) 葛飾美術会結成。1992年「葛飾シンフォニーヒルズ」の落成を祝い 第1回葛飾の美術家展開催。以後毎年シンフォニーヒルズにて開催されてきた。(2020年のみ新型コロナ禍により延期)今年2022年第30回を迎えた。

(第30回記念号冊子より)

和田大諷(克巳)出展作品

東大寺 戒壇院 四天王の内

広目天立像 

2022年

4月

21日

「鷲は飛び立った」 作 ジャック・ヒギンス 2022年4月21日

「鷲は飛び立った」  ジャック・ヒギンズ 作

1975年発表した「鷲は舞い下りた」から15年、満を持して書かれた「鷲は飛びっ立った」は前作でイギリスからチャーチルを拉致するという総統の特命を実行すべくクルト・シュタイナー中佐を中心としたチームが成功寸前にある理由から失敗し、シュタイナー中佐は死亡する。生存者はリーアム・デブリン唯一人。

 

今作では死んだと思われていたシュタイナー中佐が、負傷して捕虜となりロンドン塔に収容されている事が判明、しかも近いうちに身柄をセントメリー修道院に移すという。

ヒトラーの思いついたことの一つが「ドイツ帝国の英雄をイギリス人に捕らえられては放ってはおけない、これを奪還する」というもので、それもヒトラーは2,3日もすれば忘れてしまうが、ヒムラ―は政敵アブヴェールの長官カナリス提督を追い落とすために実行を強要する。この仕事はナチス親衛隊秘密情報部の将軍ヴァルター・シェレンベルグ少将に廻ってくる。シェレンベルグは述懐する。「総督の愚かな考えによって我々はスターリングラードで30万人以上の戦死者を出した。24人の将官を含めて9万1千人が捕虜となり、総統のおかげで次々と失敗が重なって行く」と。また第三帝国をお粗末な喜劇と認識し、ヒトラーと取り巻きを非常に程度の低い役者とみなしており、自分をナチスの一員とは考えてはいない。しかし総統の命令は絶対であり、その実行の為に、欠かすことのできない人物それがアイルランドのIRAメンバー リーアム・デブリンであった。デブリンは3万ポンドでこの仕事を引き受ける。チャーチル拉致で仕事を共にシュタイナー中佐を助ける為だ。デブリンは協力者を選択し、計画をすゝめるのだ。

 

ここからスリルに満ちた活躍が始まる。デブリンの活躍はさながらジェームス・ボンドである。更に凄腕のアメリカ人パイロット エイサ・ヴォーン、デブリンの友人と妹メリィ、イギリス男爵マックスウエル・ショウ、妹ラヴイニア、武器を調達する為に拘わり合ったギャング ジャック・カーヴァー、弟のエリック等々。仲々魅力的な人物が交錯する。果してシュタイナー中佐の奪回はなるのか・・・・。

 

2022年

4月

11日

銀座鳩居堂 和田大諷「金泥の世界」展 4月5日~10日 写真集

2022年

4月

04日

書 及び 塑像(1~9)         2022/2/24

1.源氏物語 桐壺の一節     作品の大きさ 47ⅹ28㎝

いずれの御時にか女御更 / 衣あまたさぶらいける中 

に いとやんごとなき / 際にはあらぬ   

がすぐれて時めきたまふあり / けり、 はじめより我はと

思ひあがりたまえる御方々、めざま  / しきものにおとしめそ 

ねみたまふ。同じ  /  ほど、それより下臈の更衣たちは、 

ましてやすからず 朝夕の  / 宮仕えにつけて

も、人の心をのみ動かし、恨み / を負ふつもりにやありけん  

いとあつしくなり /  ゆき、もの心細いげに 

里がちなるを、いといよいよあかず  / あわれなるものに思ほして

人のそしりをも憚ら  /  せたまわず。 

 

2.普門経  径25偈  作品の大きさ  80 x 30㎝

 

3.蘭亭序  

 

4.李白詩  五言古詩

春日酔起言志

處世若大夢 胡為労其生 所以終日酔 /  頽然臥前楹 覚来眄庭前 一鳥花間鳴

借間此何時 春風語流鴬 感之欲嘆息 /  對酒還自傾 浩歌待明月 曲儘已忘情

楹(エイ) 楹(ナガ)むれば

 

5. 般若心経ー1 2-521 

般若経の心髄を簡潔に説いた経典。最も流布しているのは唐の玄奘訳に二文字を付加した262文字から成るもの。 摩訶般若波羅蜜多心経

 

6.  般若心経-2 2-256

 

7.誕生仏(塑像を作った上に金泥で仕上げたもの)作品の大きさ14㎝ 4-431

 

8.如来像(塑像を作った上に金泥で仕上げたもの)作品の大きさ 7㎝  4-430

 

7.遊女  

遊君、遊女はもと神につかえるものであった。

桜咲くや 帯買う室の 遊女かな

2022年

4月

04日

刻字 (1~19)     2022/1/30 

1. 交以淡成 - 1  15 x 30cm    漢魏六朝  郭璞     2-113

言以忘得 交以淡成 

言説は忘れて得られ 交際は淡泊をもって成るのである。

 

2.龢     20 x 30㎝    2-116

声符は禾(ヵ)、 龠(ャク)は笛  楽音のととのうことを云う

龢(ヤク)も禾(カ)に従う形であるがその禾は軍門の意でなく、もと農耕に関しその儀礼に笛を用いたのであろう。

 

3.言必有防 30 x 54㎝  漢魏六朝 徐幹 2-278

行必有検 言必有防

行為には必ずつゝしんで妄りにせず。言語には必ず用心する所ありて、でたらめにせぬ。

 

4. 月以表我心  17 x 60cm   元代 劉詵 2-868 

月以表我心 澗以明我徳  

くもりなき月光はわが心をあらわすもので 谷川の水の清きは我が善行を明らかにする。

 

5.24寿 65 x 25㎝   2-861

篆書 24文字 

 

6. 無疆福  30 x 60㎝   唐代  李商隠 (リショウイン)2-864

かぎりなき幸福。

 

7.遊星 12 x 17㎝   2-867

惑星のこと。比喩的に実力が未知ながらも有力とみなされる人を云う。

 

8.春雨 37 x 19㎝    2-865

春降る雨、特に若芽の出る頃 静かに降る細かい雨

万葉集に「春雨に燃えし柳か 梅の花 ともに後れぬ 常の物かも」がある。

大伴宿称 書持作 

 

9. 曹全碑  70 x 30㎝  2-871

曹全碑 漢代  (金 泥)

隷書は秦の程邈(テイバク)が小篆の繁雑さを省いて作ったものとされ、漢代に装飾的になる。隷書は漢代に絢爛たる一時代を築くが、その掉尾を飾ったのがこの曹全碑である。

曹全碑は万歴(16世紀)の初めに出土したもので当初は傷みが少なかったが、業者が拓本を取ったあとに傷を意図的につけていった為に傷みがひどくなって行った。本文は849字である。曹全はあざなを景完といい、やがて孝廉(コウレン)に挙げられ郎中の官に叙せられ、西域戊部司馬を拝した。黄巾の乱に際して選ばれて郃陽令を拝し動乱を収拾、そこで群僚たちがその高徳を表彰するために、その功績を石に刻したのがこの碑である。しかし漢帝国の滅亡に際し、急拠この碑は埋められた。 

 

10.  寿 30 x 70㎝    2-938

豊穣を祈る字で祷(トウ)の初文。金文に「眉寿無期」のような語がある。

 

11.  瀧 25 x 100㎝   2-937 

万葉集に「雨零(フ)れば瀧(タギ)つ山川」のように云う。説文には雨の降るさまを云う

 

12.新月一鉤 60 x 17㎝ 明  呉子和       2-869

荷香十里 新月一鉤

蓮の花は十里も続いて香気を放ち 三日月は一箇の鉤をかけている 

 

13.龢(ヮ) 2-866      

 

14. 寿 11 x 16㎝    2-939

 

15.戦国時代 瓦当文   4-437 

文 長楽無極 興天無極 

幾久しきたのしみがいつまでもつきぬ

物事の永久につきぬのを祝う語 

 

16. 交以淡成 -2   x  cm    漢魏六朝  郭璞   4-438

言以忘得 交以淡成 

言説は忘れて得られ 交際は淡泊をもって成るのである。

 

17.誠 堅  作品の大きさ 45 x 20㎝  4-427

物事に誠実に対処し、堅い信念を有している。

 

18.  桂隠 作品の大きさ 9 x 26㎝ 4-435

隠者を云う。

19. 遊 作品の大きさ  x  ㎝ 

 遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことが出来た。遊びは絶対の自由と豊かな創造の世界である。それは神の世界に他ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神と共にというよりも、神によりてというべきかもしれない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚像と秩序をこえた狂気とは、神に近づき神とともに在ることの証であり、またその限られた場における祭祀者の特権である。

遊とは隠れた神の出遊をいうのが原義である。それは彷徨する神を意味した。

ー白川静 遊学論よりー

2022年

4月

03日

絵 その1 ( 1~15 )    2022年1月27日                      

一、称名寺 弥勒菩薩立像  作品の大きさ 62 ⅹ 90㎝  2-856 

称名寺は横浜市金沢区にある真言律宗の寺院で奈良西大寺の末寺。文永4年(1267年)北条実時の創建による。鎌倉幕府滅亡で衰退したが江戸時代家康の援助によって復興した。弥勒菩薩は菩薩形の弥勒に蓮華を執り、その華上に宝塔載せる。菩薩形と如来形の複合形をとっている。その唯一の彫像の遺例である。大型の宝髻を結い宝冠、胸飾、腕釧を付け両肩に垂髪を垂らし、衲衣を右肩に着し、さらに右肩に別の衣を懸ける。左手屈臂して蓮華を執り、その華上に宝塔を載せる。宝冠前面に3個の円相形を取り付けそのうち2個に化佛を付ける。これは過去佛としての釈迦、現在佛としての阿弥陀と推定され、本来の弥陀と合わせて過去、現在、未来の三世を表したものと云われる。本像の像内に建治2年(1276年)の墨書像あり。像内納入品の中に建治3年~弘安元年(1278年)11月の日付けが書かれている。 

称名寺 弥勒菩薩立像   62 ⅹ 90㎝ 

文 酒杯觸揆詩情動 

   書巻招邀病眼開      宋代 范名湖

       

 

二.聖林寺  十一面観音立像  作品の大きさ 30 x 44cm  2-841 

聖林寺は奈良桜井市にあり藤原鎌足の子 定恵の庵に始まるとつたえられるが、実際は江戸中期に文春が石造りの延命地蔵菩薩を安置したのが始まりである。本像は近くの大神神社の神宮寺 大御輪寺の本尊として祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈の煽りを受けて縁の下に放置されていたが聖林寺が大八車に乗せて引き取ったと云われている。現在は聖林寺の宝物館の全面ガラス張りに納まっている。木心乾漆、漆箔の像で檜の一木彫刻の上に乾漆を盛り上げ全身に金箔を押して仕上げている。六重蓮華座の上に両足を揃えて直立する均整のとれた見事な天平佛である。(像の高さ 196.4㎝)張りのある豊かな顔、体の肉づき、衣文の起伏とゆったりと造られて、乾漆像特有の美しさを表わし、天平理想の具現像である。

聖林寺  十一面観音立像

文 吾道一以貫之哉  論語 

 

吾道一以貫之哉 曽子曰、唯 子出

門人問曰、何謂也、曽子曰、天子之道 忠怒而已矣 の一節   

 

三.慈恩寺 普賢菩薩    作品の大きさ 30  x  44㎝  2-849   

山形県寒河江市にある慈恩寺は神亀元年(724年)に行基が開山。平安時代後期天台宗を中心として、のちに真言宗、山岳修験道場等も入って、多くの宗派を併合した。本堂、釈迦堂、阿弥陀堂、薬師堂、三重塔等によって伽藍を構成している。本尊は弥勒菩薩、本堂営殿内には30数体が秘仏としておさめられている。この普賢菩薩は五葉松が使用され、平安時代の作である。法華経勧発品に説かれる佛であり、これに付属する10羅刹女は法華経を護持する存在である。この像には見事な截金など豊富な装飾がみられ、繊細な造形を待徴としている。尚10体の羅刹女のうち5体が現存している。 

慈恩寺 普賢菩薩

文 清帯山林気香来筆硯邊  

 

四.室町時代 九面観音  作品の大きさ 30 x 44㎝ 2-853       

室町時代に製造されたと思われる金銅佛で法隆寺の白檀一木造りの九面観音立像に酷似しており、多分模して造られたものであろう。風貌は童児形である。  

室町時代 九面観音  

 文 謙慎 漢書

 

五、醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩     作品の大きさ  33 x  45cm  2-842 

醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派の総本山である。延喜7年(907年) 醍醐天皇によって創建。天暦(952年) 五重塔建立された。文明2年(1470年) 兵火によって五重塔を残して悉く焼失。秀吉によって再建される。弥勒菩薩は上醍醐岳東院の本尊でのち菩提寺 金剛輪寺に移されたあと三宝院の本尊となった。高い髻を結い、それが隠れるような高い五佛宝冠を被る。両肩に垂髪が懸かり、冠帯、胸飾り瓔珞(ヨウラク)などの装身具を付ける。両手で法界定印を結び、その掌上に五輪塔を載せている。建久3年(1192年)の秋後白河法皇の御料として醍醐寺の権僧正勝賢が如法にこの像を造立している。本像の像内に権僧正勝賢が願主となり建久3年8月5日から造り始め同年11月2日に供養し巧匠は快慶だったという旨の朱漆銘がある。木造金泥塗 截金、玉眼嵌入 運慶派の典型的な作品である。

醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩      33 x  45cm   文 鳥啼簷角飛無定風剪林梢寒有声                                            竇遴寺

 

 

六.西提寺(サイダイジ) 菩薩立像 作品の大きさ 33 x 45cm  2-876

所在地は広島県尾道市向東町。明治5年(1872年)火災に遭い寺暦を知る手懸りを失っており本尊の詳細も分からない。この観音像は天暦5年(951年)の作であったが、盗難にあい一時所在不明であった。のちに発見され戻ってくる。寄木造りで唐風の影響を脱し和風へ移る時代である。焼損がみられ、火中にあったが辛うじて難をのがれたのであろう。盗賊に奪われた為、治安2年(1022年)仏師定願が1像を造って安置したが、その後本尊が戻った為に2像を安置することなった。 

文 辞賦文章純者 稀難者莫過詩  唐 社荀鶴  

 

七、聖林寺(ショウリンジ) 十一面観音立像 作品の大きさ 24 x 33cm  2-831

奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院。奈良大神神社の神宮寺第御輪寺に本尊として安置されていたが、明治初年の神仏混淆と廃仏毀釈処分によって縁の下に投げ込まれてあったが、聖林寺がこれを大八車に乗せて引き取ったと伝えられている。乾漆造り。一木造りの木彫の上に乾漆で仕上げられており、柔らかな表現で写実性を持たせている。7体ある国宝十一面観音の内の一体。乾漆作品のの頂点に立つ作品である。

  文 額田王 近江の国に下る時に詠んだ歌一首

 

八、宇治平等院  阿弥陀如来座像 作品の大きさ 33 x 37cm  2-844  

宇治市は宇治蓮華にある単立の寺院。1050年藤原頼道が寺として創建。阿弥陀如来像は平等中期の仏師で日本彫刻史上屈指の名工と謳われた定朝(ジョウチョウ)によって天喜元年(1053年)作成された。定朝晩年の作で寄木造り、漆箔を施し、定印を結ぶ。華麗な飛天の光背をもち、木造の天蓋の下、九重の台に座し円満な顔広く薄い胸法衣の衣文など貴族の趣味にあった和様彫刻の完成を示す名品である。定朝は仏師として初めて僧綱位の法橋に除せられている。

宇治平等院  阿弥陀如来座像      作品の大きさ 33 x 37cm

文 筆花開処墨花濃                    

                   清    戚 朝桂

 

九、 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ  30 x 44cm 2-840    

長野の善光寺の秘仏本尊を模した像で、鎌倉時代の特筆すべき金銅仏、浄土宗の普及に伴って東国中心に全国でつくられた、光背一つに三尊が掛けられた一光三尊立像。中尊は手に印刀を結び、脇侍は丈の高い宝冠を戴き、両掌は胸前で合わせている。本像の腕は別鋳されて取り外し出来るようになっている。スイスのマリオン・ハマー氏の旧蔵品。

 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像  作品の大きさ    30  x 44cm  

 文 冷暖自知  大慧

 

十、善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ 23 x 34cm  2-882         

仏像の説明はをご参考ください  

文 筆墨生涯成冷淡筍蔬盤鐉易経営 

 

十一、法隆寺 献納 48体仏 銅造菩薩半跏像 作品の大きさ  23 x 34cm  2-837     

小金銅佛は飛鳥時代に造られ始めた。平安時代までが最盛期である。その中心にいたのは止利仏師の一派であり、北魏の様式が百済、新羅を経由して日本に入ってきたのである。町の貴族達が病気の平癒を願い又、故人の菩提を弔うものが中心であった。

明治初年の神仏分離令から始まった廃仏毀釈によって、財政的に追い詰められた法隆寺は49具57躯からなる宝物を皇室に献納した。明治11年の事である。皇室から下賜されたのは当時の金額で1万円であった。昭和22年国有に帰し、1999年(平成11年)東京国立博物館の法隆寺宝物館が完成し小金銅仏48体が保管されている。以前は東洋館に天候の良い日に限って毎木曜日に公開されていたが、現在は新しい建物にかわって48体すべてプラスチックのケースに納められ、前後左右どこからも見ることができる。大きさは 30~40㎝以内が大半で、童顔、童形の誠に愛すべき姿が多い。  

法隆寺 献納 48体仏         作品の大きさ 23  x  34cm   

文 詩酒共為楽 竹梧相興清

 

十二、法隆寺献納 48体仏 銅造菩薩立像 15 x 22㎝  2-836    

文 学者如登山 六朝  徐幹

 

十三、慈恩寺 普賢菩薩 作品の大きさ  30 x 44㎝  2-881 

文 外適内知 体寧心恬  白楽天 

慈恩寺及び作品の説明はをご参考ください。

 

十四、室町時代 九面観音  作品の大きさ  30 x 44㎝  2-880

文 其言必信 其行必果 已諾必誠 不愛其軀   司馬遷 

九面観音についてはをご参考ください。

 

十五、誕生仏  作品の大きさ 30x40㎠ 10-33

文 虚心何慮同心少 敬事弥知處事難 清代 伊継善

2022年

4月

02日

絵 その2 (16~29) (2022年1月27日の続き)    2022/1/29

十六、東大寺三月堂の月光菩薩 206.8cm   作品の大きさ 26 x 74cm  7-81 

東大寺三月堂には本尊の不空羂索観音脇侍の日光、月光菩薩、四隅に四天王、二体の金剛力士、帝釈天、梵天と11体すべて国宝である。月光菩薩は大きな唐風の宝髻を柔らかく結いあげ、高貴な女性を思わせるふくよかな顔立ちをみせ、両指をかるく伸ばして合掌するしなやかな手先も的確で見事な表現である。胸高に花型の飾りや襟の縁取り帯など装飾も美しい。袖には朱地に菱形の截箔を散らす文様が残っている。上半身を覆う袍衣様の衣にはほとんど彩色の痕跡をとどめない。天平時代を代表する塑像である。

文 名飲豈須絲竹肉 清談無過画書詩 趙瓯北 

 

十七、新薬師寺の十二神将の内 伐折羅大将 (ハサラタイショウ) 作品の大きさ 56 x 83㎝  2-82

新薬師寺は奈良高畑町にある華厳宗の寺院。光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したが、平安時代は衰微して興福寺の末寺となった。十二神将の大半は天平時代の塑像で十一体は国宝。残る波夷羅大将は昭和6年に補作されたものである。飛鳥園の創立者小川晴鴨が伐折羅大将の頭部に照明を当てて劇的に表現し、絵画的写真にしたことによって一躍人気となった。東大寺戒壇院の四天王像よりやゝ時代が下る作品で造形的にも精神性でもかなり見劣りするのは否めない。

文 竹陰覆几琴書潤  花気董窓筆硯香 

 

十八、善光寺式 阿弥陀三尊像  脇侍 観音像 作品の大きさ 26 x 74㎝  7-80

 文  春風輿酔向天涯 乗興何郷不我家

  此去芳山一千里 長亭楊柳短亭花        菅 茶山 

註 菅 茶山 :江戸時代は日本の漢詩の最盛期で、清朝の詩人性霊派の袁枚の影響のもあって多くの詩人を輩出した。菅茶山はその代表的人物で34才のとき私塾「黄葉夕陽村舎」を開いて子弟の教育に力を注ぐ傍ら詩作を続けた江戸後期の大詩人である。

延享5年(1748年)現広島県福山市神辺町に生れる。没年文政10年(1827年)10月3日。

 

十九、善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音像 作品の大きさ  35 x 80㎝ 10-35

文 陽花落盡子規啼 闘道龍標過五渓

  我寄愁心與名月 隋風直到夜郎西

 

ニ十、東大寺 戒壇院 四天王の内 持国天立像 160.6㎝ 作品の大きさ 63 x 95㎝ 7-83  

四天王は1733年戒壇院が再建されると東大寺大仏殿から移されたと云われる。持国天は冑を被って、口をきっと結び目を見開いて立ち、外側の足で邪鬼の頭を踏み、内側の腕を曲げている。遙か彼方を見通すような深い眼差しで、怒りを内に秘めた節度ある控えめな表現であり、完成度の高い造形を作り出している。冑の両側につけられた翼形の飾りや、甲の細部を飾る金具類、両肩に装着した龍のモデリング等質感十分に造形されている。

文 硯日自古無荒歳 酒国於今憶往年  

 

二十一、東大寺 戒壇院 四天王の内 増長天立像 作品の大きさ 34 x 78㎝ 2-943 

文 不撓(フトウ)たわまない事(撓はたわむの意)  

 

二十ニ、東大寺 戒壇院 四天王の内 広目天立像 作品の大きさ 34 x 90㎝ 2-946

文 曝書(書物の虫干し)のうち一首

呼童発櫃満前除 颯颯風乾走蠧魚

巻内何年曽挿入 怱看亡友赫蹏書(カテイ)

 

二十三、東大寺 戒壇院 四天王の内 多聞天立像 作品の大きさ 36 x 90㎝  2-944

文 窓近花筆硯香  元代 黄庚

 

二十四、法隆寺 四天王の内 広目天立像 木造 133.3cm  作品の大きさ x  ㎝ 

日本最古の四天王像の一つである。

文 酒杯觸揆詩情動 書巻招激病眼開 宋代 范名湖

金堂内陣須弥壇上の西北隅に西面している。光背裏面に作者山口大口費(ヤマグチノオオグチノアタイ)の名が刻まれている。山口大口費について「書記」の白雉元年(650年)の条に詔を奉じて千仏像を刻んだとあるので7世紀半ばの作に間違いない。像は良質の樟材を用いた檀像で両袖、両沓、両足をふくみ、一本より彫刻されている。後の修補部はほとんどなく、保存状態は完好に近い。全面に薄く漆を塗った上に白土を下地とする彩色が施されている。当初は美しい極彩色に彩られたものであった。

 

 

二十五、法隆寺 四天王の内 多聞天立像 134.2cm   作品の大きさ 43 x 90cm  7-84

多聞天の光背裏面には「薬師徳保」を上位者として「鉄師マロ古」(註)と二人の作であると刻されている。クスノキの一木から丸彫されていて、直立の姿勢で肘を体にピタリとつけている。光背の覆輪につけられた忍冬唐草文様を透かし彫りにして銅製、渡金の金具、ことに宝冠金具の意匠は夢殿観音菩薩系に近い。(註)マロは司の字から 一と口を除いて手を挿入

文 竜盤虎踞帝王都  誰見当時職貢図

  祭祀千年周雅楽  朝廷一半漢名儒

  世情頻逐浮雲変  吾道長縣片月弧

  懐古終宵愁不寝  城鐘数杵起栖鳥      菅 茶山

       菅 茶山 については十八をご参考ください。 

 

二十六、法隆寺 橘夫人念持佛  33.3cm  金銅仏  作品の大きさ 22 x 37㎝  7-85 

光明皇后の母橘夫人(三千代)の念持仏であるという伝説は「古今目録抄」にすでに見えている。浄土の蓮池から生えでた蓮花の上に座す阿弥陀如来と脇侍は厨子に納められている。念持仏は七化佛を浮彫にした後屏を負い、浄土の世界を展開している。小金銅仏としての最高作品といえる。中尊の後頭部には流麗な透かし模様の円光を配し、その趣向は華麗の限りを尽くして貴人の要望に見事に応えている作品となっている。

 

二十七、室町時代 九面観音像   2-823  

文 処和 荘子 心身を平和の地おく

九面観音像の説明は「絵」 をご覧ください。

 

二十八.  遊神 文 窮探極覧 2-824

 

二十九、 法隆寺48体佛 

文 胆瓶花落硯池香  元代 許有王

2022年

3月

26日

『エレクトラー』 作 ソフォクレス 2022年3月19日

「エレクトラー」ソフォクレス作  2022年3月19日

「エレクトラー」は妻と従兄弟によって殺害されたアガメムノーンの長女エレクトラーを中心に据えてこの作品を描いている。作品の基本的な構成はオレステスがアポロンの神託を受けて従兄弟のピェラデースと共に実に7年振りに帰国。父アガメムノーンの墓に供養の髪の毛を捧げて後、姉エレクトラーと再会、虚偽の報せなどの計略を用いてクリェタイメストラーとアイギストスを殺害し復讐を果たすというものである。

この作品に登場するエレクトラーの妹クリュートラミスは父を殺した母と権力を奪って王位に就いた情人アイギストスの前に屈伏して現実に妥協し豊かな生活を享受している。頑なに復讐心に燃える姉エレクトラーとの間に実りのない言い争いが続くことでエレクトラーの激しい復讐の念とその決意の固さが一層浮き彫りにされる。

父が殺害されてからのエレクトラーの執拗な非難を受け続けた母クリュタイメストラーと今や王となったアイギストスはエレクトラーに食事、衣類等召使以下とも思える非常な境遇に陥れる。エレクトラーにとって父の復讐の為には死をも恐れない激しいものであり、繰り返し行われる母との論争は娘イーピゲネィアの為の復讐を理由に自らの正当性を主張するクリュタイメストラーに対し、アイギストスとの密会こそが真の理由であると弾劾して母を圧倒する。またオレステスは帰国前から2名の殺害はすでに決意しており、姉の要請によって意思を固める事はない。彼の目標の第一は母クリュタイメストラーで、先ずは彼女を殺害しその後帰ってきたアイギストスに殺害された姿を見せた上にアイギストスをも殺害する。オレステスには些かも気持ちの動揺は見られない。物語はここで終わり、オレステスの親殺しに対する復讐の女神たちエリーニュエスも登場しない。

コロスの最後の朗詠。

おお  アトレウスの血を引く子よ、何と数多の苦難の果てについに自由の境涯へと辿りつかれた事か。今日のこの殊勲により見事その身を全うして、とあり母親への復讐は正義であるという立場に立っている。

注1)コロスは市民の女神から成っている。

注2)作者ソフォクレスはアテネ市 郊外裕福な家庭に育ち、90才まで創作活動を行い123編の作品があったと伝えられている。政治家としても活躍、高官職も歴任している。紀元前5世紀の人。

2022年

3月

16日

『アガメムノン』 アイスキュロス作    2022/3/16

「アガメムノン」   アイスキュロス作 

時はアルゴスの王アガメムノーンの居城で10年続いたトロイアーとの戦争でついにイーリオン陥落の日である。そもそもトロイアーとの戦争はスパルタ王メネラオスの王妃で絶世の美女ヘレネがトロイヤー王子パリスに奪い去られた事に起因し、ヘレネを奪回すべくメネラオスの兄アルゴスの王アガメムノーンを総大将として10年間の攻囲の後、トロイヤーが灰燼に帰した戦争である。スパルタ王女ヘレネを求めてギリシャ中から英雄が集まりヘレナが指名した婿に将来災難が起きた際にはすべての求婚者がその夫を援助することを誓い合った為に求婚者たちはこの戦争に参加したのである。絶世の美女とは云え尻軽女一人の為に甚大な被害とギリシャ全土に及ぼしたアガメムノーン兄弟に対する怨念の気分が、ギリシャ全土に存在していなかったとは云い難い。コロスは語る「あとに残るは顔を歪め、いつかは必ずと陰謀をめぐらすのは女主人、わが子の命の償いを行うまでの日を恨みを凝らす復讐の女神」とクリュタイメストラーを語る。

 

いち早く戦勝の報を受けたアガメムノーンの妻クリュタイメストラーはトロイアー軍の夫、子供を失って嘆き悲しむ女達、女、子供老人達の姿、疲弊して土に横たわる兵士達を生々しく語る、その描写力の凄さにコロスの長老達は圧倒される。

やがてアガメムノーンの登場となり、彼は神々に向かって帰国の挨拶を述べ、トロイアーの都イーリオンの町が灰燼に帰したことを報告するが、彼は戦争を通じて人間に対する深い不信の念を抱いて帰国している。クリュタイメストラーは夫の帰国と戦勝を大仰に喜んでみせ、紫貝の紅で染めた織布の上を歩かせようとする。本来織布は宗教的儀礼に用いるもので、その上を人が歩くなど許されるものではなかったのである。アガメムノーンは妻の言葉を自分に対する礼賛かと勘違いし「自分を神のように崇めないでくれ」と応ずる。

 

妻の真意は、これは宗教的儀式であり、夫をその為の犠牲にする目論みであったのだ。アガメムノーンの退場のあと、トロイアーの王女であり巫女のカッサンドラが引き出される。カッサンドラは自らの心に映ずる事を言葉にする。それはアトレウス家(アガメムノーンの一族)にまつわる血で血を洗う身内の争いであり、宮殿の中でやがて行われる殺人であり、又我が身とトロイアーの悲運を嘆く事であり、自らの死を予告する。カッサンドラはすぐさま切り殺される。アガメムノーンは浴槽の中でクリュタイメストラーの手によって刺殺される。彼女はコロスの長老達に「アガメムノーンは奴隷のような死にざまに逢ったとは思わない。何故ならば、わが家にたくらみを仕掛けて破滅をもたらしたのはこの男ではなかったか。この男との間に育った私の若木、嘆いても嘆いても尽きないあの娘、私のイーピゲネィアを殺害した男、今それに見合った仕打ちを身に受けた事を黄泉にいって大声でわめき散らす等心得違い。刃のもとに果てたのは己の蒔いた種を刈り取ったまでのこと」とコロスの長老達の難詰も嘆きも、自信に溢れて冷然と退ける。アガメムノーンの凱旋の場面でのコロスの言葉は戦勝を称える言葉はなく、ギリシャ全土の遠征軍の兵士の故郷の実情、人の命を黄金で商う軍神アレースへの呪詛、正義の戦いとはいえ、これ程の血が流されたとあれば、それに対する何らかの社会的な償いが、求められるのではないかとの危惧の念が吐露されている。

 

やがて7年後成人して帰国したアガメムノーンの息子オレステスの復讐の刃の下、クリュタイメストラーとアイギストスは倒される。親殺しの罪を犯したオレステスは復讐と刑罰の女神たちユリーニユエスに追われ、諸国を放浪し発狂する。

 

☆クリュタイメストラーの動機は何か。

イ.予言者カルカースの占いに従ったとは云え、対トロイアーとの戦勝を神に祈る行事の人身御供として娘イーピゲネィアが犠牲とされたその復讐。

ロ.夫の従兄弟アイギストスとの情事が複雑に絡みあっているようである。

☆アイギストスの動機は何か。

アガメムノーンの父アトレウスによって二人の兄は殺害され父は追放されており、その復讐を誓っていた。アガメムノーンを恨む二人がやがて情を通じて事を起すのだ。情欲と権力欲とが二人を結びつける根拠であることがやがて明らかになる。

 

ギリシャ悲劇の数々はヨーロッパの文芸の中に深く浸透しており、文学者も繰り返し取り上げており、映画の中でも上映が多い。

ジロドウは1937年5月13日 パリのアテネ座に於いて、ルイ・ジュヴェ演出の下「エレクトル」が初演されている。オレステスと姉エレクトラの復讐物語に取材したものである。

 

サルトルは「蠅」でこの復讐劇を初の長編戯曲として作品化しており1943年シャルル・デュラン演出により初演されている。この作品でサルトルは「神でさえ一度爆発した人間の自由を前にしてはいかんとも為し得ない」と宣言している。神ゼウスの「良心の可責」の脅しにもオレステスは一もひるまない。この上演は占領下の巴里人に多大の感銘を与えた。時代が生んだ輝かしい人間賛歌である。

第二次世界大戦の折ユダヤ人から数千通の助けを求める嘆願書がローマ法王の元に送られてきたが、法王はこれを黙殺した。まして第二次大戦を止めるべく何らかの行動を起こしたことはない。世界中に数十億の信者を有していたキリスト教の頂点に立ち、大きな影響力をもっていた人物であるのにである。サルトルはこのことに絶望していたのではないか。宗教は人間の生きていくうえで何の役にも立たないことを痛切に実感したのであろう。

 

映画「旅芸人の記録」(ギリシャ)1975年ラオ・アンゲロプロス監督作品。「アガメムノーン」の登場人物と同じ名前を背負った彼らは名前の通りあの悲劇をこの現代の時間の中で見事に再現している。

(注)コロス(合唱隊)は12名の市民によって編成され、アガメムノーンの王国アルゴスの長老職という配役である。劇の進行に直接、間接に関与し、劇の進行に重要な役割を担っている。

2022年

3月

03日

和田大諷「金泥の世界」展 ご案内 鳩居堂4月5日から10日まで

ご来場をお待ちしております。

2022年

1月

26日

2022年初場所について       2022/1/26

1.初場所優勝者

関脇 御嶽海が13勝2敗で3度目の優勝を飾り、場所後大関に昇進した。

三役通算28場所かゝった。抜群の相撲センスを有し、既に3~4年前に大関になっても不思議はなかったのだが、生来の稽古嫌いと、それに伴ってのスタミナ不足が祟り、その上の斑気(ムラキ)が治まらず、足踏みを続けたのだ。大関に昇っても今のまゝでは常に2桁以上の成績をあげていかれる保証はどこにもない。彼は本番に強い力士だと云われる。つまり稽古場ではさほど強くないと云うことで、本当の強さは稽古場で絶対の強さを発揮する必要が求められる。この事を御嶽海には肝に銘じてもらいたい。

 

2.さて照の富士である。

大関から膝の故障で序二段まで陥落したが、驚異的精神力で復活し、ついに横綱まで昇りつめた。故障した膝は治ることはないが、常に膝を曲げ、前傾姿勢を保ち、立上るとすかさず左前褌を引き体勢を整えてから前に出る。小兵力士や押し相撲を相手にすると、引っ張り込んで両上手又は閂に極めて相手の動きを封じたあと、攻めにかゝる等安定した相撲で一強の地位を築いた。先場所まではまさに敵なしの存在であった。彼の唯一の弱点は押し相撲であり、それでも先場所までは実に巧みな取り口で、苦戦はしても取りこぼしはなかったが、今場所明星の突進を受け損なって苦杯を喫したが土俵下に足から落ちた時に古傷の膝に衝撃をうけて悪化させ、その後の取り組みに精彩を欠いた。来場所以降の相撲に不安が残る。何せ横綱白鵬なきあと相撲界を背負っている金看板であるのだから。

 

3.大関陣 

大関陣の惨状はまことに酷いものであった。特に正代の相撲は無気力そのもので覇気が全く感じられない。2場所連続で対横綱戦が組まれなかったことに、彼は大いなる屈辱感を味わったことであろう。この事を深刻に考えるべきである。大関よりも平幕の阿炎の方が勝負になると協会も観客も考えたのであるから、前代未聞の事である。正代の相撲はそもそも体格に恵まれているが腰高のまゝ体当たりで相手の上体を起し双差しを狙っての取り口であるが、爆発的な当たりがあればそれなりの相撲が取れるが、当りが弱まると、体当たりで自分の上体が反り返り、双差しを狙う取り口から相手の押っつけの格好の標的となり、押される事になる。この相撲振りと、気力の無さから今後は下降一方となる可能性が高い。

 

4.一方で新しい勢力が台頭してきた。

1⃣ その筆頭が平幕6枚目の阿炎である。阿炎は協会の制約を破って謹慎処分を受け、幕下まで陥落、その他にも「楽して勝ちたい」等、様々な物議を醸す言動も多く師匠の錣山親方(元寺尾)も半ば諦めていたようであったが、処分のあと阿炎に心境の変化がどのようにあったか、復帰後見違える相撲に変り、厚みを増した身体もあって、それまでは突っ張って相手の上体を起し叩き込みが常道であったが、叩くことはなくなり、突き切るスタイルに変って再入幕の先場所は12勝3敗、今場所は横綱照ノ富士を破って12勝3敗。

一躍優勝を狙える力士と見做される事になったのである。

 

2⃣ 同じ平幕の若隆景。彼は左からの強烈な押っつけのみで今日の地位まで昇ってきたが、今場所は右からの攻めも加わり11勝4敗の成績をあげた四つ相撲である。小柄であるがキビキビした相撲振り、誠に好感がもてる力士でる。

 

3⃣ 平幕下位の22才琴の若

祖父は猛牛と謳われた横綱琴桜、父は大兵で二枚目琴の若(関脇)である。今の琴の若は大柄で身体が柔らかな四つ相撲でスケールも大きい。今場所11勝4敗で来場所上位でどのような相撲を取るのか楽しみである。

 

4⃣ 一度優勝している大栄翔、平幕の阿武咲、同じく明生の押し相撲3羽烏であり、少しおくれて29才の北勝富士がいる。押し相撲は調子に乗ると優勝もするが、調子が良いからと言って必ずしも勝ち星につながらず大敗することもあり、安定感がないところがある。従って負けがこんでいるからと言って舐めてかかるととんでもない事になるのだ。

今場所の明生のように観客にとって彼らの相撲は常に番狂わせの期待を抱かせるものであるのだ。

 

5⃣ 平幕の豊昇龍

今場所の彼は11勝4敗。小兵であるが四つ相撲で、立ち合いの鋭さ、投げ技の切れも強さもあり、足腰も強く闘志もさかんで、もう少し身体が出来てくれば、協会の米櫃となる大いなる可能性がある。彼は横綱 朝青龍の甥である。

 

6⃣ 平幕の宇良  29才

彼は学生時代反りのスペシャリストとして名を馳せて、鳴り物入りで角界に入り。しかし相撲界は重量化が加速しており、重い者が有利の法則に従い成績もついてくるが、腰、膝、足首に負担が過剰にかゝり故障の原因となる。体重増に比例して稽古量も減少し、故障が加速する。相撲内容も、押し出し、寄り切り、叩き込み、引き落としが多くを占めまことに味気ない様相を呈するのだ。宇良はこの重量化した力士を相手として襷反り等の反り技を繰り出した事から膝を痛めて休場、幕下に陥落。引退の危機に瀕したが不屈の闘志で復活。体重を増やして反り技を封印、幕内に帰り咲いて今場所には上位に進出し、足取りを始めとして多彩な技を披露し、上位陣を脅かした。鍛え上げた技術を駆使して相撲界に切り込む、その異能振りは一際精彩を放って、得難い存在となっている。

 

7⃣ 34才の四つ相撲の宝富士は左差し一辺倒で、それ以外の取り口はない。差せれば大関級の力を発揮する。37才の押し相撲の玉鷲、優勝したこともある。押しの威力は依然として健在である。今場所二人とも前半は白星を揃えたが、後半はやゝ疲れたようだが、自分の相撲を取り切る若さも変わらず、身体も張っており勝負に対する執念も衰えておらず若手の見本となっている。

 

8⃣ 長く続いた相撲界の停滞も小兵の四つ相撲の力士が台頭してきた、又大柄な四つ相撲の力士も表われ、久方振りに未来がひらけてくる予感を窺わせる。又照ノ富士、宇良、阿炎にみられる不撓不屈の精神力と意志の力は人間の精神の力が如何に困難を乗り越えるものかを我々にまざまざと示してくれたのである。

 

9⃣ 相撲界に望むのは常人とは異なる鍛え抜かれた体格、体力と技術が、その限りを尽くして土俵上で披露することで観客を感動させることであることを各人が銘記してもらいたいものだ。

 

2022年

1月

24日

いわゆる受けうりについて          2022/1/27

2018年10月2日の朝日新聞に「居酒屋で考えた」が掲載されていた。甲南大学教授田中貴子氏である。「ある居酒屋のカウンターで明日も仕事なのでビールを一杯だけ、あとは秋刀魚でを焼いてもらおうかなと考えていると、隣り合わせた男性が話しかけてくる。『山廃がどうの』『ひやおろしがどうの』と日本酒の蘊蓄を語りたいようだだった」「しかし何かで得た知識を披露するだけで、そこには自分独自の視点やユニークな感想は見当たらない場合が大半である。そんなものを聞かされるのは迷惑千万である」と要旨を語っていた。

しかし「山廃」も「ひやおろし」も酒造りの方法の定義であり、その事に個人の視点の入り込む余地はない。田中氏は人の受けうりは価値がなく、自分の独創性こそが大事だと力説しているが、田中氏は大学の講義で受けうりは一切ないとでも言うのであろうか。又まさか自分の言動、考えが総て独創的であると考えている訳でもあるまい。田中氏の言動の99%以上は過去の人々の積み上げてきた知識のいわば剽窃であり、独自性など殆んど取るに足りないものなのではないか。現代の思想、学問、文化、芸術等の中心的役割を占めているのは、中国、西欧から得た知識から剽窃したものであり、他からの受けうりが悪いとすれば今日の日本は存在しないのだ。「何かで得た知識を披露する」のがそれ程卑下すべきものであろうか。他からの受けうりこそ大いに結構、人間にとって大切なものであると思うのだが・・・・。

ちなみにアナトール・フランスは「他人から自分に適したもの、特になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家については、それは立派な人間である」と。

 

2021年

12月

27日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第三部

2019年 山形ドキュメンタリー映画祭上映 『 死霊魂』 第三部  

 

1.朱照南の証言77才2007年9月取材 朱は夾辺溝の元職員

収容者が送られてきた夾辺溝は高台県農場にあった荒地で、冬には零下30度になりなり、1mの凍土となる作物等全く育たない土地であり、しかも受け入れ態勢もない所の収容所へ収容者が次々に送り込まれてきて収容者達はやむなく荒地に壕を掘り、雑草を刈って敷き藁替わりとして凌いだ。しかも1960年に入ると全国的飢餓もあり、一人当たり一日雑穀250gが支給され、寒さと栄養不足で1960年12月撤収が始まるまでに3500人の収容者のうち生存していた人は500人であった事、生存者をバスで高台農場に移すが、途中で次々と死んでいった。

 

2.裴紫豊 元教師(天文が専門)1960年11月飢餓で死亡 享年44才

范培林 教師 吹生の妻の証言 80才 2005年11月7日 取材

夫婦で収容所へ 妻だけ帰される。夫吹生は真面目な人で、再教育と希望に満ちて受け入れ、教育施設は良いところらしい。再教育を受けて新しい自分を作るのだと、又労働者と農民と共に働けると喜んで収容された。こんな厳しい所だとはと漏らしたが、妻には決して苦しいと訴えたことも、食料を送れとも云わず、4人の子供に与えてくれと最後まで手紙に云い続けていた。范培林はその後1961年12月解放された元同僚と再婚したが圧力は続いた。范は1984年に死亡している。

当局は党員になると傲慢になるものが多く、利益の享受を優先し苦労は後回しにする。入党すれば職場で昇格し給料が上がる。上層部がいくら統一戦線を語っても一般の党員にあるのは不満や軋轢だ。思想矯正というのは人を疲弊させ抹殺する。政治教育は開放と締め付けを繰り返すとテロップが流される。

この映画の最後はかって収容所のあった荒野にさんらんする多くの人骨を執拗なまでに映し続けて終わる。

 

3.この映画に出てくる収容所は夾辺溝、明水、新添墩の3カ所で夾辺溝は甘粛省にあった労働収容所全体の名前で、新添墩は夾添溝の主要部から7㎞に位置しいる分場。明水分場は1960年夾添溝のほとんどの収容所がすでに疲労と飢餓であとにできたものである。映画が明水で始まるのはすべての証言者が明水収容所に関連している為である。

 

4.この映画は政治的、社会的に正義であり、進歩であると信じた遂行された社会主義の現実が、これが人間の業(ゴウ)のなせる業(ワザ)によって実行されると、かくも残虐な結末が待っているものかと思い知らされる。現在の中国、北朝鮮の現実とオーバーラップして見えるのである。

 

2021年

12月

26日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第二部

2019年 山形国際ドキュメンタリー映画祭上映 「 死霊魂」第二部

 

1.明水の荒野に人骨が散らばっている。

再教育の為の収容所の跡地である。

縄で縛ってある袋か箱が出てくるが、収容された者が死ぬと荷物と一緒に埋められたものだ。

小石が散在しており一つ一つに朱書きのあとがみえる。死者の名前である。夾辺溝収容所の生存者曹宗華(64才)以下6名が参加して冥銭を火に焼(ク)べて死者たちの供養をする。収容者達は地下壕を掘ってそこに寝起きしていた。

 

2.収容され辛うじて生存していた人達の証言

イ.邢徳(シン・ドー)86才 2005年11月3日 取材 その後死亡

ロ.蒲衍信 83才 同年月 5日 取材 2011年に死亡

ハ.趙丙堃(シャオ・ビンクン)同上年月3日 取材 2008年に死亡

二.趙鉄民 同上年月4日 取材 2016年に死亡

 

4人の証言は実に克明に語られる。驚くべきことに彼らは収容前の職場の人物を始め収容所の幹部の多くの名前を記憶しており、与えられた仕事、次々と死んで行く仲間の実態を生々しく語っている。

誰もが一致して語っているのは、突然職場から移動を命じられ、行きつく先は収容所であり、政府に騙されたと言う事であり、政府の方針は各職場から人数が割り当てられており、右派として収容所に根拠なく送り出されたのである。

邢徳の送られた収容所は3500人のうち3000人が死亡している。収容所の実態は虐待そのもので、その非人道的たるや、まさに目を蔽うような恐るべきものであった。釈放された人々の名誉回復は1977年の文化大革命以降となる。

 

第一部 173分、第二部 171分、第三部 183分 計 8時間47分 2010年に完成、2014年に上映するまでになる。

 

2021年

12月

23日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第一部 

山形国際ドキュメンタリー映画祭上映『死霊魂』第一部  

               2011年 中国 王兵(ワン・ビン)監督作品

 

1956年スターリン批判が始まると中国共産党は「共産党の批判を歓迎する」として「百花斉鳴」「百花争鳴」の運動を展開、知識人から共産党批判の声も出始めた矢先の1957年6月毛沢東が人民日報に「右派が社会主義を攻撃している」との論文を発表し、方針を急展開した。共産党に対する批判的意見を”右派”として徹底的に弾圧、対象者は50万~130万人にのぼった。多くの人々が収容所に送られた。

 

「死霊魂」はその中の夾辺溝収容所に送られた3200人の中で辛うじて生き残り、生存している人達の証言を取材したものある。

1959年から61年にかけ中国全土を襲った大飢饉の最中、収容された人達は一日一人当たり250gの穀物を支給されて、木の皮、草の実も採取して飢えを凌いだが多数の人が次々と餓死していったのである。収容所に送られた人々は党中央を批判した者は殆んど無く、各地方の組織や幹部に意見を述べた者、上司に逆らった者等が大半であった。

収容される基準は定かでなく、各地方の責任者の機嫌を損ねた者や、意見を具申した者、無法、違法な命令に応じなかった者達であった。そこには中央から末端の組織に至るまで横暴な権力の行使、まさに恐怖政治が行われていた。

輝かしい理想を掲げて出発した社会主義社会であっても、人々の心は変らず、非人道的な醜い、人間性を曝した社会がまかり通っていたのである。

 

2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀賞を獲得している。

王兵(ワン・ビン)監督 1967年11月17日中国西安生まれ、2002年に9時間16分に及ぶ大作「鉄西区」を制作。ブログ2020年8月3日付けに『 ビデオ 「鉄西区」WEST OF TRACKS をみる』 として掲載している。

 

2021年

11月

25日

続 大諷の無辺楽事 ボクシング編 刊行

大諷 5冊目の本 『 続 大諷の無辺楽事 ボクシング 編 』が出来上がりました。

本編は大諷のホームぺージの 「ボクシングTV観戦記」及び「ボクシング界の伝説のボクサー達」にアップしたものを抜粋編集したものです。出版社は前回に同じ 智書房。ボクサーの似顔絵は大諷の筆によるものです。

2021年

11月

20日

第14回 葛飾現代書展 風景

2021年

11月

08日

『フーシェ革命暦』辻 邦生 を読んで 

フーシェ革命暦 2冊本  辻 邦生 出版 文藝春秋 

上・下とも650頁に及ぶ大部の作品である。

主人公のジョセフ・フーシェはフランス革命に参加し、反革命家を鎮圧。ナポレオン時代は警察大臣として権力を揮い、彼を人々は変節漢とのゝしった。彼の家は代々大西洋を舞台とした船乗りであり、その後船主として成功をおさめた。そこに生れてパリに多く存在した学院に入り、学校の寄宿舎で生活、僧職となり、田舎教師となる。ついには歴史に残る大政治家なるのだ。

その一代を描いた作品である。最初にナルボンヌ侯爵家の庭に入り込んだフーシェ外1人 フィリップが侯爵の息子アントワーヌの命令で殺害される。殺害者は罪に問われない。

当時のフランス社会がそうであったのか、遡ること2世紀の16世紀には国会が開かれ(全国三部会)その時の議事記録によれば自由、平等、博愛と云う政治概念が既に確立しており、自由な討論が貴族、聖職者、市民たちの間で交わされており、知的水準も高く、人権と正義についての考え方も明瞭に呈出されており、18世紀のフランス革命で噴出した、もろもろの概念はすでに16世紀の中期にには用意さていたものである事から明らかにされている。国家の中の市民つまり第三身分の上奏書には裁判の組織化と裁判そのものを無料にせよという要求や、教育の機会均等と義務化の要求、教育費の国家負担の要求、又国内の商業流通の障害排除、自由化、度量衡の全国的統一の要求等がある。

つまり現実の社会のあらゆる問題について、これらの市民階級、第三身分の人々は確実に目配りが出来ていたのである。この事からみて18世紀末の時代に貴族が平民を殺害して何事もない等が許されていたとは到底思えないのだが・・・・

又、侯爵家の馬車が襲われ2名が殺害される事件や、美少女ミュリエル、銀行家で徴税請負人のブロン他多くの人達が登場するが、物語上の必然性が全く分からないし、登場人物が物語の中で生き生きと動いておらず、各自が果たしてどのような人物か明確ではない。物語をふくらませる目的としか思えない。

 

当時のフランスの政治状況がこの作品では全く描かれていない。階級、権力がどこに存在しているのか、王の権力の及び方、財政、対外的な政策、貴族の実情、その財政、生活基盤等の説明がない。大体にして王侯貴族が徴税をどのようにしていたか、貨幣か物納かも分らない。この時代貴族の没落も進んでおり、商品経済によって、新興勢力も力量を蓄えており、社会変革の準備は進んでいたのであるが・・・・。

 

辻邦生にはそうしたフランス社会の実情に目を向ける関心は全くないようで、他の長編「背教者ユリアヌス」にも感じた事であった。社会と切り離されたところで人物を描こうとしても、それは無理というものではないか。

 

ルネッサンス期の生活についての記述が『ミシェル城館の人』1991年 (集英社) 堀田善衛 著にある。

一般の貴族は、要するに領主であり、地主であってその仕事は農産物の収集であり、その交易であった。従って城館といっても、彼等のそれは豪勢でもなければ、美麗とか瀟洒などと云うこととはまるで縁のないものであった。 ー 略 ー

田園が彼等に与えてくれる収入では到底宮廷での出費を賄えなかった。高価な衣装や、馬匹、召使、宴会等の催し物などには、莫大な費用が掛かり、例えばパリに滞在している時などは、大抵は部屋やフラットを賃借していたものであった。さて、その田園や城館であるが、これもまた、今日の目で、或いは観光客の目で見たりしてはならないのであって、漆喰で石組をかためた塀、あるいは城壁のなかに広い土地を持ち、かつ広壮な城館が建てられていて、その正面に石の大きな紋章などが飾られてい、方々に大理石の彫刻が立っていたりしても、それらのものに目を眩まされていてはまずいのである。高い塔がそびえ立っていても、その内側は穀物や乾草の倉である。中庭の奥の家族の居住する建物は調理場を中心として、4っ乃至5っの部屋があったのであったが、部屋と部屋を仕切るドアというものがまだ考えられていなかった頃としては、全ての部屋は巨大かつ単調、方形に仕切られていて、前後は壁であり、窓は左右の側面壁にしかなかった。それに冬期の寒さを勘定に入れれば、窓はなるべく少ない方がよかった。

もし人が一つの階の端から端へ移ろうとすれば、全部の部屋を一つ一つ突っ切って行くより他に方法がないということになる。その一つ一つの部屋で家族の誰かが、あるいは複数の召使たちの誰彼が何をしていたとしても、とにかく彼、又は彼女のそばを通り抜けるなければならない。たとえ彼と彼女が性交していてもその傍らを通り抜けて行かなければならない。

 

観光客は城館を見物し、巨大な調理用の暖炉マントルピースを眺めて豪勢なものだと感嘆するが、それほど暖かくも有難くもない代物で、火から少しでも離れれば空気は凍てつかんばかり、従って人々は一日中室内でも毛皮つきの部屋着を着たきりで男女とも頭には頭巾を被っていた。マントルピースはけぶってばかりいて、部屋を煤で真っ黒にし煙突から突風でも吹き込めば火の粉だらけになる。ラファエロが最初に法王から呼び出しを受けたのは画業の為でなく、暖炉の修理の仕事であった。床には保温用の麦藁が敷きつめてあり、17世紀のルイ14世でさえもヴェルサイユの宮殿で葡萄酒の凍ったカタマリを噛らなければならなかった。従って貴族も庶民も目覚めている時間の大部分はマントルピースのある台所で過ごすことになる。当時は食堂などなく、台所の調理台で食事をした。テーブルの下には犬や鶏、家鴨がおこぼれを待ち構えていた。領主の家族の食事が終われば、泥にまみれた作男や女達がどっとつめかけて来たのである。

これが時代の貴族の生活の実態であった。領主の妻は種蒔き、農地の手入れ、収穫等の農作業の監督、狩猟の獲物の処理、冬期の為の備蓄、作男や小作人たちの苦情処理などを一手に担って激務をこなしていた。

 

その他、王族から庶民に至る様々な生活実態を極めてリアルに描き出している。

1337年に起った100年戦争はイギリス エドワード3世とフランスのフィリップ6世がフランスの王位を争ったのが原因で1437年ジャンヌ・ダルクがシャルル7世を擁してパリに入るまで続いたが、当時、王とは言うものの、王領としての地域はあるものの各地の大貴族が各々領地を有して隠然たる勢力うぃ示して群雄割拠の時代であったが、ユマニスト ミシェル・モンテーニュを語るには、この本3部作の大半をこの解明にあたっている。然もフランス、イギリス、ドイツの各国の入り乱れての抗争の中にカトリックとプロテスタントの血で血を洗う闘いが繰り拡げられ、双方から多くのキリスト教徒を中心に火刑台に送られていた。

イギリスのトーマス・モアを始めユマニスト達の多くが殺されているが、その中で尚多くのユマニスト達が育っていったのである。イギリス、ドイツ、オランダ、フランスのユマニスト達は国際語たるラテン語を駆使して強い絆で結ばれ協力していて、弾圧をかいくぐって多くの本も出版している。

 

堀田善衛はこの苦難の時代を様々な視点から解明し、政治、社会のあり方と、文化、芸術との関係をドラマチックに描き出している。

「フーシェ革命暦」との大きな違いである。

 

2021年

11月

02日

椎名 保 展 をみる    銀座第7ビル ギャラリー

会  場 銀座 第7ビル  ギャラリー 1F 

開催期間 2021年11月1日~11月6日

 

椎名 保 氏は葛飾区美術会に所属する日本画の大家である。

海、木立、筑波山、桜、紅葉、オーロラと様々な日本画のモチーフを美しく繊細に描き出して極めて真面目な人柄を全作品に偲ばせている。誰もが好感を持つ作家である。

2021年

11月

02日

作品 紹介 刻書 「 露 」 

 刻書 「露」 銀泥仕上げ 

2021年

10月

31日

ドキュメンタリー映画『チリの闘い』 第二部「クーデター」及び 第三部「民衆の力」  10月25日掲載の続き 

ドキュメンタリー映画『チリの闘い』 第二部「クーデター」及び  第三部「民衆の力」

    ( 第一部「ブルジョワジーの叛乱」は10月25日付け掲載済み)

1973年6月29日のクーデター未遂事件から9月11日のクーデター実施へと至る出来事が時系列で語られる。

第二部 「クーデター」 

6月29日のクーデターは軍の多くの司令官たちはこれを静観、時期尚早とみたのである。街はクーデター挫折を喜ぶ人民連合の支持者で埋め尽くされる。左派の労働者たちは即座にチリ中の工場や企業を彼等の管理下に置いて、これをコルドンと云う地域労働者連合会がこの仕事を統括した。アジエンデはこのクーデターを受けて非常事態関連法を議会に要請。野党が多数の議会はこれを却下。軍は前年議会を通過していた銃砲取り締まり法案により武器の捜索を工場中心に強行し、国民恫喝を開始する。

政府は政府転覆をもくろむ勢力、アメリカ合衆国と叛乱支持者による迫りくるクーデターの脅威を前にして、民主主義を尊重する将校達の支持とキリスト教民主党との最低限の合意を目指す一方で人民連合内でのクーデターに対する戦略をめぐって見解の相違が表面化する。左派の過激派が政府と人民連合の主力の態度を「妥協」ととらえ激しく対立する。

 

7月27日 大統領の海事副官は政府と海軍将校との重要なパイプ役を担っていたが、極右に暗殺される。又輸送業者が無期限ストに突入、経済を混乱に陥れ、政府とキリスト教民主党との対話を妨害しようとする極右の作戦である。このスト参加者達にはCIAから500万ドルの資金援助がなされた。CIAの訓練を受けたテロリスト達はダイナマイト等を使ってのテロを繰り返し、キリスト教民主党はスト支持を表明。しかし政府と支持者によりこのストに対応「人民商店」を強化し、国から直接購入した食料を原価で売る等の手配と政府を支持する運送業者の協力でこれに対抗した。

 

やがてホワイトハウスと国内の野党は次第にブルジョワの大半を味方につける事に成功。

一方人民連合はアジエンデ支持のデモを組織し80万人が集結。アジエンデは9月11日に政府のやり方をめぐって国民投票の実施を表明。これを知った合衆国政府と反アジエンデ派は最後の手段をとることに決定。アメリカの駆逐艦4隻がチリの沿岸に迫り9月11日空軍の爆撃がモネダ宮殿を襲い、アジエンデは宮殿の中で死亡。

以後 大衆運動は徹底的に弾圧、数千に及ぶ人々が虐殺されスポーツ競技場は強制収容所と化す。

 

9月11日に放送されたアジエンデのラジオ演説『歴史は抑圧や犯罪をもってしては押しとどめることはできない。彼らは我々を押しつぶすこともできるかもしれない。しかし歴史は人民のものであるり、労働者のものである。遅かれ早かれ大きな道が切り開かれることだろう。みな自由に歩くことができ、より良い社会を建設するために通る大きな道が』

 

ここに描かれる人民連合の人々の涙ぐましい努力と崇高な精神と高い倫理感、反動勢力に対する的確な対応力は感動的である。

対するアメリカ合衆国の権力と策略とそれでもダメなら武力で叩き潰す、その在り方には今更ながら改めて思い知る思いがする。

 

チリの闘い  第三部 「民衆の力」 

1972年アジェンデ政権が誕生して1年半、サンチャゴでアジェンデのパレードに大声援を送る支持者達の熱狂ぶりが示される。

運送業者のストライキが実施される。野党の強硬派国民党がけしかけたもで、全国農業協会や全国商店主連合も同調、キリスト教民主党もこれを支援、原料、農産物は国中でストップした。

ニューヨークタイムスは「経済的支援」を合衆国政府であったと暴露した。

労働者達は工場のトラックを走らせることで何とか対処、労働者の多くが工場のトラックや徒歩で通勤、一方で産業界の重役やエンジニアは自宅に留まることでストを支援する。これに政府支持のエンジニアが数社を担当して業務を維持した。反政府派による生活必需品の買いだめが急増、政府派はこれを監視強化と、産業界の組合が製品を各地域に運び閉鎖中の商店を開業。

1972年10月には政府の予想を超えて労働者の組織能力は高まり、産業界で資源を交換するシステムを作り上げる。改革に行き詰まったアジェンデは民主制を支持した陸軍司令官プラッツを内務大臣に任命し、ストライキ終結に成功、一方労働者は国内の数百の工場を占拠、企業統合した産業コルドンが形成されて社会主義化が進んで行く。

都市部の労働者が農民に協力して雇用者側に対抗、政府には農地改革を迫った。右派の策謀により商品の多くが闇市に流される事態を人民勢力は商店を介さずに各家庭に食料を始め生活必需品を行き渡らせる供給制度を作る等、人民勢力の成長振りは目覚ましく、社会主義化への道を着実に突き進んで行く中で、労働者、農民、市民の連帯を一層強めて行くのだ。

しかし、議会中の勢力は半数以下であり、政策の現実は困難を極めて、労働者たちは現状への危機感を強め、膠着状態に陥った政府に対し苛立ちを募らせていた。彼等は既存の資本主義制度を超えて、階級闘争を挑んで行かなければならないと考え始めていたのである。クーデターの悲劇は真近かに迫っていた。

反政府勢力は(アメリカ合衆国を含めて)の様々な政府転覆に失敗して、ついに最後の手段クーデターを実行に移すことになる。

 

2021年

10月

25日

ドキュメンタリー映画「チリの闘い」三部作(1975~78年) 第一部「ブルジョワジーの叛乱」

ドキュメンタリー映画「チリの戦い」三部作(1975 ~78年)

 

(1)チリ出身のドキュメンタリー映画の巨匠パトリシア・グスマン監督。チリでは世界初めて選挙で誕生した社会主義のアジェンデ政権が1973年9月ピノチェト率いる軍部のクーデターで崩壊するまでを描いている。クーデター後逮捕、監禁されたグスマンは亡命。国外に持ち出した撮影済みフィルムをもとに映画を完成させたものである。

 

(2)第一部 「ブルジョワジーの叛乱」

映画は1973年9月11日正午頃モネダ宮殿が爆撃される短い映像から始まり、すぐに6ヶ月前に戻る。

3月4日の選挙を前に野党キリスト教民主同盟と結束した国民党の右派と左派政党が結束した人民連合の善戦で予想された右派が大統領を解任に必要な3分の2以上の多数をとることがかなわず、人民連合の議席増に終わる。

そこから右派の激しい攻撃が始める。砂糖、トイレットペーパー、洗剤、米などの買い占めが始まり、政府が即座にこれに対処。ついで右派は内閣の閣僚を次々に解任し、やがて全閣僚に対する弾劾を始めるが、これに失敗。野党の支援を受けた右翼学生のデモ、ついで合衆国で研修を受けた輸送業者が罷業を行い3分の1が移動不能となる。又軍人4、000人以上が米国で訓練を受け、4、500万ドルに及ぶ軍事援助を受けていた。

4月19日チリ経済の中心である銅山でキリスト教民主党のそゝのかしによってストライキが勃発(銅山労働者は高額労働者であった)。ストライキ中も労働者の半数は残業しながら残業しながら通常の倍の仕事を行って、人民連合を支えたのである。給与を倍額にする事を要求するデモが組織され組織され行く手を塞ぐ警官隊と乱闘を始める。ストの指導者は鎮圧による犠牲者を必要としていた。しかし政府は細心の注意を払って行動するように警官に命じており、このデモは失敗。スト指導者はカトリック大学を煽動し、反政府デモを行わせるに成功。小売業者や輸送業者がスト参加者と連帯してストを呼びかけ、政府は警官隊を動員し、人民連合支持者も宮殿前に結集し、デモを組織し、内戦阻止をスローガンに50万人集会が開かれアジェンデが演説。その一週間後ストライキは終息、そしてついに6月29日第2機構甲連隊が6台の戦車と数台の輸送車を使ってモネダ宮殿を攻撃。

アルゼンチン人のレオナルド・ヘンリクセンがこの様子を撮影している最中に撃たれる。(そのヘリクセンが撮った映像が示される)で一部が終わる。

 

(3)チリという国について

 

イ.住民の95%はスペイン系白人と原住民アメリカインディアンとの混血人(メスティーソ)である。

ロ.スペイン人の征服は遠隔の地であることと、インディアンの抵抗の激しさに手を焼いた為と、金・銀の発見がなかった為に主として牧畜が行われてきたが、1917年スペイン国軍を破って独立を宣言した。

ハ.1964年キリスト教民主党のフレイが社共を中心とした人民戦線がアジェンデを抑えて当選したが、6年間の結果国民の失望を買って社会党、共産党、急進党その他3会派による人民統一戦線におされた社会党のアジェンダに敗れた(70年9月)

 

しかし得票率は36%、決選投票によって当選。当時の国会勢力は上院50、下院150のうち、総計80。キリスト教民主党は78で、不安定であった。軍隊については軍事予算は国家予算の10 %と低く、軍隊については軍事予算は国家予算の10%と低く、陸軍の兵力は3万8千人、政治不介入の原則にたってはいたし、過去の武勲により国民的な人気を確保していた。50万の組合員を擁する労働総同盟は共産党の指導下に置かれ、銅度業、こ公共企業関係、労組は強力でしばしばストライキに訴えており、国民の教育に関する関心は強く文盲率は20%弱である。

 

二. 産業は銅を中心とする鉱山物は輸出の85%を占めてこれからの脱却を図っているところである。チリの銅産業を支配するアメリカの企業にとってアジェンデの国有化政策は脅威となっていた為に何としてもアジェンデ政権を倒す事が急務となっていた。

 

2021年

10月

23日

10月22日 朝日新聞 「眞子さんの結婚に思う」森まゆみ について

寄稿 ----「眞子さんの結婚に思う」----- 森まゆみ を読んで思う事

2021年10月22日の朝日新聞に掲載された その要旨。憲法第24条によれば「婚姻は両性の合意のみに基いて成立する」何人たりとも介入は出来ないはずとし、この4年間プライバシーの侵害はもとより「内親王の結婚相手にふさわしくない」「これからの皇室が心配される」「皇室の尊厳を損なうものだ」と おちょぼ口、したり顔の皇室ジャーナリストをはじめ、識者といわれる人たちが敬語を用いながら全く敬意のない論を繰り広げてきた。こうしたおためごかし、余計なお世話の論がふえるにつれと続き、憶測だらけの記事を書きまくったメディアにはうんざりだとし、結論として、思うように生きたらいい。

好きな仕事をしたらいい。もっと別な貧しい、過酷な社会があることも知るといい。うまくいかなければやりなおせばいい。人に強いられた人生には恨みしか残らないが、自分の信念で選んだことなら責任の取りようはある。眞子さん、アメリカで羽ばたいてください で終わる。

森氏の結論を世間一般では余計なお世話と言い、したり顔と云う。

 

第一に 森氏は自己決定権は基本的人権の基礎であると述べているが、そもそも眞子内親王に基本的人権は無い、選挙権も無ければ、住民票も無いく、言論の自由も無く、自分で生活して行くという自己決定権は全く無いのだ。自己の主張も一切封じられている。そうした状況を全く無視していきなり「婚姻は両性の合意のみに基づいて」と言われても内親王は一般人と隔絶した世界に生きており、そこに本当の両性の合意が築けるとは到底思えない。日本国民としての権利が一切奪われている、いわば羽を失わされた内親王に「アメリカで羽ばたけ」とそこは酷と言うものである。

 

第二に マスコミ非難について、はマスコミは売れるとみればとりあげて報道するものであり、そこには虚実入りまじるのが当然である。それには政治家でもタレントでも区別なく容赦なく曝される。森氏は皇族をこのように取り上げるのはいかんとでも言うのであろうか。皇族には忖度しろとでも云うのであろうか。

 

第三に 言論人としての森氏が取り上げるべきは、こうした皇室の人達の人権や言論の自由を改めて考える事である。憲法には第4条に「天皇は憲法に定める国事に関する行為のみを行い国事に関する権能を有しない」

 (注)権能とはある事柄について権利を主張し行使することが出来る能力。法律上認められている権限についていうこと。

 

としか記されておらず、住民票のない事や選挙権がない事等又言論、信教の自由や表現の自由の制限等には一切触れられていない。従って現在の慣例である様々な制限は憲法上規定されていないのである。この事こそ現在問題視されている内親王の根本原因であるのにこれに切り込む事をしないのは何故か。

 

第四に  第二次世界大戦の開戦、続行に最高責任者として絶大な役割を担った昭和天皇は侵略戦争のまさに当事者として責任を負っておらず、昭和天皇は必ずしもその責任を感じてはいないようであった。しかし平成天皇は天皇の原罪とも云うべき戦争責任を痛感していたかのように、戦争犯罪人を合祀した靖国神社参拝を行わないことでその矜持を辛うじて保っており、自然災害の度ごとに現地を見舞い、慰撫、激励し、国民に寄りそう姿勢を一貫して続けてきたし、令和天皇もその意思をついでいるようにみえる。歴代の政府と戦争関しての大きな意見の相違が見てとれるのである。

森氏は第二次世界大戦をどう考えているのであろうか。何故戦争は始められ、軍人350万人と民間人数10万人の命を奪い、数百万人のアジア人を殺害する侵略戦争に突入していったのか。軍隊はもとより、政府に誘導されたとはいえ多くの国民が熱狂的に戦争を支持した事も又事実であり、戦争終結後もあいまいのまゝ不問に付し、戦争遂行責任者の多くが戦後も尚引き続いてその任に当たったことから、憲法違反の世界有数の軍事力を持ち、今日のモリ、カケ問題、公文書破棄・偽造問題や桜問題、福島原発問題等民主主義国家にあるまじき事態を迎えた遠因となったと言えなくもない。

眞子内親王問題も戦後、米国の思惑によって存続させられた天皇制の矛盾が表面化したに過ぎない。

 

最後に森氏の尊敬する知恵ある老人の「失敗のない人生はそれこそ失敗でございます」といったこの言葉を眞子内親王にプレゼントしたいと語っているが、人生で失敗の無い人なんて唯一人として居ないものだし、取り返す事の出来ない失敗も人生にはあり得ると言っておきたい。戦後国家の主権、人権、そして天皇制を国民的論議なしに作りあげら事に内親王問題の本質がある。

 

2021年

10月

19日

『理大囲城』山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

『 理大囲城』 香港 2020年 制作

2019年11月 民主化を求める若者たちによるデモ隊は、圧倒的武力をたのんで嵩にかゝって威圧する警察によって理大構内に包囲される。様々な手段で脱出を図るが悉く失敗。若者たちの憔悴や不安、別れる意見、そこに高校校長を名乗る人物が現われ妥協案を提示する。果たして彼は権力の回し者か?  揺れる若者たち。結局全員投降して終息する。

一国二制度を力づくで覆そうと容赦ない暴力使用を辞さない中国の権力行使をまざまざと表現している。

 

2021年

10月

19日

虎 二作品 紹介

桜板に描く 『 虎 』 

来年が寅年。 妻が7回目の年女にあたる。

 

石に彫る『 虎 』 

輪郭を彫った上に水彩絵の具で彩色

2021年

9月

27日

令和四年干支 寅年 に因んで 『虎』 他作品 4点 紹介

1.『 虎 』 200 x 280 ㎝  

 

2021年11月に例年姉小路(京都)で行う路上での墨のパフォーマンスが、昨年に続いて現地に行けない為に、東京の自宅で作品を書いて京都に送ることとなった。

昨年は京都から軸装した用紙を送付してもらったが、今回は作品を送って先方でこれを軸装してもらう事とした。書いた作品は一年間京都市観光センターで展示される。

 

2.刻字  30 x 70㎝     

金文  20行 197字

佳八月初吉 王在宗国 以下 省略 陰刻 胡粉仕上げ

 

3.刻字

『 龍 』  16 x 23㎝    

 陽刻  金泥仕上げ 中国で心霊視される鱗虫の長 

 鳳麟亀 とともに四瑞の一つ。

 よく雲を起し雨を呼ぶという。

 仏教では仏法守護の天竜八部衆の一つ。

 

4.刻字  19 x 32cm    

屋久杉の古木に陰刻 緑青仕上げ

『 王維の五言律詩 

 中歳頗好道 晩家南山陲(ホトリ)  呉来毎獨往

 勝事空自知 行到水窮處 坐看雲起時

 偶然値林叟 談笑無還期

2021年

8月

07日

演奏会付食事会に参加 7月29日

演奏は1時間、津軽三味線の山中信人と二胡のシュウ ミンの二人である。

三味線の演奏は「忍者」「島唄」「桃花過度」「ソーラン節」「十八坂」で二胡と共演である。

ソロは「津軽ジョンガラ節」「さくら」。

 

三味線と二胡は相性が良いとは必ずしもいえず、何故演奏を共にしなければならないか、その必然性が全く理解できないものであった。

「さくら」に至っては自己のテクニックが如何に優れているかのみを誇示するのを目的としているかにみえて、曲の美しさを無視したものであった。

 

肝心の「津軽ジョンガラ節」は今から50年程以前に聴いた高橋竹山の演奏はまさに魂を揺さぶるような見事なものであったが、山中氏のものはたゞただ騒がしいものであり、元々は雪深い津軽の貧しい寒村で、或いは瞽女等の演者が門付けで各人家の前に立って演奏したものであろう。家には病人や乳飲み児もいたかも知れず、あのように騒がしい音を出してはその家はもとより近所迷惑であった。

竹山の演奏は門付けの状況が目に浮かぶような情感溢るゝものであったが、今の演奏は演奏会用に特化し、三味線の持つ地域性の強い哀感を切り捨て、無国籍なものとしてしまったのであろうか。

演者として生活していく為に、合わない洋楽器や今回の二胡のように各々の楽器を単なる道具と考える、哀しくも情けない現実を見せつけられたのであるが、地域性の強い楽器や楽曲は存続が難しくなったことなのであろう。

二胡の演奏は「二泉映月」に救われるおもいがあった。

 

2021年

5月

14日

私と金泥の書 (その3)作品紹介 3 / 3

私と金泥の書 作品紹介 3 / 3   4月28日 2/3 より続く

24.李白 詩選  25.  正法眼蔵随聞記    26.  菅 茶山 作 七言律詩  法隆寺 持国天 賛  27. 李白 作 五言律詩  法隆寺 九面観音 賛 28.張 廷琢 作 マリア観音 賛 

 

24.  李白 詩選  李白は李太白(701~762)

酒を好み奇行多く遊侠の人。文才を認められて玄宗皇帝の側近に取り立てられたが高力士等の高官に嫌われて宮廷を追放されている。その後野心家の王子に利用されて部下となったが、中央政府から処罰された。

政治への関心が強く、詩文は政治、酒、遊侠、山水、婦人等多岐にわたっている。

今回は3分の2が酒に関わる詩をあつめ、3分の1が王昭君や西施を始めとし女性に関する詩を取り上げたものである。

 

李白を良く表した詩に

問余何意住碧山 笑而不答心自閑職 桃花流水窅然去 別有天地非人間

(俗人は私にたずねる あなたは何が面白くてこんな山の中に住んでいるのですか 私は笑って答えない ただ黙っている だまっていて 私の心にわだかまりはない)

俗人どもの世界とは違った純粋な美しい別のひとつの天地がこゝにはある。

 

25.  正法眼蔵随聞記  懐奘 作

宗教家 道元禅師の思想を知るのに最も適切な入門書である。

道元の弟子孤雲懐奘(1198 1280)は師が折に触れて説示した教えを自ら書き残したのが随聞記である。もともとは懐奘がメモとして書き残していたものを懐奘の弟子達が整理編集して一書をしたと考えられている。

随聞記が今日なお愛読されているのは、そこにたぎっている精神的気魄である。

 

26. 菅 茶山 作 七言律詩 

法隆寺 持国天 賛

竜 盤

竜盤寅路帝王都  誰見当時職貢図

祭祀千年同雅楽  朝廷一半漢名儒

世情頻逐浮雲変  吾道長懸片月弧

懐古終宵愁不寐  城鐘教杆起栖烏

 (法隆寺 持国天立像)

 

27.李白 作 五言律詩 

法隆寺 九面観音 賛

贈 銭徴君少陽 

白玉一盃酒  緑楊三月時

春風餘幾日  両鬢各成絲

乗燭唯須飲  投竿也未遅

如逢渭水猟  猶可帝王師

(法隆寺 九面観音)

 

28.張 廷琢 (清代) マリア観音 賛

閑雲野鶴心同静  瓶水爐香意自如

(マリア観音像)

  

2021年

4月

28日

私と金泥の書(その三)作品解説 2 / 3

金泥の書 作品解説 1/ 3  4月25日より続く

11. 古事記 12. 日本書紀 13.  和漢朗詠集  14. 子規句集 15. 集字聖教序 16. 自叙帖 17. 西園雅集図記  18. 曹全碑  19. 風信帖  20. 古今和歌集  21. 赤壁の賦  22. 蘭亭序 

 

11.古事記  (銀 泥  上・下)

日本最古の歴史書。稗田阿礼が天智天皇の勅により誦習(ショウシュウ)した帝紀及び先代の旧辞を太安万侶(オオノヤスマロ)が元明天皇の勅により撰録して712年献上したもの。

 

12.日本書紀  (金 泥)

奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わる神話、伝説等を記述したもの。

 

13.和漢朗詠集  (銀 泥 上・下)

藤原公任撰 1012年頃成立したもので白楽天等漢詩文580首(多くは七言二句)及び柿本人麻呂、紀貫之等の和歌216首を添えたもの。

 

14.子規句集  (金 泥)

高浜虚子選 子規は生前に自選の句集を刊行。「獺祭書屋俳句帖抄」上巻 745句、下巻は本人の病気悪化と死の為に刊行できず、大正13年に子規全集 全15巻が、昭和4年には全集 全22巻が刊行されている。子規は短歌改革を試み、大きな足跡を残した。

尚随筆に「病状六尺」「仰臥漫録」「墨汁一滴」等がある。

 

15.集字聖教序  東晋 王羲之  (銀 泥)

この碑は唐の高宗の咸亨3年(672年)長安の弘福寺内に建てられた。通高350㎝、広さ113㎝ 碑頭に7仏を彫っているところから七仏聖教序ともいう。

碑文は30行、全文1904字。懐仁(エニン)が王羲之の行書を集字したものである。聖教序とは玄奘三蔵法師がインドより将来した佛典を新たに漢訳して唐の太宗に奉じたもので、蘭亭序とともに行書の典範と仰がれている。

 

16.自叙帖  唐時代  懐素

懐素(カイソ)は張旭と友に「張顚素王」と称せられ、狂草をもって知られる。二人は共に酒酔に乗じて筆をとり、ところかまわず奔放に疾書して世を驚かせた。懐素の作のうち最も名高いのが自叙帖である。巻末には「大歴丁巳(777年)冬10月20有8日」の款記がある。本幅は紙本絎28.3㎝、長さ755.0㎝。現在は台北故宮博物院の所蔵となっている。良寛は懐素の自叙帖を学んで草書を会得したと云う。

 

17.西園雅集図記  明代  張瑞図 (銀 泥)

宋の米芾(ベイフツ)の撰した「西園雅集図記」(セイエンガシュウズキ)を書いたもので西園雅集は蘭亭における雅会とともに、文人の心楽しい生活を象徴するものとして世に尊ばれた。瑞図(ズイト)は進士科に合格するや、順調に出世の階段を登って、当時権勢を振っていた宦官 魏忠賢の愛顧を受け高官に登ったが、毅宗が即位すると魏忠賢は誅せられ、瑞図も連座して官を下って民となり詩文書画に余生をおくった。明時代の本流は平明で風格ある文徴明を中心としていたが、新しいロマンチズムが台頭し激情的、あるいは華麗にして新鮮な風がおきてくるが、張瑞図もその一人であった。

本書は幅 絎207cm ,横55㎝ 全文503字である。

 

18. 曹全碑 漢代  (金 泥)

隷書は秦の程邈(テイバク)が小篆の繁雑さを省いて作ったものとされ、漢代に装飾的になる。隷書は漢代に絢爛たる一時代を築くが、その掉尾を飾ったのがこの曹全碑である。

曹全碑は万歴(16世紀)の初めに出土したもので当初は傷みが少なかったが、業者が拓本を取ったあとに傷を意図的につけていった為に傷みがひどくなって行った。本文は849字である。曹全はあざなを景完といい、やがて孝廉(コウレン)に挙げられ郎中の官に除せられ、西域戊部司馬を拝した。黄巾の乱に際して選ばれて郃陽令を拝し動乱を収拾、そこで群僚たちがその高徳を表彰するために、その功績を石に刻したのがこの碑である。しかし漢帝国の滅亡に際し、急拠この碑は埋められた。

 

19.風信帖  空海  (金 泥)

風信帖は空海が最澄にあてた手紙3通を合わせたものである。

書き出しに「風信雲書・・・」とあることから「風信帖」と呼ばれる。京都の教王護国寺(東寺)に所蔵され、国宝に指定されている。風信帖はもともと5通あったが、盗難にあったり、古筆愛好家で名高い豊臣秀次の懇望によって割譲されたりして二通が失われたと跋文に記されている。

空海の書は日本の名筆中の名筆と称せられ、上代の日本の書道の頂点であるといわれている。

 

20.古今和歌集  (銀 泥)

勅撰和歌集の始まり。醍醐天皇の下命により紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)、壬生忠岑(ミブノタダミネ)撰。六歌仙、撰者らの歌約1100首を収め、優美、繊麗な歌集。

 

21.赤壁の賦  蘇軾(ソショク) (銀 泥)

1082年7月 友人と一夜赤壁に遊、さらにその冬別の友人と再遊した時の作。前者を「前赤壁賦」、後者を「後赤壁賦」という。

「赤壁の戦」

三国時代 孫権、劉備、の連合軍と曹操の軍との戦い(208年)。曹操の兵船や陣営を焼き払い、勝利を占めた。これにより江南の大部分は孫権に、劉備は巴蜀を得て天下三分の形勢が生じた。

 

22.    蘭亭序  王羲之

王羲之は晋代の永和9年(353年)9年3月3日、現在の県知事に相当する役職に任命され會稽に赴任した。

そこで地元の名士を園遊会に招待。謝安、孫統、王彬之等羲之の子 凝之、徽之、操之たち計41人と會稽の蘭亭で曲水の宴をひらいた。

曲水の宴は中国の年中行事の一つで3月上巳(ジョウシ)3日(桃の節句)に、参会者が曲水に臨んで上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次に流す。

終わって別堂で宴を設けて披講(註)するものである。その時作成した参加者達の詩に微醺(ビクン)を帯びた羲之が鼠鬚筆(ソシュヒツ)を揮って序文を書いた。

これが世に名高い蘭亭序である。

全文28行、324字で同じ字はみな別の形に作っている。後に幾度書き直してもそれ以上ものは出来なかったと云う。羲之自身もこれを愛重(アイチョウ)し、子孫に伝えて七代の孫智永に至った。智永は臨終に際して、弟子の辯才にこれを与えた。

 

唐の太宗は名筆を愛し、特に羲之の真筆を全国から集めたが、蘭亭序だけは得ることが出来なかった。やがて辯才が所持している事を知った太宗は監察御史の蕭翼に命じ、蕭翼は辯才を巧みに誑(タラシ)込み、これを手中にし、太宗に届ける。気落ちした辯才はまもなく世を去っている。

 

太宗は手に入れた蘭亭序を虞世南、欧陽詢、豬遂良等に臨本を作らせて、これ等が現在に残っている。蘭亭序の墨本は太宗が棺中に納めさせて真筆は永久に姿を消す事になった。

 

(註)披講(ヒコウ)詩歌の会や歌合わせ等で詩歌を読み上げること。

当時の役人は総て、そして文化人もまた詩を吟じ、書を能くするのは必須の条件であった。

2021年

4月

25日

私と金泥の書(その三)作品解説 1/ 3

金泥の書 作品解説 

1.源氏物語 2.風姿花伝 3.平家物語 4.歎異抄 5.千字文  6.梁塵秘抄

7.方丈記 8 徒然草 9.紫式部日記  10.奥の細道    

  

1.源氏物語 紫式部(金泥 全38巻) 

 源氏物語は様々な疑問を生んできた。

 イ.宇治十帖は別人が書いたものではないか。

 ロ.五四帖は現在の順序で執筆されたものではないのではないか。 

空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘の部分は後に挿入されたもではないか、等々である。

しかし、いずれにせよ小説としての出来栄えは見事なもので、宿直の場面「雨夜の品定め」の中で、若い貴族達が様々に女性を語るが、源氏がこれを聞きながら「何も分かってないなぁ」と思うところや、女三宮が柏木と密通して源氏がこれを知った時の心の動きや、柏木に嫌味を云う場面はまるで20世紀文学を彷彿させるようである。

物語としての前半は女が男のふた心に悩み、後半は女が自分のふた心悩むことがテーマ

となっており、前半は光源氏の名のとおり昼で、後半は闇の部分となっている。

登場人物の薫、匂の宮に象徴的に示されているのだ。

 

2.風姿花伝 世阿弥 (金 泥)

「秘すれば花なり」が特に宣伝されており、日本芸能の核心をつく一言でもある。

「時分の花をまことの花と知る心が真実の花に猶遠ざかる心也」「老骨に残りし花」「この花よりは大方、せぬならでは手立あるまじ」等まことに納得させられる名言が語られている。

 

3.平家物語      (金 泥 12巻)

平氏積年の願いを平忠盛が昇殿を許され実現しようとしたが、貴族達がこれを「殿上闇討」にしようとする。

宮廷貴族達が宮中の総てをとり行い政治を動かしていたが、忠盛という武人が割り込んでくるのが我慢ならなかったのである。

闇討ちといっても殺害するのではなく大恥をかゝして、その力を削ぐのが目的であった。これを知った忠盛は剣を帯びた屈強な従者を従えて、貴族達を恫喝これを封じ込める。

又権力を握った清盛が市中にきらびやかな衣装をまとった童子達を送り込み、反平家の人々を取り締る。

宇治川の合戦で義経配下の梶原景季(カゲスエ)が磨墨(スルスミ)に、佐々木四郎高綱が生唼(イケズキ)にうち跨り先陣争いする場面、川中に張った網を刀で切り拂いながらの描写は、まるで活劇のようであり、読み物としてのみどころが多い。

 

4.歎異抄    (金 泥)

この書は親鸞の語録を本とし、それによって親鸞の死後に現れた異説を嘆きつゝ親鸞の正意を伝えようとしたもので、十章以降は弟子の唯円(ユイエン)が師の主話を汲んで書いたものとされている。九章までの力強さが、十章以下とでは大きく異なるのはその為でもある。

歎異抄と云えば三章の「善人なおもて往生とぐ、いはんや悪人おや」が有名であるが、五章の「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏をまうしたることいまださふらわず」。

二章の「たとひ法然聖人にすかせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とまことに衝撃的な内容が詰まっていて驚かされる。

今日でも依然として多くの人に読まれる所以である。

 

5.千字文   (金 泥) (銀 泥)

千字文は四言の韻文で綴られた一千個のそれぞれ異なる文字の集まりで、作者は梁(リョウ)の周興嗣(シュウコウシ)である。

梁の武帝が「王羲之の書千字を次韻せるをあげて、並びに興嗣をして文をつくらしむ」とあり周興嗣は一晩かゝって千字を用いた整然たる韻文を作り、武帝に奉ったが、その苦心の為に髪の毛が真っ白になったという。

 

6.梁塵秘抄 上・下 (金 泥)

後白河法皇が編んだ平安時代の歌曲、今様とよばれるものゝ歌詞の集大成である。

二部から成っており、第一部は今様その他の歌詞を集め、第二部は法皇の意見、感想、思い出などを記した覚書である。この時代成熟した貴族文化は極限に達し、形骸化して行った。新しい血が必要になったのである。法皇は老いて引退した今様の名手、遊女乙前を探し出し宮廷内に住まわせて12年間彼女に師事したのである。乙前が84才で没すると50日間、毎日阿弥陀経を誦(ヨ)みその極楽往生を願ったという。

 

有名な一説  

遊びをせんとや生まれけむ 戯せんとや生れけむ 

遊ぶ子供の声聞けば 我身さへこそゆるがるれ   

がある。

 

7.方丈記  鴨  長明 (銀 泥)

鎌倉時代の随筆。長明は強情片意地な性格があったようで後鳥羽院が長明に音楽、和歌

の才を認めて鴨後祖神社の祢宜に任じようとしたが、これを拒否して、出家している。

人生の無常を簡潔、清新な和漢混淆文で書きあらわしている。

 

8.徒然草 吉田 兼好(金 泥 4巻)

兼好は後二条天皇の御代(1302~1308年)、朝廷に仕えたが、30才頃に官吏の身分を離脱して遁世者となった。

彼は世俗とも仏道とも異なる第三の道を模索し、世俗にも惑溺せずに仏道にも真に徹底出来ない自己を心身の安静に生の意義を見出している。

徒然草は、世の中を豊かな関心と興味をもって具体的に描き出し、自分史の自由な発想のもと自在に書きあらわしている。

 

9.紫式部日記 紫式部 (銀 泥)

紫式部が中宮彰子に仕えた1008年から約1年半にわたる日記と消息文よりなるもので、藤原道長邸での生活、彰子の出産等が描かれている。

 

10.奥の細道 松尾 芭蕉(銀 泥)

元禄2年(1689年)3月27日江戸深川を出発、門人曾良と共に奥州各地を行脚し、北陸道をへて美濃路の大垣に入る。9月6日伊勢神宮に向かって大垣から船で出発するところで筆を止めている。別号に桃青、泊船堂、釣月軒、風羅坊がある。

 

2021年

4月

20日

私と「金泥の書」( その二 ) 作品一覧  書き続けた作品の数々

「金・銀 泥の書」 作品一覧           

これらの作品は本ホームページの「作品集」及び「展覧会」の項目にて、特に源氏物語に関しては「源氏物語書写」の項目にてご覧いただけます。             

( 最近の作品の一部はまだアップが間に合わないものもあります)

 

1.源氏物語   金泥 全38巻  

2.平家物語 金泥 12巻  

3.徒 然 草 金泥  4巻  

4.和漢朗詠集   銀泥   上・下  

5.梁塵秘抄 金泥    上・下

6.風姿花伝 金泥

7.奥の細道 銀泥

8.紫式部日記 銀泥

9.子規句集 金泥

10.日本書紀 金泥

11.古 事 記  銀泥  上・下

12.方 丈 記  銀泥

13.古今和歌集  銀泥

14.佛説阿弥陀経 金泥

15.曹 全 碑  金泥

16.西園雅集図記 銀泥

17.集字聖教序  銀泥

18.自 叙 帖  懐素  金泥

19.歎 異 抄  金泥

20.千 字 文  金泥

21.千 字 文  銀泥

22.風 信 帖  金泥

23.般若心経 金泥

24.般若心経 (隷書)銀泥

25.  般若心経 (草書)金泥

26.  般若心経 (草書)銀泥 

27.赤壁の賦  銀泥

28.源氏物語の一節   金泥

29.  春日酔起言志  銀泥

30.  蘭 亭 序  金泥

31.  五行律詩 李白  金泥 

 

書きたいもの、残しておきたいものがまだまだ沢山あります。 筆が持てなくなる日まで書き続けるつもりです。

 

次回の「金泥の書」(その三)では作品の内容の解説等を掲載します。

 

2021年

4月

16日

私と「金泥の書」( その一 )魅せられ、そしてライフワークに

「金泥の書」について   

  

(一)50才で銀行を早期退職し隠居生活にはいって3年。1993年に銀座の緒方画廊で初の個展。佛画18点を以て開催して以来23回の個展となった。内容は佛画を中心に書、刻字、版画、篆刻と拡がった。

しかし20年も経つと片手間仕事のような現状に、自分の非力は十二分に自覚しているものゝ何か物足りないライフワークとしての「自分だけの作品」を探している自分を発見した。その頃銀座伊東屋で歯科医師であり、金泥作家でもある静岡県清水市在住の福島久幸さんの個展で金泥の書に出合い、その美しさに驚嘆し、金泥の書について教授を頂いた。

私自身大腸癌の手術直後で再発の懸念もあった事から、余命も考慮、金泥の書に取り組もうと決意した。

金泥の書は天平時代に写経の作品が作られ、平安時代平清盛が厳島神社に奉納した納経で有名であるが、その後急速に後継者が失われて、歴史に埋もれて来たのである。

現代の金泥作家は私の知るところ福島久幸さん以外には寡聞にして聞かないのである。

何とかこの伝統を引き継いでいく事の一助になればとの思いが強まった。

しかも書家の人達に期待するのは難しい。第一、費用が掛かりすぎる。従って書き直しが出来ない。総て一発勝負である。時間も相当掛かる為である。

 (註)福島氏は2014年8月25日死去 享年92才。

 

(二)先ず取り組んだのは無謀にも源氏物語全巻書写である。

本来ならば一行2㎝幅で書く予定であったが、これでは80巻6~700mとなる事と費用が掛かりすぎる為に1㎝幅で38巻で延べ300mとした。延べ100万字である。

毎日5時間正座して取り組み、2年間を要した。完成は2011年11月末であった。

途中個展の作品も作りながらである。

以降平家物語、風姿花伝、奥の細道、方丈記、徒然草、古事記 等々を描き継いでいる。

全部書き直しや誤り書きは無い。

 

次回はこれまでどのような作品を作ってきたかを「 金・銀 泥の書 」作品一覧 ( 現時点

31巻)を取り上げます。

 

(三) イ.先ず書写する作品の字数を数える。巻子が2巻以上になる場合は、どこで区切るか、巻子を何巻にするかによって字の大きさも決める。使用する本は「岩波文庫」が大半である。

ロ.次に作品の内容を理解する事も欠かせない。私の場合源氏物語は原文及び与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳そしてイギリス人アーサー・ウェィーリーの英文訳からの訳の3部であったが、中でもウェィリーの訳が出色で源氏が世界的に有名になったのはひとえにウェィリーの英訳が見事であったことであり、20世紀初めのプルーストやジョイスの20世紀文学と同様にヨーロッパで読まれたのである。社交界、美に対する感覚、そして人の内面についての表現等現代文学として読まれたのである。

また与謝野訳と原文と比べると優雅さや雅びさは比べるべくもない。原文の美しさは格別である。 

 

(四)「用紙」紙は何を使用したら良いかが分からず、とりあえず書道用品店に依頼し、紺紙、紫紙、濃茶紙を注文。紙を漉いてもらい、染めてもらう。

大きさは1.8m x 1.0mであり、少量では受けてもらえず、とりあえず20枚注文した。

同時に金泥も注文。1袋0.4g、時価である。膠は福島さんの説明によれば鹿膠1.3gを100㏄の蒸留水に入れて40度で溶解すると1.3%の溶液となるとの事であったが、市販の溶液で代用、ただし希釈率は不明の為に自分で判断するしかない。

私はこれを字の幅が 0.5㎝~1.0㎝の場合は4~5%、1.5~2.0㎝幅の場合は7%、4㎝となると12%~15%としている。

 

銀泥の場合はすべて18%~20%に溶解したものでなければ定着は難しい。又季節にもより、一日では終了せずに溶液が残った場合等の事もあって、本文にとりかゝる前に別紙に1~2字試し書きをして、乾いたあと指で擦って定着を確認する。

金・銀泥は高価の為に、最小量の量で定着するかを見定めて使用する事が大切である。

私の場合0.4gを使用して3000~4000字数としてひと文字1㎝ 幅で書けるのである。

 

(五)「筆」使用する筆は鼬(イタチ)毛の面相筆を使用しており、硯を使用しない。

(絵皿使用)為に1本で100万字は書けるのである。

 

(六)金泥の書で日本の古典文学を書写する場合、毎日一定時間必ず書く事。

私の場合来客があり、夫婦喧嘩があっても酒を飲んでも休まないで書いている。

そこに座ったらすぐにスイッチが入り、書くモードが出来なければ長文の書写は到底出来ないのである。

 

(七)書き終わったらこれを猪牙で磨く。書かれた金泥の書は平らにみえても、細かい凹凸があり、その為に乱反射して光らないのである。為に表面を擦って磨き、平らにして反射を統一する事によって光らす事と、金泥を紙に定着させる二つの意味がある。

象牙は表面に細かい管があり、その管に金泥が付着するが猪牙にはこれがない為に猪牙が使用されるのである。

これからも日本の古典文学を書き続けていきたいものだ。

 

ご参考:本ホームページの項目の中に「源氏物語書写」があります。巻子38巻を全巻 動画にてご紹介しておりますので是非ご覧ください。 

 

2021年

4月

14日

作品紹介 九面観音、石佛、深大寺 倚像

  九面観音( 室町時代 )

 

        石 佛 (自宅)

      

      深大寺 如来倚像

2021年

4月

01日

刺客列伝のうち 荊軻(ケイカ)史記 2021年に読んだ本 12

刺客列伝のうち荊軻(ケイカ)史記 司馬遷  2021/3/24

 

紀元前3世紀の初め戦国時代の末期、秦は最大の強国にのし上がっていた。

首都は咸陽、領主は政。のちの始皇帝である。

 

荊軻は衛の人、燕に移ってからは燕の人は彼を荊卿と呼んで尊敬した。

荊卿は読書と剣を好んだ。

やがて秦に人質としてとられていた燕の太子丹が怨み抱いて帰国、秦に仇討ちをしてくれる人物を探していた。当時秦は斉、楚、三晋を下して全国を統一する勢いを示しており、遠からず燕も支配されることが心配されていた。

丹の教育係 鞠武(キクブ)は「どうして冷遇された恨みなどで秦の逆鱗にふれるようなことをなさるのか」と丹を諫めた。

又秦の将軍 樊於期(ハン キオ)が燕に亡命してきて丹はそれを受け入れていたが、これに対して「早く将軍を匈奴の土地へ入らせて人のうわさを消しておしまいなさい。

どうか西は三晋と、南は斉、楚と同盟し、北は匈奴と講和を結んでください」と進言。

丹は進言を受け入れない。そんな薄情な事はできない、と。

そこで 鞠武は対策として田光先生を丹に紹介。田光は「私は老いさらばえて駄馬にも劣る」として荊軻を丹に紹介する。丹は田光に「この事は決して口外しないように」と釘をさす。田光は荊軻に依頼した後、丹に疑われた事に対して「口外しないことを示した」と自害する。荊軻は丹に秦王殺害を了承し、条件として「 樊将軍の首と燕の南境の地 督亢(トクゴウ)の地図を秦王に献上する事」を要求する。

 樊将軍殺害に同意しない丹に対して、荊軻は 樊将軍に直接談判し、 樊はこれを了として自害する。 いよいよ勇者秦舞陽を従え樊の首と地図を携えて秦に到着。

秦王は正装に身をかため、最高の儀礼を整えて首都咸陽の宮殿で燕の使者と会見。

秦王「舞陽どのの携える地図をこれへ」、秦王の言葉に、軻は地図を献上する。

秦王は地図を開く。拡げ終わって匕首(アイクチ)があらわれた。荊はすかさず左手で秦王の袖をとらえ、右手に匕首をもって秦王に突きかかる。秦王は柱をめぐって逃げる。

秦の法律では殿上にひかえる家臣は身に寸鉄を帯びてはならないとされている。

従って荊軻を打つすべもない。侍医の夏無旦(カムショ)がささげていたや薬嚢(ヤクノウ)を荊軻に投げつける。その隙をついて秦王は剣を抜いて荊軻を殺害するのだ。

死亡に際して荊軻は「事の成らざりし所以の者は生きながらにして、これを劫(オビ)やかし、必ず約契を得て以て太子に報ぜんと欲せしを以てなり」と。

 

やがて秦は5年後燕を滅ぼし、その翌年秦は天下を統一して、秦の政は始皇帝と名乗るのだ。荊軻は数多い刺客の中でも取分け有名である。

秦は中国史上初めての統一国家の成立を成し遂げたが、始皇帝が死亡すると3世16年で漢の高祖に滅ぼされる。(紀元前221~前206年)

 

2021年

3月

27日

松谷みよ子 について  2021 年に読んだ本 11

童話作家 松谷みよ子 について 

1.「図書」2021年3月号に松田青子の「古びない物語の魅力」が記載されている。

松谷みよ子著「ちいさいモモちゃん」である。松田青子は「この世界が生まれていることの痛みを容赦なく描いていることに驚かされる」と語る。

 

2.もう40年以上前となるが、松谷みよ子の「貝になった子ども」を読んで強い衝撃を受けて全集15巻を購入した。

「貝になった子ども」は松谷みよ子20才の時の作品である。

 

若い母親おゆうは夏の日がじりじり照りつけている日、5才のわが子 弥一にトマトやなすの入ったボテをもたせて先に家に帰したが、弥一はそのまゝ行方知れずとなる。

おゆうは気狂いのようになって探し歩いたが見つからず、そのうち小さな子供が3 、4人白い街道を歩いているのをみて、あとを追いかけ、やがて北の海にたどり着く。

3羽の雀が話している。「弥一はしあわせだ。白い貝になったのね、いいなあ」おゆうは海の中に白い貝が見えました。おゆうのほゝにはあたゝかいなみだがすべり落ちました。作品をみせられた坪田譲治は驚嘆して「この作品はアナトール・フランスとか、アントン・チェホフなどという人の作品に交じっていても、おそらく疑いをさしはさむ人はいないだろう」と最大限の賛辞をおくっている。

松谷みよ子はこの作品で1951年第一回日本児童文学者協会新人賞を受けている。

 

3.松谷みよ子の最高の作品は多分「二人のイーダ」であろう。夏休み母親と妹と直樹がおじいさんの家に出掛けた時の事である。近所に人の住まなくなって大分経った廃屋があって、中に入った直樹は古い「いす」に出合う。3才の妹ゆうこ、自称「イーダ」は一人でまるで我が家のように廃屋で「いす」と戯れる。「いす」は直樹に語りかける「イーダはどこ」。近所のおねえさんりつ子と直樹は、この「いす」と廃屋について調べ始める。廃屋の住人は広島に落とされた原爆で老人二人が死に、孫娘一人が助かったことを知る。実はりつ子がイーダだったという。やがて予想外の結末が訪れる・・・。

3才の妹「イーダ」のあどけない可愛らしさと、大人にはない不思議な感覚はやゝおどろおどろさを秘めて、読者の前に投げだされる。物事を良く見極めた視点と不思議なメルヘンの世界が、現実のむごさをより一層明らかにするのだ。

この作品は明確なる反戦文学である。「貝になった子ども」「二人のイーダ」は児童文学に納まりきれない深い内容をもって私達の心を揺さぶるのだ。

 

4.「ちいさいモモちゃん」「モモちゃんとプー」「モモちゃんとアカネちゃん」は現実を見きわめてリアルに見つめる目と夢の世界を実にたくみに描き出し、中には夫との軋轢をもそれとなく盛り込んでいる。

 

5.松谷みよ子は1926年2月15日神田元岩井町に生れる。(2015年2月28日没)。

父は日本労農党の代議士で弁護士の松谷與二郎、母は翠、二男二女の末っ子である。1948年横浜銀行労働組合書記となる。翌年まで闘争支援オルグ等活動。1950年春結核発病、信州で療養。1952年片倉工業内に人形サークルをつくり、ここで瀬川拓男と知り合う。1955年11月瀬川と結婚。葛飾区金町4-39 (旧表示)(現在の東金町3丁目付近)に住む。(1967年離婚、1975年12月12日瀬川死去。)

1956年民話探訪、信濃、秋田。

金町の住居は『人形劇団 太郎座』の拠点となり仲間と共同生活は数年に及んだ。

その間留守番に後の白土三平がいる。(なお金町には街頭紙芝居業の雄 加太こうじがいた。)夫の瀬川拓男は東京に「人形クラブ」の創立に参加し、地域に、工場にオルグ活動を行っていた。又下町の文工隊として文化活動の一翼を担っていたのである。

 

続き 日本の民話は未来社から42巻出版されているが、やはり松谷みよ子の書いた「秋田の民話」「信濃の民話」が群を抜いて出色である。

ちなみに私の妻が1958年頃この『人形劇団太郎座』に在籍していた。

 

2021年

3月

25日

作品紹介3件 白拍子 他

 『白拍子』” 花に舞 ハ で 帰るさにくし  白拍子 "

 

 浄心寺(葛飾 新宿)の石佛 

 句は ” 菜の花や 法師が宿は 訪 ハ で過し ”                

 

   九面観音

2021年

3月

16日

廉頗(レンパ)、藺相如(リン ソウジョ)列伝 司馬遷 21年に読んだ本10

廉頗(レンパ)、藺 相如(リン ショウジョ)列傳  司馬遷 

 

趙の恵文王の時、王は楚の和氏の璧(カシノタマ 又は ヘキ)を手に入れた。

璧は環状の玉器で環の幅が孔の直径に等しいもの。

楚の和氏は玉の原石を手に入れて楚の厲王に献上した。王が細工師に鑑定させたところ「ただの石ころにすぎません」という。騙されたと思った王は罰として和氏の左足を切断させた。厲王の死後、武王が即位すると和氏は再びこれを献上。細工師は「ただの石です」と云い、今度は右足を切断された。

 

武王が死去して文王が即位。和氏は玉の原石を抱いて山中で泣いていた。文王がこれを

細工師に磨かせたところ、見事な宝玉があらわれた。これを「和氏の璧」(カシノヘキ)と名付けた。

 

秦の昭王はこの璧が趙王の手に入ったと聞き、趙王に手紙を送って15の城と璧を交換したいと申し出た。趙王は臣下達と相談、璧を秦に与えれば秦の城は手に入らず、一杯食わされるだけで、これを拒否すれば秦軍の襲撃が心配であると相談がまとまらない。

すると重臣の一人が「それがしの家令藺相如ならば使者の任に堪えます」と過去の事例を挙げて説明。王はこれにより、これを使者と任命。使者にたった相如は璧を捧げもって秦にのり込む。

秦王は遊興にふけっていた場所に相如を呼び寄せた。秦王は大いに喜び、璧を側室や側近のものに回して見せる。側近達は皆万歳と叫んだ。相如は代償として趙に城を渡す意志のない事を見とどけると「璧にきずがございます。その個所を教えて差し上げます」と王から璧を受けてると、相如は「因りて璧を持ち却(シリゾ)き立ちて柱に倚(ヨ)る。怒髪上りて冠を衝く」

大王は璧を手に入れようと手紙を趙に届けられた。趙は家臣を集めて相談したが、誰もが秦は貪欲でその強大さをたのみ、でたらめを云って璧を取ろうとしている。

城を代償にするなど実現しまいと一致したが、私の意見は、たかが璧一つの為に強国秦との友誼を無いにするのは良くない。大国の権威を尊重して十分に敬意を払うためです。しかるに璧が手に入ると遊興の場所で私と会い、傲慢なあしらいで璧をお妾共にまわし私を馬鹿にされる。

 

ここで本文「臣、大王の趙王に城邑を償うに意なきを観る。故に臣復(マ)璧を取れり。大王、必ず臣に急らんと欲せば、臣の頭、今璧を倶に柱に砕けん」と秦王は驚いて詫びを述べると、相如は大王は5日の物忌みをなさり、宮廷で正式なる引見の礼を行うべきですと述べた。

秦王は5日のものいみをして宮中で引見の礼をととのえ、相如を迎えた。

相如は「秦の繆公より以来、20余君未だかって約束を守った者はいません。私の恐るゝは大王に欺かれて趙にそむく事である。故に人をして璧を趙に持ち帰らせた。秦の強さを以て、先ず15都市を趙に与えれば、璧を秦に渡さない事などありません。臣、大王を欺きし罪誅に当ると知る」として、どうかゆで釜のところに参りましょうと申し出る。

 

結局相如を殺したところで璧は手に入らず、趙を敵に回すことは得策でないと知って、相如は厚いもてなしを受けたあと無事帰国する事になる。

 

趙ではこの功績を多とし、相如を宰相に任命する。これに対し廉頗は自分が大将軍とし

て国を守ってきたのに対し、相如は口先一つで自分より位が上になったのが面白くない。事あるごとに相如をそしる。

やがて相如が外出するとき、廉頗を彼方に見かけると車を戻させて廉頗を避けて隠れた。家令たちは「あなたは廉頗を恐れて、逃げかくれて私達は恥ずかしい」と口々に意見した。そこで「相如は秦王の威光をもってしても、私は宮廷で怒鳴りつけ、秦の家臣どもを宮廷で怒鳴りつけ、秦の家来どもに恥をかかせた。私は駄馬ではあろうが廉頗ごときを恐れようか、巨大な秦が趙を攻めないのは私達二人がおればこそ、二頭の虎が争ったら必ず一頭が倒れる。私がぶざまな姿をさらすのも国家の危急を第一と考えるからである」と。

廉頗はこの話を聞くと、相如の門を訪れ「育ちのわるい私めは、将軍がこれほどまでに

心広い方とは知りませんでした」ついに二人は友情をかよわせ、刎頸の交わりを結んだのである。

 

或る時秦王は酒宴をひらき、宴がたけなとなると「趙王どのは音楽好きだと伺っている、どうか瑟(オオゴト)を弾いて下され」趙王、竹べらがかきならす。相如が進み出て云

う「秦王は民謡をうたうのがお好きだそうで、趙王の為にご一緒に楽しみましょう」秦

王は立腹して承知しない。相如はひざまずいて秦王に頼む。秦王はかめを叩こうとしない。相如は「わずかに5歩のへだたり、一つそれがしめが首の血しおを大王にふりそそいでお目に掛けましょう」身をすててかかれば秦王の一命はないぞとおどしたのである。

秦王はやむなくかめを一度たたいてやった。いわゆる「澠池之会(メン 又は レンチノカイ)」である。

何故この事が大事であったか、趙はこれで秦の属国となるのを防げたのである。

 

文字の重要性が古来存在しており、周王朝の成王が弟叔虞とふざけて桐の葉を珪の形にきりとり叔虞に与えていった。「これで君を大名に取り立てよう」(桂とは領地権の象徴として君主より授かる玉器の一種)史官の伊佚はこのことをたてに、叔虞を諸侯にとりたてるようお願いした。成王はいった。「わしはあれと遊んでいただけだ」伊佚は言った。「天子に冗談などありません。なにか発言なされば史官が記録し宮廷の儀式のかたちで、その発言を実現完成し、雅楽部の手で楽歌にうたって公表するものです」と。

中国では前11世紀には天子、諸公の発言はすべて書記が記録して、その内容を正確に諸国に公表されていた。従ってあまりに理不尽な行為はその権力者の権威を著しく失墜される事になったのである。

 

顧みて日本の現状は公文書の破棄、紛失、改竄(カイザン)と、権力を握った暴権が跋扈していた紀元前11世紀より程度が悪いと言わざるを得ない。

「完璧」壁を完うするの意。「怒髪天を突く」「刎頸の交わり」等の語源はここにある。

 

2021年

3月

10日

項羽と劉邦  史記(司馬遷)朝日新聞社 21年に読んだ本 9 

項羽と劉邦 史記(司馬遷) 朝日新聞社  

 

そもそも本記とは帝王の事跡を叙述するもので、項羽はどちらかと言えば外伝に載せるべきものであろうが、本記にのせたのは項羽がそれだけ重要人物であったからである。

 

秦の始皇帝が戦国期の六ヶ国を滅ぼして中国に初めて統一国家をつくったのは前221年のことであった。しかし彼が死去すると宦官趙高が権力を握って承相李斯を獄死させ、自ら承相となり横暴を極めた為、たちまち帝国は根本から揺らぎ始め、人々の抑えに抑えていた憤懣が爆発し、群雄が再び立ち、戦乱の坩堝と化した。

中でも楚の中から出現した二人の人物が秦帝国を打倒するのである。

その頃のヨーロッパはローマ帝国がカルタゴの勇将ハンニバルに大敗を喫した時期でもあった。

項氏は代々楚の将軍をつとめた家柄であった。項羽の叔父である項梁は頭角を現わして、打倒秦の中心人物となる。項梁は戦乱の中で死亡するや、あとを項羽が継ぎ、秦滅亡のあとを担う中心人物になって行く。

劉邦は項羽に対抗するまでの勢力を有していなかった。

項羽の軍は進軍して、函谷関に到着したが関所を守備する部隊がおり、入る事が出来ない。劉邦が諸侯の入関を阻止する為に部隊を派遣しておいたのである。しかし劉邦が首都咸陽を破り「関中の王なるつもりで秦王室の珍宝類は全部自分のものとしている」との讒言があり、激怒した項羽は函谷関を攻撃して関中にのり込む時に項羽の兵力は40万人、劉邦の兵力は10万人である。ここで有名な「鴻門の会」が行われた。

項羽は軍師范増の勧めによって劉邦を殺害する事とする。会場の上席には参謀亜父范増が座る。范増は項羽のいとこ項荘に祝いの名目で剣の舞をやらせ、機会を狙って劉邦を殺すように指示する。かつて張良から命を救われた恩を受けている項伯は立って同じく剣舞いをおこない、項荘の企てを妨害する。そこへ、劉邦の部下で劉邦の正妃呂后の妹婿樊噲が陣幕内に侵入、項羽をにらみつける。頭髪は逆立ちまなじりはひき裂けんばかり、これをみた項羽は「偉丈夫じゃ、この男に酒杯をとらせい」と一目でその豪傑振りに惚れ込むと、急に劉邦を殺害する気がなくなってしまうのだ。

劉邦はその間にここを脱出して自陣に戻る。

范増はこれをみて「唉(アア)、豎子(ジュシ)与(トモ)に謀るに足らず。項王の天下を奪うものは必ず沛公(劉邦)ならん。吾が属、今にこれが虜とならん」と憤嘆する。

 

その後の両者の闘いは殆んど項羽軍の勝利に帰し、劉邦は命からがら逃げ続けるが、臣下張良と陳平の計略を採用して項羽から范増を引き離す事を図る。

項羽は范増が漢と内通しているのを疑い、彼の権力を剥奪してゆく。怒った范増は「天下のことは大体決定的です。わが君ひとりでおやりなさい。おひまを頂戴して部隊に帰らせてもらおう」と離脱。途中背中に腫れものが出来て范増は死亡する。

項羽の唯一のブレーン・トラスト范増を手放した為にその後項羽は滅亡の道をたどる事となる。

 

一方の劉邦には参謀の張良、大将軍韓信、財政、軍の兵力補強、食料確保を一手に引き受ける蕭何を有し、有能な人材を多く抱えていたのである。

やがて大勢は次第に劉邦軍に傾いて行き、両者は天下を二分して支配する事で合意。

項羽は軍を引き連れて戦闘体勢を解き、東に帰って行く。西に帰るつもりの劉邦に張良、陳平は「今こそ天が楚を滅ぼす時で、今をおいてない。楚は兵力が疲弊して食料も底をついている」と進言。劉邦は二人の勧告に従い項羽を追撃する。

前202年漢の劉邦の軍が垓下の地で項羽軍を包囲。「項羽の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵これを囲むこと数重、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王、乃ち大いに驚く。漢、皆已(スデ)に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人多きや」と嘆く。

実は漢の策略で楚の歌を漢軍兵に歌わせたのであった。

 

項羽はここで哀調をおびて歌う。

「力は山を抜き 気は世を蓋う 

時利あらず 騅逝かず 騅逝かざるを 

奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん」 

歌うこと数闋(ケツ)美人これに和す。

大王涙数行下る。

唱和した美人の歌「漢の兵 已(スデ)

に地を略し 四方楚歌の声 

大王 意気尽きたり 

賤妾何ぞ聊(ヤス)んじ生きん」

 

項羽は囲みを破って脱山、騎して従う者八百余人。やがて「東の方烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥して待つ。項王に謂いて曰く「江東小なりと雖も、他は方千里、衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。願わくは大王、急ぎ渡れ、今独り臣のみ船あり、漢軍至るも 以て渡るなし」

ここで項羽は「天の我を亡ぼすに 我何ぞ渡るを為さん 且つ籍、江東の子弟八千人と江を渡りて西せしに、今一人の還るものなし、たとえ江東の父兄憐れみて我を王たらしむとも、我何の面目ありてか、これに見えん、たとえ彼言わずとも〇独り心に愢じざらんや」と語ってここで戦い自刀する。

 

烏江の亭長がこのような暖かい呼びかけを行わなかったら、項羽はこれを切って舟で渡ったことであろう。亭長の言葉で逃げる気分が変わったのである。

 

「鴻門の会」で樊噲の偉丈夫振りをみて劉邦殺害の気が失せた場面と云い、時利あらずして騅行かずの自分に力がなかったり、失敗があったのではなく唯時が自分に味方しなかった為の結果を語る場面と云い、誇り高い項羽の人柄を余す事なく見事に描き切っている。又豪傑である為に、他人の云う事を聞かずに何事も自分が決定したがるあり方も、劉邦の自分の実力を知って臣下の力に依存するやり方と対比して味わい深いものがある。

 

司馬遷は滅びの美学を描きたかったのであろうか。

物語の最後に項羽の死骸を多くの騎武者達が互いに踏んづけあって争奪し、同士討ちで数十人もの死者が出て、あげくのはてに五人が切り刻んだ肢体を劉邦のもとに持ち込む。

恩賞に預かる為だ。司馬遷は戦争の残忍さも見逃さずに記述している。

 

2021年

3月

01日

管 仲   宮城谷 昌光 著 文春文庫 21年に読んだ本 8

管 仲 宮城谷昌光 著 文春文庫             

 

「管鮑の交わり」で有名な管仲の物語である。

管仲は周都に於いて若者の教育を行っていた。16才の鮑叔(ホウシュク)は周都に修学にのぼって管仲の教えを受ける。管仲は半月後家族の病気のために故郷に帰る。

管仲の居ない周都に興味を失った鮑叔は諸国を巡って鄭の太子に見込まれて、家と従者達を与えられたる。

鮑叔は太子の許しを受けて管仲を鄭に呼ぶが、太子は管仲が気に入らず取り立てない。

鄭の軍事行動に参加した管仲は間(カン)人と疑われて、拷問をうけるが、罪は晴れて釈放され、商人に転進する。友人の鮑叔は、今の生活を離れてこれに同行する。

様々な困難のあと鮑叔は故郷斉の僖公から公子糾の輔弼、管仲には弟小白の輔弼を命じられる。

僖公が崩じると太子諸児は即位し「襄公」と呼ばれる。暴虐な「襄公」に危険を察した鮑叔は小白を連れて斉を脱出する。冷遇されていた公孫無知に「襄公」弑逆されて、後を公子糾と小白が争う。

糾の輔弼管仲に弓を射られて、すんでのところで命拾いをした小白は糾を倒して即位するや、鮑叔の薦めで管仲を宰相に迎える。管仲の政治、軍事、行政能力はやがて斉を諸公に号令する覇者へと導くのである。

 

理想の宰相として名高い管仲を取り上げているが、時の中国の勢力争いの構図が今一つはっきりしていない前11世紀、殷を滅ぼした周王朝は前771年幽王が崩ずると東西に分裂し、東周はまもなく滅亡し、東周も力を失いつゝあり、春秋時代に突入する。

宗主国としての周王朝の権威は未だに残っていたものゝ、実質的な力は諸公に移行していったのである。管仲、鮑叔はまさにこの時代を生きた。

 

そこで極めて大事なのは、この時代がどのような時代であったかを、先ず俯瞰して示す事である。周王朝の実態はどうであったか。

諸公を集めて号令する出来たか、朝貢は行われていたのか、軍事力は、勢力図は、財政は等々。又諸公との関係はどのようなものであったか、諸公間の合従連衝はどのようであったかが、語られていない為にその辺のところが理解しずらい。

又肝心の管仲と鮑叔は非常に能力が高く、高潔な人物であるのは作品中で何度も繰り返

されて良く解ったが、人物像が浮かび上がってこない。それでも管仲と鮑叔の関係はそ

の発想力と行動について理解を深め、教育し合う事によって尊敬と信頼を高め合い刎頸

の友となっていったのである。

 

桓公と管仲の関係は、自分の命を狙って弓を引いた管仲を鮑叔の勧めはあったが、宰相に据えた懐の深さを考えると何か中曽根首相と後藤田官房長官の関係が思い起こされる。

後藤田は中曽根の政策実行に関して、自分の考えを決して曲げることなく、諌言をしており、実行を止めている。後藤田は中曽根を「私は彼を人間的に好きではないが、だからと云ってともに仕事が嫌だと言うのではない」と語り、中曽根は後藤田を「私はタカ派で彼はハト派だ。自分が暴走しそうになると、彼はそれを止めてくれる」と語って、二人の関係を明らかにしている。お互いに信頼と牽制といった緊張感に満ちた関係であり、互いに成熟した政治家達であったことを窺わせる。

 

国会答弁で官僚の書いたメモを棒読みにする一方、裏では自分の意に沿わない人物達を強権を振って容赦なく切り捨てるどこぞの総理大臣は、桓公と管仲の関係を勉強して欲しいものである。実に見苦しい。

 

2021年

2月

26日

今西錦司とはいかなる人物か

今西錦司とはいかなる人物か   2021年2月26日

 

1.1902年1月6日京都西陣の織物業の家に生れる。屋号は「錦屋」と言い、西陣の織元の中ではトップクラスで銀司が生まれた頃は総勢30人もが働いていて、その中心に祖父平兵衛がいた。平兵衛は進取の気性に富んでいて、織物の研究のためヨーロッパにも出掛けており、最新のジャガード織機の導入から、これを改良して新ジャガード織機も考案している。

又同業組合の頭取うあ商工会議所の役員を歴任、京都市議会員もつとめていた。

 

2.当時の京都には未だ自然が多く残っており、銀司は小学3、4年生の頃には昆虫採集を始めており中学入学の頃には特に蝶の採集コレクションを驚くほど有していた。

 

3.13才で富士登山、16才で同級生と青葉会をつくり山城30山を設定し、登山に傾倒する。1年浪人の後、第三高等学校入学。1925年京都帝国大学農学部入学。’28年卒業、結婚。’31年ヒマラヤ遠征計画をたてるが、満州事変で中止。’32年樺太、東山山脈を踏破。理学部大学院を終えて研究嘱託となる(無給)。’33年加茂川のカゲロウの棲み分け発見。’39年京都探検地理学会設立、内蒙古調査。同年「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学博士の学位をうける。’41年ポナベ島へ生態調査。同年「生物の世界」出版。’42年中国東北部の大興安嶺を63日で縦断。’44年内蒙古奥地調査(9月~翌年2月)。この頃まで登山、探検は藍染めの足袋・脚絆に草鞋履きである(蝮よけのため)。

尚今西の生活費については三高卒業の直前’25年2月父平三郎はガンで死亡。

家の商売は既にやめていた。生活は家作があってその賃料を当てていたのである。

 

’48年京大理学部講師となり、始めて常勤講師となる。同年宮崎県都井岬でウマの調査を開始。その間ニホンザルの一群に出合ってサルの調査に転向する。’52年日本山岳会マナスル登山の先発隊長として、ネパール、ヒマラヤを踏査。宮崎県幸島で二ホンザルの餌付けに成功。’58年第一次ゴリラ調査隊長としてアフリカ調査。’61年京大類人猿学会調査隊長としてアフリカへチンパンジー調査。’63年第2次アフリカ調査。

’79年文化勲章受賞。’85年83才で奈良県白鬚岳1,378m登頂成功。日本登山史上例のない1、500山登山達成している。頂上ではいつも酒盛りを楽しみ「酒は山の上でこそうまい」と語っている。彼は頑固一徹でやれ個体識別だ、長期観察だ、熱帯林だ、サバンナだと野外を流れ歩きまわったあとに、日本の霊長類学や、日本のアフリカ地域研究が育っていった。

 

彼は学術探検のリーダーだった。青年たちに対する指導は徹底したもので、常に自然を正確に自分の目で見よというのが基本であった。彼はフィールドにおいては比類のないリーダーであって、登山においても探検においても研究活動においても常に優れリーダーシップを発揮し、若者たちはそのリーダーぶりに心服してフォロワーとしてついていったのである。

彼は自由人であり何事にもしばられることを最も嫌った。自分のやりたい事を自分のやり方でやり遂げる。彼は自分でも野人と称していたが、京都というなかで人間形成を行った都会人であり、生まれながらの自由な近代的市民であった。

彼の率いる様々なチームの関係はドライそのもので若いメンバーの間では「団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすい」と語合っている。

晩年は「自然学」の提唱を掲げて進化論研究の締めくゝりとした。

        (1992年6月15日没 90才)

2021年

2月

10日

私の進化論 今西 錦司 全集第10巻 21年に読んだ本 7

(7) 私の進化論  今西錦司 全集第10巻 1970 年

 

1.ダーウィンの進化論について

 イ.生存闘争における適者の生存というところから出発しており、生存闘争において  どの個体が生き、どの個体が生きそこなって死ぬかという同種のなかにおける個体対個体の関係が問題であり、少しでも有利な条件をそろえた個体が生き残ることを自然淘汰といったのである。ダーウィンの進化論は生物の世界を生存闘争に終始する世界とみなし、この生存闘争の結果、適者が生き残って、不適者が死滅し、優者が勝ち残って劣者が敗れることを繰り返しているうちに、しだいに生物の進化ということも認めるようになるというものである。

ダーウィンの進化論は自然淘汰であるが、これでは種の枠をこえることは出来ない。

そこでその弱点を補う形で役割を果すことになったのが、突然変異論であった。

 

 ロ.しかし、突然変異の発生する頻度は驚くほど低く、発生した突然変異のほとんどが

その種にとって有害なものが多く、進化の足しとはならない。

たまに有用なものが出来たとしても個体中の1個体が現れたぐらいではどうにもならない。

 

 ハ.進化は千篇一律の速度ですゝむのではなく、環境の変化に応じて、比較的短い時

間のあいだに進化は急テンポで進行し、それによって環境に対する適応ができるように

なれば、進化のテンポはにぶり、あるいは停頓するようにもなるのではないか。

環境の変化に適応しなければならないのは生物の個体ばかりではなく、生物の種も種の

立場で、これをやらなければならない。種そのものが、その構成要素の一つとなってい

る生物の全体社会になにかの原因で大破壊がおこり、そのあと再建しなければならない

とき、種を維持しつゝしかも種は変ってゆくのではなくてはならない。

種の生命は個体の生命をこえて、持続してゆくものでなければならないのである。

種はこの要請を種に属する個体のすべてを出来る限り同質にしておくことによって満た

しているかのようである。こうしておくことによって、どの個体が死に、どの個体が生

き残って子孫を残そうとも種は変らず存続することが保証されるからである。

種は同じ環境の変化に対して、同じように反応し、同じように変化するものでなくては

ならない。同じように変化しながら結果的には違う種にまで進化して行くものでなけれ

ばならない。この場合自然淘汰はこの進化をわきから護衛するものではあっても、進化

をすゝめている主体はどこまでも種そのものにあるのでなければならない、とする。

 

 .今西は同種の個体間に甲乙がないということを前提にしており、どの個体が生き

死んでもさしつかえないように同種の間に甲乙があってはならないと述べている。

ここにダーウィンの適者生存と自然淘汰との大きな違いがあるのだ。

 

2.人類の進化について

 1400万年前に生れた人類の祖先は未だ二足歩行をしていたか確かではないが、200万年前には二足歩行が確認されている。樹上から地上に降り立ったのであるが、人類の一

部が好奇心か何かで下りてきたのではない事は、この時代アフリカでもインドでも時期

を同じくして二足歩行が始まったことが判明している。

人類もサルの一種から人類に変わったのである、その進化の特徴的なことは3つあり、

1つは四足歩行から二足歩行に変わったこと。2つは頭が大きくなったこと。3つ目は

歯が弱小化したことであるが、一番基本的変化は二足歩行である。

化石の研究で人類を見分ける手がかりは二足歩行であったか否かが決定的である。

人類は1400万年前から200万年前までの長い間をかけて二足歩行を準備して来たとも云えるのである。

世界中の人類がほゞ期を同じくして地上に降り立って二足歩行を開始して人類となった。

今西ははこれを「人類は立つべくして立った」と表現している。

今日世界には実に250万種に及ぶ生物が存在しているが、弱肉強食の世界ではなく、各々が上手に住み分けて生存しているのだ。

 

2021年

2月

05日

「内蒙古の生物学的調査」から及「草原行」今西 錦司 全集第2巻 21年に読んだ本 6

№ 6「内蒙古の生物学的調査」から及「草原行」  今西 銀司 全集 第2巻

 

1938年に行われた「京都帝国大学内蒙古学術調査隊」への参加を第一回とし、1939年

には専門の立場から僅か2人での調査隊である。

当時はすでに登山家として有名であった今西が、山のないモンゴルの草原の植物生態的

研究に何故これ程の情熱を傾けたのかは、読んでみると、又この後の今西の活動を考え

ても良く解ってくる。

日中戦争状態のなかで、遠征費も乏しく、装備も著しく不足、調査の運送手段にも事欠

き食料や水不足に悩みながら、草履、脚絆履きで地図もなければ道もない中で植物、動

物の生息状態や分布を丹念に調査している。特に植物調査にはさすがに詳細を極めている。又草原に点在する内蒙古人の小部落の生活と経済活動も良く見極めていて、その視

点はリアルである。大半は野営であり、食料も不足し、困難を極めるなかでの興味を惹

くものは何が何でも追求せずにはおかない好奇心とエネルギッシュさで、まさに驚くべ

きものがある。

 

2021年

1月

31日

生命の世界  今西 錦司 全集 13巻 21年に読んだ本(5)

(5)「生命の世界」 今西錦司 全集13巻 

1937年7月7日 盧溝橋事件をきっかけに日本軍が中国に攻め入り、日中戦争に突入。

今西は「生命の世界」の序に次のように書いている。

「今度の事変が始まって以来、私にはいつ何時国のために命を捧げるべき時が来ないと

も限らなかった。私は子供の時から自然が好きであったし、大学卒業後もいまに至るま

で生物学を通して自然に親しんできた。まだこれというほどの実績ものこしていないし、やるべきことはいくらでもあるのだが、私の命がもしこれまでのものだとしたら、私は

せめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、何らかの形で残

したいと願った。それも急いでやれることでなければ間に合わない。この目的に適うも

としては、自画像をかき残すより他にはあるまいと思ったのである」と。

 

1939年、10年に亘る研究の成果である「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学

博士の学位を受けるが、当時の新聞には「登山家が博士に」と報じられている。

今西は学者というより登山家として知られていたのである。

 

1941年「生命の世界」は出版された。書下ろしである。

一章の相似と相異と二、三章で今西は地球の世界を船にたとえている。

「地球という一大豪華船に船客を満載しているというのは、地球のことであって、その

船客が他から乗り込んできたのではないのと同じように、この豪華船の建造に要した材

料もまた他から持ち込んできたものではないのである。地球が太陽から分離して、それ

が太陽に照らされながら、太陽の周囲を回っているうちに、それ自身がいつのまにか乗

客を満載した。今日にみるような一大豪華船となったというのであるから、全く信じら

れないようなことであるに相違ない。地球自身の成長過程において、そのある船の材料

となり、船となっていった。残りの部分はその船に乗っている船客となっていった。

船も船客も元来一つのものが分化したのである。船は船客をのせんが為に船となったの

であり、客船は船に乗らんがために船客となっていったということである。

つまり、この世界が混沌とした、でたらめなものでなくて、一定の構造、もしくは秩序

を有しそれによって、一定の機能を発揮しているものと見る」という今西の世界観が語

られている。

 

そして第四章の棲み分け論である。「生活内容を同じうするということは、環境的にみ

れば、同じ環境を要求しているということである。それでもし同一の環境条件を共有す

るということが許されないとしても、同じ内容を持つものが相集ってきて、その連続し

た環境を住み分けるということは、当然予想されていいことなのではあるまいか」と述

べて、いよいよ「棲み分け」理論が始まる。

 

今西は「棲み分け」をどのように思いついたのか。

「渓流のヒラタカゲロウ」の研究で1933年加茂川へ採集に出かけて「いままで気づいていなかったことを発見した」と記述している。4種類のヒラタカゲロウの幼虫の棲み分けの発見は「種社会の発見」であった。この発見は偶然などではなく10年に及ぶ、徹底した孤独なフィールドワークによるものであった。

 

18世紀ヨーロッパで始まった産業革命は資本主義を確立させて、自由な競争を前提としたダーウィンの進化論の適者生存、自然淘汰、弱肉強食は生物学的に資本主義の競争を

理論づけるものとして受け入れられたのである。

今西は生物社会が弱肉強食などではなく、各種が又同種内でも棲み分けて居るのだとの

画期的な論陣を張った。

しかし欧米ではなかなか受け入れられなかったが、その後理論は少しづゝ拡がっている

ようである。 

 

2021年

1月

21日

水木しげる ねぼけ人生(4)ちくま文庫(2021年に読んだ本)

4.ねぼけ人生 水木しげる  ちくま文庫

 

洋画研究所でデッサンばかりやらされていた水木は上野美術学校に入るべく、その入学

資格になる学歴欲しさに、日大付属中学の夜学2年に編入。しかしここにも軍国主義の

波が押し寄せてきていた。校長はやたらと「非常時」を口にし、昭和16年12年8日ラジオが軍艦マーチを流しており戦争が始まった。校長は日の丸の鉢巻きを締めて建国体操

を始めるし、新聞や雑誌では文化人や有名人といった連中が、若者は国の為に戦争で死

ぬのが当たり前で、天皇陛下のために死ぬのは名誉なことだというような事を自分の都

合のいい万葉集の歌なんかを引用して力んでいた。

 

やがて菓子屋から菓子が消え、砂糖が配給制になりだし、18年夜間中学3年の時水木に

召集令状が届く。鳥取連隊に入隊するや、連日のビンタの洗礼を受けて、1ヶ月目いつ

沈められても惜しくないようなボロ船が入港、これで我々が最前線に送られるのだ。

水木が乗せられた船も、ひどいボロ船だった。舷側に手をついていると、鉄板がぽろっ

と取れるのだ。それも道理でこの船は日露戦争の時、バルチック艦隊を発見し、「敵艦

見ユ」を打電した信濃丸だというのだ。浮いているだけでやっとだという感じで、ス

ピードも出ない。「これよりラバウルに向ヶ出航する」という船内放送があった。

船員に聞くと「まあ、やられると思えば間違いありませんな、はははは・・・」といっ

たぐあいである。

 

命がけでラバウルに上陸すると同時にビンタだった。以後、ビンタだらけの毎日が続く。既に日本は制海権を失っていたのである。ココボにつくと遺書を書かされ、2,3日後

部隊長と云う大佐が訓示をし、やたらに決死、決死と口走った。次いで大尉が訓示をし、これはやたらに玉砕、玉砕と口走った。あとは食料、武器とろくな装備もなく、ジャン

グルを逃げまどう毎日、次々と兵士は死んで行く。水木は爆撃で左手を失い、半死半生

で生き延び、やがて敗戦となる。

 

1936年の2.26事件の後から明らかに日本侵略戦争を拡大し、軍部が政治をコントロー

ルする軍国主義となって行く典型的なファシズムである。大きな特徴の一つは言論、表

現の自由の弾圧であり、新聞、雑誌等言論機関の言っている事がおかしくなって来て、

各政党は解党して合流、大政翼賛会へと移行していくのだ。軍部は先の見通しもないまゝ戦線を拡大、アメリカとの経済力、軍事力のケタ外れの違いもかえりみる事なく、軍隊

内部の面子とその場の成り行きで無謀極まる全面戦争に突入、破滅へと突き進んだのだ。

しかし軍人が悪かったのは云うまでもないが、国民の支持がなければあれだけの戦争は

出来ない。侵略戦争は犯罪である。日本社会は何故それを許したのかという事である。

戦争勃発で日本中が沸き立ったのは紛うかたない事実であった。日本のファシズムを止

めたのは日本国民でなく、アメリカであり、日本の民主化はアメリカの都合の良い形で

つくりあげられた。従って、戦後の日本を支配して行く人達の多くは戦前の支配者であり、戦犯であったのである。

今日憲法違反の軍隊を保持し、世界有数の軍事力有して海外派兵も現実のものとなりつ

ゝあることや、公文書の偽造、破棄、国会での首相の嘘の発言の数々、審議拒否の数々。まさに民主主義国家の否定とも云うべき事態となっている。国民の多くは憲法違反の自

衛隊を容認し、こうした政府を必ずしも否定してはいない。菅総理は記者会見で「緊急

事態宣言」発令に際し、記者に「これで収まらなかったらどうする」の問いに「考えて

いない」と答えている。戦前の軍部と全く同じである。

 

「ねぼけ人生」の中で軍隊中部の私的制裁の実態が描かれているが、当時の日本社会を

そのまゝ映し出している。農家の二,三男は農地も与えられず小作人同然で人間として

の尊厳も奪われて、非人間的な地位におとしめられていた。

一方の都市住民は半封建的な上・下関係の中で人格も自由も失われており共に自己実現

とは無縁の生活を送っていたのである。彼等が軍隊の中でそのウップンを晴らしていた

のは容易に考えられる事であり、自分の尊厳が守られなかった者に、敵方の人々に残虐

行為に及んだのも充分理解出来る事であるのだ。

ドイツがナチス戦犯の時効を認めず、今でも追っているのとは大変な違いであり、第二

次大戦の清算を日本国民の手で行うことが不可避である。

 

尚水木しげるは「ラバウル戦記」「ヒットラー」「白い旗」「総員玉砕せよ」「姑娘(クーニャン)」等の作品もある。

 

2021年

1月

11日

高見 順 著  故旧忘れ得べき (2)闘病日記 上・下(3) 

 

(2)故旧忘れ得べき  高見  順 集英社 日本文学全集  No.65 

昭和10年2月発行の同人雑誌「日暦」第7号から11号まで、以降「人民文庫」3月刊から

9月刊まで6回連載されたものである。1925年(大正14年)治安維持法が制定され、昭和3年改正され言論、思想の自由が蹂躙され、弾圧が苛烈を極めていた時代である。

当時高学歴青年層の誰・彼の区別なく熱病のように襲った社会主義革命思想の傾向は東

大生の中にとりわけ影響が強く、生活力のない、労働者との結びつきのない、社会的に

根のない彼等の情熱は失われざるを得ず、理想と希望の燈は他愛もなく消えて、生活の

安定した瞬間に生きる気分をなくして、暗中に低迷した若者達、変り身早く出世街道に

乗った者、乗れずに生活苦に呻吟し性格を歪めていく者、様々な生態が描かれている。

作品の中でも当時の風俗描写の筆の冴えは誠に見事なものである。弾圧の中で多くの転

向者が出たが、高見の転向はマルクス主義を引きずっており、この作品にその気分の

複雑さが窺える。

 

(3) 闘病日記    高見 順  上・下 岩波書店

昭和38年10月高見順はガンを宣告された。そして昭和39年12月31日「昭和39年12月

31日、昭和39年よ、さようなら今年1年こうして生きることができた!」で終わって

いる。昭和38年10月5日千葉大付属病院で検査、ガンが食道、胃、胸の3ヶ所にあるこ

とが判明する。同月9日手術、以降壮絶な闘病生活が始まり、昭和39年11月一時退院。

同年12月5日千葉の稲毛「放射線医学総合研究所」に入院。放射線治療を開始する。

「放医研」は全国に5件程しかない組織で、放射線を扱う為に広大な面積を必要としており、従って地価の安い地方にしか存在しておらず、高見の入院した稲毛は東京から最も

近い場所に位置している。私も2019年秋ここに前立腺の治療の為に3週間程通って、今も通院している。

 

高見順は激痛の伴う闘病生活中、著しい体力の衰えと気力の減退のなか「日本近代文学館」設立の代表者となり各方面への折衝にも気を配っており、社会的関心も失っていない。更に驚くべきことに家から病院に「内村鑑三全集」を取寄せており「正法眼蔵啓迪」上・下巻、暁烏敏(アケガラス ハヤ)師の全集1,2,3巻各頁600頁に及ぶ、大拙全集、沢木興道師「永平寺広録抄話」全7巻等多くの書を病床で読んでいる。

又、昭和39年11月17日の公明党結成や、同年8月の中野重治、神山茂夫の党員資格停止処分や、佐多稲子、国分一太郎、渡辺義道、野間宏の除名に関する報道や12月の志賀義雄等の4人の除名処分を不当として別に「共産党」として活動を始めた事などに注目している。

除名が続いたのが1956年(昭和31年)のスターリン批判に端を発し、1962年のキューバ危機で公然化した中ソ論争に際して日本共産党もその態度を明確にする必要に迫られて、各国共産党の中での自主独立を主張した。これに対し党内の有力党員から激しい反発が

生じ、これは事実上国際共産主義運動のリーダーであるソ連共産党に反対することになり、国際的孤立を招く事になるとし、ついに多数の除名へと繋がったのである。

はっきりとはしないが高見順は1927年日本(ママ)帝大文学部英文科入学後1928年には壷

井繁治、三好十郎らの結成した左翼芸術同盟に参加、小説を発表し始めており、日本プ

ロレタリア作家同盟(ナプル)の成南地区キャップ、そして日本金属労働組合等の非合法運動にも携わっており、1933年2月小林多喜二の死の直後、治安維持法違反で検挙されて勾留されている。以後特高にマークされてきており多分共産党員であったのであろう。

 

高見順は自分の立場をこう語っている。『私たちはたとえ転向しても「反動」にはならないという事だ。そうなりたくなかった。日本主義で武装することなど当局から要求があったが、あくまで拒もうとした。そこで現実につくという態度をとり風俗小説的なものを書くようになっり、デカダンスの積極性というようなことを考えた』と。

昭和40年(1965年)8月17日最後の一喝で読経は終わった。

その時閉じられたまゝだった高見の眼じりから涙がひとすじ流れ落ちた。

 

註:本の題名の頭の()番号は2021年に読んだ本のカウント参考番号です。

 

2021年

1月

04日

「鷲は舞い下りた」2021年に読んだ本 (1) 

.「鷲は舞い下りた」  ジャック・ヒギンス  ハヤカワ文庫

 

1943年9月イタリアは降伏し、ムッソリーニが地位を追われ、バドリオ元帥が彼を逮捕してどこかへ隠す。ヒットラーは特殊部隊を編成してムッソリーニを救出する。

作戦会議の中ヒットラーが「チャーチルを私のもとに拉致してくることだって可能では

ないか」要求する。

ドイツ警察長官ヒムラ―は軍情報局長官カナリス提督に命令を下す。カナリスはこの意

味のない命令に対して、直属のラードル中佐に形だけのもっともらしい報告を出すよう

に命ずる。

イギリス在住の女スパイ、ジョウナ・グレイの日頃から克明で的確な報告に信頼を置い

ていたラードルは彼女から注目すべき報告を受ける。イギリス東部ノーフォークの一寒

村にチャーチルが週末を過ごすと云うのだ。

ラードルはドイツ落下傘部隊長クルト・シュタイナー中佐にこの作戦を、ヒットラーの

特命をもって指示スする。

シュタイナー中佐は選りすぐった10数人の精鋭、そしてIRAの兵士リーアム・デブリン、元イギリス自由軍兵士プレストン少尉を加えて着々と計画を進行させて行く。

ついに落下傘で現地に降り立った精鋭達はイギリス軍々軍服を着用し偽装して順調に事

を運んで行くが、地元の子供が溺れたのを助けるという突発的な事故が起きて、計画が

発覚する。隊員は次々に倒されて残る数人が脱出するが、シュタイナー中佐のみ残って

任務の遂行を目指すが、最後のところで成功をのがすのだ。

 

この作品を優れたものにした要素の第一はナチスドイツですら悪一辺倒でなく相対化し

て描かれていること。第二に大戦中にチャーチルを誘拐するという荒唐無稽とも云うべ

き話をあたかも有り得たかも知れない話としている事で、ドイツ軍に関する情報を最大

限に収集しており、その計画の過程を臨場感溢れる語りで進行させている点である。

第三に登場人物である。指揮官シュタイナー中佐を「勇気があって、冷静で、卓越した

軍人、そしてロマンチックな愚か者だ」としており、物語の中でその人間が余すところ

なく発揮されている。

女スパイ グレイ、IRA兵士リーアム・デブリンを始めとして実に魅力的に描かれており、作品を厚みのあるものとしている。

 

2020年

12月

23日

2020年に読んだ本 (その4)

51. 狂風記 上・下  石川  淳 集英社

この作品は1971年2月から80年10月にかけて昴に連載されたものであり、石川淳の小

説作品の集大成というべきものである。

始まりの場所はいちめんの堆積物の山、紙屑、あきびん、あきかん、つぶれたダンボール、さびついた自転車、犬,猫の死骸、それは廃棄物の山である。

そこに住みついているのが青年マゴで一丁のシャベルを持って自分の過去を探してこの

廃棄物の山を掘りつゞけていて、そこで不思議なる美女ヒメに出合う。

ヒメは天保時代の長野主膳の妾の末裔で手元には2部の巻子本が保管されている。

天保13年壬寅11月某日28才とあり主膳は彦根の井伊直弼を尋ねるくだりから始まり、

その側近となり斬首刑となっていた。ヒメは葬儀屋を営んでおり現世と黄泉の国を行き

来している女だ。

マゴとヒメの2人が、夜闇の中で銀白色の車でこゝに乗り付けた若い3人が死体を投げすてゝ行くのを目撃する。尚死体を投げ捨てた3人のうちの一人が鐵三のホモの相手であり、腹上死した鐵三を捨てに来たのだ。

死体はこれ一流会社柳商事の柳鐵三である。所在不明となった社長に会社は対応に苦慮

して病気と発表する。副社長の桃屋義一は鐵三の父の出戻り娘と結婚して柳家の婿となり、柳商事乗っ取りを企む。若者のうち安樹は鐵三のドラ息子で鼻つまみ、初吉は義一

の弟であり二人は跡目をめぐって暗躍を開始する。そこに財界の重鎮鶴巻大吉、甥の大

学教授で政界を目指す野心家の小吉、鐵三の秘書で愛人の新川眉子等が入り乱れて話は

進む。

石川淳は古代の神話から現代のありとあらゆる出来事まで網羅し、その裾野に拡がるヒ

メとマゴの壮大なロマンを繰り拡げる。

この絢爛たる物語にリアリティをもたらしているのが、政・財界にうごめく反社会的人

々のその醜さを容赦なく書ききっている事にある。

 

52. 文壇日記 高見 順  岩波文庫

昭和35年2月、10年振りに日記を書くことを再開して以後ガン宣告を受ける38年10月

迄の日記の収録である。彼は文学者であるが社会に対する関心も強く、マルクス主義者

として人生を始めており、党員ではなかったものゝ、思想的転向者であることは自ら自

覚していた。「小林秀雄が ”君は安保反対なんだろう、よせやい” と云われて、これはどういう意味だったんだろう。林房雄ふうの賛成者なのか。文士の政治参加に反対なのか。いわゆる進歩的文化人に対する反発なのかと述べ、小林秀雄は仕事を重んじている。それは分る。だが、だからと言って新安保反対にまったをかけることはない。自分は仕

事をしたいと、ひっこんでいればいいのだ」「私は安保反対だが、それに狂奔してはい

ない。むしろ狂奔したいぐらいのだが」と自分の立ち位置を明確にしている。

又日記を書くことに対しては「日記を書く気がしない。こんな私生活を書きとどめて何

になる」と作品制作が遅々として進まない事への自虐的な言葉もみられる。彼はライフ

ワークの小説2編、すなわち「激流」と「いやな感じ」の作品作りと又それだけでは生

活費を稼ぐ事ができない為に不本意ながら中間小説に手を染めなければならない。

又ラジオドラマも書かねばならないことに苛立っていた。作品づくりに苦しみながら各

種文学賞の選考委員として、ペンクラブの専務理事として、文芸家協会の理事として、

又最大の精力を注いだ。近代文学館理事長として様々な関係者との交渉に携わっていた

のである。会合のあとの食事、酒の席にも律義に参加しており、古き江戸っ子の気分を

保ってきた人物であることが分かる。

多忙の中で日記にみられる驚くべき読書家でもあることだ。古書店を渉猟し大量の本を

買っている。文学、美術、哲学、自然科学、社会科学等の専門書に及び、良く読み込ん

でいるのだ。彼の従兄は永井荷風で彼と並んで日記文学の双璧である。

尚、死の直前に平野謙に自分は共産主義者として死にたいとも語っていた。

 

53.    起承転々  高見順  集英社

昭和10年10月号「文芸春秋」に発表された。

これは高見の「コキューの嘆き」を主題と作品の一つである。

物語は神田の喫茶店に中年の佐伯と若い雅子が坐っている側のテーブルに伊南外2名の

医科大学生が入って来たところから始まる。伊南等は雅子のあまりの美しさに引き寄せ

られる。佐伯は雅子を妹だと紹介し、3人を行きつけの酒場に誘う。

伊南は雅子に夢中になる。佐伯はさる会社の常務であり、後妻のバックの力で成り上がったもので、雅子のパトロンである。雅子は有夫の女で女優志望でもあり佐伯に近付いた。伊南と雅子は急接近し、話を聞いた伊南の母親は、母一人、子一人で心血を注いで育て

た息子の願ってもない話に驚き、夢中になり、佐伯家に正式結婚申込に乗り込む。

佐伯の妻はこれに驚き、うちには妹もいなければ、親戚にも該当する女はいないと、突っぱねる。二人は互いにこの話に怒り呆然とする。

雅子は何とか映画監督に渡りをつけて、この機に夫に離婚を申し出る。

といった小品である。雅子のような女性はその後現実に出現して来るのである。

この小品の決め手は会話技術の巧みさでもある。左翼敗退後の高見の気分の落ち込みと云ったものが何んとなく窺える作品でもある。

 

54.いやな感じ  高見 順  文芸春秋新社 刊

高見順が昭和38年ガン宣告を受ける前に書かれた最後の作品である。

主人公 加柴四郎は3年前19才の時、いっぱしのテロリスト気取りで福井大将を狙撃したが安物の拳銃を使用した為に失敗。その一派は捕まって死刑となったが、四郎は辛うじ

て逃げ、助かっている。四郎はアナーキストの労働組合で働いているが、それだけでは

食って行かれずに砂馬慷一の手先となって恐喝まがいの行為によって生活している。

私娼窟の女クララこと瀬良照子に惚れ込み通うが、彼女に性病をうつされた挙句彼女は

男と逃げてしまうのだ。

 

四郎が働く労働組合はアナーキストとボルシュビキの勢力争いが激しく、やがてボル側

の説得工作によって切り崩され、アナーキストは四郎一人となってしまう。

逃げたクララは10年後中国でカフェの女主人公として姿を表わしている。

 

ボル派の檄文「無政府主義は空想的なり。破壊的なり。社会運動を妨害する邪徒なり。

・・・・吾人詰束せんとするや、彼等直ちにこれを妨ぐ、これを破る。我国社会運動の遅々として進まざる、即ち此の無政府党あるに依る。実に彼等は社会主義の仇敵なり、

人類の仇敵なり・・・・吾人は断言す。無政府党は無頼の巣窟なり」と。「而もこの無

頼たるや、国粋民労の草賊よりも恐るべく憎むべし。嗚呼 無政府党は社会主義の敵なり、人類の敵なり・・・云々」1922年9月26日 日本労働協会

 

この主張は「日本問題に関する決議」コミンテルン22年テーゼによると「社会民主主義指導者はブルジョアジーの買収された代理人であって、ブルジュアジのー命を受けて協

調主義と愛国主義と社会帝国主義の毒素を大衆に伝染せしめんと努めている。大衆獲得の闘争、なかんずく社会民主主義的労働者獲得の闘争は次のことなくしては不可能である。すなわち社会民主主義者を不断に、精力的に暴露、議会主義的幻想をひろめていること。えせ自由主義ブルジョアジーの助手及び追随者としての役割を演じていることを不断に、精力的に暴露する事である」と結論づけている。

 

現在では理解が困難なこの問題を、私の知人田辺均氏の父親が上田庄三郎と一部論壇で

話題となった「アナ・ボル」論争を行っており、又スペインの内戦の共和国軍の中心的

組織の一つである労働組合の有力組織はアナーキスト等であった。

やがて四郎は軍部の一部や、右翼、アナーキストと結びついて、その界隈で知られるようにもなって官憲に追われるようになる。四郎はその後中国に渡って次第に本格的なテロリストに変貌して行くのだ。当初の四郎の考えは、ボルシュビキの理論ばかりで実行の伴わないやり方を嫌悪しており、テロによって突破口を開き、大衆を蹶起させるべきと云うものであったのだが・・・

高見順は当時の政治、軍事状況や右翼の実情、巷の下層生活者等を丹念に調査研究もし、左翼の動き方や方針もかなり熟知していたようである。作品の完成に相当の苦慮があったと本人も苦しんだようだが、力作であることに問題はない。隠語も数多く使われており、この収集の努力も頭が下がるものがある。

 

2020年に読んだ本 (完)

 

2020年

12月

08日

2020年に読んだ本(その3)つづき

㊿ 定本 後藤田正晴 保坂正康    ちくま文庫

  

  後藤田は徳島県吉野川市に大正3年8月3日に父増三郎と母ヒデの4男として誕生

  した。後藤田家は藩から庄屋を命ぜられた旧家で、父増三郎は藍作に手を染めたり、

  筵、備後表などの売買に携わり商才もあり、10代の半ばには長崎で蘭学も身につけ

  ている。教育にも熱心で学校の設立にも尽力を尽くしており、正晴の生まれた頃は

  郡会議長でもあって、当地随一の知識人であった。

  正晴10歳の頃に両親が死亡し、すでに他家に嫁入りしていた姉を頼って大学を出

  るまで援助されている。正晴の寄寓先は徳島県富岡町の井上晴巳で、晴巳の父は

  明治初年にイギリスに留学しており、帰国後私財を投じて太平洋に面した富岡町の

  海岸を埋め立て地域住民に喜ばれていた。晴巳はのちに富岡町長を務めており姉好

  子は文字通り正晴の母代わりの役を果たしていた。

  負けず嫌いで、言い出したら引っ込まぬ性格は中学時代には顕著にあらわれていた

  という。

 

  徳島県立富岡中学から旧制水戸高校に入学、文科乙類の生徒となる。

  ドイツ語を第一外国語とするクラスであった。後年、後藤田は「人生の中でもっと

  も影響を受けたのは水戸での高校時代である」と語っている。

  親しかった高久泰憲(タカキュー会長)の言によると「後藤田は古武士的なところ

  があって、一見近寄りがたい雰囲気があった。でもいったん口をきいて彼の笑い顔

  をみるといっぺんに変わってしまう。破顔一笑と云えばいい人だろうか笑ったとき

  の顔がいい。あれはいまもかわっていない。別れ際の印象がとっても爽やかでだか

  ら誰とでもすぐ親しくなれるんです。私なんか先輩扱いされなくとも憎めなかった」

  と語っている。

  3年生の下宿時代後藤田は密かに猛勉強をして、昭和10年東大法学部入学。当時東

  大法学部の学生は大半高等文官試験を受験、エリート官僚の道をめざしており、日

  々勉強ばかりしており、東大時代にはだゝの一人も友人をつくっていないのが当然

  であった。友人などつくる暇がなかったのである。東大は高文の予備校という意味

  しか彼等にはなかった。

  授業に出て教授たちの過酷さに驚かされる。「答案はつねにドイツ語で書いてもら

  おう」と云われローマ法の原田教授は授業の最初の2,3回でラテン語の基礎を教え

  そのあとはラテン語で授業を進めたと云う。高文試験に失敗、昭和12~13年に

  かけて、誰とも交流することなく図書館にこもって猛勉強し、昭和13年高文試験

  に合格。大日本帝国の内政の中枢的地位を占める内務省に入省した。

  官僚のエリート中のエリート集団である。

 

  昭和15年4月台湾歩兵第2連隊補充隊に2等兵として入営。昭和20年8月中国国民党

  軍の捕虜収容所に送られる。昭和21年4月日本帰還、内務省に復帰。昭和22年8月警

  視庁保安部課長として就任。昭和47年警視庁を退任し、田中内閣の官房副長官に就

  任。51年徳島全国区から衆議員当選。

 

  昭和57年11月中曽根内閣の官房長官就任。62年10月までが政治家としての充実期に

  なる。中曽根内閣は官僚政治家後藤田がその能力と手腕を存分に発揮した舞台とな

  った。世間に「カミソリ後藤田」と喧伝された。

  後藤田は法相の秦野章と並んでこの内閣のタカ派的性格をあらわしているとされ

 「らつ腕の警察コンビ」「野党のタカ派色を警戒」「金権、右傾ドッキング」などと

  マスコミの見出しの対象とされた。

 

  田中は中曽根に対して「後藤田君を傍に置いてお使いください。彼はあなたを助け

  るだろう」と云ったという。根っからの改憲論者である中曽根に対し、後藤田は

 「僕は憲法を評価しているよ。見直せという論もわかるがそれに伴うリアクションの

  大きさも考えなければならない」と中曽根のブレーキ役となった。「憲法改正を政

  治日程にあげ国論を二分する争いを引き起こすような事態は好ましくない」と後藤

  田は断言しており、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」と発言

  している。中曽根内閣の初期には「タカ派」と言われ、平成3年からは「ハト派」

  といわれた。

  後藤田が日本の国防方針や国際社会での軍事協力について明解に自らの立場を明ら

  かにしたのは昭和62年10月、再び官房長官に就いていた時だった。

  当時イラン・イラク戦争によってペルシャ湾にはイランが敷設した機雷が無数に浮

  遊し、そのためにタンカー船の触雷事故が相次いでいた。しかもこの海域に遊弋

 (ユウヨク)中のアメリカ軍艦隊に対しイラン軍が攻撃を仕掛けたりしていた。

  アメリカは機雷除去のために日本政府にきわめて具体的な対応を考慮して欲しいと

  要求してきた。ペルシャ湾の安全航行確認のため、海上自衛隊の派遣や海上保安庁

  の巡視船の派遣など、中曽根や外務省は考えた。経済力を背景に国際社会での政治

  的発言の強化を狙ったのである。後藤田は猛然と反撥した。「ペルシャ湾への派遣

  は閣議で決めるでしょうな。こういう重大な決定は閣議で決めなければおかしい。

  しかし、私は閣僚として決して署名はしませんよ」と身体を張って抵抗した。

  ペルシャ湾への掃海艇の派遣を示唆するアメリカはあまりにも勝手である。そのア

  メリカの要求にすべて応じるわけにはいかんというのが後藤田の結論であった。

 

  後年、後藤田は中曽根を評して「私は彼を人間的には好きではないが、だからと言

  ってともに仕事をするのが嫌だというのではない」とこの心情を使い分けられると

  いう逞しさこそがむしろ後藤田はが信頼される理由でもあったのだ。

  ペルシャ湾への派遣が問題になったとき、後藤田は軍事行動につながりかねない措

  置に対して外務省など幾つかの官庁の幹部にためらいが少ない事に驚いている。

  官僚を抑えられる立場に自分はいる間はいゝが、そうでなくなったら日本の将来は

  どうなるのかと不安を抱いたという。

 

  平成5年6月宮沢内閣不信任案成立、解散とともに後藤田は副総理を退任。

  55年体制以来38年間続いてきた一党支配の政治体制の舞台は一変した。

  混迷は自民党の中で後藤田内閣の動きが深く広がったが、彼には全くその気がなか

  った事で幻の後藤田内閣となった。

 

  戦後不世出の官僚政治家として縦横に力を振い、毀誉褒貶の激しかった稀有の政治

  家で、一貫して節を曲げることなく、事に当った硬骨の政治家、現在保守政治家に

  類例をみる事はない。(平成17年9月19日没 享年91歳)

2020年

12月

07日

2020年に読んだ本 (その3)

㊼ 美しい国 安倍晋三 文芸春秋社 

    3月30日付け ブログ掲載 

 

㊽ おかめ笹 永井荷風  新潮文庫 

  大正7年「中央公論」新年号に掲載された作品で主人公の凡庸稚拙な画工 鵜崎巨石

  はその弟で陸軍中尉と妹で学校教師に比して入試に悉く失敗し、画家内山海石の弟子

  として何とかくいつないでいる。海石の子息で遊び人翰とつるんで日常生活を過して

  いる。海石の姻戚で狡猾な骨董商の妾の子蝶子と翰が結婚するに及び、ひょんな事か

  ら巨石に幸運が舞い込み、安芸者小花と快飲する幸を味わう。金満家の「帝室技芸

  員」内山や骨董商の大須賀の偽善性を仮借なく抉っている反面、巨石や小花にはあ

  る暖かみをもたせており、荷風の心情が良く窺える。

 

㊽ 濹東綺譚     永井荷風  

  昭和12年4月~6月にかけて東京朝日新聞の夕刊に連載された。

  この小説は「失踪」と題する腹案ができ、これを作品としてする為に作中人物の生

  活を描写する意味合いから、主人公 種は先生の潜伏する場所を本所か深川か、もし

  くわ浅草のはずれ、又はそれに接した旧郡部の陋巷(ロウコウ)にもっていくこと

  としたとして荷風は背景の描写を精細にし、季節と天候とにも注意しなければなら

  ないとしている。

  作品は二重構造となっており作中人物の生活と、作品を描く為に路傍で逢った娼婦

  との出来事を語る形となっている。

  荷風の詳細を極めた文章は例えば古本屋の主人について「主人は頭を綺麗に剃った

  人柄な老人。年は無論60を越している。その顔立ち、物腰、言葉遣いから着物の着

  様に至るまで、東京の下町生粋の風俗をそのまゝ崩さずに残しているのが私の眼に

  は稀覯の古書よりも寧ろ尊くまた懐かしく見える。震災の頃までは芝居や寄席の楽

  屋に行くと一人や二人こういう江戸下町の年寄りに逢うことができた。

  たとえば音羽屋の男衆の留爺やだの、高嶋屋の使っていた市蔵などという年寄達で

  あったが、今はいずれもあの世に行ってしまった」 

  この文章によって一挙に荷風の世界に我々をを引き込むのだ。作品はとりたてゝ筋

  を追うものでなく、当時のさびれた場末の花街を描いて一部のすきもない。

  挿絵の木村荘八の絵は荷風の作品にピッタリと寄り添って情緒満点である。

 

㊾ 渡辺一夫著作集第12巻から   

  ー 腹黒い計算について ー 人間ドック余談として

  検査の結果「胆石」と診断された。「胆石」とはフランス語で計算の意味があり又

  怒りの変欝と云う字を元にした形容詞であり、死の「腹黒い計算」の象徴かもしれ

  ない。我々は日常死の「腹黒い計算」の網に包まれている筈であり、知らぬが仏で

  あるだけの話である」として、仏の16世紀作家フランソワ―・ラブレーの「第42

  書パンダグリュエル物語」から色々な奇妙な例を引いている。

 1.ギリシャの有名な悲劇作家アエスキュロスは物が崩れ落ちてそのために死ぬだ

  ろうと占い師に言われたのであらゆる落下物がないと思われる野原にいたとこ

  ろが、空を飛んでいた鷲の爪から落ちてきた亀がアエスキュロスの禿げ頭に当

  り、頭蓋骨が粉砕されてしまったという。

 2.ローマのクラウディウス皇帝の前で放屁をこらえていた為に頓死した男がいた。

 3.ローマにフラミナ街道にある墓碑銘には牝猫に小指をかまれて死んだ男の名が

  ある。

 4.クィントウス・ルカニウス・バッススは右手の親指を針でチクリと刺した為に頓

  死した。

 5.ノルマンディー生れの医師クヌローは小刀で手から一匹の蝨(シラミ)を斜めに

  ほじくり出した為にモンペリエという町で急死した。

 6.フィレモンはのそのそ家に入ってきた大睾丸の驢馬が無花果をむしゃむしゃ食べ

  ているのを見て、おかしくなりげたげたと笑い出し、止めどがなくなり脾臓が動き

  すぎて息がつまって死んだという。

 7.スプウリウス・サウフェィウスはお湯から上がりしなに半熟卵を啜った為に死んで

      いる。

 8.鼠尾草(ソージュ)で歯を磨いたのがもとで急死した男がいる。

 9.古い借金を支払って気がゆるんだか、今まで貧乏だったのに頓死した男もいる。

 10.画家のゼウクシスは自分が描いた一人の老婆の肖像を眺めながら笑いに笑って死ん

     でしまった。   

   が紹介されている。

   死は昔からあらゆるところで、あらゆる瞬間に我々をその「腹黒い計算」の網で包ん

  でいるのだ。

   ちなみに私の伯母も定期健診で病院に出かけ、医師に「お婆ちゃんどこも悪いところ

   はありませんよ。安心してくださいね」と云われ、病院の玄関を出たところで急死し

   ている。

   著者の渡辺一夫はフランス文学者でラブレー研究の第一人者でもある。(12月1日)

 

㊿ 定本 後藤田正晴   保坂正康  ちくま文庫

      上記のその3 (つづき)へ 掲載

2020年

11月

10日

2020年に読んだ本 (その2)

            【 2020年に読んだ本 つづき 】

㉞ なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか      望月 衣塑子、佐高 信  講談社

  政権に対する容赦ない追及の鋭さで一躍名を馳せた東京新聞記者望月と硬骨の論客

      佐高の対談である。安倍政権の様々な問題に対する追求を中心としてこれに伴う官

  僚全体の疲弊化と検察の弱体化、及びマスコミの対権力の姿勢の後退と右傾化につ

  いて論ずる。

 

 日本会議の研究  菅野 完 扶桑社新書

     2012年安倍内閣発足以来、特定秘密保護法、集団的自衛権に関する閣議決定、安保

     法制の強行採決と傍若無人を続け、更にモリカケ問題、桜を見る会問題を抱えて遂に

     政権を投げ出した、この安倍政権を支えた政策的支柱となっていた「日本会議」なる

     ものゝ成り立ちと実態を解明した快書である。

 

㊱ 天馬賦   石川 淳  中公文庫

      極めて現実感溢るゝ物語は一転して虚構の世界に入り込む。一大ロマンの豪華絢爛

      たる一大絵巻きが繰り拡げられる。リズム感ある独特の文体に乗せられて息もつか]        せぬ力技はまさに見事。

 

㊲ 封建制の文明史観   今谷 明    PHP選書

     封建制は民主制の反対概念として悪しきものとされてきた。しかし蒙古軍の世界的な

     侵略に対して日本、ドイツ、エジプトではその侵略を防いでいる。いずれも封建制が

     確立していた。尚資本主義も封建制が根づいた地域から発展している事からみて、こ

     の事をどうとらえるか。戦前、戦後様々な歴史学者等が封建制とはなにかについて問

     題を提起している。

 

 天門  石川 淳  集英社

      青年弁護士 遠矢東吉は世俗の世界にのり出す。恋と冒険の物語。例によって現実と

      虚構が入り混じり、不思議な世界に我々を巻き込む。

 

 夷斎先生座談 ( 上・下) 石川 淳  中公文庫

  夷斎先生こと石川淳が武田泰淳、川端康成、安部公房、吉川幸次郎、中野重治、三

  島由紀夫等を相手とし歴史、人間、芸術、文学、江戸と西洋、歌仙の世界、中国古

  典、徂徠とヒューマニティ等々多岐にわたって談論風発。石川淳の博覧強記振りを

  遺憾なく発揮している。

 

 夷斎俚言  石川 淳    文芸春秋社 

      芸術家の人間条件、革命とは何か等語り尽くす。1987年石川淳死去によって最後の

      文人が失われた感あり。

 

 日本の思想  丸山眞男  岩波新書 

    7月4日付け ブログに掲載

 

㊷ 諸国畸人伝  石川淳 全集10巻より

    9月22日付け ブログに掲載

 

 図書館巡礼  スチュアート・ケルズ  早川書房

     知の集積所として図書館がいかにして創られたのか。古今の図書館は町の権力者が

     文化の保護者として又権力の飾り物とも云うべき壮麗な建物をつくり世界中の珍書、

     古書を集めた。それは現代に至るまで各国の図書館は文献の保守、保存、獲得に心血

     を注いで今日に至っている。愛書家たちは稀覯本の収集に熱中し、稀覯本をめぐる犯

     罪にも頁をさいて読み物としてもまことに熱の入った一冊である。

 

㊹ 鶴見俊輔全漫画論  松田哲夫編 1.2.ちくま学芸文庫

      鶴見は最初の本として「団子串助」をとりあげている。奧付けは大正14年3月5日で

      あるが、この本を繰り返し何度となく読み返しており、その後もまんが全集の計画

      に参画する等ずっと係わりあってきた。長谷川町子から白土三平の「カムイ伝」、

      滝田ゆうの「寺島町奇談」から水木しげる(水木しげるには相当のページ数を費や

     している)、つげ義春について詳細な分析を加えてもいる。鶴見は幼年時代から老年

     に至るまで、大量の漫画本を集め、スクラップをつくり、関心が衰えることがなかっ

     た。漫画論1,2を通じて哲学者鶴見俊輔は漫画本に現れた日本の文化を学門的に考

     察している。鶴見が漫画に詳しい事を知ったのは岩明均の「寄生獣」を推選している

     のをどこかで見て早速読んでからである。「寄生獣」は期待に違わぬ出来であった。

 

㊺  18世紀京都画壇   (蕭白、若冲、応挙たちの世界)  辻 惟雄    講談社選書メチエ

     京都に於ける絵画の部門のルネッサンスと云うべき時代が繰り広げられた。

   この時代は日本絵画は狩野派、土佐派等手法の伝承などを重視した形式主義とも云え

   る殻を破って新しい表現が現れた。それは集団ではなく各々の画家の個性であったの

   である。

   江戸時代の将軍の威光のもとで輝きを失いつゝあった絵画芸術は京都という比較的

   自由な雰囲気の中で台頭してきた町人に依拠して、新しい表現者が生まれてくる。

     それが与謝蕪村、蕭白、若冲達であったし18世紀から19世紀初めにかけて、京都画

   壇は多士済々の人を生んだのである。尚応挙の弟子の長沢蘆雪は蕭白や若冲に比し

   て、人気も評判も今一つの感があるが動物を描かせては当代一の実力者であり、月

   夜山水図等の山水画も誠に魅力的であると思う。

 

 検証 ( レッドパージ 電力産業労働者の闘いと証言 ) 編集 益子 純一

        9月 14日付け ブログ掲載

                          ( 続く )

2020年

10月

26日

2020 年に読んだ本  (その1)  

① 熱源 川越 宗一  文芸春秋社

 

② 長いお別れ    レイモンド・チャンドラー

  物語にかゝわる周囲の状況の説明が不必要に描かれておりおり必然性に

  乏しい。物語の流れを阻害しているようだ。

 

⓷ 古本で見る昭和の生活  ちくま文庫  岡崎 武志

 

⓸ キス・キス  ロアルド・ダール  ハヤカワ文庫

 

⑤ 王女マメーリア    〃        〃

  共に短編集であるがまことに心地よい読み物である。

 

⑥ 少年  ロアルド・ダール     早川書房

 

⑦ 単独飛行   〃          〃

  ダールの少年時代と青年時代、イギリス空軍での上流社会での活躍をえがく。

  少年時代はヨーロッパの上流家庭の典型でジッドの「一粒の麦も死なずば」に類似

  している所がある。

 

⑧ 古書店主  マーク・ブライヤー  ハヤカワ文庫

 

⑨ 無実はさいなむ    アガサ・クリスティー  ハヤカワ文庫

  古書店主は古書周辺の話が面白い。クリスティーの話は読ませるが詰めの部分が

  極めて弱い。

 

⑩ 数の女王  川添 愛  早川書房

 

⑪ 石器時代の文明  リチャード・ラジリー  河出書房新社

  紀元前1~2万年前から5千年前、人類の知的レベルが果たしてどうだったか等

  記述がある。

 

⑫ 崩壊学  パブロ・セルヴィーニュ/ラファエル・スティーヴァンス  早思社  

  現代の社会制度、エネルギー問題、異常気象の頻発、ITの進歩に伴う危機等 

  危機感に溢れた作品。

 

⑬ yの悲劇  エラリー・クィーン  ハヤカワ文庫

   ミステリーの古典

 

⑭ 一粒の麦も死なずば  アンドレ・ジッド  新潮文庫 堀口 大学訳

  ジッドのエリート意識と超人思想らしきものがかいまみえる。同性愛がひろ

  がっていた事もうかがえジッドがお稚児を玩弄する癖を有しているが、それを些

  かも恥じる様子もない。プルーストの「失われた時を求めて」のシャルリス男爵

  の同性愛が詳細に述べられているように、上流階級に同性愛が少なからずいた事

  がジッドにもみえる。

 

⑮ 丸山眞男座談全9巻   岩波書店

  1946年から1995年に亘る、多様な人達との座談であるが、何故日本が第二次

  大戦に突入したのか、国民の支持なくしてはそれは不可能であったが、その思

  想的根源は何か、国民の手で戦争犯罪を裁くことなく戦後に移行した結果がど

  のように今日の社会に禍根を残しているか、再び反動化が進む今日、その事を

  一貫して追求している。

 

⑯ 丸山眞男回顧談2巻   岩波書店

 

⑰ 戦中と戦後の間  丸山 眞男  みすゞ書房

    (1936年~1957年)

 

⑱ 加藤周一著作集 全24巻    

  戦後日本を代表する知の巨人の政治、文化、芸術、社会に亘る評論であり人生の

  半分は外国で活躍、日、英、独、仏、伊語に通じて、その博覧強記振りはまさに

  脅威的である。中でも必読は「日本文学史序説」である。

 

⑲ 海の都の物語   塩野 七海  中公文庫

  ローマ帝国末期ヨーロッパの恐怖の底に叩き込んだアッティラ・フン族の侵略の

  中で、ヴェネツィア人はいくつもの河川によって出来た平野地帯に住んでいたが

  逃れるみちは唯一海であった。葦が繁る干潟地帯へ逃れたが、しかしそれでも侵

  略者を防ぎきれず、住居を造る木材を持って更に奥の干潟へ避難したのである。

  船の通り路をつくり、その他に杭を打ち込んで侵入を防いだ。ヴェネツィアはや

  がて海運国家としてイタリアを代表する都市を創出する。最盛期でも15万人の人

  口しか有していなかったが、強力な海軍を有し、共和国として1000年の永きに

  亘って繁栄を続けた。その外交手腕と政治力には目をみはる。

 

⑳ リゴ兄弟     ジョルジュ・シムノン  集英社

 

㉑ ピセドールの環  ジョルジュ・シムノン  集英社

       ブログ掲載ズミ

 

㉒  異邦人   アルベール・カミュ   新潮社

  1942年独軍占領以来最高の書としてパリ、ガリマール書店から刊行され、一躍世界

    中で注目される作家となった。「人生の不条理を描いた」異邦人は戦後の人々に共

    感をもって受け入れられたのである。主人公ムルソーは人生の不条理を明瞭に意識

    している人間として前半は「不条理人」の自分を通して語られ、後半は同じ行為が

  社会にはどう受け止められるかを描いている。第一部の「けさ、ママンが死んだ」

    の有名な出だしとなり、暑い砂浜でアラビア人を銃で撃ち殺して裁判にかけられ、

    何故殺したのかを問われて「それは太陽のせいだ」と答えるくだりも、世間に宣

    伝された。

 

㉓ 文豪が愛した映画たち   根本 隆一郎編  ちくま文庫

    福永武彦、高見順、井上靖、林芙美子等40人に及ぶ作家が各々の見方で様々な映

    画について作家らしい論評を加えている。福永の「怒りの葡萄」の中で新藤兼人

    の「縮図」と比べて同じ貧しさを描いても、救いのない「縮図」に対してアメリ

    カの楽天主義がこの作品にある等、みるべき観点が多く語られている。

 

㉓ 荷風追想 岩波文庫 多田 蔵人 編

     荷風と云えば劇場の楽屋に入り浸り、終日裸の踊り子達に親しみ花柳界の裏側を

     かき、吝嗇で無類の人嫌い、特に文壇の作家を忌み嫌い、孤獨の人だったが通説

   である。しかし英語、仏語を能くし、西洋文化と江戸文化に造詣が深く、戦中斎藤

     茂吉、高村光太郎、武者小路 実篤等多くの作家が日本の軍事行為を賛美する中で荷

     風はこの風潮に組する事はなかったのである。作家嫌いの荷風にも拘わらず谷崎潤

    一郎を始め多くの作家達が荷風の作品、行いに尊敬の念を抱き、その作品を高く評

    価していた。特に戦前、戦中の作品が素晴しく、断腸亭日乗、随筆、雨潚潚 等に

    表した社会批評は今もって新鮮で鋭いものがある。

 

㉕ 深夜散歩 福永武彦、中村真一郎他著名作家が探偵小説を取り上げて

                    各々評論している。特に福永武彦は他のペンネームを使って

                    数編の探偵小説を書いており、各々の文章が面白い。

 

㉖   鴎外先生  永井 荷風  中公文庫

     荷風は同時代の作家で唯一尊敬し、崇拝していた鴎外への賛歌である。

 

㉗ 自由への道    サルトル (全3巻)  人文書院

      現実の社会と同時進行の形で描かれた仏社会で、3巻終了で中断したもの。

      フランスの全体小説である。知識人マチュを中心とした戦争前夜と戦中を様々な登

      場人物の立場や思いで進行している。

 

㉘ 日本人の歴史  網野 善彦 全3巻 岩波新書

     網野善彦著作集全18巻別巻1で繰り拡げられた網野史観を一般向けに解りやすく

     書かれたもので、私が学校で習った事と全く異なる主張に著作集は驚きの連続で

     読んだものだが、新書版3冊はコンパクトにその主調がまとめられている。

 

㉙ 網野善彦を継ぐ 中沢 新一、赤坂 憲雄   講談社

  中沢は義理の甥に当り歴史学者赤坂と網野の人となりを興味深く語り合う。

 

㉚ 僕の叔父さん  中沢 新一  集英社新書

  中沢の父親厚の妹真知子の結婚した相手が網野である。

 

㉛ 奇想の系譜   辻 惟雄 ちくま文芸文庫

  絵巻物の生命は室町時代に終焉を遂げたと言われているが、17世紀前半の絵巻

  物には極彩色の特異なものが存在する。なんとも卑俗でアクが強く反撥と嫌悪を

  感じるのがせいぜいの代物であるが、興味をそゝる対象であるとの前置きがあり、

  先ずそれら作品の冒頭に「山中常盤」がとりあげられている。

  全巻150mという長大なもので牛若丸伝説を主題にした室町時代のものである。

  牛若丸が常盤の仇討ちとして押し入った盗賊どもを不意をついて片はしから首を

  刎り、胴切りと凄まじい情景描写が異様な現実味を漂わせている代物である。

  血なまぐさい戦乱の記憶がいまだ生々しく留めていた時期であった事をうかがわ

  せる。後藤又兵衛、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪等がとりあげられている。

  「奇想の系譜」は1970年3月美術出版社から出版されたもので取り上げられた

  画家たちは当時さほど評価されておらず、かなり先駆的なものである。

 

㉜ ピラネージの黒い脳髄   マルグリット・ユルスナール

       ブログに掲載済み

 

㉝ ペスト    アルベール・カミュ 新潮社

  19x4年 仏領アルジェリアのオランで起こったペストは町に鼠の死骸が数多

  く出現する不穏な事態から始まる。やがてペストは猖獗を極め町を席捲する。

  町は交通を遮断され孤立、主人公リウーは医者として治療に奔走する。司祭や判

  事、新聞社ランベル、犯罪者コタールはペストによって大きく変貌一方で、医者

  リウーやタロー等は変化しない。又無神論者ソウーと司祭は対立するも結果的に

  殆んど一致するが、ヨーロッパに於いて神の存在をめぐる事は極めて重要なのだ

  という事を改めて考えさせられる。様々な人達が様々な意見を有し、主張する重

  層的な物語となっている。又ペストに罹災した人々の記述も克明に語られて濃密

  な作品となっている。60年振りに再読したもの。

 

10月26日以降の分へつづ ・・・・                       

 

2020年

9月

22日

『諸国畸人伝』を読む 石川 淳 著

「諸国畸人伝」 石川 淳全集 第13巻のうち初出は 別冊 文芸春秋 昭和31年新年号

          より昭和32年6月号まで10回に亘って連載された。10題の伝である。

 

石川は先ず「近世畸人伝という本のあることを知っている。伴 嵩蹊著 全5 寛政2年 庚戌(1790年)ことに世にきこえたこの本について、今さら解説の要はあるまい」これを明らかな俗書とし、学者のもって拠りどころとするようなものではないとし「しかし俗

書であるがゆえに流行を覗く為にはかえって手ごろのものである」とし、18世紀後半から19世紀半ばにかけての畸人たちをその主旨にのっとりとりあげている。

 

指物大工で出雲の国の藩主松平治郷(不昧公)より如泥の号をさずかった小林安佐衛門

に始まり豊後高田の人形師 算所の熊五郎、駿府の左官安鶴等、安房、伊那、府中、駿河、出羽、越後、阿波、松江、豊後に至る10人である。

北越雪譜を著した鈴木牧之を除けば僅かに坂口安吾の父親坂口五峰を間接的に知る以外

に私にとって全く馴染のない人物ばかりである。

それ等を一人一人現地に赴いて、その末裔を探し出し、寺の住職からも話を聞き、墓も

調査し、地元に残る文書や作品を調べ、その足跡を丹念に調べている。

10人はいずれも見事に一芸に秀でた人物ばかりで、その伝と紀行文は実に面白く、又

坂口五峰の中に「五峰は次第に政事の方に生活を引きずられて行って俗務ごたごた。

したがって五峰伝はごたごたして来る。わたしはバカなごたごたに付き合うことを好ま

ない」と云った薬味もピリリと利かす事を忘れない。

この地味で忍耐のいる仕事をあの石川淳がやっていたのかの思いが強いのである。

2020年

9月

15日

庭の花( 風蘭、フェアリースター 、藤袴 )

   風 蘭 20年程前後楽園で開催された世界蘭展で購入したが、20年の間

      今回で一輪づゝ2回しか開花しなかったもの。

 フェアリー スター

                藤  袴

2020年

9月

14日

『検証』(レッドパージ 電力産業労働者の闘いと証言)1995年 6月 編集 益子 純一 補講 編集 益子 良一

『検証』(レッドパージ 電力産業労働者の闘いと証言)

             1995年6月 出版    編集 益子 純一

                      補遺 編集 益子 良一

 

1.(1)1945年  8 月 日本ポツダム宣言受諾し無条件降伏

 (2)1945年  9 月 世界労連結成

 (3)1945年 10月 GHQ指令 治安維持法及び特高警察廃止、政治犯釈放

 (4)1945年 12月  農地改革指令、労働法公布

 (5)1946年  4 月  電産労組結成

 (6)1947年 1月9日 全官公共闘2・1スト決定

 (7)1947年 1月31日 GHQマッカーサー元帥2・1スト中止命令

 (8)1949年   7月 国鉄定員法で第一次首切り37千人

      1949年   7月   〃   第二次 〃 62千人

 (9)1950年   5月 マッカーサー共産党非合法化を示唆

 (10)1950年   7月 マッカーサー警察予備隊創設

 (11)1950年   7月 GHQレッドパージを勧告

 

2.アメリカ占領軍が当初日本再軍備化を進める事を第一義として民主化の手を次々と

打ってきたが、ソ連の原爆所有宣言、中華人民共和国の成立によって、従来の政策を転換。日本を軍事作戦の補強基地として利用する方針を定めて日本を「反共の砦」として

強化する道を選択したのである。

その第一歩としての「レッドパージ」はアメリカの「マッカーシズム」の日本版で

あった。

「レッドパージ」は日本の「逆コース」へ転じた転換点である。

「レッドパージ」は1950年に行われ、民間537社で10,972人、政府機関で1,177人(1950年11月)に及んだ。

 

3.戦後の日本民主主義社会は同じ敗戦国のドイツと大きく異なっていた。

ドイツでは時効を廃止してまでもナチの犯罪の責任者を追求したが日本では自らの手による戦犯裁判は唯の一件もなかった。否、政界、官界、財界における指導者の多くは軍国

日本の指導者で、責任の追及はおろか、戦前、戦後を通じて人物の持続性は保たれてい

たのである。

今日に至るも憲法を改定して、軍事国家を明文化し、教育勅語を是とする政治勢力が

日本を支配している根源がこゝにあり、「レッドパージ」を許した遠因ともなったの

である。

 

4.「検証」では電力産業の労働者達がレッドパージを受けた側からの証言であり

「思想及び良心の自由」を守る為にいかに闘ったかの詳細な現実を、現場労働者の不

屈の抵抗の過程を生々しく語っている。

レッドパージから40年経過して尚、語らずにいられなかった思いは何か。弾圧を受けた現場からのリアルな現実を残すいかに「人権」が奪われていったかと、40年経って再び「憲法改定による軍事国家の明文化と、反動思想の流れが次第に大きくなりつゝある

時代に警鐘を鳴らす必要性を切実に感じていたからに他ならない」

 

2020年

8月

27日

加藤周一について(加藤周一著作集全24巻を読み直して)

加藤周一著作集全24巻を改めて読み直す。

加藤周一と云えば「日本文学史序説」であり、物語、詩歌、哲学、宗教と従来の文学史

とは全く異なる切り口で目を見張る論評を繰り拡げた。特に前半の見事さは類を見ないもので、文学史と云うよりも日本文化史とも云うべきものである。

さて、加藤周一の取り上げる分野はヴェネチア、パリを始め数ヵ国に居住、英独・仏・伊語を駆使し各国の政治、社会、文化について論じ建築、彫刻、絵画、宗教、、歴史を語り、演劇はギリシャ史劇から能、狂言に及ぶ、彼が論じないものはスポーツだけである。

 

もう一つは自己を語らない。唯一の例外は「羊の歌」のみであるが、他の分野同様自己

を客観視してみる点は変わらない。

論旨は明解、余分な事は一切書かない、深い洞察力に貫かれているが、優しさは失っていない。

今まで、曖昧に流されて感じていたいた物事を論理的に解明してもらう楽しみは全編に

わたっており、知的読書の娯しみをこれ程味合わせてくれる読書は外にない。

 

加藤周一の人となりを最も良く表している文章を生涯の友人福永武彦に語ってもらおう。『或る時、加藤周一が自伝「羊の歌」を書こうと思うと私に語った。やれやれ君もそん

なものを書く歳になったのかと私はひやかし、どういうポイントで書くのだと尋ねたら、平均的日本人を書くのだと答えた。平均的日本人と加藤周一とではイメージがまるで

重なり合わないから説明を求めると、彼はこういうふうに述べた。多くの日本人と同じく、君も僕も、政治では右でも、左でもなく、宗教では神道も仏教も、キリスト教も

信ぜず(しかしいずれにも関心があり)行動には理性を重んじ、判断は相対的であり、

実人生を楽しむように芸術を楽しみ、目は世界に開かれ、心は日本を愛し・・・・

この上まだたくさんのことを言って、そのうちに笑い出して、君はどうも平均的では

ないかもしれない。

君は芸術家だからとお世辞を言った。そこで私の方はもっと大きな声で笑い、もし君

が自分を平均的日本人だと思っているのなら、それはとんでもない間違い。

君は特別製のインテリだから、その点を自覚して自伝を書かない限りポイントが狂うよ

と忠告した。世界を股にかけ日英独仏の4ヶ国語を日常に使い、政治、思想、文学、芸

術の各分野にわったて鋭い批評眼をそなえた男が平均的ということはあるまい。

「羊の歌」は わが回想 という副題を持ち、加藤周一による1945年敗戦の年までの自伝である。このあとに「続羊の歌」が刊行されることになっている。さてこれを読むと加

藤周一という決して平均的でない一個性が、どのような環境に育ち、どのような他者お

よび自己による教育を経て現在に至ったかが明らかに分かる。彼の持つ観察力と分析力(また記憶力というものもあろう)必要にして充分な描写と説明によって、幼年期と少

年期、そして青年期に及ぶまでの間の、その人間像を刻みあげる。祖父、父、母、妹と

いう肉親たちも、どの一人として決して平均的ではないし、その強い個性が彼の上に投

影している。時代の方は平均した力を彼の上に投げかけたが、彼は決して流れに押し流

されることはなかった。私は彼の身近にいた一人の友人として、殆んど ”巻を措く能わず”  という興味に促されて一読したが、一般の読者諸氏に対してもこの一冊は強烈な印象を与える筈である』

(福永武彦全集第15巻 加藤周一「羊の歌」昭和43年9月)

「羊の歌」は朝日ジャーナル1966年(昭和41年)11月6日~1967年4月9日 

「続羊の歌」は朝日ジャーナル1967年( 昭和42年)7月9日~12月17日 

              1968年9月 に収録

2020年

8月

12日

大相撲令和二年七月場所におもう

大相撲令和二年七月場所 (本来は名古屋場所であるが新型コロナウィルス感染防止

対策の為場所を東京の両国国技館に移し、7月19日から8月2日まで行われた)

 

一、 照ノ富士 と 朝の山 

七月場所は幕尻の照ノ富士が13勝2敗で優勝した。

両膝を損傷した上に内臓疾患も病み、大関から序二段まで陥落したが、今場所前頭の

幕尻まで復活して感動的な優勝を果たした。膝の負傷は完治する事なく、負傷を抱え

ながらどう現役を続行していくのか注目された。

大関時代は脇が甘く屢々両差しを許し、後ろに反り返って力ずくの相撲を若さにまかせ

て取った事から、負傷したものである。

膝、腰に負担をかけないで相撲をとる事が絶対条件となり、為に、立会いに素早く左上

手を前褌近く浅く取り、前傾姿勢を保って前に出る形をつくりあげて、今場所に挑んだ。場所前に「上手を取れば白鵬関以外には負けない」と豪語していたが、相当の自信があったのであろう。言葉通り勝ち進み、終盤上位陣に当っても位負けする事なく、見事な

結果をもたらした。

 

一方の朝の山である。

朝の山は右四ッの形を急速につくりあげたことで、安定感を増し大関となった。

今場所の後半に弱点が露呈した。左上手の位置が深すぎるのである。

浅いと何故良いのか。1. 褌が近く、取りやすい。

  2.取って引き付ける事により相手の自由を奪える。

  3.相手の右下手の効果を殺す事が出来る。  以上

 その効果は思いの外大きいのだ。

 今後の課題 

  1.立会いの鋭さを増すこと。

    ㋑ 相手の勢いを止める。

      ㋺ 相手の体勢を起こし、早く前褌をとる事が出来る。

      ㋩  以上で取りこぼしが減る。

  2.左上手を取る為に左手の薬指、小指の強化を図る。

  3.左手の腕力を強化する(引きつける力をつける)

  4.  右差しにこだわらない。こだわると相手はおっつけて搾り上げる為に上体を

     起されるからだ。   

朝の山は右差しの為右脇は堅い事から、相手の左差しをおっつけて搾り上げる事により、相手の上体を崩すことが出来る。相手がたまらずに差し手を抜けば差せば良い。

左上手から強烈に引きつければ一層の威力が増すことであろう。

 

二. 近年の相撲が面白くない理由

いくら横綱白鵬が強くとも30回闘って1~2回しか勝てない、又は全くかてないという事実は深刻である。これでは勝負事として全く面白味がないのは当然で、対戦者はなに

も考えずにたゞ漫然と土俵に上がっているとしか思えない。

どうしたら勝負になるのか考えてもらいたい。

40~50年以前の小兵力士は達は、こういう体勢をつくれば、たとえ横綱相手でもそうはいかんぞとという自負心を持っていた。

(例)1.両前褌を取って頭を付け、拝むように押し上げて前に出る。

    (相手に前褌を取らせない)

   2. 上手を深く取って頭を付け、下手は前褌をとり、相手を半身にさせて出し

     投げて崩し寄り、又は外掛け内掛けで攻める。

     3.時折立会い一瞬 立合い一瞬の蹴手繰りを繰り出す。それによって次の場所

             では彼が何をするのか、変わるのか、一遍に出てくるのか惑わす。

   4. 双差しに特化して、差したら一散に走る。相手に上手を絶対に許さず、

    上手を取りに来たところに内掛けを狙う。

等、特技を持った多くの個性的な力士が居た。全てが横綱、大関になる事は出来ないの

は明らかで最大限の個性を発揮したのである。

彼等も専門家集団であり、修得した練達の技の数々を披露するのが仕事であろうに!

 

2020年

8月

03日

ビデオ『鉄西区』( WEST OF TRACKS)をみる

ビデオ 「鉄西区」ーWest of Tracks

 

監督 撮影 王 兵 (中国)2002年度製作 

  一部 工場  244分

  二部  街  178分

  三部 鉄路  134分  

      計 556分 9時間16分の大作ドキュメントである。

 

第一部 「工場」占領軍としての日本が現地に残した銅精錬工場などを基にした中

国の計画経済の遺産は2000年頃まで50年に及び稼働し続けた。しかし工場の老朽化に

より次第に経営の行きつまった国営工場での低賃金、長時間労働、劣悪な労働環境の中

で働く労働者の日常を執拗に追う。将来の全く見えない仕事の中での無気力な仕事振り

と僅かの休憩中にカードで憂さを晴らし、些細な事で諍いを繰り返し、絶えず 煙草を

吸う人々。

 

彼等は自分達が今後どのような行く末が待っているのか全く分からずに未来へと投げ出

されるのだ。男達に比べて僅かに映像にとらえられた女性達の元気な姿にはホットさせ

られる。

中国共産党の目指す社会主義とは一体何だったのであろうか。労働者の悲惨な実態が非

情なまでに映像で暴き出されている。

 

第二部 「街」この鉄西地区の労働者たちの工員向け住宅で両親と暮らすティーンエー

ジャーの生活に焦点をあてゝ描いている。老朽化した工場群は廃止され、住宅も取り

壊されることが決まっている。早々に家財道具を車に乗せて新しい共同住宅ヘスタ引っ

越す人達。どうすのか迷う人達、そして立ち退き絶対反対を貫く人達と様々な対応を

描く。

若者達はそうした中でも明るく生きているが、この鉄西地区の労働者の家族達は新しい

共同住宅でどう生活していくのか。家賃、電気代や水道代等の公共料金はどうなるのか、又仕事はあるのか、ここまでは一切描かれていないが絶望的な結末が窺えるのだ。彼等の行く先は真っ暗である。

 

第三部 「鉄路」 鉄西地区の工場群をつなぐ貨物路線24㎞とそこで働く労働者、鉄

道の敷地内で不法に小屋を建てゝ住み、鉄道に依存して生活する人達すべてがやがて廃

止される鉄道のあとどうするかが先の見透しもないまゝ唯今までの仕事や生活を続けて

いる。

 

このドキュメンタリー映画の特徴は製作者の主張を盛り込む事を控えて一つの時代の終

焉という出来事に向かい合い、これを記録することによってその時代の政治、社会のあ

り方、中国国民の生活実体を炙り出す事に成功しているのだ。

 

この監督の製作した「死霊魂」は2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀

賞を獲得し、近日中に東京でも上映される事が決まっている。これも9時間に及ぶ大作

であり、上映が楽しみである。

 

2020年

8月

02日

作品紹介 弘法大師 「風信帖」

弘法大師 空海の「風信帖」

空海が最澄に宛てたもの。第1通目の書き出しが風信とあるので「風信帖」と呼ばれる。

弘仁年間(810~824年)初めの書状とみられる。

日本書道史上の名品として名高い。

   冒頭6行部分の拡大

2020年

7月

29日

作品紹介   千字文 心経 曹全碑 

  心経 金泥

 草書 千字文(銀泥)

曹全碑(金泥)

2020年

7月

27日

ロシア紀行(二度のロシアの旅を振り返って 1度目 )

2010年9月15日~22日 1度目のロシア行き

 

9月19日にサンクト・ペテルブルグにあるエルミタージュ美術館で個展の話があり、

又国立宗教博物館に佛画21点寄贈の件もあり、サンクト・ペテルブルグへ行くことに

なった。当初個人で行くつもりであったが、池坊のツアーが同時期企画されており、

便乗する事にした。ツアー参加者は90人程、大諷一行は12名である。

 

1. 9月15日モスクワ到着。空港から市内まで交通は大渋滞、社会主義時代にはなかっ

たことである。モスクワ観光はモスクワ大学、ノヴォデヴィッチ修道院、院内には壁

一面にイコンが飾られていた。トルストイ博物館は大貴族の質素ではあるが、内部は

立派な邸宅であり調理室は別棟である。ノヴォデヴィッチ修道院前の白鳥の湖、この場

所でチャイコフスキーは「白鳥の湖」の楽想を練ったと言われている。

 

クレムリン宮殿、赤の広場とレーニン廟、広場に隣接する聖ワシリー寺院はイワン雷帝

の命で造られたが、雷帝はこれ以上の建物が以後決して造くられないように製作者の目

を刳り貫たという。同じく隣接するグム・デパートは高級品のみ置いてある店で誰も買

う人がなく、広告収入のみで成り立っていると云う。

 

赤の広場では休日の為か結婚式のカップルが6~7組いて写真を撮っていた。

ロシアの女性は皆、小柄で美しい。ちなみに「赤の広場」の赤は美しいの意味である。

ウスペンスキー大聖堂(1575年創設)白亜の教会で丸い屋根は金色に輝いていた。

聖堂のグルージン広場の鐘は吊るす前に破損して何度修理しても直らないので、そのま

ゝここに鎮座している。鐘に施されている彫刻は精緻である。同広場にはもう一つ巨大

な大砲がある。1586年製であるが一度だけ試し射ちをしたが6mしか砲弾が飛ばず、

以来ここに置かれている。アルハンゲイ大聖堂と、教会を回ることが多かった。

 

2. さて今回の目的地サンクト・ペテルブルグである。

 イ. サンクト・ペテルブルグの空港に日本語に堪能なサンクトペテルブルグ大学の学生クバーゾフ・ヒョードル(日本語表記 兵取)24才が迎えに来ていた。

彼は江戸時代の古文書の研究をしていて、過去1年間三重県に忍者の研究に滞在、三重大学に留学していた。漢字は得意で何でも聞いてくれとのこと要望があり、バラ、ユウウツ等聞いたところ漢字でスラスラと書いて得意げであった。長身で二枚目、優しく「モデルの仕事に向いているのでは」と聞くと実は日本でモデルの仕事をしていたと云う。

彼の案内で市内を観光、どこが観たいかとの問いに地下鉄、と市場(マーケット)、ドストエフスキー記念館、本屋等揚げると案内してくれた。

 

地下鉄の入口と出口は別、料金は60円均一。出口を出なければどこまでも乗れる。但し地下鉄内は写真撮影禁止であり、それはテロ防止の為だそうだ。

スーパーマーケットは肉、魚は大きく、買った品物は店内に木の切り株が鉈と共に置か

れてあり、各自が切断するのだとの事。蜂蜜は巣のまゝのものも売っており、チーズ

も多い。野菜や果物も多かった。食品は総じて豊富であった。又路上のマーケットもあり、主に老人が商品を持ち寄って並べていた。

 

エルミタージュ美術館に面して流れるネバ川を川越しにみるペトロパーウロフスク大聖

堂の美しい眺め、ネバ川とネフスキー通りはドストエフスキー記念館と並んで「罪と罰」でおなじみで、見たときは感無量であった。記念館はビルの一角に目立つ訳でもなく、

又見学者も居らずにヒッソリと建っていた。内部は思ったよりも広く、書斎も食堂もキ

チンとしており、子供たちの人形等も飾られており、小説からみるとドストエフスキー

より生活はしっかりしているようにみえた。尚ドストエフスキーのデスマスクもあった。

 

 ロ.16時から宗教博物館にて寄贈佛画についての契約書を取り交わす。

  作品一つづゝ明記してあった。署名は博物館館長。

 

 ハ.19時から日本総領事館にて歓迎の晩餐会出席。参加者は川端総領事夫妻、

   松山副総領事、職員1名、池坊宗匠池坊専永氏外1名、次期家元御夫君雅史氏、

   池坊教授中村福宏氏及び井口寒來氏、山田みどり氏(池坊ロシア支部創設者で

   ロシア支部長)、和田大諷の11名。

  当日の献立

  1.先附 手毬寿司の三種(鯛、サーモン、ハマチ)

  2.前菜 無花果の白和え、海老、雲丹の〇焼き、小芋田楽、湯葉のさしみ 

  3.椀物 変わり土瓶蒸し 4.焼き物 鴨の照り焼き 

  5.揚げ物 海老変り揚げ2種 6.酢の物 帆立、茄子、しめじ茸の黄身酢がけ

  7.食事 鮭おこわ、みそ汁、香の物、甘味 チョコレートと抹茶のムース、

    フルーツゼリー  料理人は領事館専属料理人。

 

 ニ.翌日 聖カザン大聖堂

ネフスキー大通りに面したロシア正教の総本山。ナポレオン率いるフランスに対する

ロシア軍の戦勝記念碑とも云うべき大寺院で、寺院にはロシア正教の聖宝物のイコン

「カザンの聖母」が保存されている。このイコンは戦時中クトゥーゾフ将軍とともに遠

征している(1801~1811)建設。

社会主義の間この地に宗教および無神論博物館が置かれており、イコンや礼拝用道具な

どはあまり保存されていない。大聖堂ではこの建物が一番りっぱであった。

 

 ホ.ワシリエフスキー島の要塞

ピョートル一世の構想ではこの島は未来の都の中心地になる筈であった。島内にはサンクト・ペテルブルグ大学、ロシア科学アカデミー、ロシア美術アカデミーの建物である。

ペトロパーヴロフスク要塞があるが実際には使用されなかったか、聖ペテロ・パウロ寺院(1731年創)もあり、皇帝の墓もある。旧市街地は18世紀クッウゾフーナポレオンのフランス侵略軍からロシアを護った国民的英雄の史跡と呼ばれるように、当時のまゝに良く保存されている。

 

 ヘ.エルミタージュ美術館で個展の展示見学

エルミタージュ劇場での館長あいさつと作品の紹介。

 

 ト.エルミタージュ美術館の見学

1530年代ミケランジェロの「うずくまる少年」、ゴヤの「アントニアサラティの肖像」、カラバッジョの「リュートを弾く人」、ダヴィンチの「ベヌアのマドンナ(通称花を持つマドンナ)」「リッタのマドンナ(通称聖母子)」、ジョルジョーネの「ユーディット」、レンブラントの「放蕩息子の帰還」「サスキア」「ダナエ」「自画像」、

アントニオ・カノーヴァの「三美神」これは美しいが彫刻としてはミケランジェロには

遠く及ばない。美術館で購入した時点ではカノーヴァの評価が高かったのであろう。

「三美神」は工芸品としては比類を絶する出来栄えを誇っているが第一級の彫刻とは言

えないのではと思われる。

 

 .ツアー旅行はそれなりに効率よく見学はさせられたが、印象はさほどの事もなか

った。しかし大寺院の威容は予想以上の見事さであった。街は整然としており、旧市街

は一般の建物の建設が禁止されて保存されている。日本でみられる夜のネオン等はほと

んど見る事がなく、真に美しい。

資本主義に変わって車の増加が著しく、駐車場が全くない為に車は舗道に止められており、旧い建物が立ち並ぶ為に駐車場をつくるスペースが無いのが実情である。

ツアーは日本も同じであるが食事が不味く、ホテルで出される水も有料で硬水で極めて

まずい。そして街に出るとトイレが全く無く、商店内にもトイレは使わせてもらえない。現地の人々はどうしているのであろうか。又社会主義時代には無かったスリや置き引きが増えて、他のヨーロッパの事情と急速に近づいてきたようであった。

 

2020年

7月

27日

ロシア紀行( 二度のロシアの旅を振り返って 2度目 )

再びのロシア ( 2014年5月14日~23日 )

 

目的のその1はサンクト・ペテルブルグの国立植物園内にある日本庭園に新しく造ら

れた茶室に扁額を依頼され、その茶室開きと扁額の除幕式を行うこと。

扁額の名前「希望庵」が先方の希望で、要望に応じて作製しすでに送付済みである。

 

その2 は前回国立宗教博物館に寄贈した21点の佛画の展示が同館に於いて2ヶ月間開催されたが、その展示の折は作者本人が参加出来なかった為、今回2度目の展示の機会に

本人として立ち会う事になった。

 

その3は同館内で佛画についての講義を行って欲しいとの依頼である。

以上の3件の要請で、再度のサンクト・ペテルブルグ行きとなった。

 

今回は個人の旅で、山田みどりさんを含め計6人でのロシア行きである。山田みどりさんとは現地集合となった。

 

イ.フランスのドゴール空港を経由してサンクト・ペテルブルグに到着。

現地での移動は車で運転はマンドレィである。到着当日は国立植物園の内外、茶室開き

を翌日に控えた茶室の様子、除幕式の手順などの説明を受ける。

日本庭園の中に建てられた4畳半に水屋、3方を廊下に囲まれた一軒の茶室、屋根は島根県の石州瓦葺である。茶室の畳や周りの庭石等の出来上がりは、とても24時間後には茶室開きを迎えられるとは思えない状態だった。

 

2日目 茶室開き、扁額の除幕式の本番である。仕上がりは一夜にして見事な茶室と庭

に出来上がっていた。誰かがこれがロシアのやり方なのよ!と教えてくれた。

一行に先方からの依頼は着物着用であった為私は袴を着用、女性陣は着物姿である。

先ずは茶室開きの茶会、続いて扁額の除幕式が行われた。

当日は快晴。公益法人「日本サクラの会」委員長蓮見久子氏2014年の女王大野由佳氏や柔道の山下泰裕氏も参加。地元の議員等も来賓として参加して盛大に行われた。

亭主は友人の裏千家教授の石井宗翠さんである。

植物園内は他にもロシアの女性達が奏でるお琴の演奏会や、表千家の立礼の野点の茶席

等催し物が出ていて大盛況のようだ。山田さんが用意した着物をロシアの若い女性に着付けし10数人程が園内を巡って花を添え、行き交う人達の目を楽しませた。

 

ロ.そのあとすぐに国立宗教博物館に到着。館内には和田大諷のポスターが張り周らされており、会場には全寄贈作品が飾られていた。館長と面会し、講演が始まる。

原稿は予め送付済みであったが、始めてみると通訳の関係上予想以上に時間がかゝり、

予定の半分に切りつめて1時間程で終了。通訳は山田みどりさんと同館学芸員のセル

ゲイ氏である。

講演終了後中庭に仮設した舞台での墨のパフォーマンスの要望あり同館からの大判の紙と中程度の筆が用意されており袴姿でこれに応じた。見物客300人程。

パフォーマンス終了後、希望者には別に用意した筆、墨で実際に書の練習の時間を設けた。お手本は予め用意した書と其々好きなの日本語の言葉をその場で書いて渡した。

夜も暮れていたが白夜が始まっていて、まだまだ明るい。

 

ハ.翌日スケジュールにより、第83学校見学。ロシアでの学校は日本でいうところの小学校から高校までのことで、わたしたちの訪問を学校あげて歓迎された。

弓道の実技が行われ、弓道部の生徒たちが袴を穿いて試射を行った。第83学校の生徒は800人、内400人が日本語課の学生で弓道部の部員は80名であるとのこと。

当日は総領事も参加した。書の揮毫も頼まれ、学校内の柱に黒ペンキで書かされた。

当日は模様は翌日の新聞に写真入りで報道された、

 

ニ.マリンスキー劇場でバレエを観る。

1860年グリンカのオペラ「皇帝に捧げる命」で杮落しを迎え、その後リムスキー・コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキーの音楽がここで初めて演奏されガリーナ・ウラノワはここで芸術活動を始めた。アンナ・パブロワが踊りこの劇場の名声は高まった。当日バレエは「真夏の夜の夢」をみる。まずは劇場の外観は素晴らしく劇場内に入った

だけでその歴史を感じさせる豪奢な雰囲気、観客の気分を大いに盛り上げるものであった。それにつけても上野の文化会館の何とみすぼらしい事が思い比べてしまった。

劇場の前広場には来場者の車が数も多くしかもバラバラに向いて駐車しており、帰りは

どうするのかと他人事ながら心配してしまったが、それでも問題なく出て行ったのには

驚いた。

 

ホ.「ホテル・ラフマニノフ」 友人のオリガ夫妻の長期定宿にしているホテル訪問

イヴァン・ブーニン ロシアの作家(1870~1953、ヴォロネジ生れ)1890年代に詩人として出発。チェーホフやゴーリキの知遇を得てズナーニェ派に加わり小説「アントーノフのリンゴ」等執筆、10月革命後フランスに亡命、西欧世界にあってロシア文学の一つの主流の最も良き継承者として知られた。1933年ロシア人小説家として初のノーベル文学賞を受賞した。ブーニンが永く住んでいたホテルである。部屋の飾りや調度品、当時の楽器やタイプライター、絵などがそのまま置かれたレトロな気分が溢れるウィークリーマンションとして使用されている。お茶とお菓子をご馳走になった。

オリガ夫妻とは東京や京都で何度か食事を共にしている。オリガ夫人は墨絵を能くして新国立美術館でも何度か入選している実力者である。

 

ヘ.帰路への途中 オランダのアムステルダムに2泊。

国立美術館でレンブラントの「夜警」やフェルメールの数点、他を見てゴッホ美術館も

みた。あとは船で運河を巡り、骨董や生花の露天市、市街のそぞろ歩き、そこで見つけ

たレンブラントのミュージアムで買い物等、適当に見つけて入ったレストランでの昼食、夕食も実に美味しかった。

山田みどりさんとはアムステルダムの空港でお別れとなった。

 

ロシア旅行の感想は

1.街が整然として整備され夾雑さが全くなく格調高い建物が建ち並び調和が

  とれていて歩いていても気持ちが良い。

2.ネオンがほとんどなく夜の景色は美しい。

3.会った人は皆一様にやさしく親切であっる。

4.女性の大半がスタイル良く、美人であり、かつ小柄の人が多い。

5.食事について今回はツアーでない為に何を食べても美味で日本人の舌に合う

  ようである。

6.ウオッカもうまい。

                                  以上

2020年

7月

16日

作品紹介 棗に絵

 

棗に絵を描く

友人から依頼された棗6個 無地に絵を描いて欲しいとの依頼である。

3個は秋草や葡萄等を描き、1個は中国の古代児童の姿を描いた。

残る1個については漆で塗ってあり、その上から水彩絵具で描くのは不可能で断念。

あと1つは絵具が全くのらない事から描く事ができなかった。

古い棗ばかりで表面が荒れており、細密な絵はやゝ困難であったが何とか出来上がった

ものである。 

 

2020年

7月

14日

作品紹介 千字文

千字文

唐の李綽(リシャク)の尚書故実に「梁の武帝は子供たちに書を習わせる為、王羲之の

筆蹟の中から重複しない文言1,000字の模本を作らせたが、一字づつの紙片であって順

序はなかった。武帝は周興嗣(註)を呼び出しこれを韻文になるよう考えてくれと命じ

た周は一晩かかってこの1,000字を用いた整然とした韻文一編を作り上げ武帝に奉じた

がその苦心の為に頭髪が真っ白になったと」述べている。

 

(註)周興嗣(シュウコウシ)南北朝時代 南朝の人。

梁の武帝が即位した天監元年(502年)『休平の賦』という韻文を奉って大いに賞美され、彼の官位は以来昇進を続けた。彼は文集10巻の外に歴史などの著述百余巻があったといい、文学の才能が高く評価されいた人であった。

 

2020年

7月

14日

作品紹介 佛説阿弥陀経

2020年

7月

04日

「日本の思想」丸山眞男  岩波新書 

「日本の思想」丸山眞男 岩波新書

     1957年11月 岩波講座「現代思想」第11巻「現代日本の思想」所収

 

1.2018年「はじめての新書」岩波新書80年記念で出版された中に「はじめての新書」

      読書案内があり、87人が其々づゝ推選している。

     その中で最も多く取り上げられているのが「歴史とは何か」E・H・カーと「日本

     の思想」丸山眞男である。

 

2.こゝでは「日本の思想」を取り上げてみたい。

      日本史を通じて思想の全体構造としての発展をとらえようとすると、誰でも容易に

      手がつかない所以は、研究の立ち遅れとか研究方法の問題をこえて対象そのものに

  ふかく根ざした性質にあるのではないかと問題提起している。

 

3.更にそれが同時代の他の諸観念と、どんな構造連関をもち、次の時代にどう内的に

  変容してゆくかという問題になると、ますますはっきりしなくなると問題点を明ら

  かにして、そしてそれは自已を歴史的に位置づけるような中核、あるいは座標軸に

  当る思想的伝統はわが国には形成されなかったと結論づけている。

 

4.ヨーロッパでは最も頑強な「公式」であるキリスト教が長年涵養した生の積極的

  肯定の考え方が普遍化している社会でこそ、そこに現実との激しい緊張感がうまれ

  るとし、又社会的栄誉をになう強靭な貴族的伝統や自治都市、特殊ギルド、不入権

  (フニュウケン 註)をもつ寺院など国家権力に対する社会的バリケードが日本では

  いかに本来脆弱であったかゞ指摘される。

 

5.マルクス主義の登場

  大正末期からのマルクス主義からは日本の知識世界に初めて社会的な現実を政治と

  か、法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づ

  けて綜合的に考察する方法を学んだ。

  又多様な歴史的事象の背景にあって、これを動かして行く基本的導因を追求すると

  いう課題を学んだのである。

 

6.しかしマルクス主義のよってたつ歴史を捨象して上澄みだけを輸入したことで、マ

  ルクス主義が日本にもたらした巨大な思想的意義は近世合理主義の論理とキリスト

  教の良心と近代科学の実験操作の精神を前提としたマルクス主義が日本には前提条

  件なしで受け入れたことで、その重荷にたえかねたとみることが大量に思想的転向

  を出した原因ともみられるのである。

 

7.㋑ 異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとして、しばしば

    流通したのは周知のように"何ん即何そ" あるいは "何々一如" という仏教哲学

          の俗流化した適用であったとしている。

      ㋺ 本来カルチェアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異な

          るものと措定して、これに対面するという心構えの希薄さ、その意味での物分か

          りのよさから生まれる安易な接合の伝統が日本に根強くあったのである。

 

8.明治以降の近代化は政治、法律、経済、教育等あらゆる領域におけるヨーロッパ産

      の「制度」の輸入と、その絶えまない「改良」という形をとっておこなわれた限り

  合理的機構化にも徹しえず不断の崩壊感覚に悩まねばならなかった。

  その第一は日本の実情が共同体的習俗に根をおろしているかぎり、それは本来合理

  化、抽象化一般と相容れないものであり、いかなる近代的制度も本来実情に適合す

  る事は不可能なのである。しかも「制度」は既成品として各部門でバラバラに輸入

  され、制度化の全体的計画性と個別的実態調査との結合ぬきに実施されることが少

  ないので、いよいよ理実との間に悪循環をひこおこしたと述べ、日本に新体制を敷

  くにあっての現実を見極めることなくすすめたこと、つまり日本の生活風習、宗教、

  ならわしを無視して強行したことをあげている。

  結論として、日本の伝統的宗教がいずれも新たな時代に流入したイデオロギーに思

  想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果しえず、

  そのために新思想はつぎつぎに無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性がいよ

  いよ甚だしくなったとしている。

 

9.加藤周一の第7巻に「日本の雑種性」があげられている。

  そこに英仏両国民の自国の文化に対する極端に国民主義的な態度があるとして、要

  するにイギリス的な特色は学問芸術から服装や生活様式の末端にまで及んでいる。

  イギリスの文化は日本でのように医学は外国式で美術は又別の外国式だが、生活様

  式は日本流だというような混雑したものではない。又外国の文化に対する強い好奇

  心があるが、外国との接触によって本来の原理の展開を豊かにするということにす

  ぎない。一種の文化的国民主義が発達している。

  日本では港の桟橋も起重機も、街の西洋建築も風俗もすべて日本人が自分達の必要

  をみたす為に自らの手でつくったものである。西洋文明がこのような仕方でアジア

  に根を下ろしているところは植民地を除いては日本以外にはない。

  つまり英仏の純粋種の文化の典型あるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型

  ではないかという事で、日本風といわれるものは常に精神的なものばかりである。

 

註)「不入権」とは 中世ヨーロッパにおいて教会領や俗人の所領が有していた特権で

①  所要内の土地と住民とか負担すべき国家に対する貢租や労役からの免除

②  国家の役人が所領内に立ち入り、その権限を行使する事の禁止(裁判権と警察権)

③  領主ないしはその代理人が国家の役人にかわってその権限を役使することを意味

  する。   

2020年

6月

22日

作品紹介 子規歌集 巻子

2020年

6月

19日

作品紹介 自宅の庭の花 今年の牡丹

2020年

6月

18日

作品紹介 自宅の庭の石佛

2020年

6月

16日

作品紹介  懐素「自叙帖」 

2020年

6月

11日

作品紹介 葛飾区 新宿4丁目 路傍の石佛

葛飾区の新宿(ニイジュク)4丁目の舗道傍らに立つ石佛は観音像か明王像か判別

できないが、明王は忿怒の姿が通常であることからもしかして准胝観音かもしれない。

二面六臂の像である。この石佛の外に13体の石佛が並んでいる。

2020年

5月

31日

『荷風随筆集』より 

荷風随筆集より
1.荷風ほど変貌する東京に悲憤慷慨した文筆家は少ない。

『日和下駄 *一名 東京散策記*』に

  「日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無情悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたら埃及

(エジプト)、伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思いをさせ

るところはあるまい。今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る

時には必ず貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒(ユイショ)の

ない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれる

のである」

 「東京の都市は模倣の西洋造りと電線と銅像とのためにいかほど醜くされてもまだま

だ全く捨てたものでもない」「庭を作るに樹と水の必要なるは云うまでもない。都会の

美観を作るにもまたこの2つをのぞくわけには行かない。幸いにも東京の地には昔から

夥しく樹木があった」

 「青山竜巖寺は青山練兵場を横切って兵営の裏手なる千駄ヶ谷の一隅に残っていたが、

堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家に、松は愚か、庭らしい

閑地さえ見当たらなかった」

 「現今の東京は全く散歩に堪えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便

りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに擬し帝国劇場を

以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人には

あるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式文明が森永の西

洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩に対しては東京なる

都会の興味は、勢 尚古的退歩的たらざるを得ない」

 「現代官僚の教育は常に孔孟の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の

水を過る度々『仰高』の2文字掲げた大成殿の表門を仰げば、瓦は落ちたるまゝに雑草

も除かず風雨の破壊するがまゝに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが

如きに至っては、われらは唯唖然たるより外はない」

 「およそ近世人の喜び迎えて便利と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生が

アメリカ人が如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が

見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして能く時間の節倹を実施させている

であろうか」
 「日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少し深厚なる愛情を持っていた

なら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損せずに

済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、または昔からなる名所の眺望や由緒のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の

高い家を建てる現代の状態は、実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙

といわねばならぬ」
 「近年見る所の京都の道路家屋並に橋梁の改築工事の如きは全く吾人の意表に出でた

ものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の2旧都をそのまゝに保存せしめたりと

てもしそれだけの埋合わせとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業よ

り見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみあくせくして世界に二つ

とない自国の宝の値踏をする暇さえないとは、あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた

話である」

 「表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層私をしてその陰にかくれた

路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」他大正4年4月に書かれた

「日和下駄」には、日本の文化が次々と破壊されていく事に対する怒りの思いが縷々述

べられている。

 

2.加藤周一が1989年頃に この問題にふれている。

         著作集 第20巻「東京移り行く都市」-1989.9ー

  ” アムステルダムの人口はパリの10分の1であり、ヴェネツィアの古都の人口はアム

ステルダムの10分の1程度。しかしそれぞれの強い個性があり、異なる種類の魅力が

ある。数千人程度の小さな街にも、イタリアに限らず、南フランスでもバイエルンでも、

ハルツの山中でも、海峡を渡ってイングランでも、歴史の生み出した風情と味わいがある。歴史的な文化は「形」として列なるところに残っている。それは町の大小に係わら

ない。又西欧と東欧と、政治的体制のひがいとも係わらない。プラーハやブタペストの

古都の美はヴィーンの中心部のそれに劣らないだろう。また町の貧富の美をさえも、係

るところ少ない。どの教会も戦争で破壊し尽くされた中心部の歴史的景観を、長い年月

と膨大な費用をかけて、原形に復したのである。

西洋に古い街並みが残っているというのは、正確ではない。実は西洋の社会が、古い街

を残した、というべきである。もちろん行政機関が街の美観を維持する為に強制的に介

入して残したのである。どうして西洋の行政機関には、そういう事ができたのか。

つまるところ、その町に住む人々の圧倒的な要素と支持があったからである。

昔は日本にも、美しい町や村があった。爆撃は多くの町を焼き払ったが、京都と、小さ

な村は残った。1950年代の半ば、3年程西洋で暮らした私は日本国に戻ると、その頃なお京都に、また信州の山村に、日本の伝統的な街並みの美しさを見出すことができた。

何世紀もかけて磨き上げられてきた美観を、徹底的に破壊したのはいくさではなくて、高度成長とそれに伴う価値観である。金もうけと能率が一方にあり、町の美観が他方にあって、両者のつりあい、または調和を考えないのは西洋的でない "

 

3.ポーランドのワルシャワはナチスの爆撃で完膚なきまでに破壊されたが、ワルシャワの美術学校の画学生が描いた街のスケッチが大量に残っていて、これを元にして昔の街を再現している。自国の街の景観に誇りを持っていたのである。一方、戦後焼ヶ野が原となった東京は都市計画もないまゝに、建物がバラバラに建ち始めた。更に田中内閣の日本列島改造によって、未だ古さの残る都市は完全につくり変えられ、江戸の風情を残した多くの掘割は埋め立てられ、江戸の街特有の多くの樹木は切り倒され、今日の東京は一体いずれの国か解らぬような高層ビルが、統一性も計画性もなく立ち揃び、汐留界隈等は街にもビルにも人影が見えず、建物の名前も表示されず、番地も判らない。

まるでゴーストタウンのようになっており、荷風が嘆息した日本の街はついに、ここまできたかとの感がある。

 

2020年

5月

27日

葛飾の寺 浄心寺 2.26事件で犠牲の清水巡査部長の墓石も

浄土宗林光山称名院と号し、芝増上寺旧門末 慶長19年(1619年)起立とも云われる。

墓地内の阿弥陀三尊は優品である。


境内に清水巡査部長の墓がある。
昭和11年2月26日陸軍内部の皇道派青年将校は武力によるクーデターを図り、1400人余の部隊を出動させて国会、首相官邸一帯を占領し陸軍上層部に国家改造の断行を要請、2.26事件である。墓背面の碑文によれば、当時警視庁巡査部長の職にあった清水與四郎は総理大臣官邸警戒勤務中に、この事件に遭い機関銃などの乱射を受けて死亡。
この事件の責をとり岡田啓介内閣は3月に総辞職。

岡田啓介によって6月この墓碑が建立された。 

 

  浄心寺 全景

  

      観音石佛 大諷画 石佛の年は寛文6年と読め1667年である。   

 

        石 佛 群

2020年

5月

22日

作品紹介 佛頭 一点

2020年

5月

20日

葛飾の古刹 親鸞聖人ゆかりの寺 光増寺

光増寺 正式名称

    浄土宗 摂取山 蓮池院 光増寺

  (せっしゅざん れんちいん こうぞうじ)


葛西神社の北200m程、旧水戸街道の左側に光増寺はある。

親鸞聖人ゆかりの古刹で貞応元年(1222年)聖人直弟子随信房法海の草庵に始まる。

 

縁起によると、元仁元年(1224年)5月上人が葛西の領主葛西三郎清重の招きにより

常陸稲田から葛西渋江の館に赴く途中金町の一草庵に一夜の宿をとったが、庵主法海は

喜びのあまり、聖人の弟子になり随信房の号を贈られた。貞永元年(1232年)8月再び訪れ草庵を光増寺と称し、自筆の阿弥陀仏画像と三名号を与えた。

 

以後天文、永禄の2回にわたる国府台の合戦で兵火により荒廃。天正15年(1587年)江戸の芝増上寺の常誉上人が法脈の絶えることを惜しんで、浄土真宗を浄土宗に改め再興。文縁元年(1592年)急火だで焼失。慶応年間に再興したが天保3年(1832年)再び焼けさらに3度炎上した。(3度とも1月8日に焼けている)とある。

 

明治43年8月再建、昭和49年現在の堂舎に改築された。境内には本堂の他に法隆寺の夢殿を模した八角形の屋根を持つ倶会堂(くえどう)が建てられている。門をくぐると左手に葛飾区有形文化財の舟形地蔵が立ち元禄7年(1694年)7月建立とあり、同文化財の道標が石に刻されている。(元禄7年の銘有)「そう可(か)迄2里半 これよりミぎいわつきぢおんじミち」と記され、片方(元文6年銘)には「これより左いはつき志おんじ道」とある。


墓地の入り口左側に俳諧師 鈴木松什 の墓がある。

松什は寛政10年(1798年)柴又村に生まれ、通称を安五郎。俳号を 無有庵松什 と号した。瓦の製造を生業としたが、若いときから俳諧の道に入り江戸の俳諧師 蓼松(リョウジュン)の門下となる。俳句のほか書画にも堪能で「芭蕉翁発句類題集」ほか多数の作品がある。 

        

住職の話では自身 作家の司馬遼太郎と親交があったとのことである。

倶会は倶会一処の事で阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の人々おとともに一処に会同

する事をいう。  

 

     光増寺石佛 大諷 画

    光増寺 本堂

      舟形地蔵

          鈴木松什の墓

2020年

5月

12日

5月8日 丸山眞男座談全9巻を読んで (続き ) この座談が行われた当時

1.個人的には1960年代初めキューバ危機をめぐり公然化した中ソ論争の中、「世界政治資料」誌に繰り広げられたベトナム戦争を中心とした中国の彭真(ホウシン)、ベトナムのレ・ズアンの論文を待ち望んで読んだものである。


2.彭真は(1902~1997) 山西省出身
23才で共産党に入党した。1945年共産党第7回大会で中央委員に選出、1951年北京市長、1956年党第一書記となり、理論面で大きな役割を演じた。文化大革命で批判を浴びて1966年6月北京市長解任すべての地位を失う。1979年文化大革命収束と共に中央に返り咲いた。


3.レ・ズアン(1908~1986)は1930年インドシナ共産党創立に参加。
1931~35、1940~45 フランス官憲に逮捕投獄される。1939年中央委員会議長。
1959年党第一書記に就任(ベトナム労働党)。1986年書記長。
ホーチミン体制下の党内有数の理論家。1960年の南ベトナム解放民族戦線の結成を指導。1969年のホー主席死去のあとは党・政府両面で主導権を掌握。1975年のサイゴン攻略に断を下したのも彼であった。
当時両者、特にレ・ズアンは社会主義諸国のなかで、とびぬけた論客で鋭い理論展開は見事であり、国防相の将軍ボー・ゲンザップと共にベトナム解放戦争を勝ち抜いた立役者であった。

2020年

5月

08日

丸山眞男座談 全9巻を読んで

1.1946年から1995年まで実に50年にわたって日本の文化と政治、社会をめぐる

  座談の形で論評している。

座談の相手は

大塚久雄、中村哲、古在由重、清水幾太郎、

林健太郎、宮城音弥、吉野源三郎、

大岡昇平、野間宏、猪木正道、天野貞祐、

渡辺一夫、田中耕太郎、高見順、武田好、

久野収、長谷川如是閑、埴谷雄高、

加藤周一、矢内原伊作、江藤淳、南原繁、

永井道雄、日高六郎、石母田正、鶴見祐輔、

中村光夫、吉田秀和、木下順二、山本安英、

開高健、村松剛、桑原武夫、高野悦子

  等多岐にわたっている。


2.唯物史観と主体性、日本の軍隊を衝く、何を読むべきか、現代社会における大衆、

現代革命論、映画思想と政治、戦争と同時代、民主主義の後退を憂う、現代の政治的

状況と芸術、芸術と政治、学問と政治、現代における平和の理論、日本の言論、日本

の反動思想等文化と文明、政治について幅広くとりあげて論議されている。

取りあげている時代ごとに踏み込んだ話題が繰り広げられており、全体としては、

民主主義がとりくずされていく反動化が全体を通してみると良く分かる。

 

3.中でも9巻にのる「平和問題談話会」については一際光彩を放っているようだ。

石田雄、久野収、坂本義和、日高六郎、緑川亨、吉野源三郎、そして丸山眞男の面々

で1968年の座談である。戦後23年経ち国際的にも国内状況もきわめて流動化した現象

がみられるようになって、その転換期に一定の方向性を定める必要があるとの認識に

立って戦後の日本の平和思想の形成にとって大きな基盤を提供してきた「平和問題談

話会」の思想的原理と論理を明らかにしようとした座談である。


4.1948年12月10日世界人権宣言が発表され、それにともなって、ユネスコの8人

の社会科学者の声明が出された。8人の人達は、内4人が自分の正しいと思う考えを捨

てる事を拒否した為に生涯のある時期を牢獄で送った思想的弾圧の経験者であり、

2名は亡命しなければならなかった人達であり、2名は第2次大戦中肉体的虐待を受け

たおそらくユダヤ人としてのつらい思いをした人達であった。


5.8人の声明を受け入れ、これに対する日本の科学者の声明を発表し、そこから

「平和問題談話会」が形成された。日本の問題は東西両陣営の対立のなかでこれから

いろいろな問題に直面せざるを得ないわけで、ユネスコの声明を日本の問題に引きつ

けて行くことは日本のインテリゲンチャとして孤立し、分散し、各個に蹴散らされた

戦争にいたる体験を経て、新しく出発する覚悟をもたねばならない事や、東西両陣営

の狭間のなかでどのような態度をとるか等極めてむつかしい問題だったのである。

つまり戦前は世論に影響力をもつような知識人の間の交流の場は全くなかったのだから。


6.当時の日本の政治状況
敗戦の直後には「自由懇談会」というものがあり、ずっと左の人まで集っており

「民主人民戦線」が盛んに主張されており、野坂参三が中国から帰国した際には歓送

委員の中には石橋湛山がいたという状況があった。マルクス主義に対する信頼は極め

て高かった。

つまり思想としてはマルクス主義のみが戦争に抵抗したということが最大の原因である。


7.しかし肝心の日本共産党の実情はどうだったか。ファシズムと闘った仏、伊の共産

党と異なり日本共産党は1933年6月7日佐野学、鍋山貞親の転向声明を始めとして雪崩

を打って転向。残った数少ない指導部は戦後になって牢から出てきており、世界の状況

も日本の実状も理解することが出来なかった。またディミトリフによるコミンテルン

の戦略転換が1935年社会民主主義者こそもっとも悪い階級敵だと攻撃の戦術転換を行

った。

以降日本共産党も長い間社会党を敵の補充物として攻撃する立場をとり続けていた。
いわゆる疑似左翼は右翼よりなを悪いという見方である。又戦前の党は拠点を生産現

場に築くことが出来ずに、一部インテリゲンチャに依拠していた為にあっけなく剪滅

されてしまったのである。又民主主義的権利の闘争に充分習熟する事もなく、戦術面

での未熟さもあった。共産党員の転向も含めて日本の民衆の中に「人権」の観念が不

足していた事が大きい。人権とは人民という集合体の権利ではなく、個人個人の権利

で所有権から言論の自由までみんなそれに入る。つまり絶対主義の政府でも「人権」

にそれこそ「絶対」に足を踏み入れてはいけないという観念で、国会にしろ行政府に

しろ政権はどんなに集中しても人権は不可侵なものという思想は今の日本でさえ定着

していないのだ。

ヨーロッパでは17,8世紀の自然思想はみなそれで、いわゆる近代民主主義の勃興以

前の問題で、政治形態の問題ではない。いかなる政治権力であろうと踏み込んではな

らない領域という思想が日本にはない。民主主義もマルクス主義もヨーロッパからそ

の上ずみを輸入して、その歴史を身につけていない事が大きいのではないか。

まるで着物を着たり脱いだりしているような気持がみえる。共産党も国民も民主主義

を勝ち取った経験もなく、従って守る事もないまゝ中味が伴っていなかったつけが巡

って来たとも云えるのではないか。


8.又ソ連は世界革命のリーダーとしてコミンテルンの中枢に君臨していたがレーニ

ン死後スターリンが党の実権を握るや、次第に民主主義の抑圧者となっていった。

1936年スペイン内乱が起りヘミングヴェイ等世界各国から義勇軍が国際旅団として

人民戦線に参加、一方のソ連は武器援助する条件として人民戦線の中のアナキストを

排除するように強く要求。人民戦線の内部ではアナキストの勢力が強い為に、その要

求に応ずることが出来なかった。ソ連の反ファッショを額面通りに信じていた世界の

共産党からは大量の脱党者が出た。ついで独ソ不可侵条約である。これで2度目の転

向者を出す事になる。更にソ連の原爆実験によって世界の民主化運動の分断は深刻と

なり日本でも反原爆禁止運動は分裂「いかなる国の核実験にも反対」か「ソ連の実験

を帝国主義の実験と同一視出来ない」かをめぐり原水協と原水禁に分かれていく。


9.一方共産党は「劇的な文書「赤旗」第一号の冒頭「人民に訴う」に徳田、志賀の連

名で「ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の進駐によって日本

に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対し我々は深甚の感謝の意を表する」と

記された。

更に46年2月第5回大会で戦後進駐軍が英、米、ソの反ファッショ連合を代表していた

面だけをみて、その帝国主義的本質を見おとし無条件に「解放軍」と規定、占領軍は

革命の発展に干渉は行わず、しかも占領は早晩講和によって終結するであろうとのまこ

とに能天気な現状分析のもと「占領下革命論」が指導理論として打ち出された。

闘うべき敵を見失ったこの戦略は50年コミンフォルム批判で「帝国主義占領者美化の理論」と痛烈に批判され反マルクス・レーニン主義の理論として捨てられたのである。
国内外の共産主義勢力の誤りもあってマルクス主義の影響は次第に低下し続けて行くこ

とになる。
しかし戦争直後の1948年多くの知識人が先駆的に日本を民主主義の国とする為に何かしなければとの必死の思いは痛い程伝わってくるのである。

 

2020年

5月

07日

「エルザの瞳」とルイ・アラゴン

2018年9月16日付けで 私の好きな歌手その9「コラ・ヴォケール」を取り上げました。その中で『アンドレ・クラヴォーはシャンソン歌手に珍しい甘い美声の落ち主で

「パパと踊ろうよ」で父と幼い娘とのデュエットがある。またルイ・アラゴンの詩に

よる「エルザの瞳」はその底流に民主主義渇望の思いをこめて絶品の歌唱である』と

紹介した。

 

今回その続きとしてその詩「エルザの瞳」を作った詩人ルイ・アラゴンについて加藤周一の著作集2から紹介します。

 

ルイ・アラゴンについて
1.加藤周一は著作集2の「途絶えざる歌の中」で抵抗の文学を語るには何よりもまず

詩からはじめなくてはならないが、誰よりもまずルイ・アラゴンから始めなくてはなら

ない。ナチス占領下のフランスの代表的詩人は、その仕事の量において、また質におい

て衆目のみるところ等しくアラゴンであった。
その大胆で、誇りにみちた作品は、彼の詩作の原理がなんであるかを端的に示している。
抵抗の詩集は憎悪ではなく怒りの、正しく人間的な怒りの作品であるといえよう「傷心」「エルザの瞳」「フランスの起床ラッパ」「祖国のなかの異国にて」に至る彼の詩集ほどあきらかに語っているものはない。憎悪は愛とともにありえないが、怒りは愛とともに、むしろ愛に支えられてはじめてあり得るものだ。

フランス人に、フランスに対する愛がなければ、フランスをふみにじるものに対する怒りもなかったはずであるし、拷問と強制労働に対する反抗はありえても、あのように堂々たる人間的な怒りに支えられた抵抗はありえなかった筈である。憎悪は人を盲目にするが、怒りは人の目をひらく。
詩人アラゴンが怒れるフランス人ではなく、憎悪に燃えるフランス人であったならば、彼の詩集が祖国愛と人間愛とを同じものとしてうたることも、そのことばをあれほど美しく鍛えることも出来なかった筈であると述べている。


2.第一次大戦後、アンドレ・ブルドンを中心におこった超現実主義のもっとも輝かし

い一人としてアラゴンは登場したが、超現実主義から大衆が離れた事と、マヤコフスキーと接触することによって超現実主義を克服。「社会主義リアリズム」に転換したが、詩

作はかっての輝きを失っていった。ダンケルクを境としてうたをとり戻す。
「傷心」についてアンドレ・ジードは「アラゴン、彼の初期の作品は俺たちを驚嘆させた。次期の作品最近までの作品は、それほど、或いは全然われわれを喜ばせなかったばかりか、その或るものは彼が文学にとって永遠に失われたのではないかと心配させるほど

われわれを呆れ返らせるものだった。

ところが彼はおそらく誤謬をみずから悟ったらしい。ああ、彼ははるばる帰ってきたのだということが出来る」と語った。


3.エルザの瞳
ロシア生れの小説家エルザ・トリオレは抵抗の間もアラゴンの良き伴侶であった。

アラゴンは彼女への愛を、ダンケルクの砲煙弾雨のうちにうたった。


『僕は叫ぶだろう 僕の愛を・・・・
ぼくは叫ぶだろう 弾丸よりも強く
傷ついた人々よりもまた溺れゆく人々

   よりも

ある美しい夕暮に世界は砕けた
遭難の人々の燃えあがらせた暗礁に
わたしはみていた海の彼方に輝いている
エルザの瞳 エルザの瞳 エルザの瞳
わが愛の名はたゞ一つ若き希望が

     それである
わたしはいつもみつけだす 

      その新しい交響を
苦しみの底でそれを聞く 君たち
フランスの美しい子よ眼をあげよ
わが愛の名はただ一つ わが頌歌は

    今終わる』


こうしてアラゴンはその詩的天才を抵抗の戦いそのもののなかに実現したのである。

 

2020年

5月

04日

作品紹介 如来像 3体

2020年

4月

28日

鈍翁  益田 孝とその時代 丸山眞男 座談 8巻より 丸山眞男 白崎秀雄 

鈍翁・益田鈍翁とその時代 丸山眞男座談巻8より   丸山眞男、白崎秀雄


三井物産をつくり育てた益田孝がとりあげられている。

1.益田孝は(1848年~1938年)、幕末から明治にかけての資本主義勃興期から昭和10年代の太平洋戦争直前までの日本の資本主義発達史を身を以て生き、また率いた人物で、大茶人であると共に、古美術の一大コレクターであり、あれだけの美術に関する見

識を持った人間は他にいない。


2.益田は三井のリーダーとしては井上馨、中上川彦次郎、団琢磨、池田成彬という人々にくらべて光が当てられなかったが大組織の巨人である。


3.益田をふくむ勃興期の日本ブルジュワジーの洗練された教養は茶会を通じて、財界や政界のネットワークが自然と成熟したと述べられている。


4.益田孝は佐渡相川の地役人の家に生まれ、父の転勤で箱館、江戸で少年時代を送る。英語を学び、江戸幕府の通訳となり1863年使節団の随員として渡欧に認められ、1872年大蔵省に入り造幣権頭となるが、翌年井上とともに退官、井上の創設する先収会社に参画し1876年これが三井家に吸収されて三井物産が設立。経営の最高責任者としてその発展に寄与した。1909年三井合名会社設立理事長として銀行、物産、鉱山を株式会社化し、三井の財閥体制を確立した。
一般には佐竹本三十六歌仙を分割し籤引きで、財界人に割振ったので知られている。


5.我家に鈍翁の書状が3通ある。
この2015年頃に購入したものである。
1通は「拝見 久々御疎遠に打過仕候、益御清栄欣賀至極候云々。
   7月日付西22村芳□様宛
2通、3通は鈍翁作の茶杓と添状付きで購入したものである。
  1通目 珍しき鵞の羽箒 云々        12月念日とある。
  2通目 再應之御書に候へ共かゝる際に八迎春之明も謹み出申候 欽禮仕候まゝ夫

    を銘と致し候 末客ニ苦しみ筆採る間も無之遅延御怒を乞ふ 謹言 

             昭和1年初〇 孝

    蓬〇学兄侍史 とある。

 

2通目は茶杓の添状の1通で前年末に作成した茶杓については大正天皇崩御の為に「迎春」の銘は謹しみがあるので銘は「欽禮」がよろしかろうとした旨述べ返事が遅れたこ

とを詫びている。   高橋蓬庵(彦三郎)宛

 

私は茶を嗜なまないが茶杓は20本程作った事がある。茶杓に添状がついていた為に購入したが、2通の添状は掛軸に仕立てゝ12月、1月には茶室に掛けて楽しんでいる。

 

(注)2015年鈍翁の茶杓を購入した際、同年4月28付けにてアップした記事を下記に再アップします。茶杓の銘「欽禮」のいきさつ等詳しく載せてますのでご参考ください。

 

2020年

4月

28日

「再 録」益田鈍翁 茶杓購入 2015年4月28日ブログ 

茶杓、同添書、書状。 
・銘は大正天皇の崩御を悼むとともに昭和天皇の即位を慶賀して益田孝が記したもの。
・欽禮 天皇陛下における慶事。
・諒闇 天皇または太皇大后・皇太后の崩御により服喪する期間。
宛先の蓬庵は龍渓の茶号を有する名古屋の茶人、実業家高橋彦二郎のことか。

自邸内に蓬庵を設け、大正3年(1924年)に益田孝を招いていることが知られている。

12月29日の添状は益田の方からは羽箒の箱などへの書付を依頼し、蓬庵主からは茶杓への書付を頼まれ、即吟を記したことを、また葉が紅く色づた風情の筒を正月に使用することにつき、天皇の崩御、即位の時期だけに茶事を行うのも如何かなど伝えている。

また正月3日の添状では再度の連絡を受け取った益田孝が「迎春」の銘は謹みがあるので銘は「欽禮」がよかろうとした旨を述べ、揮毫が遅れたことを詫びている。

 

「益田鈍翁」 (マスダ・ドンノウ)
近代の実業家、茶人。大師会、光悦会などの大茶会を催すなど、茶道復興に大きく寄与した。茶道具をはじめ、佛教美術、古筆などを多く収集し、数寄者としても名高い。1938年没(91歳)。

 


2020年

4月

24日

「日本の言論」丸山眞男 座談より 1966年1月

日本の言論 丸山眞男 座談より 1966年1月

 

丸山眞男と朝日新聞の最高責任者森恭三の対談である。

戦後20年経過し、当時の日本は政治、経済、外交、防衛、思想、教育と極めて複雑な状況に直面していた。その中で言論の自由とどう取り組むかを正面から語っている。


森の発言 第一は第二次大戦について
1.反省として、「新聞が本当にしっかりしておれば、あの戦争は避けえなかったとしても、その抵抗精神は戦後の日本人に誇りと勇気を与えることができたであろうと思います。この反省が、良心的なジャーナリストには強いと思います」


2.第二は「占領政策に対する反発です。平気で180度の転換をやってのけるアメリカの政策のご都合主義に対する反発が日本新聞の批判精神を強めたことは否定できなません」


3.第三はイデオロギーです。戦前戦中の天皇制や国体論の神秘主義とは正反対の「科学的なものと考えられたイデオロギーにとびついていたこと。そのイデオロギーがどのような風土に育ったものか、といった理解や反省もなく、かって全体主義を受け入れたのと同じ安易さをもって受け入れたのです。


4.第四は安易な自由観です。戦前派のジャーナリストは、不自由の経験をもっているだけに、言論の自由のありがたさや、その限界をわきまえているのですが、戦後派の中には、言論の自由に 随伴すべき責任感をもたぬものも なきにしもあらずです。


5.事実報道の仕方をめぐって では
いわゆるマスコミ論のなかには、ブルジォア新聞は独占資本に奉仕するものだ。そこには真実の報道はないと、頭からイデオロギー的にきめてしまい、具体的な観察に基づかない議論が多いと思うのです。業務局による編集局による介入や、広告資本の圧力といった問題はわれわれに関するかぎりないと断言できます。

 

6.選挙と不偏不党について
私達としても、今度の選挙ではどの政党を支持するかということをいいたいのです。しかし実際問題として、新聞として支持し、読者に対しても支持を要請しうるような政党が、悲しいかなないのです。不偏不党ということが問題になると思います。それは真ん中とかどっちつかずという意味ではない。特定の政党や組織の機関誌ではなく、独自の判断によって決定し、選択するという意味なのです。


7.事実報道について
私個人の考えを申しますと、日本ではもう少しかたい、広い意味における政治専門新聞が必要じゃないだろうかと思います。


8.報道の画一化
資本主義のもとにおいては画一性は不可避です。日本の新聞記者は、だいたい大学を出て入社試験を受ける。その若い人たちの考え方がすでに画一されている。もう一つの問題は経営者の心構えです。経営者の独自の見識が欲しいと私は思うのです。

 

 ************

以上にみるとおり丸山の鋭い問題提出に対して、森の確信に満ちた応答と自己に対する厳しい誠実な意見の吐露は、今日の新聞界にも通ずる考え方であろうと思われる。
今日の朝日新聞の論調をみると、やゝ情緒的なきらいはうかがえるが、政府権力をチェックしようとする矜持はまだ失っていないようにみえて、森恭三の思いは繋がっているようにみえる。

2020年

4月

20日

「芸術と政治」丸山眞男 座談より 1958~1959年

丸山眞男 座談より 「芸術と政治」 1958~1959年

 

丸山眞男と吉田秀和の間で興味深い座談が繰り広げられている。
20世紀を代表する指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーである。
1.吉田「トスカニーニはさっぱりとイタリーをすてゝ国外に出ちゃったんですね。それは音楽家としてのトスカニーニがやってきたことゝ首尾一貫していると思うんです。

一つはファシズムが嫌いだから出てしまった。もう一つは聴衆に対する態度なんですね。ファシストイタリーにだってナチドイツ同様、本当の音楽好きの公衆は存在した。

トスカニーニはいわば未練なくその人達を捨てちゃったんですね。そしてニューヨークへ行って、そこで世界一流のニューヨーク・フィルハーモニィーと演奏する。又彼の為につくられたNBCオーケストラが編成される。
トスカニーニという人は指揮者として革命的な人ですが、一口に言って楽譜に忠実にやる行き方ですが、ご承知のように楽譜は音楽的思考の記録として、けっして完全なものじゃない。早い話がフォルテといゝアレグロといっても、どのぐらい強く、どのくらい早く弾くか。楽譜の区切りでテンポをどうもっていくか。たとえばベートーベンの場合はアレグロといってもハイドンのそれとちがう。そういう伝統があり、それが受けつがれつゝ演奏家の個性による変化をうけてきたんですが、トスカニーニは簡単に言えば、そういうものを一切無視しちゃってあくまでも譜面どうりに、イン・テンポでやる。

機械化され能率化された世界にピッタリなんですね。イタリーであろうとアメリカであろうと、パリであろうと世界のどこへ行っても通用するんですよ。

 

2.フルトヴェングラーの場合はまさにこれと反対でドイツの聴衆に聴かせるときが、その音楽がいちばん生きてくる。フルトヴェングラーにとっては演奏が抽象的に存在するのではなくて、音楽を共鳴し理解する公衆が必要なんで、その理想的なものは、彼と同じ伝統をもったドイツの公衆でなくちゃならない。そのつながりを重要視するからこそニューヨーク・フィルの常任の位置にトスカニーニから推薦されたが、結局ゆかないでしまっている。政治のある部分には目をふさいでもドイツに残らざるをえなかった。
フルトヴェングラーの場合にはドイツの国土、ドイツ人との一種の運命的な連帯感情を持っており、又、ドイツ文化の伝統は一時期の政治形態などによって押しつぶされるようなチャチなものではない。もっと深く永続的なものだという確信があると思うんです」

「ドイツ文化を通じて世界の人類に貢献することが、ドイツを離れては自分にはできないんだという確信がいつも流れている」
フルトヴェングラーによれば第3帝国で指揮する者はみんなナチだというトスカニーニの考え方は、芸術をもって時の政権の宣伝と見るナチの考え方を奇妙にも反対の立場から継承しているじゃないか。戦後のアメリカも「ヒットラーの馬鹿げた芸術観と政治観を身につけているじゃないかということになる。ところがトスカニーニはどこまでも奴隷の国には芸術の自由も創造性もない。問題は奴隷国か自由国かの二者択一だと考える。

 

3.一方フルトヴェングラーは多くのユダヤ人や彼を頼ってきた人達を献身的に助けていますね。そういう人達にとっては彼はナチの手から弱い者を守る為に立ちはだかった大きな翼であった訳です。それが大きいだけに不可避的にナチとの接触を深め、そこからナチへの妥協を彼に強いたのじゃないか。

そう考えるとフルトヴェングラーに悲劇的なものを感ずる。
フルトヴェングラーは驚くほど政治、社会情勢について無知なんですね。「いきなりナチがキノコのように大地から生えてきた」と言っていますが、ラジオも持たず、ほとんど新聞も読んでいなかった為かナチの政権獲得の少し前にヒットラーに会っているいるのに、ほとんど何の印象も残っていない。まさかあんな男が・・・・と思ったことであろう。

ナチを甘くみていた。当時のドイツの第一級のインテリに共通に見られる傾向なんです。
30~33年にかけて哲学、社会科学等々雑誌を見てもナチというものを真正面から分析の対象にしたものがほとんどないということ、つまりまったくバカにしているわけです。

 

4.(注)●アルトゥール・トスカニーニ(1867 ~1957)
イタリアの指揮者 
1886年リオ・デ・ジャネイロでオペラ「アイーダ」を指揮し成功を収めるや、以降イタリア各地でオペラ指揮者として活躍。1898~1908ミラノ・スカラ座の音楽監督。
08~15年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場指揮者を務め、29~36年ニューヨーク・フィル常任指揮者、37年トスカニーニの為にニューヨークにNBC交響楽団が組織される。


●ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)
1906年指揮者としてデビュー、ドイツ各地に客演して頭角を現した。1922年ベルリン・フィルの指揮者に就任。ウイーンフィルの指揮者も兼任した。
戦後 戦犯容疑をかけられたが無罪。
47年活動を再開、ヨーロッパ楽界に君臨した。
ベートーベン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスは絶品と称賛されている。


私の手許にあるCD(フルトヴェングラー)
1.ベートーベン交響曲第5番 1937年録音
  ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61 1947年録音
  ブラームス、ハイドンの主題による変奏曲作品56a 1952年録音
2.ベートーベン交響曲第6番「田園」
3.   同      9番「合唱」 1951年録音
     同              1953年録音    
  シューマン交響曲第4番      1953年録音
4.ワーグナー 「トリステンとイゾルデ」全曲   1952年録音
     イゾルデ:キルステン・フラグスタート
     トリスタン:ルートヴィヒ・ズートハウス
     クルウュナール:ディートリッヒ フィッシーヤ・デスカウ

5.ワグナー 「ニューベルグの指輪」  1950年録音
      ハイライト
     ブリュンヒルデ フラグスタート

ナチス治下のドイツから実に多くの芸術家が亡命している。他占領下のフランスでも同様ヨーロッパ中がいかにナチスの被害にあっているか。そのうちの一つフルトヴェングラーの現実がみられる。こればかりでなくアメリカの赤狩り、ソヴィエトの恐怖政治と同様でフルトヴェングラーは結果的にナチスに利用されて協力してしまった事になる訳でその苦汁の念はいかばかりであったであろう。
そして戦後の忸怩たる思いは果たして・・・・・ 

2020年

4月

16日

丸山眞男 座談 全9巻 岩波書店「民主主義を憂う」より

「民主主義を憂う」より1958年12月 1959年1月

 

ー 地方文化 ー
丸山眞男、大内兵衛、南原繁3氏による鼎談

「日本には地方文化というものはない。地方文化を振興しろといっても、それはいいことをしろということと同じであって、振興するだけの基礎がない」「たとえば地方団体にしましても、地方自治体にしましても補助金、交付金というものは40%でしょう。だいたいほとんど地方財務の半分以上が中央に依存している。けっきょくそうすれば、中央で金をとってくることがうまいやつが地方のリーダーになっていくわけです。そういうことを通じて官僚支配といものが地方自治体というものを、いかにインチキであるか、戦後はそれがもっともひどい」「ヨーロッパでもアメリカでも都市化が進んでいるが、地方都市があってローカルのカラーがあって全部ベルリンになるとかニューヨークになるとかはない」「日本の近代化は東京がモデルになって、地方に東京のイミテーションができて、政治、経済、文化とあらゆるものが東京に集中しちゃう」したがって「地方文化といものがないんだから、いくら地方文化を振興したほうがいいといっても、地方文化というものがない」「地方文化というものは城を、名古屋城とか、姫路城を再建することになる。

それになんの意味があるのか」

 

ー 国際的問題について -
「本当に腹の底から、日本がいわゆる自由世界というものに一辺倒になって、そして将来も世界に処していけるということについての確信と、そのなかにおける日本の具体的なあり方についてのイメージが保守党にあるかというのです。ないと思う。」「安保条約を改正してアメリカと同盟してやるということはアメリカどおりの政体とか、アメリカどおりの生活の仕方というものを理想にして、日本もそれに賛成・・・・」「けっきょくそこまで考えないで、多少ちがいはあっても世界的原理としては、共通の立場にたつのだということを考えないで、この問題を処理するということは、非常に危険なんだ」
「できるだけある程度のーーもちろん失地回復だねーー。日本の帝国主義的な、かってのものを持ちたいということをリアルに考えている。その為にはアメリカと一緒にやって

  ・・・・。そういう帝国主義的信念と世界観と、それにともなう政策を考えていい。それは恐ろしいものですよ」「それなら反動ですよ」
「日本の保守党はなにを守ろうという理論がないですよ。つまり守る利益はあるが世界的理論がないということになるんじゃないか」

 

ー 選挙制度 ー
「二大政党ということになると、少数党の発生を防ぐために、小選挙区制いうものが起ってくるわけですよ」「ニ大政党じゃないと安定しないということになると小選挙区の方が安定するというほうに持っていかれる危険性がそうとうあるとおもいます」


今から60年前に3人の論者はこうした見解を述べ、警鐘を鳴らしているのだ。
今日考えてみれば、二大政党はおろか、一党支配、更には官廷支配が強まり、民主主義を否定するような、論議を無視して思うがままの政治を断行、公文書の改竄・破棄と無法の限りを尽くす政治が行われているのが実情である。

 

2020年

4月

14日

小野田寛郎と鈴木紀夫

 

1.小野田寛郎は1943年頃フィリピンのルバング島守備隊に配属され、日本の敗戦後も残置諜報の任務を継続。小野田少尉以下5人の兵士が残っていたが1名投降、3名は村民により銃殺され小野田1人が30年孤独な闘いを続けていた。

 

2.終戦後小野田少尉の生存が日本にも伝わり、幾度か捜索隊を組んで発見に当ったが

果たせず、1973年頃に最後の大捜査団をルバング島に派遣し、捜索したが発見する事は不首尾に終わった。

 

3.鈴木紀夫は大学2年の時突然学校を無断で休学し、世界中を放浪すること3年、日本に戻って自宅でテレビをみていたが、小野田発見の為の調査団の有様をみて、よし、俺が見つけようと思いたった。24才である。彼の作戦は探すのではなく、小野田に鈴木を発見させるというものであった。

 

4.早速一人ルバング島に着くと、ガイドを1人雇って小野田の出没した場所を確認するや、1人でその場所に粗末なキャンプを張って小野田の出現を待った。そのうち夜になって小野田が銃を構えて近づいて、鈴木に「誰か」と誰何した。鈴木はガイドに小野田に合ったら先ず敬礼しないと撃たれるぞとの話を思い出し敬礼。小野田はこの男はどこの国の男かと探るが決め手となったのは鈴木が履いているサンダルであった。現地人は裸足でサンダルを履くのに、この男は厚手の靴下を履いている事から日本人と確信する。更に鈴木の住所を問い正し、その上で自分の潜伏先に連れて行く。
次第に打ち解けた2人は色々話し合ううちに、小野田が現在の日本の現状をよく知っている事に気づく。70年万博のこと、「こんにちは、こんにちは、1970年のコンニチワ」の三波春夫も知っていたのである。彼は現地で手に入れたラジオも所持していた。

数枚の写真も撮ったあと、どういう条件がととのえば帰国するのかと問うと、小野田は当時の直接の上官谷口義夫少佐の帰国命令があればその命に従うと約束。

 

5.日本に帰った鈴木はこの事実を警察に届け出る。たちまちのうちに各新聞に大々的に報じられる。何しろあれだけ最後は1億円もかけて調査団を送って見つけられなかった小野田を24才の鈴木が一人で発見したのだから。

 

6.谷口とも連絡がとれ、早速谷口と2人ルバング島に上陸する。小野田のかくれ家近くで鈴木が呼びかけると、しばらくして小野田が現れた。谷口元少佐の命令書を読み上げた上で口達、小野田はこれを受けて帰還することが決まった。

特殊任務を受けた隊員は上官の口達(口頭で命令を伝える)なくしては文書だけでは受ける事が出来ないのである。既に小野田達は現地人30人程を殺害していたこともあった。

 

7.1974年3月12日羽田空港に降り立った小野田は軍服に銃を捧げて軍人として帰国、記者会見では発見者鈴木も同席した。小野田は一躍有名人となり、当時の田中首相にも会い、政府から100万円の慰労金を受けるが、小野田はこれを何れかに寄付している。

それは小野田に対する世間の風当たりが強くなり始め事もあり(現地での殺人の事もあり)日本到着から6ヶ月後小野田は単身ブラジルに移住し牧場づくりに励むこととなる。

 

8.鈴木は当時堀江謙一、植村直己の二人が冒険家として宣伝されていた時代的背景もあって、新しい冒険家として囃されることとなった。

 

9.鈴木は何かを探していたが、ヒマラヤの雪男の話を聞くや、即断直ちに1975年ネパール入り、ヒマラヤ山脈のカルナリ地区にあるダウラギリ山第4峰(7,661m)に登攀3,700mに千葉ポイントとしキャンプを張った。1975年7月29日雪男突然現れたが、驚きと慌てた為と対象が遠かった事から8mmのピントが合わずに撮影したが証拠となる映像は確認する事は出来なかった。同年11月再度ネパール入り、4300mにキャンプを張るが雪崩に巻き込まれポーターを失う。

 

10.鈴木は1978年作家林房雄の娘京子と結婚。1980年喫茶店を経営するが経営の才無く翌年閉店。

 

11.1986年10月6回目の雪男捜索でネパール入りしたが、ここで消息を断つ。ネパールから京子夫人宛ての長文のラブレターが届いている。享年37才。

 

12.その間小野田は何度か来日し鈴木を尋ねていたが、1988年鈴木の死を悼んでダウラギリに登攀している。当時の日本は70年の安保条約改正の争乱もおさまり、高度成長の速度も鈍ってやゝ低成長の形を示すようになったが経済規模が米国に次ぐ資本主義国になった時代である。明治以後の軍国日本から平和主義になり、平和主義が少しずれてGNP信仰になってきた時代でもある。一方で先進資本主義国の中でも所得格差が少なく、80%の人が自分自身を中産階級だと感じた時代でも又ある。
今思えば戦後日本人にとって一番良い時代とでも云えたかもしれない。

日本の総体的な経済力が鈴木紀夫のネパール行きの背景にあったとも思える。

 

2020年

4月

13日

新しい作品 篆刻 3作品

戦国時代瓦当文

戦国時代瓦当文

新石器時代

2020年

4月

11日

「魂の中の死」自由への道 三部作の内3  サルトル

「魂の中の死」

1. 家族と別れてアメリカに亡命したゴメスは「フランコがバルセロナに入城したときフランス人達は頭を振って残念だと云った。だが誰一人として立ち上がって出かけようとした者はいやしない。だから今度は奴らの番だ。奴らが苦い経験をする番だ。俺は嬉しいよ。嬉しくって仕方がないよ」と怒鳴る。ナチスに信条的に気持が以降して行く。

 

2.ユダヤ人のサラは息子のパブロをつれてスーツケースを下げて徒歩でジャンまで炎天下24㎞の道を逃げて行く。人と車の波の中だ。丁度映画「禁じられた遊び」の中で大勢のフランス人がパリから地方へ逃れる場面があり、途中両親をドイツ軍の機銃掃射で失って、幼い娘ポーレットが戦争孤児となる場面を思い出させる絶望的な逃避行である。

 

3.戦場で敗戦を迎えたフランスは将校たちはいち早く逃げ、虚無感、頽廃におちいった。兵士たちの中で、召集で心ならずも戦争に参加したマチュは今までの優柔不断の生き方をこれこそ今まで自分が待っていた何かだと感じて自ら、数人の仲間と共にレジスタンスに参加する。圧倒的な人数のドイツ兵を銃撃戦を繰りひろげて、味方は次々と倒れマチュは一人となる。しかしマチュは一貫して知識人でありブルジョアジーの一員であることは変わることはなかった。

 

4.マルセーユ 14時、ボリスはローラと共にいる。ローラは最悪の事態を予想して銀行から金をおろす為にパリへ戻り、マルセーユに帰ってくる。二人の間に気持ちの食い違いがあらわとなってくる。

 

5.ボリスの姉イビィチは絶望して身をまかせたジョルジュと、妊娠したことを知ったジョルジュの懇請で結婚。男の両親と暮らすがボリスの「ご主人はどうしているんだい」の問いに「あの人死ねばいい」と答える。

 

6.2万人の捕虜の一人となったコミュニストのブリュネは捕虜収容所内で共産党の組織つくりと活動に狂奔する。しかし39年8月29日独ソ協定の締結を報じられる。フランス共産党はファッショの独裁に対して政治的自由の擁護を政綱として選んだが、これらの自由が幻影にすぎない事となる。「今日デモクラシーは屈服し、ソ連はドイツに接近し、ペタンが権力を握り、共産党のファッショの社会あるいはファッショ化する社会で仕事をつづけなければならない。ブリュネは指導者もなく指令も、連絡も、情報もなしで、この陳腐な政綱をブリュネ自身のイニシャチブでふたたび取り上げようとしている人民戦線は死んで埋葬すみだ。これは1938年には歴史的関係に於いて、意味があった。

今日ではもう少しも意味がない。ブリュネは暗闇で仕事をするようになる」とシュネーデルに指摘されてブリュネはコミニュズムに幻滅するのである。

 

7.思いがけない早さでの開戦すぐでの敗戦でフランス中の人々が茫然自失、魂の中に死を抱えた中で動揺する様を時系列にサルトルは生々しく描き出している。

第4部を書く予定であったが、完成を見ないまゝ中断した。

 

(注)ヴィシー政権
フィリップ・ペタンは第一次大戦時は大佐、開戦と共に、ドイツ軍猛攻下のベルダン要塞を死守して、ベルダンの勝利者と称えられた。1917年全フランス軍総司令官に就任した。大戦後元帥となり1925~26年のモロッコのリフ人の反乱を鎮圧し、フランス陸軍の大御所的存在となった。1940年ドイツ軍の大攻勢の最中にレーノー内閣の後任として首相に就任。フランス中部の鉱泉都市ヴィシーに首都を移したことからヴィシー政権と呼ばれた。ペタン政権は対独協力政策を実行し、レジスタンス運動を敵対。フランス解放後、対敵協力の罪で死刑を宣せられたがド・ゴールにより終身刑に減じられた。

 

(注2)ド・ゴール
フランスの軍人、第2次大戦中対ドイツ降伏後1940年ロンドンに自由フランス政府をつくり本国の抵抗運動を指導。1944~46年共和国臨時政府主席となる。

 

8.サルトルは実存主義とマルクス主義との宥和を探り、意識の自由を根底に人間の自由を追求。第二次大戦中召集され、捕虜となるが保釈されパリに戻り対ドイツ抵抗組織をつくることを試みた。戦後は戦闘的ヒューマニズムの立場で活発な発言を展開した。
占領下ではナチ占領軍に、植民地戦争ではフランス政府権力に、ハンガリー事件ではソ連政府に、ヴェトナム戦争ではアメリカ帝国主義に反対し続ける。
昭和34年(1959年)当時の日本は翌年の日米安保条約をめぐる大衆運動が空前の盛り上がりを見せる時代で、日本中が政治的関心に満ちた政治の時代だった。

サルトルも若者を中心に良く読まれた。私も亀有の駅前にあった本屋で、サルトルの「汚れた手」「賭けはなされた」「出口なし」「蠅」「恭々しき娼婦」「悪魔と神」等を極めて熱心に読んで、この「自由への道」の出版されるのを待ち望んでいて深い共感を持って読んだのを思い出す。

2020年

4月

05日

「猶予」自由への道 三部作の内2 サルトル

1.1938年の「分別ざかり」から3ヶ月後の9月23日から30日までの出来事である。

 

2.さてナチスは1938年3月オーストリア併合後チェコスロバキアに侵略の矛先を向

ける。ドイツと国境を接するズデーテン地方は1916年以降深刻な民族的対立が引き起こされてきたが、この時期ドイツ人党が結成され、ナチスと連絡をとりつゝ「カールズバート綱領」を作成。チェコ政府にドイツ人の自治を要求運動が起きた。

チェコ政府はナチスの圧力のもとほとんどこれを受け入れたが、ドイツ人党はさらにドイツへの帰属を求めた。これに乗じたヒトラーはズデーテン地方問題の解決の為には世界戦も辞せずと表明。一気に戦争の危機は高まりフランスに動員令が下る。
1938年9月29日~30日ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエ(注1)の英仏独伊の首脳によるミュンヘン会談が行われた。しかしチェコと同盟を結んだソ連は会談に参加する事は出来なかった。ソ連を仮想敵国とするイギリスの考えが根強くあったのである。
「ドイツ、大英帝国、フランス、イタリアの四大国はズデーテン地方のドイツ人の領土をドイツに譲渡する事に合意した」ミュンヘン会談。

 

3.30日の新聞に載ったこの記事をみてフランス全土の多くの人達は平和が戻って来たと手放しで安堵し喜ぶ。招集令状が来てもフランス国民はこれはナチスの脅しであろう、フランスが何らかの譲歩をすれば何とかなると思っていたし、政府も同様だったようだ。召集令状を出したにも拘わらず兵士用の軍服も充分間に合わなかったのであるから。

しかしこれは全面戦争までのつかの間の猶予であり平和であった。
1939年3月ドイツ第三帝国にチェコ全体が併合されたのである。

 

4.第一部の主人公マチュ、兄のジャック、ダニエルとその妻ローザ、文盲のグロルイ。将軍の息子フィリップ、カリエスで寝た切りのシャルル、旅芸人のモウ他数多くの人物が登場し、入り乱れて自分の職業、生活、戦争についての思いを詳細に語る。

 

(注1):ダラディエ(フランスの政治家)
1936年に社会協力なって人民戦線結成。同5年総選挙で大勝レオンブルムは首相となる。1938年4月これを引きついだダラディエは人民戦線を解体に追い込み、政府への援助「国際旅団」をも解体し、スペインをフランコのクーデター勝利へと力を貸す事となる。更に大戦後はフランス共産党を弾圧したが1940年3月ヴィンー政権に逮捕されている。

 

2020年

4月

03日

ニコライさんの扁額「孤籟亭」

日本とロシアを行き来している茶道表千家及び華道池坊の教授山田みどりさんから扁額

の依頼があった。

友人のニコライ氏に寄贈する由、コライでとの事で「孤籟亭」で作成することとした。

『孤独で静謐な屋敷に笛の音が聴こえる』の意。

2020年

4月

02日

「分別ざかり」自由への道 三部作の内1 サルトル

1938年6月中旬のパリを背景として物語はすゝむ。パリの高等学校の哲学教師マチュ・ドラリュを主人公とし、その恋人マルセル・デュフィ、マチュの教え子ボリス・セルギン

その姉イヴィッチ、友人で共産党員ブリュネ等が登場する。
マルセルは小さなアパートに母と暮らしていてマチュとの関係は7年になり、週4回マルセルのアパートに会いに来る。
マチュは生活費を工面するのに四苦八苦している。「俺はマルセルの為に何一つしてやらない」と忸怩たる想いを常に抱いている。マルセルは妊娠していた事をマチュに告げる。マチュは「そんなら堕したらいいだろう、いやかい」と応ずる。

堕すのには4,000フランが要る。マチュは心当たりを皆当たるが皆断られ、やっとみつけたユダヤ人の婦人科医は近くアメリカに出発すると言い、2日のうちに現金なら引き受けるとの事。進退窮まったマチュは19才のボリスの40半ばの愛人ローラの金を盗むのである。一方でマチュは友人ブリュネに入党の勧誘を受けるが「僕は最後には実在の感覚を失いそうなんだ。なに一つ僕にはもうまったく本当らしく見えないんだ」「僕に入党は出来ない。それをするだけの十分な理由が自分にはない」と語り入党を断る。

彼はブリュネの前で不決断で下手に年を取り、半分生(な)まであらゆる非人間的なめまいにとり囲まれて存在している。「おれはまさしく人間らしい様子をしていない」と自分をみつめる。

マチュとマルセルの共通の友人ダニエルがマルセルに問う。「あなたは本当に子供を欲しくないと思っているんですか?」マルセルの体の中を貫いてすばやくかすかに崩れるものがあった。マルセルは「ダニエル、あたしのことを心にかけてくれるのはあなただけだわ」と自らの本当の気持に気づく。
ダニエルはマチュを訪ねて「僕はただマルセルとの結婚を知らせたかったんだ」「マルセルは僕の申し出にすぐにとびついてきた」と語る。そのあとダニエルは「マチュ、僕は男色者なんだ」と打ち明ける。マチュは「おれはひとり残された」と思った。「誰ひとりとしておれの自由を束縛しなかった。おれの生活が自由を呑みほしたのだ」彼は思った。

無駄だ。まさしく人生は無駄に彼に与えられた。彼は無駄な存在であり、しかもはや変わり様がない。そのように彼は出来ていた。
この物語のすべてはマチュの内的独白で成立している。

           

      🔹🔹🔹🔹🔹 一部終了 🔹🔹🔹🔹🔹


1938年のスペインの状況(小説の背景)


1936年7月共和諸派による政府を組織スペイン人民戦線政府の誕生である。この政府に対して軍部、右翼諸勢力が起こしたクーデターに対しいち早く対処したのは労働者でスペインの2大労働組合であるアナキスト系の労働全国連合と社会党系の労働総同盟は武器を労働者に分配する事を要求、政府は労働者団体を武装することに決定。反乱軍は7月20日までにほとんど鎮圧された。しかしモロッコで蜂起に成功したフランコ将軍が反乱軍で指導権を握るやドイツ、イタリアに援助を要請。ドイツはフランコ側に経済援助を5億4千万マルクを供与、1万の兵力をスペインに送る。イタリアはドイツの2倍の68億リラを援助、7万2千人の兵力を送る。サラザール独裁のポルトガルは国土をドイツ、イタリアの輸送路として提供、フランコ軍のクーデターは短時日のうちに国際的内戦へと拡大した。
1938年9月ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、グラディエ(仏)の各首脳が集まりミュンヘンで会談がひらかれた。チェコのズデーデン地方をドイツに割譲することを決定。これにより一時的に全面戦争の危険が回避された。チェンバレンは「われわれの時代の平和」を唱えてイギリス国民の賞賛を浴びた。しかし小国の犠牲の上に平和を得ようとする英国の両国の対ナチスドイツ宥和政策の典型とされる。
パリの状況、従ってこの物語の1年半程でフランスはドイツに占領されるのである。従ってその危機感はパリに充満していた。ミュンヘン会談は見せかけの平和な時期だったのである。