和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

2019年

5月

18日

丸谷才一の「文章読本」より

その第4章に実に興味深い文章が記載されている。先ず「文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言わんとする内容をはっきりと読者に伝えて誤解の余地がないこと、あるいは極めてすくないことが文章には要求される」と述べ、次いで「どんなに美辞麗句」を並べ立て歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしている文章は名文ではない、駄文である。いや文章としての最低の資格が怪しいのだから駄文ですらないというのが正しいだろう」と文章のあるべき姿を明確にした後に本題に入る。

現代憲法と明治憲法である

現行憲法は曲がりなりにも伝達という役目を果たしており明治憲法にくらべてずっと上等なのである。明治憲法の文章が粗悪なことは第1条「大日本帝国八万世一条ノ天皇之を統治ス」によっても明らかであるとし、まず「大日本帝国」という名のり方が威張りくさっていて、愚劣で、趣味が悪い、次に「万世一系ノ天皇」がをかしい。これは過去に関しては虚像で、さらに未来に関しては何の根拠もないあやふやな話だからである。真赤な嘘をつくのが恥しらずな振舞いであり、予見不可能なことを断言するのが滑稽なことは言ふまでもない。そして恥しらずで滑稽、醜怪で笑止千万な文章が、読者にまともに受入れられるはずはないのである。それに感嘆することができるのはただ後世の無学で下等なアンポンタンだけであろう。

更に、明治憲法第一条最大の弱点とするのは「天皇之ヲ統治ス」である。この「統治」という概念は不分明なことこの上ない。それはイギリスふうの単なる君臨(すれども統括せず)を暗に指しているのか、それとも天皇親裁と主張しているのか、はたまた、その中間のへんをぼんやりと言っているのか、いっこうにさだかでない。

それは曖昧至極、どうでも伸び縮みがきくチューインガム条項なのた。近代は本史の悲劇はおほむねこの朦朧在る一文に由来する。何のことはない、亡国の文章の見本にほかならない。又、第三条「天皇八神聖ニシテ侵スへカラズ」も又奇怪である。天皇の何を侵してならないのが明記してないからだ。果して天皇の肉体が神聖かどうかはともかく、一般に人間の体に害を加へてならないことは当然だからである。そもそもこういう粗雑な言葉づかいによって君臨すれども統治せずという複雑な内容を述べようとするのはどうみても無理な話である。それはもはや文章家の態度ではなく、暗号作成者の態度だろう。つまり暗号コードの持主にしか解読できないからだ。しかしこの断乎として何かを言い、しかも何を言っているか客観的にはつひに判らない文章は、国政をみだす密呪として作用した。さらにこの文章がその悪文性と呪術性のゆえに一国の精神をどれほど暗うつにし、沈滞させたかはいまさら記すまでもない。

すなわち、この第三条もまた亡国の駄文であった。

それは、威勢がいいだけで内容は貧弱というよりもむしろ空虚であったゆえに文章の本義に反しているのである。このような文章としての政治的な欠陥は第一条と第三条に限らず、明治憲法のかなりの条文について言えるだろう。

明治憲法の文章の伝達の能力を論ずるときは第一に個々の文がちゃんと内容を伝達し、第二に互いに辻褄が合う仕掛けになっていることが要求されるのが当然であるにもかかわらず、明治憲法は第二の条件もまたみたしていない。最もあらわなのは臣氏の権利の条項で第19条から第36条まで、あれやこれやとうるさく保留をつけながらではあるが、権利を保障しているのに、その反面、まず第8条の緊急勅令で、次に第14条の戒厳令で、さらに第31条の非常大権で、それらの権利を根こそぎ奪い取るのである。文章論の立場で言えば混乱と支離滅裂のしるしだろう。ここには文章が常に持たなければならない秩序が全くない。

伝達と論理を伝達であるとの文学者の観点から明治憲法を読み解いているが、まさに快刀乱麻を断つ如く、明治憲法の駄目さ加減を明らかにしてゆく、その小気味良さは胸がすくようである。

 

文章読本 中公文庫 丸谷才一

2019年

5月

11日

うひ山ふみ 本居宣長著

うひ山ふみは、本居宣長が寛政10年(1798年)69才の著であり、初めて学びの山にふみ込む人々の為に国学研究の態度と方法を具体的に説いたものである。

(1)詮ずるところ、学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びようはいかようにてもよかるべく、上のみかかはるまじき事や。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば功なし、晩学の人もつとめはげめば、思いの外、いとま多き人よりも功をなすものや。されば才のともしきや学ぶ事の晩まや、暇のなきやによりて思いくづをれて、止むことなかれと学問に対する基本的な考え方をまず示している。

 

(2)教え方についても、人の心心なれば、吾はかやうにてよかるべきと思へども、さてはわろしと思う人も有べきなれば、しひていふにはあらずと決めつけた教育を厳にいましめている。

 

(3)次に古事記、日本書記を必ず読むようすすめたあと、書物の読み方について、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとすべからず、まず大抵に、さらさらと見て、他の書に移り、あれやこれやと読みては、又さきに読みたる書へ立ちかえりつつ、幾編も読むうちに始めに聞えざりし事も、そろそろ聞ゆるようになりゆくもの也と書物の読み方を指南している。

 

(4)書をよむにはただ何となくてよむときには、いかほど委しく見んと思ひても限あるものなるし、みづから書の注釈をもせんと、こころがけてみるときには、何れの書にても格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、外にも得る事の多きもの也としている。

 

(5)万葉の歌の中にても撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば古ながらもあしき歌も多しと注意をうながし古と後世の歌の善悪を世の治乱盛衰に係りているも一わたりの理論として事実にはうときこと也とし今の世の人は、己が今思ふ実情のままによむをよしとせば今の人は今の世俗のうたうやうなる歌をこそよむべけれ古人のさまをまねぶべきにはあらずと指摘している。

 

(6)芸道についても、宗匠の歌などをば、よきあしきを考へ見ることもつよく、ただ及ばぬこととしてひたぶるに仰ぎ尊み、他門の人の歌といへばいかほどよくても、これをとらず、心をとどめて見んともせず、すべて己が学ぶ家の法度掟を、ひたすら神の掟の如く思ひて、動くことなく、これをかたく守ることをのみ詮とするから、その教法度にくくられて、いたくなづめる故によみ出る歌みなすべて詞のつづけざまも一首のすがたも近世風又一やうに定まりたる如くにて、わろきくせ多く、このさまいやしく窮屈にして、たとへば手も足もしばりつけられたるものの、うごくことかなはざるごとく、いとくるしく、わびしげに見えて、いささかもゆたかにのびらかなるところなきを、みづからかへりみることなく、ただそれをよき事と、かたくおぼえたるは、つたなく愚かなること、いはんかたなしと述べている。

 

(7)宣長の言っている事は、どんな権威や、常識と言えども、そのまま受け入れるな、何事もどこが良くて、どこが悪いのかは他人の評価だけで見るのでなく、自分で判断せよ、書物はとにかく理解出来る範囲で読み通して、その後一定の読書経験ののちに再度、取り組むべきであるという事である。

 

(8)しかし宣長の主張の否定する実態が今日厳然として存在しているのだ。例えば大小様々な会派の書道展が至る処で開催されているが、大半が会の主催者の手本に忠実に、いかにそれに近づけるかを競っているようにみえる。

会場一杯に同じような作品ばかりが並ぶようになり、一般客には著しく面白さが失われてみえるのだ。宣長が鳴らしている警鐘が顧みられていないことを痛感する。うひ山ふみの主張はつまるところ、独学のすすめと言えよう。

うひ山ふみ 鈴屋答問録 岩波文庫

2019年

4月

29日

扁額制作

1.ロシア政府から山田みどりさんにモスクワの茶室が贈られここにに掲げる扁額「翠月庵」刻字つくる。

5月早々山田さんはこの扁額を持参してモスクワへ出発する。

2.ロシアには2014.5サンクトペテルブルグの国立植物園内に建設された茶室に掲げる扁額を寄贈し茶室開きに参加した。

3.モスクワの茶室に扁額「灯台庵」寄贈。でロシアに都合3枚の扁額を寄贈した事になる。

2019年

4月

28日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その五)

12.白川静の登場

白川は甲骨文字の数10万の字をトレースする事により古代人の魂に寄り添う事により、新しい文字学を切り開いて「設文」の虚構成を破壊して文字の成り立ちと構成を解明したのである。

日本国内の抵抗もあり理解は仲々進まなかったが序々にその真理性は広がりつつあり中国でも理解者が増大している。

 

13.甲骨文字の発見

1899年当時国子監祭酒(今の国立大学総長)の地位にあった王懿栄(オウイエイ)は瘧(オコリ)の持病があり、その特効薬としてすすめられた龍骨(小さな骨の破片)を買い求めさせた。

そのころ南方の江蘇丹徒(コウソタント)から出て来た劉鉄雲(リュウ・テツウン)が王の宏壮な邸宅の食客として滞在していた。2人とも金石の学に精通し、古代文字に造詣(ゾウケイ)深い人達であった。

2人は龍骨の表面に刻り込まれた文字らしいものに気づいて調べたところ、金石文字よりもなを古い文字である事に気付き、捜集(ソウシュウ)が始まった。王氏は1年後義和国の変に殉節(ジュンセツ)して没したが、その後の収集で劉氏のもとに5000片もの小片に達し、1903年劉氏はそのうち1058片を選録して「鉄雲蔵亀」6冊を刊行した。甲骨文字が世に表れたのである。

 

14.書が歴史的に集大成した唐の時代が文化・芸術も最も栄えた文化の爛熟時代であった。今回これだけの作品が系統的に網羅した展覧会は今後望めるか解からない。

特に拓本の素晴らしさは実物をみなければその美しさは理解できない。中国文化のレベルの高さにただ驚嘆するばかりである。それにしても書が、政治、社会に密接しており、そこに力強さの根源をみることができるのである。日本の万葉集にしても社会性のあるものは山上億良にほんのわずかにみられるのみであり、今日に至って新聞の歌壇欄にみる短歌・俳句でも社会性のあるものは著しく少ないのが現実である。

現実は醜いものと言った観念が日本人の中に根強く存在しているのであろうが、残念な事である。ここにも日本人の政治離れの風潮が良くみられるのである。

(注3)

徴宗皇帝は19世紀のバイエルン王、ルードヴィヒ2世と良く似ていて、ワーグナーに心酔し、政治的には無関心で現実の政治からは逃避して、芸術を愛好し、莫大な費用をかけて財政破綻をまねき、医師の精神鑑定を受けてシュタルンベルク湖畔に幽閉されそのすぐあとにこの医師と湖で溺死している。

最後に今回の展示の目玉「顔真卿」について顔真卿の俗受のする丸形の字は、私の好むところでない為にあえて言及しなかったのである。

 

図 亀甲全形 殷(武丁)

1936年、河南省(小屯)の第13回発掘の際、YH127抗のトレンチから出土した甲骨1万1千数百片中の1つで完璧な亀の腹甲の形を残している。

穀物の豊凶を貞うたもので、この時代に於て農業が産業として重要な地位を占めていた事実が知られる。(白川静)

2019年

4月

27日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その四)

9.懐素

唐中期の書家で早くから仏門に入り顔真卿から張旭に学び、ある夏の夕方、国に漂う雲のありさまを見て筆意を悟ったと伝えられる。千変万化の狂草を得意とした。良寛は51才から狂筆と呼ばれる。懐素の「自叙帖」を習いはじめ良寛風へと書体は変っていくのである。

 

10.宗の文化

隆盛を極めた唐王朝も玄宗と楊貴妃の時代を最後に以後200年変動期を迎える。律令制・均田制を基礎とした中国の中世社会は崩壊したが、その後ほぼ200年をかけて不死鳥のように甦ったのである。その大きな柱となったのが、隋代に創始された高等文官試験「科挙」である。1年に100~200人の合格者を出す超難関な門を突破した超エリートの官僚集団が形成され、以後1000年に及ぶこの体制が続くことになる。10世紀半ば中国を統一した宗王朝は目覚ましい文化の発展を遂げるのである。

ここで忘れてならないのが8代皇帝徽宗である。彼は政治にはやや不向きであったが、詩書・画をよくし、特に花鳥画に巧みで、自ら美術学校を設立して「校長」に納まり直接指導に当っている。我国の大名達にも愛された「桃鳩図」は日本の国宝にも指定されている。

書は痩金体と呼ばれる独特の書体を創始している。中国皇帝の中でも握指の文化人皇帝であったし文化の発展に大いに力を注いだ(注3)

書では蔡襄、べいふつ、蘇軾、黄庭堅の4名を輩出している。

特筆すべきは、ヨーロッパの美術の古典はギリシャ・ローマ彫刻であるが、アジアでは宗時代に創造された水墨画がそれに相当する古典であり、又青磁の名品が多く造られ特に「汝官窯」の神品はまるで宝石に優る優品と当初から喧伝されて、その美しさは類例をみない。

宗文化の高さは我々の想像をはるかに超える高さにあったことは間違いない。

今回の展示で徴宗皇帝の「痩金体」がみられなかったのが残念である。中国史上の美術の黄金時代をつくった功労者であるからだ。

甲骨文字、金文から唐代宗代の書まで習得するのは拓本から直接独学で学ぶのが良い。間に中間書家を挟まないことを願うのみである。

 

11.許慎の説文解義

許慎は後漢の人で広く五経の学問に通じており紀元100年に文字を字形によって分類し、その意味と構造を説いた「設文解義」を成書上進した。

「説文」は15編、字形によって分類した最古の字書で奏の小篆を中心として9353字及異体字1163字を六書の原理で分析し、540部に分類し一文字毎に説明解釈を施して本書としている。

後漢から今日に至るまで久しく文字学の聖典とされていたが、今日許慎がみることが出来なかった文字創成の時代の資料が大量に出土してい以来「設文」の不備が言われるようになり。従来の権威を維持する事は困難となった。

しかし新しい文字学を樹立する為には従来の文字学についての徹底的な検討を通じてその虚構性を破壊することが必要であったが中国・日本の文字学者達の多くが「設文の理論体形に一貫性を有している設文の一部を改める事によってその矛盾を遁れようとしたのである」

自らの従事を引きついだ学説を否定されるのを恐れた事に外ならない。

2019年

4月

20日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その三)

ハ.ちょすいりょう

唐の太宗が侍中魏徴(注1)に向かって「虞世南の死後はともに書を論ずるものがいない」と嘆いたのに対して魏徴が「?遂良は、甚だ王逸少の體を得ております」と答えたので太宗は即日遂良を召して侍書を命じたという。

遂良はこの年起居朗(注2)という天子の側近の官に移っている。遂良の先祖は代々南朝に仕えた名家で父はちょ亮で博覧強記、詩文に優れ、隋の煬帝の時には太常博士となり、書法も一かどの見識をもっていたと想像される。

魏徴は書の収集家として著名であったので亮の子遂良も彼の家に出入りして強い影響を受けていたと思われる。書は始め虞世南に学び極めてめぐまれた環境にあったと云わねばならない。

太宗は王義之の書を購求する勅を発し高価に買とることとした為に四方の妙蹟が悉く集り起居朗遂良等に参校させて、2290紙を得装して13帙128巻とした。

太宗の集収した書の管理を総て行ったことから誰よりも多く古書蹟を見る桟会をもって自分の書法に大きな影響を与えたに相違ない。

やがて欧陽詢も没し、書道の第一人者となった、細身でありながら流麗さを増し近代的な書法を作りだした。

 

注1 魏徴

 唐初の功臣 高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕え、しばしば諫言したことで知られる。

 

注2 起居朗

唐代 起居舎人と共に皇帝の宮中での言動を記録する官。

 

ニ.玄宗皇帝

太宗の死後、皇帝側近の権勢と攻争で攻情不安の時代が続いた。中宗の皇后韋一族が実権を握り帝を毒殺、帝の甥隆基はクーデターを敢行し韋氏一派を打倒し父の旦を即位させやがて帝位につく、玄宗皇帝の誕生である。

彼は名宰相姚崇、李環を信任して政治に励み前代の悪弊を除いて公正な政治の再建に努めた対外的には突厥を圧服し、契丹奚を帰順させて北方の平和維持に成功。経済文化の発展と相まって平和と繁栄の時代をつくりだす。しかし律令政治が整備される一方で官僚化はあらゆる面で空洞化が始まり玄宗自身も政治姿勢が緩み始めて、寵臣を宰相とし政治をゆだね高力士らの宦官を重要し、息子寿王の妻楊太真を奪って自身の貴妃としたあたりから帝国の危機は進行していった。一方イラン系の父、トルコ系の母をもつ安禄山は6種の言語を操り、やがて唐の辺防軍全体の3分の1に及ぶ大兵力を握った。とくに楊貴妃にとり入って養子にしてもらい宮廷に食い込む。しかし楊貴妃の兄楊国忠は宰相となるや、禄山の勢力を恐れて禄山に謀反の疑いありと皇帝に讒言する。この時代一たん皇帝に疑惑をもたれたらこれに弁明する手段はなく、反乱するしか残された手段はなかったのである。やがて楊国忠と安禄山の両軍は激突し玄宗は蜀に逃れるが途中、兵士の間から楊一族の専横に責任ありとの不満が噴出し楊貴妃は高力士に縊り殺されるのである。

乱後、長安に戻るも幽閉された玄宗は獄中で死去する。

均田制は崩れて農民の没落が始まり、府兵制も行わなれなく寡兵制が採用されるようになるがその為に安禄山の台頭が起ることになる。

荘園は王侯貴族や官僚、寺観によって大々的に開発され農民は小作人化した為に国家財政は逼迫、律令政治は行きづまった。中央の権威は失墜、中国の古代帝国の最後を飾ったこの国もやがて終焉を迎えるのである。

2019年

4月

13日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(そのニ)

5.王義之

400年続いた漢帝国の滅亡のあと、魏・呉・蜀の3国並び立つ時代に入ったが、魏の王位を簒奪した司馬一族は3国を平定して、晋帝国を建設する。

王義之は西晋時代に生れ東晋時代に活躍した名門の出身で護軍将軍等を歴任。351年会稽内史に任じ、353年3月3日の佳節に同地方の名勝蘭亭に地元の名士とその一族等41名を招いて曲水を流れる盃(サカズキ)を手に自作の詩を朗詠した。そのときの詩27編を編んだものが「蘭亭集」であり、その巻首に義之が毫を揮って書いた序文が「蘭亭序」である。

唐代に入って本人も能書家である太宗皇帝が「蘭亭序」を切望し、やがて義之7代の子孫の智永の所蔵となっていた「蘭亭序」は太宗の陰謀の果てに略奪に等しい手段で我が物にして、当時の名だたる欧陽詢、虞世南、褚遂良に下命して臨書させた。「定武本」「張金界奴本」「神龍平印本」等数多く残る。太宗の死後、遺命によってその昭陵に倍葬されて、永遠に元本は失われたが、写本によって残された「蘭亭序」がみられる事は誠に有難い事であると云わねばならない。その点での太宗の役割は大きかったのである。

 

6.北魏の書

中国で439年北魏が華北を統一。江南の宗と対立してから589年隋王朝が起るまでの、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が対立した150年を南北朝時代と云う。

北魏代6代孝文帝の時代、親政期の政策は漢化政策と称され、鮮卑の言語、衣服の使用を禁じ、姓を漢族的に攻める。帝は詔勅も自ら書く等の中国的教養が深く、朝廷の儀礼も中国風に攻められた。均田制、祖庸調制、俸禄制などを断行した。これは唐代まで歴代国制の基本となっている。

文化的にも隔絶された北魏は独特な文化の発展をみる。多くの石碑が残され、中でも白眉の作品が523年に造られた「張猛龍碑」である。

孝文帝の親漢政策の結果とも云うべき北魏の名品である。癇症の強い、清潔で力強い楷書で北魏様式の一つではあるが、良く精錬されており、鄭道昭の一群と「張猛龍碑」は北魏の楷書の頂点に立つものだと思う。欧陽詢の楷書につながるものであろうか、私も一時期「張猛龍碑」の臨書にのめり込んだことがある。

 

7.初唐の3大家

初唐に古今その比を見ない名人・大家が排出して、中国書道史上の黄金時代を創りあげている。久しく南北両朝によって分断されていた中国は、新しく文化も統一融合をみるに至った。

中国史上稀に見る英主といわれる太宗の時代は文化の統一が完成した時代であるが、南朝の文化は純漢民族の文化であり、鮮卑族に支配された北朝の文化に対して圧倒的に優位を占めたのは当然とも云うべきであり、書も当時栄えた貴族政治を反映したものとなった。

 

イ.虞世南

南朝の陳生まれ、やがて隋に使え、唐に帰している。太宗の信頼が極めて厚く、天下の名蹟の鑑定も任されている。智永の指導を受け南朝の優雅な書風を継承した。孔子廟堂碑は原石が亡失して、三井氏聴永閣に残る唯一の唐拓本によってみる事が出来る。均斉美を保った貴族的な匂いを感ずる柔らかな美しい作品であり、書を始めた女性に好まれる作品でもある。

 

ロ.欧陽詢

彼も虞世南と同様な経過をへて、唐に帰し天才的な頭脳をもっていたと云われて後年天子の最高顧問・給事中という要識についている北朝の書(特に張猛龍碑)を学んだのではないかと思わせる俊抜さに及てほかの追従を許さない楷書の代表格の位置づけは今日に至るも変わることがなく、群を抜いている。現代の様々な書展を見ても「九成宮」を臨書しているのは極めて少ない。ごまかしのきかない作品で、実力が剥き出しになる事は勿論、書いた人物の人格や人間性まで曝される事になるからである。永遠の楷書である。一般的に書家の間では「つまらない」と考えているご仁が多いようである。あまりに無表情にみえるからであろう92年の春にさるグラフ誌に九成宮の特集が出され、当代一流の書家の面々が、各々に自分の臨書を載せたのは良いが、いずれも九成宮とは似てもにつかぬ縁もゆかりもない字ばかりであった。欧陽詢の書は刃物で紙の上から下の机までも切り裂くような力強さと切れ味が命であり、筆で捏ねて書く字ではない。

2019年

4月

11日

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その一)

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して

2019.1.16~2.24

 

2.漢字の体系が整備されたのは紀元前16世紀殷の時代と考えられている。

文字の始まりは人間が神と交渉し、この世界をどのようなものとして理解し、又それを日常の生活の上にどう実践していたのかを知らなければならないのだ。漢字は単なる絵画的な方法から生まれたものではなく、描写的であるよりも、優れて構造的である特徴をもっている。エジプト文字を始め皆、文化圏の中でも最も高い文化段階に達したところでだけ成立したもので、その総てが神事や儀礼に用いられた神聖文字であった。楔形文字、エジプト文字、漢字がそれである。しかし漢字以外は民族の興亡が激しく文化の降替に伴って著しく変化し、本来的な意味を離して音標化され、それを免れた中国のみで漢字が残ったのである。

漢字が発生から今日に至るまで継続しているのは、その2つの理由によるものと考えられる。

 

2.甲骨文字

殷王朝は始祖の成湯が西夏王朝を倒して建国と伝えられるが、確かな史実のわかるのは第14世紀の20代目盤庚の時代あたりからで、青銅器文化が栄え、都を安陽に移し、この地から亀の腹甲や牛骨に刻された文字が発見された。

絶対権力者が占いによって総ての政治を行っており、亀の甲や牛骨に穴をあけ、そこに火をあてて焼き、裂け目が生じたことにより吉兆を判断したのである。やがてト辞は形式的となり、絶対権力者の行為の権威付けと変わっていく。

甲骨文字が栄えたのは武丁期から殷末の紂王までの7代9王に至るもので2~3百年続いた。無論の事ではあるが、その間、文字を使用。理解したのは王と貞人(神官)だけであり庶民は文字があることすら知られていなかった。

 

3.金文

前11世紀後半 周の文王は、渭水のほとりで釣り糸を垂らしていた。大公望呂尚に何が釣れるから問うたところ、釣り針のない糸を垂らしていた大公望は天下を釣っていると答えたと伝えられ、文王は三顔の礼をもって大公望を軍師として招いた。文王の子武王は、大公望の力を借りて、紂王の殷を亡ぼし、周主国を建設する大公望は、その功績によって青倭に封ぜられ斉の国王となる。春秋時代には、斉、晋、楚、呉、起の5覇と称せられ、各々天下に号令する強国となるのである。この周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝で800年以上に及んでいるが、盛期は西周時代(1050年?~770年BC)であり、都を洛陽に移してからの東周からは名目上の王位を保つことになり春秋時代(722~481BC)戦国時代(480~256BC)の時代となるのである。

殷時代の末頃から製作され始めた青銅器は全盛を極め、蔡器、礼器として巨大なものがつくられ、表面には霊獣が鋳こまれ、その蓋裏等にへらで掘られたのが金文である。

甲骨文、金文ともに高度の美的直観と構造上の苦心が必要とされ、何らかの美的配慮があったことは明白と云わねばならない。

漢字は誕生した時点から美しさに満ちていたのである。

 

篆書

戦国時代に入ると大篆が表われ始めて、221年BC)奏の始皇帝が中国史上始めての統一国家を建設すると、丞相李斯に命じて字体の統一をはかったのである。天稟の政治家であった李斯は、この事業を成し遂げたが、これを小篆と呼ぶ。現代でも印鑑に多く使用されているのがこの小篆である。李斯は史上最初の書家という栄誉を担うこととなった。彼の書は今日に泰山の碑、瑯邪台刻石として残っている。

やがて始皇帝が没すると宦官の超高が実権を握り、宮廷斗争に明け暮れて李斯もこの斗争に敗れて刑死している。急速に弱体化した奏帝国はやがて漢の劉邦に滅ぼされて劉邦は楚の項羽との垓下での斗いに勝利した。漢帝国を建設する漢代に忘れてならない人物が居る。

劉邦の糟糖の妻呂后である(作品展示あり)が皇后の名が史書に記される初例である。

呂后の産んだ病弱な盈の皇太子の地位を守る為に呂后は全力をあげていたが、劉邦の没したあと盈は恵帝となるが、呂后は劉邦の諸王子を次々に殺害。劉邦の生前寵愛していた戚夫人の手足を断ち、眼球をえぐり、薬で聾唖にし厠に投げ込んで「ひとぶた」と呼ばせた。これを見せられた恵帝は気が狂って死ぬ。更に夫劉一族を殺害、排除して呂一族で王朝を固め、自らを臨朝称制して政権を握るのであるが呂后が没するや、劉氏の功臣達が呂氏一族を制圧して呂氏は族滅させれている。中国には時折烈女とも云うべき女性が出現する。

 

イ.則天武后

14才で太宗の後宮に入り、帝の死後高宗の寵を受け、自分の生んだ子を縊り殺して時の皇后王氏を陥れ、皇后に成り上り690年国号を周と改め、自ら皇帝と称して中国史上唯一の女帝となった(尚武則天とも呼ばれるが武とは、後宮の役人の呼称で4夫人9賓妃、27世婦81後妻とある役職のうち9賓妃の中に美人、才人、武人とありその中で武人であった。項羽の愛妾盧美人はこの中での美人である)

 

ロ.西太后

皇后慈安太后が東太后と呼ばれたのに対し、紫禁城西六宮の儲秀宮(チョシュキュウ)に居住したので西太后と呼ばれた。2人で摂政となった。

東太后を樽に塩付けにしたことで有名。

次々に皇帝をたてるが、実権を握りつづけた。

義和国の農民闘争を利用して列強に宣戦布告したが敗れてまもなく死去。

しかし呂后が、中でも烈女の先頭に立っていると云えるであろう。

 

やがて後漢後期、黄中の乱が各地で勃発し、漢帝国の内部に司馬懿を中心とした清流派グループが力を増して来て、これを恐れた政権は主要人物の多くを獄中に捕まえていたが、清流派と黄中の乱が手を結ぶことを警戒して、清流派を牢からとき放つ懐柔策をとる。しかし、魏の曹操は鎮圧された黄中派の残党36万を味方に引き入れ、清流派もとり込んで一大勢力となり、全国統一を狙って動き出し、赤壁の戦いに挑む。曹操軍は軍師筍或、率いるは80万の軍勢、対する呉軍は周瑜率いる5万の軍勢である。この海戦は風を読んだ呉の火攻めの戦術に曹操軍は大敗を喫し、統一国家の狙いは一時頓挫するが曹操の死後、司馬懿の孫炎が魏の王位を簒奪し、蜀、呉も滅して晋王朝を建国するのである。

 

4.隷書

春秋、戦国時代 書写するのに時間がかかる小篆を簡略化するために、漢字第2の公式書体としての隷書が発達、後漢時代の後半に完成してくる。乙瑛碑(153年)礼器碑とその完成度の高い作品が残り、今から40年程前に日本で公開された礼器碑の前に立ったときの驚きは忘れられない。印刷されたものとは比べるべきもない美しさに圧倒された記憶が残っている。

そして隷書の掉尾を飾る曹全碑はもうこれ以上行けば品位が落ちると思わせる程、流麗極まりない美しさで書としての美しさは、空前絶後と言っても良い。この後、隷書の形は崩れて悪く言えば醜悪とも思える形と変って行くのである。

2019年

1月

16日

ニューイヤー2019 宮殿祝賀コンサート

東京文化会館大ホールにて開催

指揮はイタリア生れのサンドロ・クレウレーロ。1990年彼が設立したウインナー・ワルツ・オーケストラを率いての20回目の来日公演である。私が足を運ぶのはこれが4回目で例年通りのプログラムであった。

スッペの「軽騎兵」序曲で始まり、トリッケ・とラッチポルカ「山賊のギャロップ」「皇帝円舞曲」「こうもり序曲」ポルカ「雷鳴と稲妻」等、シュトラウスの曲が続いてワルツ「美しき青きドナウ」で締め括った。

アンコールに応えての3曲目、ヴァイオリンのシャンドル・ヤヴォルカイとチェロのアダム・ヤヴォルロイの兄弟が、舞台の前に出て、ハイドンのパッサカリアの演奏で、それまでの軽い曲続きでややマンネリ化した聴衆の空気を引き締めたとみるまに終盤に至って突然テクニックの極限ともみられる。超絶技法を駆使した演奏が始まり最後はチェロとバイオリンの掛け合いとなり、聴衆を驚かせかつ魅了した。このアンコール曲を聴くだけで、コンサートホールに足を運んだ甲斐があったと云うべきであった。

尚スロヴァキア出身のパトリシア・ソロトウルコヴァのソプラノはやや声が太すぎて透明感に欠けたが声量はあり、舞台栄えのスタイルはまことにオペラ向きで、さだめしカルメンを歌わせたらまさにピッタリと思わせた。

2018年

11月

30日

図書2018年12月号「夕陽妄語」を読む

図書 2018年12月号「夕陽妄語」を読む(注1)

著者はソーニャ・カトー 翻訳は高次裕

ソーニャはオーストリヤ人女性とエジプト人男性の娘として生れ、すぐに加藤周一、ヒルダ夫妻の養女となった。養父加藤はドイツ語、イタリヤ語、フランス語、英語に堪能で、娘と比較的濃密な関係を保っておりEメールでのやりとりが可能になっても定期的な手紙のやり取りを好んで政治、社会、文字や芸術について彼女を刺激した。彼女は彼を「せんせい」に向いていて他者の立場に敬意を払い、深い知と洞察を追求する人で普遍的学識人と名付けられるような「博学の人」でもあった。多方面の教養があって偏見がなく宗教的教義からも独立していた。又、彼女は2001年から2010年までウィーン市議会でオーストリア社会民主党の議員として活躍している。

最後に「彼が亡くなって10年経った今、知識に溢れ、それを伝えようとし、人々をそれぞれの考えに対する愛に溢れ、好奇心に溢れ、そして平和への献身に溢れた人だった」と結んでいる。娘の父加藤周一への賛歌である。

ソーニャの語った中で始めて知った事は 1.ヒルダと加藤が夫婦としてウィーンで生活していた事 2.ソーニャが血縁関係のない加藤夫妻の養子であった事 3.以前に戒壇院でお目にかかった加藤夫妻の妻、矢島翠が加藤の3番目の夫人であった事である。加藤の「日本文学史序説」は2~3度読んでいるが、改めて全集24巻を改めて読み直してみたいと思う。又加藤が晩年力を注いだ「九条の会」について、私もその末端に連ねる一員として微力ながら力を注いでいきたいと思っている。

注1 夕陽妄語は「朝日新聞」1984年7月2日から1994年6月2日まで連載

加藤周一は著作集全24巻の他、多くの著作があるが、自分自身の事は「羊の歌」注2に書かれた以外には全て見られない。

注2 羊の歌は朝日ジャーナル1966年11月6日から1967年2月19日、及び1967年7月9日から10月22日に亘って連載されている。

2018年

11月

25日

森鴎外記念館みる(特別展)

鴎外の「うた日記」詩歌にうたった日々を編んである 鴎外が日露戦争中に戦地で創作した詩歌を戦後自ら編集し、1907年9月刊行した短歌331首、俳句168句、新体詩58篇、訳詩9篇、長歌9首である。

他に常設された中に2冊揃った「日本からの手紙」は伝わる原本は滞独時代の鴎外が両親や兄弟などからの手紙を日本に持ち帰ったもので、長男於莵が第2次大戦中に外国に居て持参していた為に無事残ったものである。

全体として資料は良く保管されており、ボランティアの男性が我家4人の為に約1時間に亘って庭から館内まで説明に当たってくれたこともあって充実したものであった。

尚、原稿、書簡、遺品等の鴎外資料と生前発行の貴重書、研究資料等11,000点余りの資料を所蔵している。

記念館の建物は敷地面積886㎡

建築面積400㎡、延床面積1,360㎡の堂々たるもので2011年11月に開館している。

土地は元々区が所蔵しており建物も区が建築した。建築費用は聞いたが説明しなかった。

2018年

11月

25日

第7回大時代錯誤展

11/24・25日に文京区千駄木の国登録有形文化財「島薗家住宅」にてにて7回目となる大時代錯誤展が7団体及個人の共催で開かれた。

日本橋の竹細工を取扱う「花筥」からの案内である展示販売であるが内容は竹を使ったオブジェや平安時代の大壺、現代の漆器や陶芸の作品等時代を越えて多様であった。

会場の島薗家住宅は1932年島薗順雄の結婚を機に建てられ、「和洋並置式」である。しかし、この建物は相続税の関係からかこの後の存続が危ぶまれているとの事であった。

2018年

11月

18日

第11回葛飾現代書道展 始まる

2018年

11月

10日

京都姉小路で墨のパフォーマンス

1.来年の干支「亥」を隷書で書く。

   2m x 3mの画仙紙だが、3年目の今年は姉小路在住の「山中青緑堂」の山中祥吾

     氏によって既に掛け軸に仕立てられていた。さて、今年書く来年の干支「亥」の余白

     部分は例年通り参加者が思い思いの文字を墨書した。

 

     昨年の作品「狗」は1年間「ひと・まち交流館 京都」(注)の中にある「景観・ま

   ちづくりセンター」に展示されており、一昨年の作品「鳳」は姉小路界隈まちづくり

   協議会」事務局の隣のギャラリーに展示されている。

      (注)京都市下京区西木町上の口上る梅湊町83番地の1(河原町5条下る東側)

   平成30年11月10日 来年の干支「亥」を書く

 平成29年のパフォーマンス 「狗」。上記「ひと・まち交流館京都」に飾られている

    

       平成28年 墨のパフォーマンス「鳳」

                 

                  平成29年の一年間 「ひと・まち交流館 京都」の2階から吊り下げ

      飾られた書「鳳」

             

                 姉小路 地図

2.姉小路界隈は姉小路通りを中心に寺町、烏丸、御池、三条の各通りに囲また地域で、

  繁華街に近い街の中心にあって、さまざまな生業を営む老舗と小さな町家を含む、

  低層住宅が建ち並ぶまちである。

 

3.姉小路界隈に点在する老舗の文人・墨客の手になる「看板」に着目した「看板に似

  合うまちづくり」をコンセプトにして発足した「姉小路界隈を考える会」は設立23

  年を迎える。建設協定や地区計画といった独自のルール作り、新築を含め修景事業 

  を始めとする数々の実践、風情溢れる町並みを育てるという高い志をもって活動し

  てきた。

.今回の路上パフォーマンスは姉小路通りを14:00~16:00まで封鎖し、警察官が

  2名立って車の進入を制御している。また京都市環境政策局から課長、係長の2名

  が職務として参加した。これは京都の行政が「考える会」の活動に前向きに協力し

  ている姿勢を良く示している。

 

.翻ってみると我が葛飾区では区の施設であるシンフォニーヒルズにおいて「葛飾美

  術会」が要請した建物前のエントランス前の空き地に墨のパフォーマンスの許可を

  申請して却下されている。 京都市の姿勢との大きな差を痛感した。

 

.押し寄せる事業利益優先のビルの建設は古い街並みを守る鬩ぎ合いの中で、地元の

  住民の懸命な努力によって辛うじて古き良き京都の景観が守られているのだと実感

  した。  

2018年

9月

29日

「歌麿とその時代」みる

雨の中熱海のMOA美術館で「歌麿とその時代」をみる。

浮世絵の肉筆画、版画展である。天明期から寛政期に歌麿の大首絵、写楽の役者絵が出現し、文化、文政期には最盛期を迎えるのである。歌麿の「文読美人」がとりわけ群を抜いて存在感を示している一方、写楽の「大童山土俵入」での絵のうまさに驚嘆した。

 

「文読美人」をみて直ぐに思い出すのはフェルメールの「手紙を読む女」である。

1657から58年に制作された「手紙を読む女」は多分アトリエの中で描かれたもので、女の服装は「兵士と笑う娘」と全く同じ椅子、窓も同様である。カーテン、食卓、窓と何の装飾もない壁面であるが、オランダの風俗や生活振り、その空気までも色濃く漂っていて人物もその中の一部のようである。女の内面まで描くことはしていな一方、その150年程後に描かれた歌麿の「文読美人」は大首絵で女の手紙を読む一瞬の場面を描いている。

女は地方から単身で江戸に出て来て働いていたものであろう。勤務先の店の看板美人で江戸中の評判を得ていたかも知れない。

手紙は故郷から身内の病気等の異変を伝えるものでもあろうか。驚きと緊張感が顔の表情と手の表情で良く表わしている。

浮世絵画家としての歌麿が肖像画家としても第一級の画家であることを証明している。

この一点だけでも熱海まで来た甲斐があったというものである。

歌麿「文読美人」

                          フェルメール「手紙を読む女」

2018年

9月

26日

吉村 昭の本

吉村昭の作品を始めて読んだのは「北天の星」である。南部藩領下の貧しい農村に生まれ、やがて北海道に渡って、エトロフ島で番人小頭の地位を得て、アイヌの若い妻を娶

り安定した生活を送っていた五郎治は、当時はピヨートル大帝のもと勢力を拡大し、カ

ムチャッカ半島まで侵出してきたロシアがエトロフ島を攻撃。五郎治と佐兵衛はシベリ

アに抑留される。ロシアの海軍少佐ゴロウニンが千島周辺の測量の為に、国後島に上陸

したところを幕府に捕らえられ、その交換要員として五郎治と、漂流民6人が日本に返

還された。日本に戻って半ば幽閉された状態でひっそりと生涯を閉じる筈であったが、

ロシアで得た種痘の技術が生きて、日本で初めての牛痘による種痘の施術によって、歴

史の舞台に登場する事になる。


この「北天の星」の出来栄えは素晴らしく以後「羆(ひぐま)」「三陸海岸大津波」

「零式戦闘機」「海の史劇」「ポーツマスの旗」等吉村昭の作品の大半を読んできた。

吉村昭の作品はすべて情緒に流される事なく、登場人物の心理描写に深入りする事もない。事実を積み重ねていく、男性的とも云える文体で、それは宮本顕治の「百合子断腸」に通底しているようにみえる読者としての私に心情的に良く合う作品であった。

作品の総てが丹念に調査を重ねて出来るかぎりの事実を究明して作品をつくりあげる姿勢に深く共感を抱いていた。

 

さて「史実を追う旅」である。
「闇を裂く道」の取材で、大正初年の時刻表を手に、沼津から御殿場のジーゼルカーに乗って隣に坐る年輩の婦人と会話を交す。「東海道線がこの線を通っていた頃、ちょう

ど、このあたりでしたが、車内から勤め帰りの男の人が線路ぎわに立った若い奥さんに

鞄を投げるのです。そしてデッキから飛び降りる。近くに家があって、駅で降りると遠

くなりますのでね。それ程汽車の速さはおそかったのです」と生々しい話を聞いている。又当時の担当の技師は「丹那トンネルが掘られた時は上の盆地の水がなくなり、大騒ぎ

になりましたが、現在の工法ではそのような事はありません。当時トンネルの160m上

方にある丹那盆地は豊かな水に恵まれた地であったが、トンネルが掘られたことで地下

水の水位今西はが急速に低下し、トンネル内に噴出、この為盆地の川の流量が激減し、田はひび割れ、ワサビ田に水は絶えた。農民達は驚き、その怒りが騒動に発展した事等。

 

「破獄」での脱獄の天才では戦前青森県警察所(署)の刑事課長P氏の話として受刑者

Sがひそかに入手したスプーンの柄をコンクリートの床でこすり獄房の合鍵を作った事や、Sは3回脱獄した事を聞く。小菅刑務所から秋田刑務所に護送中に、護送指揮をと

った看守の橋本氏の話として「上野を列車が出まして宇都宮を過ぎて間もなくでした。

Sには前手錠をかけていたのですが、いつのまにか片肘を窓ぎわにのせて頬杖をついて

いるのですよ。驚いて手首をみると片方の手錠がはずれて、垂れていましたね。部下が

顔色を変えて立ち上がり、足錠をかけて縛りましょうと言いましたが、私は、「S、ちゃんとかけとれ」とたしなめました。するとSは手がだるかっただけで他意はありませんよと云って手錠をはめました。凄い奴だと思いましたね。」と語っている。

 

「海の史劇」では日本側の資料はもとより、ロシア海軍の公式記録その他も調べて、
「回天」では薩摩海軍史を始め、外務省外交資料館や東京大学資料編纂所、国立公文書

館でも調査している。最後に吉村昭は「昭和41年から7年間、戦史小説を書いたが、そ

の間あくまでも史実に忠実であることを念願とし非力であるのを知りながらも自分なり

の努力はしたとし、零戦戦闘機の執筆の折の忘れがたい記憶として『零式の戦闘機の設計・製作者であった堀越二郎のお宅へしばしば足をむけご教示を受けた。
氏は私の書く技術的な説明に克明な指摘を下さり、私はそれをメモして小説の中に活か

した。その中で堀越氏はプロペラの箇所について書いた部分が80%の正確さしかないと云い、この部分は私の論文をそのまゝ写して書いて下さいときつく云われた』それは出来ないと断った上で理由を説明した。小説家である私には文章が最も大切であり、たとえ

氏の論文が技術的に正しい内容であろうと、その文章は氏自身のものであり、それを挿入する事は、私が小説家であるすべてを放棄することになる。」「老練な編集者は多少誇張があるかもしれませんが、小説家の書く文章の一行を読んだだけでも誰のものかわかるのです。私は学生時代から小説を書いてきていますが、それは文章との闘いということにつきます。堀越さんの論文をそのまゝ引き写せば、私が今まで小説を書いてきた意味はなくなります。正確度80%でもいいと言ったのはこのような理由からです。」
吉村昭の小説家としての矜持がここに高らかに語られている。

2018年

9月

25日

2. 印材を彫る。

佛画を描いて書も書いて作品にするにあたって雅印が必要となる。

作品中の自分の印は作品の一部であると思っていたので、自分で刻するこ事とした。

先ずは先人の残した印を模する事から始め、自分の印は50程彫ったであろうか。
それと共に篆刻作品も手掛けて手許に残っているものを集めてみた。
目指したのは斉白石と2世中村蘭台であったが、所詮無理な事が良く分かって、平凡な

作品に終ったのは残念なことであった。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 不憂貧
     貧乏を憂えず。 361

 

 

 

 

 

  2. 不同轍
    同じ轍を踏まない。 362

 

 

 

 

 

  3. 間中至楽  清蔡軾
             363

 

 

 

 

 

4. 烏兎忽々   364
中国の古い伝説に太陽には3本足の烏が住み、月の中には兎がいるという。

このことから烏はからすで太陽の意。

兎はうさぎで月を指し転じて歳月、
月日の例えとなった。

忽々はあわてゝ急ぐの意。月日のたつのは早いさまを云う。

 

 

 

 

 

 

 

5. 俱会一処    365
阿弥陀仏の浄土に往来して浄土の人々とともに一処に会同すること。

 

 

 

 

 

 

 

 

6. 一鳴驚人    366
  一声鳴いて人を驚かす。

 

 

 

 

 

 

 

 

7. 書画禅     367

 

 

 

 

 

8. 空釣坐魚亦釣楽 高枕臥遊山目前

             368

餌なき釣り針で釣られる心配が無いか ら魚も楽であろう。柴門を出でずに浮世
を知らぬ顔で臥すれば青山は眼前にあらわれてくる。

 9 王維 詩  369      

            酌酒興君君自寛 人情翻覆以波瀾
             白首相知猶按剣 朱門先達笑弾冠
               草色禅経細雨湿 花枝欲動春風寒
             世事浮雲何足問 不知高臥且如餐   

 

 

 

10.  静不備 動靡遠  No。 372
 静にして一方によらず、動にしても 違う如き事があってはならない。

 

 

 

 

 

 

 

11.  仁者寿 智者楽 孔子  373

 

 

 

 

 

 

 

 

12.  五言絶句  杜甫  289

13.  漢魏六朝  張湛
       衿厳礼を好む 動止則有り 幽室に居処し、必ず自ら修整す。

2018年

9月

23日

1.  印材とその作家について

書に関わって40年程となり、収集の意志がないままに、いつのまにか印材が集って来
た。その中には著名な作家もいたのである。

 

1.徐星州 獅子紐印材 心間夢穏 349(1853~1925年)徐新周字は
星州皇周 心周 いづれも新周の諧音である。
江蘇呉県の人、少時より篆刻を好み、他事に渉ることなく後に呉昌石に益を受け、
呉の代刻をする事が多かった。呉の作風を承けたものであるが、より整斉、穏健に
して、自ら一格(自分一人の主義で立てた格式、一流)を有しており、また上海に
寓しその刻料も廉価であった為に、邦人の刻印を求める者が多く、犬養木堂、河口
慧海、滑川澹始、田口未航等が依頼している。写真の作品は黒檀造りの箱に入って
おり、表面に朱基石藏、田黄獅子鈕方印とある。

2. 石井雙石 (1873~1971) 346、347
千葉県山辺郡四天木村生まれ、四天木学校に4年通い、16才で上京、22歳で陸軍
に入隊。1906年日本新聞主催の篆刻作品展で2席になり、篆刻家になる事を決意
した。1928年5世浜村藏六に入門、2年後に藏六死去。河井荃廬(センロ)を師
とした。戦後葛飾区堀切に居住、1962年紫綬褒章授与される。昭和期の日本を代
表する篆刻家の一人である。最晩年に東村山市に移住。99年の生涯を閉じた。
当然の事ながら書も素晴らしい。この2作のほかに4点の印を所蔵している。


3. 趙之琛(チョウシチン)(1781~1860) 343
字は次閑、献父を号とし、宝月山人とも号した。浙江銭塘の人、終生仕官せず、
布衣に了った。陳豫鐘の門に出て金石学に長じ、また黄易 奚岡、陣鴻寿の長所を
取り、嘉慶、道光以降における浙派第一と称された。西泠8人の一人。兼ねて絵も
よくし、書も巧みであった。晩年大平軍の乱に遇い、所在不明のまゝ没した。

4. 奚岡(ケイコウ)(1746~1803) 353
初名は鋼、字は純章、鉄生と号した。もと安徽省新安の人。浙江銭塘に寓居した。
9才で隷書をよくし、長じては行草に巧みであった。また詩詞をよくし、絵にも
とりわけ優れていた。方薫と交遊し、相並んで方奚と称された。抗郡4家と呼ば
れている。西泠8人の1人。平生酒を愛し、酔えば意気は淋漓として虎のごとく、 意に合せぬことがあると同席した人を大罵して、人から酒狂と呼ばれた。
終生布衣に了った。

5. 新間静邨 (1879~? )351、345
4世浜村蔵六~安達鋳印を師とする。また松丸東魚の師でもある。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

6. 3世浜村蔵六 (1791~1843) 352
名は籍、字は子収、号は南渓。晩年は訥斎(トッサイ)、亀禅。
江戸の人、本姓小林氏。のち金山氏を冒し、2世没後、高弟として浜村氏を称し伝家の亀鈕古銅印を承け、蔵六居を襲ぎ、よく家声を落さずその配金山耀も遷鶯と号し、絵、篆刻をよくしたが、子がなく塩見大澥があとを継いだ。
 

7. 源伯民 (1712~1793) 356
清水氏、名は逸、字は伯民 通称は利右衛門頑翁と号し、南山樵夫、義和堂、雕虫館、掬翠軒など別号する。源氏の出身で源民又は揚伯民とも称した。
長崎玉之浦の人、その篆法は蒼秀、刀法は雄健と称され、晩年益々壮んであったと云う。当時は長崎に古切屏風と呼ぶ。
明末の蘇暁、黄震2氏の刻した酣古集の大印があり伯民はこれを模刻して迫真の力量を示したという。 

8. 益田香遠 (1836~1921)遇所の長子
益田遇所(1797~1860)358 本姓 山口氏、名は肅、字は士敬、号は遇所。
浄碧居と称す。江戸の人。幼くして長橋東原に書を学び、ついで益田勤斉に師事 して篆刻を学び、その技は同門のいづれをもしのいだ。師没後嗣がなく、推され て嗣子となり益田氏を冒す。
その名声は日に高く、安政2年幕府の命令で官印二顆を刻して賞され、貴神土庶 となく彼の印を求めたという。作風は常に泰漢古印の法により加うるに近世名家の筆意も用いた。さて香遠は遇所の長子で名は厚、名は士章、通称は重太郎、勤斉、遇所の跡を襲ぎ、江戸泉橋通に住し、明治篆刻家として著わる。

9. 桑名鉄城 (1864~1938)354
名は箕、字は星精、鉄城又は大雄山民と号した。富山の人、幼時、郷儒小西友義
について、句読と書法を学ぶ。その後、山岡鉄斎の門に入り剣道を修業し、金沢
に移って北方心泉より篆法、金石学を学ぶ。明治25年京都に移り、28年台湾
総督府の印を刻するのを命ぜられた。円山大迂とゝもに京都に於ける新作風の大
家と称せられるに至る。没後京都相国寺に葬られた。

10. 三雲孝 (1769~1844) 357
名は宗孝又は孝、字は子孝、仙嘯と号した。通称中書、先祖は近江国三雲村の人、 代々施薬院使を継ぎ御所に出仕したが、孝は家業を好まず洛西嵯峨に住み、読書、 詩作に耽った。篆刻は葛子琴に学び、高芙蓉に私淑して一家をなした。
しばしば仙嘯堂に印会を催し、快哉社と名付ける。嵯峨大覚寺慈性法親王の命に
より、文館詞林の模刻事業に携わる。俳諧や点茶を善くした。

11.鳥海北岳 355
名は銀次郎、号は北岳、白鳳山人 字は君貞庄内藩士。鳥海良顕の次男として鶴
岡二百人町に生れる。兄良民が早世した為に家督を継ぐ。漢学を遠藤厚夫、赤沢
経言に学び、長じて小学校教員となるが、実業界に転じて鶴岡士族授産場に勤務する。次いで松ヶ岡製糸所に入って、1901年社長、1919年まで勤める。
この間県製糸同業組合役員、済急社監査役を兼務し、鶴岡町会議員を5期20年
勤める。書を黒崎研堂に学び、さらに日下部鳴鶴の指導を受け、能書家として著名となる。その後谷中に寓居し、書道振興会を創設、書道の普及に務める。
墓碑銘は「北岳鳥海君の墓」。

12. 田黄石 348
福建省福州の北40kmの寿山郷の田黄周辺の田の中、川の付近から産出する。
明末から採石され始め、良材はほとんど清の乾隆時代初期までに採り尽くされた
と云われている。採出する高山系の中で田抗、水抗、山抗とあるが田抗で採れる
ものゝ中に田黄はある。寿山郷へ通ずる坂道周辺の田畑から産出さえるもので、
寿山から流れ落ちる渓流によって運ばれた石が、土の中に埋もれ、周辺の田や畑
から彩石されたところから田抗と呼ぶ。
田黄名の多くは微透明、半透明の状態を呈しており、石面中に極めて細密な蘿蔔紋がみられ、また多くに紅筋が存在する。中国では古来黄色を尊重した為に田黄は金と同一、またはそれ以上とされる程高価であり、近年中国の経済の急速な発展により田黄の価は更に急上昇している。此の田黄は10年程前に手に入れたもので、蘿蔔紋と紅筋がよく見られており、石材も極めて良質とみられるものである。田黄石は

印材の中でも鶏血石と並んで群を抜く人気石である。

13. 兎と白菜の紐 痩銭の作 344

 

14. 古寿山石 葡萄 栗鼠紋 350

 

15. 寿山石 馬肉紅 359 15. 寿山石 馬肉紅 359 

2018年

9月

21日

私の好きな歌手 その14.ヴィクトリア・テ・ロス・アンヘルス その15.テレサ・ベルガンサ

その13.  ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘルス
1923年11月スペイン、バルセロナに生れる。 ソプラノ
1944年リセオ音楽院の主催するコンサートでデビュー
1951年メトロポリタン歌劇場の舞台を踏み国際的名声を得る。
日本には1965年72、74年に来日したが、1984年来日したときは横浜市立図書館
を会場としてリサイタルを開いた。
晩年であったが相変らずの美声であり、予想外の可憐な声に改めて驚いたものだ。

 

その14. テレサ・ベルガンサ
1943年3月マドリード生まれる。 メゾソプラノ
1977年~78年アバド指揮で歌ったカルメンは絶品であった。
1957年コシ・ファン・トウッテを歌い注目さら、古今のスペイン歌曲を多くレコードに
入れている。
ロス・アン・ヘルスと並んでスペイン歌手の双璧である。私の推奨のする一枚は
 ”イタリア古典歌曲集” ピアノ:リカルド・レケホ である。

 

2018年

9月

18日

かつての名歌手シリーズ第3回 イヴ・モンタン

イヴ・モンタンは1921年10月イタリア フローレンス近くの石黄土質で小石があるやせたアベニン山脈の一寒村モンスマーノに生れた。本名はイヴォ・リヴィ、港町マルセイユで幼い頃を過し、労働者としての生活が始まり、18歳のとき喉自慢シャンソン大会に出場して優勝。やがてイヴ・モンタンと名乗りムーラン・ルージュで活躍中にエデット・ピアフに認められ46年ピアフ主演の「光なき星」で映画デビュー、同年「夜の門」に主演。その主題歌「枯葉」を歌い続けて世界的なスタンダード・ナンバーに育てた。

俳優としては53年に「恐怖の報酬」が高く評価された。
イヴ・モンタンという名は子供の頃から母から「イヴォ・モンタ」(イヴォ モンタ『あがっておいで』)と呼ばれたのをもじったと云われる。

第二次大戦直後から1950年代モンタン・シニヲレ夫妻はフランスで最も有名な共産党員のシンパであった。フランス議会で共産党が第一党の座にあった頃の話である。当時ヨーロッパでナチスドイツと闘った唯一の政党がフランス、イタリアの共産党であり、その為国民の共産党に対する信頼はベリンヴェル率いるイタリア共産党が常に30%を超える支持率を有し、もし大統領制度があれば、貴族出身でスタイリッシュなベリンヴェルの当選は間違いないと云われていた。

一方マルシェ率いるフランス共産党も劣らずの勢力を有し、ヨーロッパで議会主義のもとで最も社会主義への移行の可能性が高いと思われていた。

 

1956年11月のモスクワ公演を追ったドキュメント映画「シャンソン・ド・パリ」では黒い長袖シャツに細く黒いズボン履いたシンプルなスタイルでスポットライトを浴びたモンタンの舞台は水際だった真に見事なもので、ソヴィエトの聴衆の熱狂的支持を受けたものである。それは世界の共産党の中で最もソヴィエト政権と親密な関係にあったフランス共産党のシンパであったモンタンである事も理由の一つであったろう。

しかし、もはや戦後ではなくなった60年代半ばあたりからモンタンは姿勢を変える。
それは頼みのソヴィエト政権が民主主義の養護者からその抑圧者に変り、大国主義が露骨になってきた事。又経済政策に失敗しミッテラン政権の支持率が急落する等からモンタンは「共産党は赤いファシズムで社共連合政権は破廉恥かつ危険きわまりない政権だ」として「アメリカは社会主義国家が目標として果せなかった理想を実現した国」とアメリカを礼賛した。明らかな変節であるモンタンは大衆の動向に添うようにその考え方を左右に振らしたのである。ジュリエット・グレコの「お金持ちになると人が変るのかしら」を始め、世の批判、悪口、後ろ指にダメージを受けるどころか燦然と輝き続けたのである。

 

さて50年以上前の事である。モンタンがボップ・カステラ楽団を率いて、東京公演に来日が決った。会場は築地のセントラル劇場である。前売り開始は12月10日であり始発の電車に乗って日本橋「赤木屋」に着いた時は既に10数人並んでいたのである。中には毛布にくるまっている人も数人いた。4~5時間寒さに震えながらチケットを手にした時は本当に嬉しかった。むろん勤務先は休んでいた。しかし理由は何であったか突然公演は中止となった。残念!

 

シャンソン・ド・パリで見せたモンタンの「バットリング・ジョー」では連戦連勝を続けていたボクサーのジョーがリングで突然目が見えなくなる話を始め軽やかにステップを踏みながら唄い、やがて目が見えなくなるドラマをまざまざと再現していた。
流石に「枯葉」の歌唱は深い感銘を我々に与えたのである。「枯葉」も「バルバラ」も詩人ジャック・プレヴェールの作でプレヴェールはマルセル・カルネ監督の「悪魔は夜来る」「天井桟敷の人々」のシナリオも書いている。ナチス占領下で、抵抗の意志を示した輝かしい作品として今も高い評価をがある。

 

         「バルバラ」の詩は

  「思い出せバルバラ、忘れるな しあわせな君の顔に、

   しあわせなあの町に、あのおだやかな雨、海にも、

   海軍の工場にも、ウェッサン通りの船にもあの雨。
   あゝバルバラ、じつに愚劣だ。
   戦争は、この鉄の雨、火の雨、血の雨、鋼の雨の中で

   今君はどうしている。

   いとしげにきみを抱き、しかし、あの男は死んだか、

   行方不明か、それともまだ生きているのか。

   あゝバルバラ、ブレストは昔と同じように

   ひっきりなしの雨ふりだがもう同じ雨ではない。

   すべては悪化して恐ろしい荒んだ弔いの雨だ。

   もう鉄や鋼や血の篠つく雨ですらない、ただの雲、

   犬のように野垂れ死にする雲だ。

   ブレストの潮の流れに犬どもは姿を消し、

   やがて遠くで腐る、ブレストのはるか彼方で腐る。

   この町に残るものなし」

(詩の一部)「プレヴェール詩集より」より

2018年

9月

18日

私の好きな歌手 その11. ポール・ロブスン その12.へルマン・プライ

その11. ポール・ロブスン
1898年ニュージャージー州、プリンストン生まれ。ラトガス・カレッジ在学中フット

ボール、野球、バスケットボール、短距離の有名選手となっており、同校開校以来の最

優秀成績で卒業。フットボールでは2年連続で全米最高選手に選ばれている。
その後コロンビア大学で法律を学び1923年卒業後、法律事務所で就職したが、白人

の書記が黒人のロブスンから口述される事を拒んだ事件によりロブスンは法律と縁をきり、1924年俳優として友人ユージン・オニールの劇「すべて神の子に翼あり」と「皇帝ジョーンズ」は出演、劇中で黒人霊歌を歌って絶賛を浴び、俳優として又歌手として不

動の地位を確立した。1930年ロンドンでシェークスピア劇「オセロ」に出演するなど舞台で活躍。又黒人の完全自由解放への情熱、国際的な反ファシズムと平和擁護活動への

積極的参加。1949年パリで開かれた世界平和会議における活躍等により非米活動分子とみなされアメリカ国務省はロブスンの海外渡航を禁止する。
1958年にはついに8年間の闘いによって旅券取り消し措置も撤回させたのである。
彼の歌は「オールマン・リヴァー」「ディープ・リヴァー」「ウオーター・ボーイ」

「セントルイス・ブルース」等いずれも高い精神性を感じさせる深味ある力強さと共に

哀愁を感じさせるのである。

 

その12. ヘルマン・プライ
オペラ、リート歌手としての人気はフィシャー・ディスカウと並んでいた。
オペラ、オラトリオ、リート歌手として輝かしい成功を納め「宮廷歌手の称号をもち、
バッハのカンタータからミュージカルまで幅広いレパートリーを有して活躍、1993
年に来日し鮫島有美子と一緒の舞台に立った。生で聴くヘルマン・プライの声は
低音部分でも硝子をふるわせるような音量であった。
この幸運な出来事はプライの伴奏者としてのヘルムート・ドイチュ、鮫島夫妻とプラ
イ夫妻が個人的にも親しくしていた事によるもので有難い事であった。
プライの「冬の旅」はフィシャー・ディスカウの歌とは又一味異なる味わいで聴き比
べると、曲の解釈の違いが良く分かるのも楽しみである。 

 

2018年

9月

16日

私の好きな歌手 その9.コラ・ヴォケール その10.ダリダ 

その9. コラ ヴォケール
映画「フレンチ・カンカン」の中で「モンマルトルの丘」原名は”丘の嘆き”ジョルジュ・
ヴァン・パリス作曲。ジャン・ルノワール作詞を吹替えで歌っているのが詩人フリップ・
ボケール夫人のコラ・ボケールである。
当時日本ではボケールのレコードが発売されていなかった。その後CDが出されて
聴くことができるようになった。彼女の唄う「さくらんぼの実る頃」「オー・マルシュ・
デュ・パレ」(お城の階段)「ソフィ」「グレゴリー」「白いバラ」等いずれも1曲で

フランス映画の短編1作品となるようなものばかりだ。

「モンマルトルの丘」歌詞 以下いずれも要旨。
  聖ヴァンサンの街角で、かの詩人が名も知れぬ女と過ごしたひと時の
  逢瀬は二度とめぐりこず、春の朝今ひとたびの邂逅を何処かの街の片
  隅に、詩人は女を偲びつゝ、託した夢がこの愛の歌 云々・・・と続く

 

「白いバラ」
  てんの帽子をかぶったあの娘はモンマルトルの丘に無邪気な様子で
  いたのだった。人はあの娘をバラと呼んだ。きれいだった。
  咲きそめた花のように彼女はいいにおいがした。サン・ヴァンサン通りで。 
  あの娘は生活の為に働いていた。春をひさいで。
  夏むし暑いたそがれにジュールにめぐりあった。
  男はとてもやさしかったので一緒に古い墓地のそばで、まる一晩過ごした。
  しかしジュールはひもの一味だった。この男はこの娘が客をとりたがらない
  とみると、ナイフでぐさりやってしまった。サン・ヴァンサン通りで。
  戸板の上に体を横たえた時、この娘はもうまっ青だった。
  葬儀屋たちは「かわいそうに、この娘は死んでしまった。婚礼の日に、
  サン・ヴァンサン通りで」

 

映画の中の歌手たち
ウージェニー・ピュフェをエデット・ピアフが。ポール・テルメェをアンドレ・クラヴ
ォーが。イヴェット・ギルベールをパタシューが歌っている。(注)

映画 「フレンチ・カンカン」はジャン・ルノワールが1939年アメリカに亡命、195
5年帰国第一作としてこの作品を作った。ムーラン・ルージュの創始者シャルル・ジードレールを中心に芸に生きる人々の人間模様を描いた作品である。
ルノワールは戦前迫り来るファシズムに反対する立場からフランス人民戦線結成に熱い支持を表明し名作「大いなる幻影」を製作した頃の社会への参加の熱意を総て失ってしまって、フランスの敗戦後の人々の現状や将来の希望等に全く興味を失ったかのように見える古きよき時代をひたすら懐かしんで描くようになってしまったのである。敗戦後の占領下の厳しい環境を逃れて緊張感を失ったアメリカの地での15年は取り返すべくもなく、フランスに止まって作品を作り続けたマルセル・カルネとの差は途方もなく広がっていたのである。
作品としての出来は流石にそつのないないものになっており、それなりに楽しめるものになっていたが。  

(注)
① エディット・ピアフは曲芸師の父とストリートシンガーの母の間に生まれた彼女は母と同様に街頭で歌で投げ銭を受けていたが、やがてステージ・デビュー。
ダミアについで現実派シャンソンの象徴的存在となった。
交通事故の痛み止めで用いたモルヒネやアルコール依存症に苦しんだが、モンタン、アズナブール、ムスタキ等多くの若い才能を発掘している。
人気曲「愛の賛歌」は試合の為にアメリカに行く途中、飛行機事故死した恋人でボクシング ミドル級世界チャンピオンのマルセル・セルダンに捧げられたものである。

 

② アンドレ・クラヴォーはシャンソン歌手に珍しい甘い美声の落ち主で「パパと踊
ろうよ」で父と幼い娘とのデュエットがある。またルイ・アラゴンの詩による「エルザの
瞳」はその底流に民主主義渇望の思いをこめて絶品の歌唱である。

 

③ ベル・エポックのイヴェット・ギルベールは南仏生れの貴族画家トウルーズ・ロ
ートレックがモンマルトルの盛り場に出入りし、パリの風俗を生き生きと描いた。
石版によるポスターで描いたギルベールで有名となっている。

 

その10.ダ リ ダ
1935年イタリア生れ、幼年期エジプトのカイロに移住。父はオペラ劇場の第一ヴァ
ィオリン奏者であった。1954年ダリダはミス・エジプトに選ばれ1956年ミュージック
ホール「オランピア」のオーデションを受け1957年「バンビーノ」でデビュー。
大ヒットして一躍スターダムに昇る。粘りのある天賦の声と、スケールの大きいフィー
リング情感タップリで歌うシャンソン歌手となったが、イタリア生まれからイタリア的な
節まわしがあり何といってもイタリアのカンツォーネを歌うダリダ一番魅力に溢れて、
力量を発揮すると云えよう。美人で大人の成熟した女性の魅力充分の歌手である。

2018年

9月

11日

「もののけ姫」と中世の魅力 網野善彦と宮崎駿の対談から

「もののけ姫」と中世の魅力
網野善彦と宮崎駿が「もののけ姫」の時代である中世から近世に移行する転換期の15

世紀室町時代を語り合う。


1.当時は日本の西半分は照葉樹林の森に覆われていたが室町時代に人間社会が中心と

  なり、森は失われている。鎌倉仏教が誕生した。


2.15世紀は百姓も皆腰刀を持って武装していたし、鉄砲まで持っていた。黒澤明の映

  画「七人の侍」の出来があまりにも優れていた為に以後呪縛の要に日本の時代劇を

  縛ってしまった。


3.百姓の中には色々の生業の人がおり商人や職人も多く、農民の割合は多くみても

  40%に満たないものであった。百姓一揆は困窮した農民が一揆を起したと考えるの

  は間違いで、自由民権運動の秩父事件の先頭に立っていたのは博打打ちの田代英助

  であった。士農工商はイデオロギーであって実態ではない。士農工商をはっきりさ

  せたのは明治政府である。


4.室町期は完全に銭の交換経済で、現銭だけでなく手形が流通する時代になっていた。

 

5.  女性は養蚕をやり、絹や布は女性が作って自分で市場に出して売っており、おかね

  は女性のものだった。土地は公のものである為に名義上は男のものであったが、動

  産は女性の管理下にあった。宣教師のルイス・フロイスは「日本では夫と妻がそれ

  ぞれ財産を持っていて、妻が夫に高利で貸す」と述べている。


6.  日本の小型の馬が甲冑をつけた侍をのせてあんなに走れるわけがない。

  せいぜい3分半で馬は喘いでしまう。


7.世の中全体が豊かになって銭が流通し始めると、合理的計算が始まり富への欲が非

  常に強くなり、その欲が自然の恐ろしさを超えてしまう。
  それまでの日本人の暮らしは自然とうまく調和していたが、そのバランスが崩れ始

  めたのが室町時代である。


8.江戸時代の終わり日本人庶民のもっていた職能的な能力、商業の帳簿の組織などは

  非常に高度でヨーロッパ文明をまたゝく間に取り入れる事が出来た。

等が縦横に語られている。

       ー 網野善彦対談集 その2よりー

2018年

9月

11日

硯の話 その12 (完)

硯の話 その12
雲漢七星硯。
東京プリンスホテルで例年開催される骨董市で、もう20年以上に亘って催されており、友人が出店していることもあり毎年欠かさず参加している。

その骨董市で馴染みの硯店で大西洞水厳の七星硯を勧められた。硯面は温潤ですこぶる

石質が良く、鸜(谷に鳥)眼ークヨクガンーとみられる眼が7個並んでいる。大西洞は既に閉鎖しており、現存する大西洞硯も数は少なく、仲々お目にかゝる事の稀な硯であった。長さ22cm、5.9kgの堂々たるもので、こんな硯が未だ市中にあったのだとの感が深い。(1~303)

2018年

9月

11日

硯の話 その11

硯の話 その11
大振りの雲龍硯である。龍が全身、硯の左側に彫られており、この部分だけ黄色味を帯

びている。雲は立体的に彫られており、その細工に工夫がみられる。1-45

 

2018年

9月

11日

硯の話 その10

硯の話 その10 
明代の歙州石井田硯 1-51
安徽省に産する。「歙石は龍尾渓に生ず。その石は堅勁、大抵は発墨す。故に前世は多くこれを用い、金星を以って貴と為せり。手を以ってこれを磨するに索々として鋒鋩あるもの尤も佳なり」とある。歙州硯は端渓硯と並んで2大名石である。1-51

 

2018年

9月

11日

硯の話 その9

硯の話 その9  1-41、42
良い松花江緑石を探していたところやっと手に入った。中国東北地区の中心部を流れる黒龍江最大の支流で、吉林、ハルピン、チャムなど沿岸の都市と結んで北朝鮮との国境にある白頭山の天地に源を発して流れるのが松花江である。
清朝は北満女真族の後裔で、中国に於ける征服王朝である。清代前半の康熙帝、乾隆帝と
った英主が現れて、文化は大いに育った。特に康熙帝は清朝発祥の地吉林省より松花江緑
を得て、製硯を大いに奨励した為に「温潤なること玉の如く、紺緑にして瑕無し。

質は堅にして細、色は 嫩(どん)にして純、滑して墨を拒まず、渋して筆を滞らせず、能く松煙をして浮艶させる」と云わしめた。


康熙、雍正、乾隆3代に亘って採掘されたが大半は官制品で採掘の困難さと産出量の少なさから廃坑となり、伝世する松花江緑石の名品は希少であり、産出はない。
この硯は裏面に青銅尊の浮彫があり、鉄民の刻あり。

2018年

9月

11日

硯の話 その8

硯の話 その8 
蘭亭硯のあと引き続いて同店より端渓緑石の蓬莱硯が持ち込まれた。中国の神仙思想に説かれてる3神山の一つ東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山を模った硯で、硯の形として蘭亭硯と並んで代表的な様式である。

蘭亭硯に劣らぬ出来栄えで希望通りの硯2面が揃った。1-33、34、35

端 渓 緑 石 の 蓬 莱 硯 表、裏、側面

2018年

9月

08日

硯の話 その7

硯の話 その7
硯の収集の意識が明確になったのはこの硯の入手からである。
長年取引のあった書道用品店の主と酒を飲む機会があって、硯の話となった。その後1週間程たって我家にその店から一面の硯が持ち込まれた。一目みて驚愕した。二玄社で出版した5冊本「古銘硯」に載っていたような洮河緑石硯が目の前に現れたのだから。
(洮河緑石は現在端渓緑石とされている)12吋8kgの堂々たる端渓緑石「蘭亭硯」であった。1-48、49、50 

  洮河 
  中国甘粛省南西部を流れる黄河上流の1支流、一時採掘されてその石質の良さに
  大いに人気となったが洪水の為に採掘場所が不明となり、以降採出されていない
  幻の名硯である。

 

東晋の王羲之が永和9年(353年)3月3日、会稽の内史であった右将軍王羲之は謝安、許詢、孫綽等名士を会稽郡山陰県紹興の名勝蘭亭に招いて、子の玄之、献之ら一族も加え総勢42名で曲水の宴を催し、各自の詩27編を編んだものが蘭亭集であり、その序文を王羲之が書いたものが「蘭亭序」である。鼠鬚筆を用いて書いた蘭亭序は熱狂的収集家であった太宗の所蔵となったが、太宗の死後、遺命によってその昭陵に陪葬されたが欧陽詢、虞世南、褚遂良等によって写本が下命によってつくられ「定武本」等の臨書本や模本が現存している。

 

硯は蘭亭序を王羲之が書いている場面と曲水を表面に、裏面に柳と羲之が好んだ鵞鳥を彫し、側面には集った名士達を彫している。精繊でまことに見事な出来栄えで、多分清朝初期に官命で制作されたものであろう。
1965年秋から10年間に亘って中国全土を揺り動かした文化大革命は中国を未曾有の混乱に陥れた。従来の文化や権威を悉く否定され中国文化の粋、文房四宝も大打撃を免れることは出来なかった。多くが略奪、破壊されたのである。この硯も何とかしてこの嵐の中をくぐり抜けて日本に渡ってきたものであろう。その詳細は定かではない。

 

蘭 亭 硯 ( 表、裏面、側面 )

2018年

9月

08日

硯の話 その6

硯の話 その6
端渓の5福紋硯(1-53)鵞鳥紋硯(1-39)角浪羅紋雲月硯(1-36)と

集まってきた。

端渓 福紋硯

鵞鳥紋硯

角浪羅紋雲月硯

2018年

9月

08日

硯の話 その5

硯の話 その5
前述の骨董店で硯2面購入。氷紋の入った雲龍硯と(1‐325)馬尾紋の入った大西洞水巌の小さな硯である。(1-46)他に世尊寺行成の和漢朗詠集切れの軸とマチスの書簡も入手した。

雲 龍 硯

大 西 洞 水 巌

2018年

9月

08日

硯の話 その4

硯の話 その4
お茶の水の骨董店が集っていた一角に硯の店があり、素晴らしい硯が目にとまった。

端渓雲龍硯で石も彫刻も見事で思わず購入した。その後もこの店で数面買う事となる。
店主は良寛の研究家であり、日本の古美術にも特に書関係の造詣が深く何を聴いても感心するばかりである。1-44

2018年

9月

08日

硯の話 その3

硯の話 その3 
神田の著名な日本画材店で胡粉と辰砂等を購入した際に主の母親が店番をしていた。

話が弾んで、彼女はやおら店の奥に置いてあった箪笥をガタガタと開けて「うちの硯は安いよ」と云って数枚の硯を拡げてくれた。どれも仲々良い物ばかりとみえたが懐具合をみて、4吋に満たない円形の端渓雲龍硯で眼もある真に彫刻の細かく見事な硯を購入した。銘は「雙龍戯瑞之墨海宝硯」とあった。

2018年

9月

08日

硯の話 その2

硯の話 その2
文房具を主として扱う骨董店で明代制作と説明された端渓の6吋程で卵型の雲龍海馬硯を購入した。眼を有した本格的な古硯であり、しかもこの硯の拓本が添付されていた。作者は中国の篆刻家茅大容の拓であった。私の手にした始めての古硯である。308、307、317

始めて手にした硯 雲龍海馬硯 ( 表、裏、側面 )

2018年

9月

07日

硯の話 その1

硯の話 その1
30歳台半ばから書を習い始めた。8吋の羅紋硯を使用していたが、5年程して実用以外の硯を始めて購入した。10吋程の澄泥硯(ちょうでいけん)である。
今見ると焼成したものではなく、自然石で当時は澄泥硯であると評せられていた。
その後、硯作家明石良三氏と識る事となり、笠間の工房で氏の作る本物の澄泥硯をみる機会を得て制作過程も知る事が出来た。
先ず素材の土は中国から輸入、中国は黄砂の国で粒子が細かい土があって、殷時代の青銅器制作の鋳型はこの土あってこそ出来たのである。この土を桶に入れて良く撹拌し、沈殿したものは捨てゝ、水中に浮遊する更に細かい粒子の土を乾燥させて、これに接着剤となるべき物質を加えて成型する。これを天日干しにすること数ヶ月して、いよいよ焼成に入るが、釜の中で最初100度程で加熱し少しづつ温度を上げて焼いていく。硯の厚みから表面と中の部分の温度差で亀裂するのを防ぐ為だが、それでも3分の1は亀裂が入って商品にならない。
形は円形状の硯板が大半で、出来上がった作品は数年に1回の割りで麻布飯倉の会場(ウナックサロン)で展示販売された。決して安くはない値段であったが、いつもほとんどが完売であった。名前は「尋花澄泥硯」と銘打っていた。澄泥硯は過去に青木木米が作っていたとも云われるが、定かではなく、現代で澄泥硯を作っているのは中国でも、日本でも明石氏唯一人であろうと思われる。
私の手許に3面保有している。彼は硯以外の作品は作っておらず、その傍らで松煙墨を趣味的に造っていた。 No.614 

2018年

8月

23日

私と落語 (Ⅴ) 3代目三遊亭 円歌

私と落語(Ⅴ)3代目 三遊亭 円歌 

歌奴時代「山のアナ、アナ」で知られる「授業中」でフィーバーし、後年円歌となってからも高座に上ると客から「山のアナ」をやれとよく声が掛かったという。

 

生来の浪曲好きから自作の「浪曲社長」を始めとした新作落語を中心として活躍したが、その極めつきが「中川家の人々」である。

円歌自身の家族の話で、自分の両親、先妻の両親、そして料亭の女将である2番目の細君の両親計6人を引き取って共に一つ屋根の下で暮らした日常生活(老人達の)を噺としたもの、で老人達の生活は見方によっては老惨を曝すことになる為に、老人虐待ではないかとの批判も受けたそうである。

 

しかし老人達の日常生活を良く観察しリアルであるからこそ、客観的に聴くと真に面白い。

2018年

8月

17日

私と落語(Ⅳ) 3代目 桂 米朝

3代目 桂 米朝 本名 中川 清 1925年11月6日生まれ 2015年3月19日89歳没
1947年4代目桂米団治に入門。米朝を名乗る。上方落語の発展の為に尽力、落語研究者としても第一人者である。96年に人間国宝に認定されている。著書も多い。


1.はてなの茶碗
京の清水、音羽の滝の前に茶店があり、そこでお茶を飲んでいた大店の主とみえる客が、飲み終った茶碗をひっくり返したりして見ていたが「はてな」と云って立ち去る。

これを見ていた荷を担いでの油売りが、茶店の主に聞くと有名な茶道具屋のあるじ茶金であると云う。油屋はこの茶碗を2両で買うや、直ぐに茶金の店に持ち込むが、番頭に一蹴されてしまうが、奥から出てきた主茶金から3両で引き取ってもらう。

実はキズもないのにポタポタと漏るので「はてな」と云ったことが解るのだが。
これが町の評判となり大阪の豪商 鴻池善右衛門がこれを千両で買いたいと申し出る。

茶金は半分の五百両を油屋に渡すが油屋はこれに味を占めて、大きな水瓶の漏るのをみ

つけてくる。

 

2.宿屋仇
兵庫の威勢のよい3人組が宿屋に泊まる。宿屋の番頭伊八とのやり取りが面白い。

そこに武士が1人宿泊。3人は酒盛りで芸者も呼んで大いに盛り上がるがその騒ぎも武士から苦情が出る。一旦は静かになるが、暫くしすると忘れたように騒ぎ出す。一向に止まないうるさゝに業を煮やした武士はまた始まった隣室の源兵衛が話すのろけばなしから始まる2人の殺人に至る自分の諸行(実はうそ)を聞いて、実はその2人は自分の弟夫婦で自分はその兄であり長く仇を捜して旅していたと明かし、あだ討ちを申しでる。

明朝の出会仇を言い渡し、もし逃したら宿の者を皆殺しにすると脅す。まんじりともせずに朝を迎えた3人組と宿の人々を前に実は寝かしてもらう策だったと明かす。

 

3.質 屋 蔵
質屋の蔵に夜な夜な化け物が出るという噂が町に広まる。主人は番頭に確かめるように指示するが、これがいたっての臆病者で助太刀が欲しいと云う。出入りの職人で喧嘩自慢の熊五郎を頼むが、これも実は臆病者でそれでも2人で寝ずの番をするが夜も更けていよいよ化け物が登場する。・・・・・

 

4.菊江仏壇
上方落語の中での大ネタである。道楽息子が嫁をもらうが直ぐに飽きて遊びを始める。

嫁はこれを苦にして病に伏して実家に養生の為に戻るが、息子は勿怪の幸い遊びにはげむ。船場の大店の親旦那は嫁をいたわり、息子の極道を責めるが実家で嫁は病死。

一度も見舞いに行かなかった息子は行くに行けずに父親のみ駆けつけるが、息子は親父の留守に店に芸者等を大勢呼んで店の者も合せてドンチャン騒ぎを繰り広げる。

そこへ親旦那が帰ってきて・・・・・・・・

 

5・地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)
何んと云っても米朝の噺でこれを外す事は出来ない。実に1時間を超える大作である。

終始賑やかにお囃子、鳴物が入る。よそから大きな鯖をもらって、3枚に下ろし片一片は戸棚に納めて、それを刺し身にして一杯飲んでゴロッと横になり気が付いてみると前に行く者、後から来る者は各々額に三角の布を当てゝいる。そこへ大金持ちの若旦那が出てくる。遊びたいだけ遊んで、もうやる事もなくなって、一つあの世へでも行って遊ぼうかと云う事となり、取り巻きの芸妓、舞妓から料理屋の女将から太鼓持ちまで、大勢がこれのお供となり、ふぐの肝を皆で食べて地獄にやってくると云う咄である。

 

米朝はこれら上方の噺を中心に語るが古くなって誰も語らなくなった噺を丹念に発掘して、新しい解釈をして高座に乗せている。
東京に押されてすっかり衰退していた上方落語の復活に精力を注ぎ、上方ことばの柔らかさで、噺に深みを持たせて、上方落語を今日に復活させた大功労者である。
噺はいづれも知性に溢れて、品も良く、無理なく構成され上方落語の面白さを全国に知らしめたのである。ー 米朝は80話、全集 ー 
若くから親しんだ志ん生、圓生、文楽、正蔵、米朝のCDは100枚を超えて手元にあり、日常的に聴いており、現在は米朝を聴く事が圧倒的に多い。

 

2018年

8月

12日

第159回 芥川賞 受賞作品 読む

高橋弘毅希作「送り火」

舞台となるのは津軽地方のいくつかの町や村が合併して、新しく出来た市で、商社務め

の父親の転勤に伴って移住して来た15歳の少年歩が主人公となっている。

転校してきたのは3学年の全生徒が13人の歩達3年生の卒業と共に廃校となる運命の学校である。そこに切れ長で一重瞼の少年晃がいてクラスを頭脳と力で支配しており、頭の良い都会育ちの歩に対して、保護者的態度をとるのだ。

この物語の進行は以前どこかで読んだ誰かの作品に酷似しているのを思い出す。

戦争中都会から疎開して来た成績の良い少年を、それまで頭脳、腕力共に優れてクラス

に君臨していた大人びた少年が、転入生の少年を表面温かく、厳しい鄭重に扱うが・・・という物語であった。

物語が進行するに従い晃の隠れた暴力的性向がかいま見え、担任の先生もそれを察知して

歩に実情をそれとなく聞き質す。晃は肉屋の息子稔をターゲットにして陰湿ないじめを

くり返し、、やがて突然残忍な終末を迎えることとなる。銭湯からの帰りの風景を「河辺りは鉄柵で区切られており、柵の向うは5m程の護岸壁となっている。河はその護岸の

底を流れる。対岸は急竣な山の斜面と繫がっておりおり、谷底を流れる川にも見える。

村の落葉樹は裸の梢に萌黄色の葉を僅かにつけたばかりで未だ隙間が目立った。

夏になれば、この山は緑の堆積を増すだろう。等作者は入念に町の佇まいや風景を細部に亘って克明に語り、その視点は登場人物にも及んでおり、物語の世界に読者を引きずりこむ。やがて訪れる破局を予感させるのだ。作者の筆力は認められるが、几帳面で穏やかで礼儀正しい日本人がいざ戦争に突入するや、恐るべき蛮行を振って大量虐殺を行った現実が厳然として存在しており、日本人の心の底に潜む残虐性を書きたかったのであろうか、定かでない。

 

 

 

2018年

8月

12日

私と落語 (Ⅲ) 8代目 林家 正蔵

第3回 8代目 林家 正蔵 本名  岡本 義 
              1895年5月16日生まれ 1982年1月29日没 86歳


1925年5代目古今亭今輔と落語革新派を起すが、間もなく解散。1950年7代目林家正蔵から一代限りで8代目襲名。

7代目正蔵死去に伴って名前返上。林家彦六に改名している。


上野稲荷町の4軒長屋に住み、下町住いの稲荷町の師匠として親しまれた。曲がった事が大嫌いですべてに筋を通すことから若い頃は「トンガリ」と渾名された。
寄席に通うために利用した地下鉄の通勤定期は私用で出掛ける時は通勤ではないとして切符を買ったという。


正蔵落語は一点、一画、疎かにしない楷書芸でっ滑稽咄のほか、人情咄、怪談、芝居噺など芸域は広かった。「中村仲蔵」「一眼国」等、何度聴いても面白い。

2018年

8月

10日

私と落語(Ⅱ) 6代目三遊亭 圓生

第2回  6代目4三遊亭圓生    1900年9月3日大阪生まれ。


母さだが橘家円蔵門下の三蔵と結婚。円蔵死去に伴って5代目円蔵襲名。

義父円蔵は25年1月圓正の大名跡を継いで5代目圓生襲名。圓生は6代目円蔵となって以後16年間円蔵時代が続くが人気は低迷した。1940年1月義父圓生死去、41年5月6代目圓生を襲名する事となる。
1945年5月志ん生と共に仕事で旧満州に渡って程なく終戦。1947年春にようやく帰国。4月中席から寄席に復帰した。苛酷な体験からか圓生の芸は生まれ変わったように注目を集めるようになる。53年ラジオ東京専属となって放送落語ブームに乗った。

人情噺や大ネタ落語の第一人者としてその名声は上ったのである。

1965年落語協会の長となり、74年圓生落語百席の録音に着手、77年10月に完了した。( LP30巻90枚 )79年9月3日録音修正編集作成に参加し、最終立会い、後3週間を待たず仕事先の習志野市で急逝した。79歳であった。

 

どの作品も完成度が高いが特に大ネタの「品川心中」「中村仲蔵」「文七元結」は見事という他ない。

「中村仲蔵」の中で仲蔵が芝居の定九郎の工夫がつかずにいるうちに蕎麦屋で浪人に出会うを圓生は従来の解釈の旗本ではおかしい、浪人とするのがふさわしいと考え、どんなに零落しても天下の旗本に破れ傘を貸すのは不自然と判断している。

またサゲも圓生の考案である。また定九郎の型と手順については6代目尾上菊五郎の著書「芸」を読み込んでおり、口演に当っては竹本土佐広に依頼して定九郎と与市兵衛の掛け合いのところの義太夫の節をじっくり検討している。


しかし圓生の真骨頂は人情噺「真景累ヶ淵」であろう。宗悦殺しから聖天山まで延べ8時間43分の長丁場である。


『 深見新左衛門が皆川宗悦を殺害しその祟りが妻女を斬殺、狂乱の末斬り殺され、家はとりつぶされる。その長男新五郎は父に愛想をつかして出奔、家の廃絶を知り自害しようとして下総屋惣兵衛に助けられ奉公、お園に恋して誤殺。小塚原で獄門となる。

新左衛門の次男新吉は家廃絶の為門番堪蔵の甥として育つが、小唄師匠豊志賀の愛人となるが、新吉の裏切りにあって死に怨霊となって新吉にとりつく。豊志賀の弟子お久は新吉との仲を豊志賀に疑われ新吉と故郷の羽生村に逃れる途中、豊志賀の怨霊にとりつかれた新吉に鎌で殺される。美男の新吉に◎文の名士のお累は惚れて世帯を持つが新吉に疎まれ自害する ・・・・』と物語りは複雑に進行し絡み合う。まさに演者の腕のみせどころで
あり、圓生は息もつかせずに聴く者を彼の世界に引きづり込むのだ。美しい色気が漂い一分の隙もない風格があり、今後も圓生を凌ぐ演者が現れるのは想像出来ない。


圓生は落語を一流の芸術に高めた功労者である。圓生は後年、道場では負けるとは思わないが野戦では志ん生にかなわないと述懐している。

 

2018年

8月

05日

私と落語 (Ⅰ) 5代目古今亭 志ん生

小学生時代、ラジオで盛んに落語を放送していた。3代目三遊亭金馬の歯切れの良い解り

やすい話や、5代目古今亭今輔の新作落語のお婆さんものを楽しんで聴いていたが、何と

なく物足りないものを感じていた。
暫くして5代目古今亭志ん生や 6代目三遊亭円生を聴くようになり次第に落語の魅力に取り憑かれるようになった。

 

 取り上げる落語家は 下記の4人 8月5日のブログから順次掲載予定

   ◎ 古今亭 志ん生 ◎ 三遊亭 円生    ◎ 林家 正蔵  

         ◎ 桂 米朝          ◎ 三遊亭円歌 

第1回  5代目 古今亭志ん生 本名美濃部孝蔵

 

1890年6月5日神田亀住町の長屋に生れる。父の名は美濃部戌行、母は志う。
その5男である。1908年次男死没、3人は98年民法施行されて以前に死没しており、
戸籍に載っていない。

美濃部の本家は3千石の旗本で孝蔵の祖父は分家で800石、小石川水道町に大きな屋敷を構えていた。ちなみに1万石以上が大名、旗本は200石以上。それ以下は御家人と云われる。明治維新で明治6~8年にかけて秩録処分にあい財産没収。旗本クラスで50石。

 

当時100万円で家が買えた時代に200万円程が支給された。祖父は本郷の切通しに立派な家を建てたが父が連帯保証の借金で家を売り亀住町の裏長屋に引越し、二等巡査の役人

となった孝蔵は下谷尋常小学校を4年で中退。10才頃から酒の味を覚え、博奕の面白さにのめり込んで親は心配して、京城(現在のソウル)へ印刷工として送るが日本に舞い戻って15歳で家出、遊び歩いた。

しかし好きな落語から「天狗連」に入り、三遊亭円盛に「どことなくフラがある」(どことなく他の人にないおかしさがある)と云われ彼の口利きで三遊亭小円朝の弟子となる。以降19回芸名を変更している。

 

前座時代、道具入り芝居噺を継承した。頑固者8代目林家正蔵、洗練された名人芸で「富久」「明烏」などが当り役の8代目桂文楽などが同世代で皆住居もなく、食うや食わずの惨憺たる生活振りであった。1945年5月には円生と共に仕事で旧満州に渡っている。


芸名甚五郎あたりからやっと人気が出てきて1957年には落語協会の長となった。
1961年12月15日贔屓の頼みを二つ引き受け上野の料理店で一席やってから高輪のプリンスホテルの巨人軍の優勝祝賀会の余興で、気のりはしなかったが飲み食いが始まる前ならと条件で已むなく承知したが、川上監督の到着が遅れて、主催者の挨拶が終り志ん生が高座に上ると司会者の「どうぞ召し上がりながらお聴き下さい」の言葉で参加者はバイキング式テーブルに群がった。とても一席演ずる状況ではなく動揺した志ん生は話の途中自分が何を喋っているのか解らなくなって倒れた。脳出血である。入院した志ん生は脳の血管が切れたのと一緒に、長年の酒で胃壁が破れ、生死の境をさ迷って戻り、62年2月のある朝目が醒めて「おい、どうした」再起第一声ある。窓の外は雨であった。


同年11月11日72才で11ヶ月振りの新宿末広の昼席、高座に復活した。
高座に上った志ん生はしばらく黙っていたが「永らく起きられなくて、何しろ2ヶ月ばかり世の中の事が分からないという事があった。あちらの方に行きかけたが、地獄の入口で断られ、おめえもう少し喋ったらどうだ、と云われ帰って来た」が高座第一声であった。73年9月21日84才で没した。

 

満州から帰国後のこと柳橋の料亭に呼ばれ余興に「冬の夜に風が吹く」という大津絵を唄ったら突然小泉信三がハンカチを目に当てて落涙した。

それ以来、三田の家にも広尾に移ってからも毎年呼ばれるようになったが落語のあとは大津絵を唄うきまりが出来て、小泉信三はその度にハンカチを眼にあて、家族も集まっている中で嗚咽を漏らした。

「志ん生さんの大津絵は声に哀れがあって好きなんですよ」と云っていた。

『冬の夜に風が吹く、知らせの半鐘ガジャンと鳴りやこれさ女房、わら出せ、刺し子、

襦袢に火事頭巾48組おいおいにお掛衆の下知をうけ、出てきや女房じ、そのあとで、うがい手洗にその身を浄め、今宵うちの人に怪我のないよう南無妙法蓮華経、清正公菩薩、ありやりやんりゆうとの掛け声で勇みゆく、ほんにおまえはままならぬ、もしもこの子が男の子ならおまえの商売させやせぬぞえ、罪じゃもの』
うがい手洗いから清正公菩薩までを何度もくり返して唄う、誠に哀愁に溢れた唄である。

 

高座でも志ん生はほとんどお辞儀をしなかった。
何を喋るか分からない持ち演目は200以上、小噺まで入れると300に及んで、その演ずる時間は定まらない。15分のものを30分のものを10分に、気がのらなければ途中で降りてしまう。「二階ぞめき」「蛙の女郎買い」等の廓ものが絶品で、話し始めると客をまるで江戸時代の落語の世界へ誘い込んだ。志ん生以外にない独得の世界であった。

生涯借家暮。40才台半ば4子の志ん朝が生れて、名前を志ん生に変える頃まで酒を飲、博奕をうち、女郎買いをするいわゆる飲む打つ買う家計のやりくりはすべて妻のリンの内職に頼っていたのである。

 

「志ん生一代」結城昌治作の解説の中で山田洋次が書いている。

『 志ん生が始めて服を着たのは紀元2600年の祝典に参加する時だったそうである。

すでに軍部によって支配されていた政府はこのインチキな建国スローガンの下に国民を戦争に巻き込む為の大キャンペーンを展開したのである。志ん生たち寄席芸人もこの記念式典に参加する事を強制され、無理矢理買わされたぺらぺらのカーキ色の国民服というものを着てみたが、なんとも似合わないことおびただしい。しかも初めて履いた靴が痛くて仕方がない。「愛国行進曲」を唱いながらゾロゾロと歩くうちにすっかりくたびれてしまって仲間の「おれんちに寄ってちょっとナニをやるか」ナニとは博奕なのだが、志ん生はその言葉に二つ返事で数名の仲間と共に行列から抜け出してしまい、宮城前に東京中の各団体が集まって整然と隊列を組んで「天皇陛下万歳」を叫んでいる頃、博奕に負けてその国民服を巻き上げられていたというのである。まことに非国民である。カーキ色の服に軍靴を履いて宮城に向かって行進するなどという事は全く性に合わなかったのである。

それが志ん生という人の、あるいは志ん生のように芸に生きる人たちの偉さ、素晴らしさなのである。アメリカとの戦争が始まると落語界にも積極的な人が出て来て時局に便乗した軍国調落語が流行しだしたのだが、志ん生は決してそんなものはやらなかった。
彼の芸はそんな怪しげなものを受けつけなかったのである。志ん生の姿に似合うのは安物であっても着物に下駄であり、その声にふさわしいのは俗曲であり廓噺であり色であり酒なのであった 』と。

 

2018年

7月

31日

庭の花 はす つぼみから開花へ

 

 蓮の花 つぼみ。自宅に植えてから4年目。やっと一輪が咲いた。

 (7月24日のブログご参照)つぼみが開花しました。

2018年

7月

24日

柴又グランドで打上げ花火 

江戸川の河川敷で花火は打ち上げられた。観客は夏草の生い繁る堤防の坂に座って観賞するのだが、東京では例年先頭を切って行われ、規模は大きくないが見物客は多い。
今回は新葛飾橋を渡って松戸のゴルフ場内で見物した。

10年程前は数人しか見物人は居なかったが、今回は2~3百人が集まっていた。奇麗な芝生に寝ころがってのんびりと観る事が出来、川面に映る風情もあって、すこぶる楽しい場所である。

 

例年南西の太平洋からの海風が吹いて、松戸側は煙も渡ってこず、煙で花火が妨げられる事もないのだが、今年は始まって40分過ぎた8時頃から南東の風に変って、松戸側に煙が流れて、花火の塵も降って来た。あっと云う間に付近は煙に包まれたが、それでも尚、これ以上ない状況で楽しむ事が出来た。

気が付けば30年以上に亘って殆んど毎年参加している。

 


2018年

7月

23日

庭の花々

ミニトマトの花 ナス科の一年生の果実   ミニトマトの実              


         ミニトマトの実 

 木 槿 アオイ科の落葉大低木

溝 萩(ミソハギ) 禊(ミソギ)萩の意

 

   スイレン科の多年草

擬 宝 珠 (ギボシ) ユリ科の一属

女郎花(オミナエシ) オミナエシ科の多年草 秋の七草

          漢方では根を乾して利尿剤とする

2018年

7月

20日

かつての名歌手シリーズ第2回 ハンス・ホッター

ハンス・ホッター
フィッシャー・ディスカウの歌を聴いてドイツリートが好きになった。

シューベルトの「春の想い」「音楽によす」「ミューズの子」等そして「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」CDで何度聴いた事であろうか。リートはシューベルトに極まると思っていた。


以前ハンス・ホーターを爺くさい感じで好きになれなかったが、最近改めて聴いて何と印象が全く異なるのに驚いた。あの面白味のない甘くもなんともない、バスに近いバリトンの歌声がジーンと来るではないか。特にシューマンの「誰がお前を悩ますのだ」「なつかしいざわめき」「新緑」を歌うハンス・ホッターの深く低い声は歌の総てを表現するという風でもなく、内容を暗示するかの如き歌唱で若い時代に理解出来なかったのは当然であろう。


シューマンはさしたる悲愴感もなく、大ホールで歌うにふさわしないが、情感こまやか
にひっそりと歌うのがふさわしとみえる。
ホッターならではの名演である。

 

2018年

7月

03日

かつての名歌手シリーズ第1回 岡 晴夫、三橋 美智也

岡 晴夫

戦後並木路子が歌う「リンゴの歌」が爆発的に日本中に拡まった。

外地から帰国した堀田善衛は帰国した日本での革命的状況を予想していたが「リンゴの歌」が流れるのをみて「これは駄目だ」と即座に判断したと云う。徹底的に破壊された

日本国民の生活は未だ復活の目処もたゝず生活は困窮していた。
その時代に登場したのが岡晴夫であった。彼の代表歌は「憧れのハワイ航路」で

     晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音たのし 
     別れテープを笑顔で切れば 望み果てない 遥かな潮路
     あ ゝ 憧れのハワイ航路             と唄う。


当時の日本は外貨保有はほとんど無く、まして観光旅行で外国に行く為にドルを使う事

など不可能な時代でハワイ旅行等夢のまた夢であった。
多くの日本人は苦しい現実を忘れて岡晴夫の歌に一瞬を夢みたかったのである。
岡晴夫の歌は鼻にかかった甘い声で思い切り良く歌い切る特徴をもって、当時絶大な人気を誇っていた。
1950年姉に連れられて行った当時の浅草の国際劇場の演奏会には長蛇の列が出来て、人気の凄さを示しているた。出演者は岡晴夫、田端義夫そこに20才台前半の高峰秀子がピンクのワンピースを着て「銀座カンカン娘」を唄ったのを覚えている。


岡晴夫の唄う時代は紙テープが雨のように乱れ飛んで観客の亢奮はピークに達していた。
キングレコードに所属していた岡晴夫はSP盤を出す際、会社に「レコードを買う人は私の歌を聴く為だからB面も私の歌にして欲しい」と申し入れた。当時B面は人気のない歌手またはこれから売り出したい歌手をのせるのが通常で、A・B面とも同人とは他に例がなかったと云われている。
しかし、日本経済が立ち直りつゝあると共に人気も急速に失われていった。

三橋 美智也

1930年 北海道函館市生まれ 民謡歌手から歌謡界に入り「おんな船頭唄」1955年)が大ヒット、スターダムにのし上がる。翌年の「哀愁列車」が代表歌 
    " 惚れて~、惚れて~惚れていながら行く俺に
      旅をせかせるベルの音 辛いホームに来は来たが・・・・・”


戦後朝鮮戦争の軍事特需を機に復活を始めた日本経済は、地方の中卒者を「金の卵」と呼んで大都市に安い労働者として送り込んだ。
この時期から出稼ぎも増え、彼等が故郷を出て幼なじみ、恋人、家族と離れ望郷の念に駆られ、また故郷に残る人達は離れた家族を思い心配する心情を三橋美智也の歌は強く揺さぶったのである。


民謡で鍛えた喉はハイトーンのボーカルで、現代の森進一や五木ひろしのように独得の声と情感溢れるテクニックの歌唱と異なり、高音の美声とテクニックを弄さない歌い方はストレートに聴く者の心に直接訴えかける力強さを有している。
また都会的でない歌声も魅力の一つであった。
この歌声はディ・ステファーノやマリオ・デル・モナコに通ずる処があるに思う。

2018年

6月

25日

スロバキア・フィルハーモニー管弦楽団 2018 東京公演

                          サントリーホールにて


1.1949チェコ・スロバキアに創立されたスロバキア最初の国立オーケストラである。
指揮はチェコ生まれのチェコを代表するレオシュ・スワロフスキー
   本日の演奏
        1)スメタナ「わが祖国」より「モルドウ」
        2)ドボルザークのチェコ協奏曲 
          演奏は日本芸術院会員でもある堤 剛
        3)ドボルザークの交響曲第9番「新世界」より
          スメタナもドボルザークもチェコ生まれの作曲家

          で19世紀後半に活躍した。

 
2.1526年ハプスブルグ家のフェルディナントがチェコ、ハンガリーの王となり後に神聖ローマ帝国の皇帝となる。以後ドイツ人の皇帝が君臨し、その支配は第一次大戦まで暗

黒時代が続くのである。
1867年オーストリア・ハンガリー協約後第一次大戦までの間圧迫強化の為、79万人が

アメリカに逃亡している。1918年大戦終了後、チェコ・スロバキアの独立宣言あり、長く続いたハプスブルグの主権は排除される事となった。

1933年ナチス台頭により独立は犯され、政府はロンドンに亡命、1945年4月ファシズ

ムからの解放されるが、今度はソヴィエトの圧力のもと1990年まで苦しむ事になるの

であう。

 

3.4スメタナもドボルザークもハプスブルグの支配のもと呻吟した時代に生きた事を除いて考ることは出来ない。
独立と自由を渇望したチェコ・スロバキアの人々にとって彼等の作る音楽は民族を団結

させる上でも大いなる力となった事であろう。

 

4.演奏会は「モルダウ」が始まるやいなや民族の希望やその思いが横溢し、聞く聴衆
を魅了した。そして「新世界」である。分かりやすく又民族色豊かな旋律はチェコの
指揮者、演奏家達によって、彼等でしか奏でられない音色で聴衆を大いに盛り上げた。



2018年

6月

20日

銀座ハヤシ画廊で土井 豊展みる

メルヘン的小品ばかりの展示である。

土井氏は元中央区の教員であり、関係者からのお祝いの花が飾られていた。

葛飾区の美術会会員である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真下 右 土井氏

    左 ハヤシ画廊 林 正道氏

2018年

6月

20日

鳩居堂にて26回 国際架橋書会 選抜展みる

2018年

6月

20日

銀座ギャラリー あづま にて 小野寺正光展みる

展示の大半は「矢切の渡し」でその他数点は花が展示されていた。

小野寺氏は葛飾区美術会会員である。

2018年

6月

19日

銀座 和光 6階 で福田千恵展みる

                             福田千恵さんは葛飾の人で芸術院会員である。

                             今回の作品群は花を中心として、一部人物と

                             いう構成で花の美しさは流石である。

2018年

6月

19日

国立新美術館でルーブル美術館展みる

目玉作品となるヴェロネーゼの「美しきナーニ」を始めとして110点の展示である。
アングル、ボッティチェリ、レンブラント、ベラスケスも1点でづつあったが、いづれ
も精彩を欠いていて、工房で作られたのではと疑問を持った。

さてベラスケスの肖像画は工房で作られたものであるが、ベラスケスの特徴ある色彩の調和とも云うべき、その作品の肖像画の人物を描く範疇を超えるような色彩の美しさは展示作品には見えない。
レンブラントの絵に表わされる絵画を通じてその人物の人生の苦しさ等がにじみ出ていて、それがレンブラントの魅力となっているが、展示された聖母子親子像には見るものを捉えて話さない雰囲気を感ずる事が出来なかった。

 

かって小学生の頃日本に始めて来たルーブル展は東京国立博物館を5列で取り巻き、5時間並んでの入場だった。中でもルーベンスの「王女メディア」の大作に圧倒された。

ギリシャのイオールコスの王子イアーソーンは伯父に簒奪された王位の返還の条件として黒海の地コルキスから「黄金の羊皮」を奪ってくることを要求される。
イアーソーンはコルキスに赴き、コルキス王女メディアの愛の協力もと「金の羊皮」の奪取に成功。メディアを連れてコルキス脱出を図る。船で逃亡を図るイアーソーン、メディアを父王が船で追うがそれを阻止せんとしたメディアは同行した弟をバラバラに切り刻んで海に投げ、これを拾う父王の手間どる間に逃げるのである。
イアーソーンは勝気で嫉妬深いメディアに嫌気がさして裏切るのだが、その復讐の為にメディアはイアーソーンとの間の子供を殺害するのである。
ルーベンスはそれを200号(?)程の絵に描いている。メディアが今まさに子供を短刀をもって殺害せんとする場面である。

そのあまりの迫力と美しさにしばし呆然として絵の前にたゝずんでいた事を今更のように思い出す。小学生ながら、その物語を何かで調べた記憶が残っているのだ。


またオランダの国立美術館でみたレンブラントの「夜警」での感激は今回にはなかった。

2018年

6月

15日

庭の花々

  未 央 柳  

  アガパンサス ユリ科の一属名 アフリカに4種分布する多年草

  キクイモ キク科の多年草

  ハ  ス ハス科の多年生水草

  半 夏 生 ドクダミ科の多年草

  サ ル ビ ア シソ科 サルビア属の総称 低木性の多年草

2018年

6月

14日

私の好きな歌手 その8. マヘリヤ・ジャクソン

9.マヘリア・ジャクソン
マヘリアを始めて知ったのは映画「ニューポート58」(真昼の世の夢)を観てから

だった。
ジャズに全く関心がなかったが映画の中でチコ・ハミルトンやアニタ・オディを聴いて

いるうちに次第に馴染んできた。トリに出てきたのがマヘリアで「こんなに拍手されると、まるでスターになった気分です」と語り、観客の笑いを誘った。
野外に作られた仮設ステージで「夕べの祈り」から唄い始めると、その圧倒的な歌声と

深い音色は観客の魂を揺さぶる素晴らしいもので、黒人独得の微妙な節まわしは、日本

民謡をも思わせたて、たちまち私もその田舎の太ったおばさん風のマヘリアの虜になっ

てしまったのである。
マヘリアは「ゴスペルは希望の歌です。人々はゴスペルを歌うことによって哀しみや苦

しみを癒すことが出来ます」と語っている。彼女はナイトクラブの舞台やTVのお笑い番組には一切出る事はなかった。

2018年

6月

10日

6月10日 国会前大行動

戦争させない、9条壊すな、総がかり行動実行委員会主催、9条の会外21団体が共同して雨の中2万7千人の人々が集った。

政党も立憲民主党福山哲郎幹事長、共産党小池書記局長、社民党吉田党首が登壇し、決意表明は10数人の各団体の代表が立ち、各人が安倍政権の無法振りを生々しく語った。

  集会の感想は
1.昔は多かった労働組合組織の参加が少なくなったこと。
2.若者の参加が少ない事。
3.集会で必ず繰り返される政治的に方向付けに誘導するようなシュプレヒコール
  には参加する個人、個人の意志を尊重する観点から見ると何となく違和感を覚え
  るのは私だけであろうか。

私達は家族等6名で参加した。

2018年

6月

04日

庭の花々

紫 陽 花


 

柏葉紫陽花

ツルバキヤ

ツ ツ ジ

       ソ バ ナ

ケムリソウ

2018年

6月

03日

私の好きな歌手 その7. エリザベート・シュワルツコップ

6. エリザベート・シュワルツコップ
我家に8枚のCDがある。シュワルツコップは1915年12月にポーランドのヤロット
に生れた。ウィーン国立オペラの先輩エリザベート・シューマン(1927~49年録
音のシューベルト歌曲集のCDがある)がいて2人のエリザベートと呼ばれた。
曲に対して理性的な態度と洗練性は他の歌手と異なり、また情緒ににやゝ溺れがち
になる主観的な歌唱と一線をかくす。緻密で繊細な歌いぶりからリートの現代的歌
唱はフィッシャー・ディスカウとシュワルツコップによって完成したと言える。

モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人や同じく「コシ・ファン・トウッテ」
のフィオルディリージ等のドイツオペラは一つの典型と見ることが出来る。
伴奏者のジェラルド・ムーアはこう語っている。「あんなにうっとりさせるような
容姿をもち、同時にあんなに美しく歌える人がいるなんて、私には全く不公平なこ
とに思える。しかし彼女の容姿は神の賜物だが歌手としての名声はひたすらな努力に
よって得られたものだ」と。

2018年

5月

26日

「背教者ユリアヌス」辻 邦生著(中公文庫全4巻)

コンスタンティヌス帝がローマからコンスタンテノポリスに遷都する大事業の中心となって働いた腹違いの弟ユリウス・コンスタンティウスはコンスタンティヌスが先帝リキリウスやマグネンティウスを弑逆した事を悪として認めながら協力して来た。
皇帝が野心の為に妻も子供も殺す、友人を裏切れば親も売り飛ばす、彼のまわりは血の海だ。野心と冷血と忘恩に憑かれた怪物なのだと語る。皇帝は先妻ミネルヴァとの間に生れたクリスプスの政治、軍事の才能を恐れてこれを殺害、6人の子をなした後妻ファウスタ
を義理の子クリスプスとの間を疑って殺害しており、コンスタンティヌスの治世25年の後半はまさにユリウスの述懐通りなのである。

 

ディオクレティアヌス帝による数度に亘るキリスト教徒迫害令以来の弾圧政策からコンスタンティヌス帝によるキリスト教解禁に続く半ば国教化政策によって、宮廷内は徐々にキリスト教徒に席巻されて行く。大帝の死去に立ち会ったニコメディアの司教エウセビウスはユリウス一派が反キリスト教であり後継者の権利者であることから、帝亡きあとキリスト教の公認が取り消される事への恐れからコンスタンティヌス帝の死亡前に洗礼を受けたとし、大帝の言葉として長男コンスタンティヌス2世をガリアにコンスタンテウスをティグリス源流にコンスタンスをイタリアに各統治とした。


エウセビウスは大帝の死は病死でなくユリウスによる毒殺であるとの噂を流し、ユリウス一族は皆殺しとなるがガルス、ユリアヌスの異母兄弟は幸運にも殺害を免れる。

ローマ帝国西部を担当したコンスタンティヌス2世はローマ帝国中央部を担当した3男コンスタンスに殺され、更にガリアで叛乱が起こりコンスタンスも殺害される。

 

ひとり皇帝となった次男コンスタンティウスは後釜としてガリア出身の将軍ヴェトラニオンを副帝に任命したが、実利的で猜疑心の強い彼は謀判の罪を着せてヴェトラニオン父子を殺害する。ガリア出身の副帝殺害によってガリアの皇帝への反感は強まり、これを抑える為に、半ば幽閉していた従兄弟ガルスを呼び寄せ、お目付役として皇帝の妹コンスタンティアをガルスと結婚させてガリアに副帝として送る。コンスタンティア死去に伴って皇帝はガルスを殺害。残る唯一人の従兄弟ユリアヌスを後釜として送るのである。

 

幽閉されて学問に励んでいたユリアヌスは350人程の少人数の軍隊を宛がわれて赴任するが、予想をこえて軍事的才能発揮し、行政的手腕も優れてローマ帝国中・西部を安定させる。

これに警戒心を抱いたコンスタンティヌスはガリアから大量の軍隊をコンスタンティノポリスに派遣するように命令を出すが、これにガリア人は激しく反発し、ついにユリアヌスを皇帝に担いでコンスタンティウス帝と対決する事となる。

ガリアを出発し、コンスタンティノポリスを目指し進軍する軍事的勢力はコンスタンティウスの軍の10分1にみたなかったがユリアヌスの進軍の途中でコンスタンティウスは突然病死。元老院の承認を得てユリアヌスは新皇帝となる。

 

税金の大幅縮少人事の改革など積極的政策を実行していくが「キリスト教容認令」も出して、キリスト教の手厚い援助や従来の国教化を廃し、旧来のローマ神教の復活を図るが深く浸透したキリスト教はこれに頑強に抵抗する。

 

やがてユリアヌスはペルシャとの戦争に出陣するが、ペルシャ軍兵士の放った投鑓で志半ばで若くして死亡する。キリスト教徒はキリスト教を擁護し、国教化したコンスタンティヌスを大帝と呼び、キリスト教徒でもないユリアヌスをキリスト教の特権を剥奪したとして背教者と呼ぶのである。

 

辻邦生は各々の人物をコンスタンティウスをギョロッとした灰色の目と表現し、大司教エウスビウスを浅黒い、ぬるりとした感じの顔とし、親友ゾナスを金髪のくちゃくちゃの髪とし、ユリアヌスを顔をガクガクと動かして登場する度に形容詞として使って読者に一定のイメージを与えようとしており、安易な方法である。

 

ギボンのローマ帝国衰亡史にはコンスタンティヌス帝についてこう述べている。

「コンスタンティヌス帝と息子達にとって多事な時代であり、帝国の衰亡を早めた。

コンスタンテノポリスに本拠地を定めたのは強力な自然の要害と商業交易の利点、気候

は温暖、地味は肥え、港は広濶とその選択の正しさを認めあっているが新都の為にギリシャ、ローマや他の都市から悉く財宝、装飾品を召し上げ、納税者市民の税負担はルイ15世時代の4倍に達した」。


巨大化したローマ帝国は延びた防衛線を守る為にその軍隊を属州から報酬を支払って確
保、やがて将軍も属州から大半が選ばれる事となり財政は逼迫、また「帝の晩年の14年は宮殿に貯蓄されていた夥しい財宝は湯水の如く乱費、その貪欲と浪費は止まる事を知らなかった。統一されたものはすべて分割、傑れたものは一切弱体化、従順なものばかり誤信した。小心、怯懦の政策が大帝の全制度を貫いていた」。

 

また「キリスト教公認は帝の最大重要事であった。40歳頃まで伝統的宗教の信奉者であったが、その後カトリック教会と結んだ連携関係は一つに利害観念に基づき帝の野望達成を助けていたにすぎないとし、信仰集団の結束的精神は民衆指導者にとり、十分大きな力となりうるとし忠実な支持者達と増大される目的である」と手厚く保護されたキリスト教は従来の伝統的宗教を抑圧し、またキリスト教内部で教義をめぐって激しい内部抗争を繰り広げた。


肥大した官僚と軍隊への支出も相俟って財政危機は深刻さを増し、属州出身の軍隊も統
制が難しくなる等、西ローマ帝国の衰亡を早めたのである。ユリアヌスは税金を従来の3分の1に減らし、キリスト教への特別扱いを廃止してローマ帝国の建て直しを図ったが若くして戦場で倒れたのである。

 

2018年

5月

23日

私の好きな歌手 その6. フェリッチョ・タリアヴィーニ (テノール歌手)

その7.フェリチョ・タリアヴィーニ

1913年8月生れ。1942年「セヴィリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵でデビュ
ー、ベニャミーノ・ジーリの後継者と目されたベルカントのスペシャリストである。
無類の親日家であり、1954年5月来日、翌年10月愛妻で歌手のピア・タッシナーリ
を連れて来日2人だけの舞台で共演している。
1959年に来日し、「愛の妙薬」ネモリーノが歌う「人知れぬ涙」を歌っている。
軽妙なベルカントの甘い歌声で「愛の妙薬」のネモリーノ役はまさに嵌り役で、彼
以外にこの役は考えられないほどである。これでもかと美声のかぎりを尽して歌う
その歌はイタリアオペラそのものと思える。

2018年

5月

19日

オナガ くる

オナガが庭のシャラの木に巣を作り

始めた。残念ながら巣作りは失敗し

巣だけが残った。

2018年

5月

15日

松本竣介展、良寛展、旧古河庭園 を見る

松本 竣介展

新聞に載った小さな案内を見て、文京区本駒込5丁目の「ときの忘れ物」で展示され
た松本竣介のドローイング約10点をみる。皆小品ばかり。
10年程前まではA4版で120万程であったがその半分で、内容も薄かったが150万~
200万の値がついていた。30代半ばで夭折し、その後高い評価を受けるようになり、
最近になって人気も高まり、価格も高騰してきたのであろう。
代表作に「立てる像」がある。

こころのふるさと良寛展みる

永青文庫で4月21日~7月11日迄 前・後半に分けて展示されている。


良寛は18歳の時突然出奔し曹洞宗光照寺の禅僧となり4年間修行。その後国仙和尚と出会い倉敷市玉島の円通寺で修行に入る。30歳頃に住職の隠居所である庵室を与えられ、諸国行脚の旅に出る。39歳でふるさと越後に帰郷、翌年燕市国上山の中腹にある五合庵に住庵。こゝに20年孤棲。托鉢に出て近所の人々と交流する。しばらくして友人や親戚が援助を始め、書道に力を入れるようになる。


五合庵時代に熱心に懐素の「自叙帳」を学んだ。また小野道風の「秋萩帖」も臨書
している。
1816年59歳の時乙子神社草庵に移る。ここに10年間住庵。書や和歌、俳諧、漢詩などの多彩な作品が生れてくる。この時代懐素の「千字文」を学んで、更に孫過庭の書も学び一段と品格の高い作品を作るようになる。


晩年に至って、その線は一層細くなり、幽玄の境地を示すようになる。宗教的修行と絶え間ない学習、世俗の欲と一切隔離した中で、何ものにもとらわれない自由で伸びやかなでかつ品格を備えたこれ等作品を生み出したのであろう。

 

永青文庫は足の便も悪いこともあってか、入場者は疎らであって老人(男)ばかりの
入場者であったが、思う存分観賞することが出来たのは有難い事であった。

旧古河庭園みる

バラで有名だが予想より早くバラの盛季が過ぎていたが、70歳以上の入場料が70
円である事もあってか老人の入場者が多かった。

2018年

5月

04日

私の好きな歌手 その5. 鮫島 有美子 

日本の唱歌、歌曲については音羽ゆりかご会の会唱等で音楽的に質が低いと長い間評価

されてきた。その中で中沢桂や倍賞千恵子がやっと孤塁を守っている状況であった。
何とかしっかりとした日本歌曲が聞きたいものだと思っていたところ1982年2月たまたまレコード店で購入したのが鮫島有美子の「日本のうた」だった。

それは従来のクラッシック歌手の発声や発音のバタ臭さが全くない、自然でしかも格調の高い歌声に魅了された。

 

生れて始めてのファンクラブなるものに入会。会員名簿の中に元首相の小渕恵三の名があり、住所は衆議院会館であった。会員は500人程いたであろうが鮫島有美子から全員に年賀状と暑中見舞が律儀に送られてきた。会報も年に4~5回出されていた。

 

金泥の書と佛画を描く等作品をつくるときには100枚程所有する落語と彼女のCDをいつもかけていたのである。


鮫島有美子は1952年生まれ、75年オテロのデズデモナでデビュー。82年にドイツ ウル
ム劇場の専属歌手となり85年「日本のうた」でレコードデビュー、その後の活躍は目を見張るものがある。


以後日本の歌シリーズ、日本の抒情歌、イギリス民謡、アメリカ、ロシア民謡、アメリカンラブソング、ミュージカルナンバー、シャンソン、映画音楽、シューベルト、ブラームス、マーラー、リスト、モーツアルトの各歌曲集、モーツアルトアリア集等多岐に亘って50枚に及ぶCDを世に出した。

 

中でも私が気に入っているのは「日本の歌」第2集の中の「お菓子と娘」「浅き春に寄せて」「曼珠沙華」「さくら横ちょう」「水色のワルツ」が出色である。

又映画音楽の中の ” 会議は踊る ” の「たゞ一度だけ」 ” 歎きの天使 ” の「また恋したのよ」 ” リリー・マルレーン ” の各ドイツ語で歌う3曲である。

 

舞台は92年に「夕鶴」のつう、” 漂泊者のアリア ” で砂原美智子役で「ある晴れた日に」を歌い、メリーウイドゥで主役のハンナ・グラヴァリー夫人がある。

芝居では95年「オセロ」のデズデモナ役で平幹二郎、村井国夫と共演している。

 

東京で催されたリサイタル、舞台はほとんど足を運んでいるが日本語、英語、ドイツ語、フランス語の美しさは云うまでもなく、語りの日本語も美しい。

2018年

4月

29日

庭の花々

 酢漿草(カタバミ) カタバミ科の多年草

 

 紫 蘭 (シラン) シラン科の多年草

 

 姫 女 菀 (ヒメジョオン)キク科の多年草 

          同属の春紫苑(ハルジオン)と間違えられることが多い。

 

  露 草 (ツユクサ) ツユクサ科の一年草 

 

     泡 盛 升 麻 (アワモリショウマ)ユキノシタ科の多年草

2018年

4月

28日

韓国・北朝鮮 両首脳が板門店宣言

韓国と北朝鮮による南北首脳会談が行われ、朝鮮半島の「完全な非核化」と「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」に署名した。
非核化の実現に向けけた具体化は米朝会談に持ち込まれたが、歴史的な出来事であったことに変りはない。

 

世界的に注目されたこの会談はトランプ政権を始めとして総じて歓迎されたが、日本を始めとして懐疑の表明もみられた。会談は入念に考えられて進行し、両首脳の熱意が良く表れたもので、特に叔父や側近を次々と処刑し兄も暗殺した冷酷な独裁者と世界中から見られていた金委員長が、年長を立てる、相手の話を良く聞き交渉術にも長けて政治的能力も充分持ち合わせた頭の良い今後米国とも交渉の相手になりうる人物である事を世界に知らしめた。冷酷な独裁者の反面、気配りと政治戦略に長けて、かつ懐の深さを示した。


日本の保守的論者の中には「この宣言は欺瞞であり騙されてはいけない、これまでさんざん裏切られて来た。中距離ミサイルも放棄しなければ日本にとって何の意味もない」との意見も出されている。

しかし従来幾度となく約束を破ってきた北朝鮮であることは確かであるが、アメリカの言
いがかりにより突然のイラク全面攻撃や、9.11によるイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢
軸と呼び、テロ支援国家と認定し、圧倒的な軍事力を背景に、意に反する国を攻撃するアメリカに、核を持ちICBMを早く装備して対処しようとした北朝鮮のみを非難することは出来ない。

その為に自国の国民の生活を始めすべてを犠牲にして核武装に走って時間を稼ぎ、やっと実のある交渉がアメリカと出来ると踏んでの方向転換であろう。

 

言うまでもなく1.経済制裁によって自国の経済が瀬戸際に来ている事。
2.アメリカの国力が低下し世界の警察官の役割を返上しつゝある事。
3.韓国の文在寅大統領に替わった事。等が大いに幸した事であろう。

これらの事を踏まえての金委員長の戦略的方針のしたたかさが見えてくる。
北朝鮮の後戻り出来ない現状の中での本気度を表わしているのは明らかで、今回の宣言の意味する事は極めて大きいとみるべきであり、朝鮮半島の非核化が現実味を帯びてきたとみる。


一方の安倍政権は一貫して圧力一辺倒できたが、外国から経済的圧力を受けた戦前の日本が戦争に突入したのを忘れたのであろうか。

北朝鮮の核問題を国難として、憲法改定の絶好のチャンスとしてきたが、これが大きく
崩れてさぞかし残念なことであろう。日本が朝鮮半島問題から外されて蚊帳の外に置かれ強いてはアジアからの孤立もしかねない状況だ。

 

2018年

4月

27日

松田宏子さんから本戴く。

松田宏子さんから本戴く。(小学生時代の思い出)

近所にお住まいの松田さんから母親千代さんの書いた本人の思い出を綴った文章を松田さん姉妹が本にしたものだ。


千代さんの父親は愛知県小坂井の岩田長左衛門さんの次男として生まれ、東京で一旗あげるべく上京、金町に居を構えた岩田長作さんである。妻のふじさんとの間に長女春子さん、次女房子さん、三女千代さん、四女喜代美さんの四人の娘達である。

石田邸は金町にある数少ないお屋敷の数少ない一軒で敷地は600坪、築地塀に囲まれ、見事な日本庭園が設けられて、中に形の良い百日紅の大きな木があった。敷地内に長作さん
隠居用に建てられた木造2階建ての洒落た建物があったが、戦中、戦後の数年は二女の福谷房子さん一家4人が戦火を逃れて疎開して来ていた。

 

私が小学入学1、2年の頃、房子さんの長男幸一さんと親しくなって福谷家に出入りするようになった。母親の房子さんは小柄で、色白、細面の美しい人で遊びに行くと、白いポットで紅茶を淹れて呉れた。当時金町中で子供にそんな応対をして呉れる人も、白いポットも紅茶もお目に掛かる事がない時代だあったのである。それだけに私にとって強い印象が残っている。

 

長女の恵子さんは私の姉の同級生で3才上、色浅黒く、親分肌で子分を引き連れて幅をきかす頭の良い生徒であった。それだけに腺病質で頭もあまり良くない消極的な弟が歯痒いらしく、心配もしていた。
私が入学したのは昭和22年で、校庭に日章旗を掲げる台や奉安殿の壊した跡が瓦礫として残っていた。坊ちゃん刈で半ズボン、靴を履いてベルトを着けていた幸一さんと、母親の着物の細帯をベルトと替わりに、下駄を履き、父親の戦地帰りの背嚢を使用していた大半の男子生徒と、もんぺと上っ張りと下駄が定番であった女生徒との差はあまりにも大きく、幸一さんは当然の如く他の生徒から完全に遊離していて阻害されたのは止むを得ない事であった。

友達もいなかったのを見て、子供ながら義憤を感じて友達としては面白くなかったが、親しくなったのである。子供でもこの子にはメンコ、ビー玉、ベーゴマ等を持ち出すのは控えたのは学校で禁じられていたからでもある。福谷さんの二階には壁ぎわに厖大なクラッシックを中心として美空ひばりまで多岐に亘るSPレコードが父親のコレクションとしてあり圧倒された。

 

2年程でクラス替えもあり又福谷家の引越しもあって疎遠となり、交流は全く途絶えて
しまった。恵子さんはその後東大医学部に進み医者になったが、幸一さんのその後は親戚の人達とも付き合いがなく、消息は不明との事であった。

 

さて三女の千代さんであるが、昭和3年境野七五三男さんと結婚。岩田長左衛門さんの妹疋田初さんの願いを聞きいれ、廃家再興なり境野、岩田から疋田姓を名乗る事となる。
新居は岩田邸近くに木造平屋建の家を構えて疋田七五三男と墨書した表札を90年に亘って一度も書き替える事なく掲げ続けた。当時は下見板を張った木造平屋が大半で、抜けた節穴がコウモリの巣となって夕方になるとこゝから飛び出した蝙蝠が空を乱舞していた。

 

千代さん夫妻には宏子さん、和子さんの二人の娘がいて宏子さんは旧岩田邸近くに住んでいる。30年程前に岩田邸も等価交換のマンションに変って味気なくなって仕舞った。

戦時立法であった相続税はそのまゝ続行され、金町に数軒あったお屋敷も相続税の為にほとんど無くなって、歴史を感じさせる建物もなくなるのは残念である。何とかならないものであろうか。

千代さんは平成29年3月20日98歳で天寿を全うした。

2018年

4月

25日

私の好きな歌手 その4 マリオ・デル・モナコ 

その4.マリオ・デル・モナコ  (テノール歌手)

1917年7月イタリア フィレンツェ生れ。
さゝやかにデビューしたのは13歳。20歳の時にカヴァレリア・ルスティカーナの
「トウリッド」で正式にデビュー。甘く美しく歌う歌手ではなく、悲劇的な役柄が似
合う歌手といえる。「黄金のトランペット」と謳われた声は、特に「オテロ」「アン
ドレア・シェニエ」等にその魅力を遺憾なく発揮し、輝かしい歌声は当時のテノー
ルの人気をスティファーノと2分した。
カルーソーやジーリにみられたくずした歌い方はモナコやスティファーノにも色濃く
残っており、そうしなければ明らかにしえなかった何かを表現したかったのであろう。
1959年来日「オテロ」を上演した。デズデモナを歌ったのは新人のカヴィリウェラ・
トウッチで大柄で目の大きい歌手であり、予想外の健闘振りで、特に「柳のうた」は
彼女の実力の一端を見せた。この公演の成功によって一躍スターダムにのぼりかけた
が、抜きん出た歌唱力、舞台映えに今一つ欠けていたか、大成する事はなかった。

1961年再来日したモナコはレナータ・テバルディと「アンドレア・シェニエ」を熱
演した。2回の来日時は彼の絶頂期であり、見事な舞台であった。
モナコとデ・スティファーノは明日を考えないで歌う、その時はその歌に命をかけて
歌った歌手であり、その姿が聴く人々を感激させ、熱狂させずにはおかなかった源
であった。今は職業化した歌手のみで、命がけで歌う歌手は存在しない。

 

2018年

4月

21日

福田財務次官セクハラ発言

森友、加計学園問題や自衛隊の日報問題、公文書の改竄等々で内閣支持率が低下するなか、週間新潮で女性記者にセクハラ発言を繰り返したと報じられて、福田淳一事務次官

が辞任を申し出た。


麻生財務相の報道機関に対して高を括た高圧的態度でこの事件の圧殺を図ったところ、19日未明、テレビ朝日の篠塚浩取締役報道局長が会見を開いて、女性社員が福田淳一次官からセクハラを受けていると上司に伝え、この事実を報道すべきだと相談したが、本

人が特定され、二次被害が心配されることなどを理由に「報道は難しい」と伝えたこと

を明らかにした。この為社員は「責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に

出なければ、今後もセクハラ被害が黙認され続けるのではないか」との思いから週刊新

潮に連絡、録音の一部も提供したとして公表、財務省に抗議文を提出した。

ついで今日は財務省の記者クラブ「財務研究会」は18日抗議文を同省に提出。

日本新聞労働組合連合会や日本民間放送労働組合連合会も抗議声明を出した。

 

先進国の中でも言論、報道の自由が急速に低下し、各国から懸念の声すらある中
でのテレビ朝日や記者クラブの今回の行動は報道機関の矜持を辛くも守ったという
ところだ。


特筆すべきは週刊誌の果している独自の役割である。女性記者が週刊新潮に持ち
込まなかったら又テレビ朝日がこの事件を公表せずに、財務省に抗議してもこれ程
に問題にならなかったであろう。女性記者の決断は見事であった。
安倍首相は事有るごとに「膿を出し切って」と発言するが、膿が本人であることに気
が付かないであろうか。

2018年

4月

21日

日経新聞 夕刊 より

「北朝鮮の金正恩委員長は核実験と大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射を21日から中

止し、豊渓里の核実験場を破棄すると宣言した」と報じた。
これに対し小野寺防衛相は20日北朝鮮による核実験停止などの決定について「日本にとっては中、短距離の弾道ミサイル放棄がなければ意味が無い。満足いくものではなく

不十分だ」と指摘した。その上で「現時点で国際社会の圧力を緩めるタイミングではない」とワシントンで記者団に述べた。


言うまでもなく北朝鮮の今回の宣言が不十分であるのは誰が見ても分かることである。
しかし」国際社会に対しての公約であり、その意味するところは大きな前進であること
は疑いないところだ。小野寺防衛相の発言は総ての北朝鮮のミサイルと核が廃棄されな

ければ評価に値しないともとれる。今回の宣言は全く意味がないとの見解である。


アメリカ、英、仏のシリアへのミサイル攻撃等日本の外交はアメリカ一辺倒でありトラ

ンプ大統領と100%一致していると公言して憚らない。


世界の先進国と言われる国の中で首都圏に外国の軍事基地があるのは日本だけで、沖縄

は完全に米軍の支配下にあり人権も主権も著しく侵されており独立国とは言いがたい現

状であり、戦争と平和に対する日本の働きかけも核廃絶への取り組みも全くない。
小野寺防衛相の発言は日本政府の無策振りを良く表している。

2018年

4月

16日

高友社書展、 官公書道連盟役員展 (上野の森美術館)

高友社書展 第40回記念展

 

学生部を除いて130点を超える作品展である。
仲々の力作揃いであったが、全体的にやゝ力みすぎの感あり。

 

官公書道連盟役員展  41回展

 

知人の金子静雲氏の作品を見る為に参館した。
展示作品の出来にばらつきがあった。
展示の中に金泥作品が1点あったが金墨汁を使用していたのは戴けない。
品格が疑われる。

2018年

4月

16日

洗心書作展 

有楽町朝日ギャラリー 
第23回 細字書作展である。 

前会長新倉禾亭氏が細字名手であった事からその流れを引き継いでいるようだ。主宰新倉禾扇氏は葛飾現代書展の会員。

2018年

4月

12日

私の好きな歌手 その2.キルステン・フラグスタート(ソプラノ歌手)、その3. デュゼッペ・ディ・スティファーノ(テノール歌手)

2.キルステン・フラグスタート(ソプラノ歌手)
1895年7月12日ノルウェーのハーマル生れ。1962年12月7日死去。
父は指揮者、母はピアニストである。
1913年オスロ国立劇場で「低地」のヌリ役(子供)でデビュー。1933年にバイロ
イト音楽祭に出演。34年ジークリンデとグートルネに抜擢され一躍第一級のワグナ
ーソプラノとなる。
1935年が歌劇場でワルキューレの練習に際して、彼女が歌い始めたその瞬間、そ
の余りの歌唱の素晴らしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジー
クムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまったと云う。

第2次大戦後夫のヘンリー・ヨハンセンと共にドイツ占領軍に加担した罪を問われ
たが、全くの事実無根の事であった。1947年から再び、演奏活動を開始した。

私が聴いたのは多分1950年3月スカラ座のライブ録音であったろう。1955年の事と
記憶している。フラグスタートの声は透明感と高貴で、しかも巧みな表現力はまさ
に「神に声」であると評されるにふさわしく「ブリュンヒルデ」は彼女の為にある
役であった。
私が就職した時、初回のボーナスは3、500円で、暮れのボーナスは9,000円であっ
た。先ず買ったのは「指輪」の内「ワルキューレ」であるが、東銀座デパートのレ
コード店には「ビルギット・ニルソン」盤しかなく止むなく購入したが、満足でき
るものではなかった。「電蓄は大分あとに買い、やっと聴いた」。

55年あたりからは高音部が苦しそうになり、痛々しい感はしたが、それでも「神の
声」は健在でソプラノで誰が好きかと問われゝば、文句なくフラグスタートを上げ
るに躊躇しない。


3.デュゼッペ・ディ・スティファーノ
1950~60年代のイタリアオペラ黄金時代を代表し、人気を2分した2大テノール
はマリオ・デル・モナコとディ・スティファーノであった。
1946年デビューするや、あっと云うまに世界的スターとなった。

現代の歌手には見られない、ためらいのない自信に満ち溢れた、甘い高音と直接心に
訴えかける情熱溢れる歌声こそスティファーノの特徴であった。
彼の唄う「トスカ」の「星も光りぬ」は友人の政治犯アンジェロッティを助けた罪で
トスカに横恋慕する警視総監スカルピアから死刑宣告されたカヴァラドッシが処刑を
前にして、トスカとの愛の日々に思いを馳せて切々と歌う。これこそスティファーノ
の真骨頂である。助命を願うトスカにスカルピアは助けてやる代わりに自分の思いを
受け入れるように迫る。裏切られたことを知ったトスカはスカルピアを刺し殺して、
自分は城壁の上から身を躍らすのである。

このトスカをマリア・カラス(このドラマッチックな役は彼女にふさわしい)カヴァ
ラドッシをスティファーノ、スカルピアをティト・ゴッピで上演されCDも出ている。
過去にも将来にもこれ以上望むべくもない陣容であった。

1952年のメキシコ公演のライブ録音があり、ドサ回りのせいかカラスも音を度々外
しており、スティファーノに至っては、自分の好きなように羽目を外して歌っている。
その気持ちの良さそうな歌い振り、このやりたい放題にみえる「リゴレット」が観客
の反応と相俟って、実に楽しい。大好きな一枚である。カラスとの共演が多く、多く
のオペラ全曲の名盤を残している。
そのスティファーノが最も輝くのはイタリヤ民謡で、この分野では他の追従を許さな
い。皆魅力的だが、特に「彼女に告げてよ!」は素晴らしい絶品である。
日本にも3度来て1974年の来日で「星も光りぬ」を歌ったが、既に往年の輝きは失
われていた。私生活でも遊び人であったようで、自分の生きたいように生き、何処で
も歌いたいように歌って生きた人で音楽家で現在こんな人物はお目にかゝれない。

オペラで世に出る前に、ニーノ・サローリオの名でナポリを中心にレビューやショー
で歌っており60年代後半にはウィーンでオペレッタにも出演している。

 

2018年

4月

09日

庭の花々

 鯛 釣 草

 

 牡 丹

2018年

4月

07日

大場 秀章先生、ディビット・ビュフォード先生来訪

ビュフォード先生、昨年11月以来の訪問である。今年の4月にも来日の予定との事で

心待ちにしていた。今年はビュフォード先生念願の岩手の花巻あたりを大場先生と共に

探訪したらしい。

カミさんが岩手一関の出身で花巻にも親戚がいる事から、話が盛り上がった。

丁度10日も早く藤、牡丹が咲き始め、日暮れ寸前であったが見て貰う事できた。

次回はまた11月頃の来日予定。


2018年

4月

07日

庭の花々 

  6分咲き 例年より10日早く咲き始めた

 

 (上)藤と突抜忍冬(つきぬきにんとう)微かに丸葉の中央から花の茎が突き抜け

                              ているのが分かる

                        (下) 突抜忍冬 アップ

 マーガレット

 

 (上)牡 丹  7時頃 咲き始め  藤と同様例年より10日程開花が早い

                    (下)同 9時頃 八分咲きとなる

  (上)白牡丹 7時頃 咲き始め

                     (下)同 9時頃 八分咲きとなる

2018年

4月

05日

新シリーズ 私の好きな音楽家(歌手編)その1  デートリッヒ・フィッシャー・デスカウ

はじめに
1950年代半ばにバイロイト音楽祭で「ニーベルングの指輪」全曲を録音で聴いて以来、
声楽好きとなって今日に至った。(途中20年のブランク)
20世紀は名歌手を多く輩出した。この不世出の歌手達と同じ時代を生きたことに今に
なってこの上ない喜びを感じるのである。
ここで名歌手達のほんの一部だが振り返ってみたい。

 

1. デートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ(バリトン歌手)
1925年5月ドイツ シェーレンドルフ生れ。2012年5月18日死去
音楽家の両親を持ち、1947年復員後大学のホールでブラームスの「4つの厳粛なる
歌」でデビュー、その後の活躍によって「戦後最高のバリトン」と折り紙をつけら
れるに至る。以来ヴェルディ、モーツアルト、ワーグナー、グノー等のオペラ、バッ
ハのカンタータ、ブラームスの「鎮魂ミサ曲」等に亘る歌曲、ベートーベン、ヴォ
ルフとしらみつぶしにすべて研究。向うところならざるものなしの快進撃を続けた。
中でもリートは素晴らしい。リートの巨人といえばフィッシャー・ディスカウとエ
リザベート・シュワルツコップが世界に屹立する存在であるのは衆目の一致すると
ころ。シューベルトの「冬の旅」は5回に亘って録音されている。
1955 ,1962、1972年(いずれも伴奏はジェラルド・ムーア)。
1965(イエルク・デームス)、1979(ダニエル・バレンボイム)。
私の持っているのは62年と72年(ムーア)である。どちらかといえば62年37歳の
時の歌唱が好きである。甘い美声にも拘らず、極力これを抑制して歌っているが、
抑えても沁み出してくる若者の苦悩が、72年の完成期に比べて心を打つのだ。

私の持っているシューマン「詩人の恋」録音1974年1月
      クリフトス・エッシェンバッハ指揮 マーラーの「さすらう若人の歌」。
76年4月     フェルトヴェングラー指揮「亡き子をしのぶ歌」。
62、78年 ウイルヘルム・ケンプ伴奏 シューベルト「美しき水車小屋の娘」。
61年  ジェラルド・ムーア  ファウエルコンサート 67 があるが、
あと1枚「シューベルト歌曲集」ザルッブルグ音楽祭ライブ録音(ジェラルド・ム
ーア伴奏)がフィッシャー・ディスカウを最も知る事の出来る1枚であろう。

 

2018年

4月

04日

庭の花々

  

 

 大 手 鞠

 

  鈴 蘭

2018年

4月

03日

庭の花々

  ムスカリ ユリ科ムスカリ属

 

  山 吹  バラ科の落葉低木

 

   チューリップ ユリ科の球根植物

 

  宝 鐸 草  ユリ科の多年草 漢名 淡竹花

 

     韮 花

 

    ドウダンツツジ 

 

       楓 若葉

 

      菫 (すみれ)

 

  大 手 鞠

2018年

4月

02日

ミホ ミュージアム、佐川美術館みる 

Miho ミュジアム
滋賀県甲賀市のミホ・ミユージアムで春季特別展みる。
1997年11月個人コレクション2000点を展示すべく建設された。茶道具から仏教美術、
陶磁器等の日本の古美術を中心に世界の古美術も加えた収集品である。
建設はI ・M ・ ペイで、ペイはルーブル美術館に建設したガラスのピラミッドで物議を
醸した事で知られている。
展示品の閲覧者からみると、設計者にありがちな奇を衒った建物で、作品を見ることを
全く考えていないのではないか思わせる造りとなっている。
さて特別展は「猿楽と面」が3月10日~6月3日で開催され、平安時代から安土・桃
山時代の古面が350点程で、中世の人々が熱狂したであろう猿楽の世界を垣間見る
事が出来る意欲的な催しであった。

 



佐川美術館
滋賀県守山市に佐川急便創業40年周年を記念して開館されたもので、常設の平山郁夫、佐藤忠良、当代楽左衛門を中心に収集されている。
今回はその他に神聖ローマ帝国ルドルフ2世の「驚異の世界展」を展示している。
プラハに宮廷を構えたハプスブルグ家のルドルフ2世は稀代の収集家として知られており、その収集品の数々を展示している。やはり目を引くのは奇想の画家アンチンボルド

の絵画であろう。

 

2018年

3月

25日

第94回白日会展、ルドン「秘密の花園」展みる

第94回白日会展をみる。(3/21~4/2) 国立新美術館で開催 

準会員の北澤浩さんの作品を見るためである。
大正13年創立した白日会は写実を標榜し、見えるものを通して見えないものを描く
を理念とした。会長は中山忠彦で彼も例の通りの婦人画が出展されていた。
700点に及ぶ作品の水準は高く、特に婦人像に優品が多いと感じられた。

 

ルドン「秘密の花園」展(2/8~ 5/20)
丸の内三菱一号館美術館で開催 

中心はドムシー城に飾らていたグラン・ブーケ(大きな花束)と パステル画と食堂に飾られた15点の壁画(油彩)ある。
しかし黒の時代の一連のリトグラフや木炭/紙の作品群が素晴しい。
油彩は「若き日の仏陀」や「オジーヴの中の横顔」「花の中の少女の横顔」等人物が魅力的である。晩年の芥子の花を中心とした花瓶の花シリーズは文句なく美しい。


中高生の頃姉が購読していた「婦人公論」の口絵にヨーロッパ絵画シリーズが連載されていた。中にビュッフェの20歳半ばの作品、身体の衰えて目がかすむ「老いたピエロ」があり、エルンストの前面に蔓草が生

い繁り、後方に月光に照らし出された過去に繁栄を誇って今は崩壊した都市「廃都」。

 

他スーチン、キリコ、モンドリアンそしてルドンの「ゴヤ頌」が掲載されていたがルドンの特異な黒の中に強い色彩を感じていた。
一連のこの口絵によって絵画の目を開かれたのである。


さて展覧会会場は入場者も少なく充分堪能することが出来た。
ルドンが一般的な作家でない事や、会場がさほど知られてない事もその理由であろう。

長年の念願が叶って有難かった。 

 

  「グラン・ブーケ」 NHK日曜美術館より

 


2018年

3月

22日

北魏の書 「張猛龍碑」

1. 漢帝国内の知識人勢が清流派の有力者司馬壹恣(字は仲達)は漢帝国の衰退により魏の傘下に納まり、やがて丞相となって実権を掌握。子孫の司馬炎は魏の王位を簒奪。蜀、呉も平定して晋帝国を建国した(265年)。-死せる孔明生ける仲達-で知られる。
以来北方民族の侵略を受け続けた晋は遂にモンゴル系遊牧民に滅ぼされる。
420年南朝、423年北朝建国。南北朝時代始まる。

 

2. 晋滅亡の頃中原にいた有力な豪族達は難を避けて揚子江の南に移住し、中原に止まっていたのは実力のない者ばかりで北方民主族に虐げられて、衰えきっていた。

 

3. 江南の南朝は有力な豪族が築きあげてきた財力を基礎として洗練された文化を引き

ついできたのである。
南朝は ① 宗(420年~479年)、斉(479年~502年)、梁(502年~557年)、

陳(557年~588年)と続いて梁時代には百数十万人の人口を数えていた。
南朝は門閥貴族の全盛時代で建康(現在の南京)を都として、天然の資源に恵まれた土

地を有して奢多的で修篩的な文化が栄えた。東晋時代の王義(羲)之の洗練された高雅

な書は南朝の貴族の好みに適合しており、書のみならず芸術一般の価値が高く評価され

た時代でもあった。
中でも梁の武帝が王子達に習わせる為に王羲之の筆跡の中から重複しない文字千字の模

本を作らせて、これを「韻文になるように順序だてよ」と周興嗣に命じて作らせた「千

字文」であり、これは現在でも、繰り返し書の手本として使用されている。

 

4. 一方古い西晋の残骸を継承した北魏は対立する南朝との交流が禁止されたこともあ

り特異発展をする事となった。6代皇帝孝文帝は494年都を平城から洛陽に遷し、鮮卑

の旧習慣を禁じ、風俗、姓名も中国風に改め百官の俸禄制度を始める等の官僚体制を急

いだ。
イ) 3長制、-5家に隣長。5隣に里長、5里に党長を定める。
ロ) 均田法の制定。土地を耕作者に均分し土地所有を維持しようとした。この制度は唐に
  至って租調庸などの課役の規定のもととなって、支配体制の中心となるのである。

 

中国風の官僚体制のもとで、各地に配置される軍隊を担う役割は鮮卑族となり、彼等は

冷遇されて反乱のもとゝなった。孝文帝は文化人であり、又熱烈な漢文化の賛美者であ

り渇望者でもあったのである。

 

5. 龍門石窟はその漢化政策の一端として洛陽郊外に多く造られて以来唐代中頃まで

200年程造られ続けた。

 

6.   ●南朝は陳時代に滅亡(588年)   ●北朝は北周時代に滅亡 (581年)

 

7. それにしても北方モンゴル民族に支配されながらも、文化的に彼等を中華文化の継

承者とする中華文化の水準の高さと懐の深さに改めて驚かされるのである。

 

8. 南朝に比して北朝北魏の書は豊富な資料に恵まれており、清朝中期以降に多く発見

されて来た。文化的に隔絶された感のある北魏の書は独得の進化を遂げてきて
  イ.碑  ロ.摩崖  ハ.造像記、墓誌 等に多く残っている。
良く知られたものとしては張猛龍碑(522年)、高貞碑(523年) があり、張猛龍碑は

北魏の魯郡の太守張猛龍の徳行を頌する為にたてた碑で、清時代に入って碑学が盛んに

なり、北魏の代表的名品と評価されるようになった。

力強い直線的な書は魅力満点で、私も一時懸命に臨書にに励んだものだ。

個展に数点展示もしている。


又鄭道昭の鄭羲下碑(511年)は本人が石質を選んでおり磨滅が少なく、他に山東省に

登雲峯山、論経書詩、観海童詩 等数件の碑文が残されている。いずれも美しく、臨書に挑戦したが、むつかしく断念している。

 

2018年

3月

04日

庭の花々 

福 寿 草

枝 垂 梅

 クリスマスローズ

 侘 助

 有 楽 椿

2018年

2月

25日

殷代金文 亀の腹甲に刻字

人形を中心に左右に向い合う馬、また

下に豚と見える動物を配して、更に

「父丁」の二文字を添えている。

 

 

至徳無名称泰伯 大年在昔伝老彭

 

軍事に関した殷代金文

 

帝己且丁父癸鼎

 

 

   

  中字眞觥

  

  中字眞引作用 文交丁尊彝〇

2018年

2月

23日

金子 兜太氏 死去 2月20日

急性呼吸促迫症候群にて死去 (享年98歳)
旧制高校時代句作を始め、「寒笛」主宰の加藤秋邨に師事。帝大卒業後日本銀行に入行

、翌年海軍士官としてトラック島で終戦を迎え職場復帰する。

銀行復帰したが長い間地方を盥回しされた。その傍ら社会俳句に取り組み、以後一貫して俳句革新運動の中心となってきた。
反戦への強い思いから平和運動にも深く関り、最近では安全保障関連法案反対への揮毫

を依頼されて「アベ政治を許さない」と肉太の書を公表した。
その後のデモで多くの参加者がこの書をプラカードにして掲げている。


朝日俳壇の選者を87年から30年間に亘って勤めた。

「彎曲し 火傷し爆心地の マラソン」 兜太 

尚、日銀の自分の気に食わない人物を盥回しにするやり方は70年代後半にまでも続き、私の友人も北海道、九州盥回しされていた。

2018年

2月

18日

「溺れるものと救われるもの」 著者 プリーモ・レーヴィ                        朝日新聞出版

「大戦前のドイツで大量虐殺の予兆がないわけでなかった。ヒトラーは初期の本や演説
ですでにユダヤ人が人類の寄生虫であり、害虫を駆除するように抹殺すべきであると明
確に語っていた。しかし、まさに不安をかきたてるような推測はなかなか根付かないの
である。極限状態が来るまで、ナチの(そしてファシズムの)信徒が家に侵入してくる
まで、その兆候を無視し、危険に目をつぶり、都合のいい真実を作り出すやり方を続け
ていたのである」以上引用


被害者のユダヤ人達もまさにレーヴィが指摘したように、危険を察知して国外に脱出を
図るなどの対処を行うことなく、自分に都合の良い現実を過大に作り上げて何とか安全
幻想を捨てられなかったのである。一方の加害者の一般ドイツ人達も、ナチスの危険を
知りながら、これに目をつぶり、ユダヤ人排斥のナチスの方針を見ない振りをして、こ
れを受け入れたのである。

 

レーヴィは『アウシュヴィツは終らない』がドイツで発売さ れる事が決ったとき、「私は彼等(ドイツ人)を鏡の前に縛りつけて無理矢理にでも読んでもらう積もりだった。

アウシュヴィツの解放から15年しかたっておらず、この本を読む人は虐待した者、虐待に同意したもの達であったのだ。ほとんどの人が目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐんで

いた。ほとんどの人が卑怯だった」と。

 

他人事ではない。日本人の大多数は第2次大戦での日本は被害者であったと認識してお
り、アジアを中心として侵略者であり大量虐殺者であった事に目をつぶっている。


私が現職のサラリーマンであった頃、会社の経営陣は理不尽な行為を半ば公然と行って
おり、労働基準監督署も違法行為を見てみぬ振りをしていた。
労働者側も中間管理職を中心としてこれに無批判的に無条件に迎合し、女子社員は羊の
如くこれに従ったのである。職場の中に人権も個人の尊厳も存在しなかったのを実感し
た。日本の社会に民主主義は形ばかりであったのである。

 

2018年2月号の「図書」の中で柳広司が大人の流儀ーV・スウィフト「ガリヴァー旅行
記」でこう書いている。「最近は物分かりのよい大人や年寄りが多すぎる。ニコニコと

人のよい笑みを浮べ、世の中に不平不満の声を上げる訳でもなく、健康に気をつけ、

気の会う仲間とつるんで旅行する、美味しい物を食べ、温泉に入る。極楽、極楽。

年金もたっぷりもらえるし、株価も上った。今の若い人は大変だわね・・・」


スウィフトがもし今日の日本の状況をーフクシマやオキナワで起きている問題から目を
逸らし、国を挙げてオリンピックにうつゝを抜かしている有様を、反対意見を表明して
いた者たちまでが、「決ったからには仕方がない」とまるで「始めたからには勝たなけ
ればならない」と先の戦争の時と同じ発言をしている様子を目にしたら、きっとさらに
おぞましい「ガリヴァー旅行記」第5話を書いたに違いない・・・・・と。

 

2018年

2月

07日

床の間 掛け軸の掛け替え

 

 

 

 

 

 

 

 

加賀千代尼 書 
「梅咲くや 何が降っても 春は春」

2018年

2月

05日

1月28日のお礼状届く

2月1日付 日露青年交流センターからお礼状届く。

2018年

2月

04日

「ピラネージの黒い脳髄」 マルグリット・ユルスナール 著

ピラネージは1720年ヴェネッイアの石工を父に生れた。20歳の頃ヴェネッイア派の画
家ティエポロの工房に出入りしてヴェネッイア様式の影響を受けた。


やがてピラネージは銅版画を唯一の表現手段として、自分の制作主題をローマと思い定

めて、その後38年間描写的な何千もの彫版をローマで埋めつくすことになる。
彼は次第に多くのファンを獲得し、1767年クレメンス8世から爵位を授けられ、功なり
名を遂げた画家として生涯を閉じた。

 

しかし、ルネッサンスの画家たちが古代神殿を手本に描いた自分達の神殿や神殿の影と
した永遠の天空からの光とは異なるバックに負っている動物的な照明、超人間的な感覚

を示している。

彼は自分で建物の残骸をほじくり返し、調査し、建物の基礎工事の秘密に迫る考古学者

でもあった。
彼にとって廃墟の形象は帝国の栄枯盛衰や人の世のはかなさを強調し敷衍する為に働き
かけるのではなく、建物の持続、消耗について、建物の内部で石として長く生存し続け
る石塊の不透明な在り様について、冥想をうながすものなのだ。
ローマの尊厳は破れ崩れた円天井の中に生き残っている。
建物の威容と人間の高貴な重々しさを調和させようとは決してせずに、ローマで見つける
最もみじめなびっこやひどいせむしを描くのを好んでいたのである。
それまでローマの廃墟は教皇か王侯のコレクションに加えられるべき美術品の傑作が掘
り出される鉱山とみなされていた。

 

古代の異教的傑作上のしるしであったものをキリスト教の栄光に転化させることにのみ

新しい巨大建物(教会等)を建てる為に大理石材を求める石切場とみなされていたの

である。

ピラネージはその悲劇的な廃墟を銅版に彫り、その作品の流布によって大衆の変化と政

府当局の態度を変えさせる要因の一つとなった。

しかし、ピラネージの版画制作以降ローマの古建築の3分の1は破壊されている。

 

22歳で制作した14枚の版画シリーズ「牢獄」「グロテスク」は自由な建築的幻想が支
配する激情的な「幻想の牢獄」に於いてローマ的要素を大胆に結合した反理性的なもの
ゝなかにローマの実態を移し入れたのである。当時はほとんど評価されなかった。
後年これに手を加え現実の監獄や本物の拷問からとった細部をつけ加えている。
当初は純粋の量感と空間を描いた作品を修正している。
論者達はその後「幻想の牢獄」の16の図版を「狂気と錯乱を囲い込む中庭に追いやり」
とし反対にローマ古代遺跡に示される論理的論法の現実性と気品に敬意を払おうとする

評価と流行の変化によって、逆説的に「幻想の牢獄」こそこの大版画家が自由なまゝに

駆使しえた唯一の作品であるとして「古代遺跡」「景観」を単なる売れる作品とみなし

て低く評価するやり方もみられたのである。

 

ピラネージが何故この主題と18の版画からなる一連の傑作を作ったかは定かでない。
しかし「牢獄」の銅版画の力強さと不気味さは巨大な迫力で私達に迫ってくる。
ゴヤの「戦争の惨禍」の銅版画集と云いヨーロッパには突然として美の巨人が出現する
ようである。

 

2018年

1月

28日

ロシアから日露青年交流「茶道交流グループ」24名来る。

日露青年交流センター主催で恒例となっている体験学習「茶道交流グループ」の一行が4我家に来訪した。

 

一行の行程は約1週間で京都の裏千家今日庵、表千家不審庵見学、池坊短期大学での

茶道体験と交流、鎌倉探索、都内での茶会席体験の後、最後が我家での民間日露交流
と体験学習のスケジュールである。


ロシア側から24名、日本側から10名(内センターから1名)総勢34名である。
10時30分から昼食を挟んで3時30分まで、ロシアからの24名を3班に分けてお茶、茶花、書道を全員が体験出来る様に組み合わせて実施された。

参加者の皆さんは大変熱心で、特にお茶の体験では質問も多く出された。

我家への来訪はこれで3回目となり、当方も大分慣れてきて、定められた時間どおり滞りなく無事終了することが出来た。


 ロシアの皆さんは個人の自宅での歓待と、その生活振り等かいま見ることが出来、特にロシアではなかなかみる事のできない茶室の正月飾り、初釜の時だけの島台のお点前、お炭手前、茶花の活け方等の貴重な実習が出来て満足して頂いたようだ。

2018年

1月

22日

我家の雪景色

    久方振りに東京にも雪らしい雪降る。我家の庭の木々にも積もる。

2018年

1月

01日

2018年1月 1 日 葛西神社に初詣

2017年の注連縄、幣束、お札等炊き上げる恒例の如く甘酒飲む。
ここの甘酒は濃い。次いで柴又帝釈天に詣でる。
今年は快晴で風もなく穏やかな日で、人出も例年に比して多かった。


2017年

12月

20日

ロシア大使館でコンサートを聴く

レセプション大ホールでのコンサートに家族5人が山田みどりさんから招待された。
第一部10曲 第二部11曲 緒方麻衣のバレエ付である。

オペラのアリア、オペレッタ、イタリア民謡である。歌手には天野加代子(メゾソプラノ)、アレクセイ・コサレフ(テノール)でこの日の為にドイツから急きょ来日。

コサレフの高音の伸びと高音に移る際の甘さが美しく、何と言っても声量がが素晴らしく200人程の参加者のテンションも一気にあがって感嘆の声があがった。

特に「トウランドット」の「誰も寝てはならぬ」が嵌っており、イタリア民謡の3曲に至ってはリラックスしてのりのりとなり会場を沸かせた。
天野は年齢の為もあってが声量が乏しく、ピアノはこれを考慮して音を抑えるべきであ
ったのではと思った。
ロシア大使館の中に入る機会は滅多にあるものではない。又ロシア初代大使夫妻も顔を
見せていた。

 

2017年

11月

26日

葛飾現代書展 開催 10回展

期間 2017年11月18日~26日

区内の書家を中心に43名、葛飾ゆかりの書作家17名の参加で開催された。

例年に比べても作品が揃って見ごたえがある書展であった。

清水硯水の金泥の観音経は作者が金泥の溶き方を理解していない事を思わせて、

金泥の書の技術が伝承されていないことを現在にいらしめている。

2017年

11月

15日

姉小路での墨のパフォーマンスと京都町歩き

2017年11月11日 14時から墨のパフォーマンスの様子

 

11日 パフォーマンスの前日「わたつね蕎麦店」にて打ち合わせ兼「前夜祭」。

姉小路界隈を考える会事務局長の谷口さん、同界隈の老舗和菓子「亀末」ご主人

、同じく彩雲堂ご主人、「わたつね」中塚ご夫妻、東京からの3名を加えて大いに

楽しんだ。

 

10日 通称 将軍塚(青連院門跡青龍殿)に登ってみる。バス停の周りが少し紅葉。まだ10日早いかな?

平成24年に造られた 板造り大舞台が名所となっていて、京都市内が一望できる。



池坊 旧七夕会 花展を見る。例年この時期に開催される大規模な花展である。

10日 高島屋京都店、12日 池坊六角堂の花展を見る。

山田みどりさんのお弟子さん4人が今回のコンクールに参加している。

高島屋では「花戦さ」に登場した『大砂物』が再現され、話題を呼んでいた。

    東横イン四条ロビーにて 山田みどりさんのロシアお弟子さん達と

 

12日 平成17年4月に開館された京都迎賓館を見学。 

先頃迎賓館は見学の可、不可がネットで確認し易くなった。

地下に大掛かりな見学者受け入れの設備と体制が組まれている。レキュリティー確認は

飛行機に乗る時と同様。カメラ以外の荷物は一切持ち込み不可。スリッパに履き替えて

館内に入る。館内のカメラはフラッシュは禁止ながら自由。

管轄は宮内庁ではなく内閣府だとの事。電話の問い合わせにも誠に親切であった。

 

12日 迎賓館の見学の後 知恩院に参拝する。日本三大門の一つとも言われる

三門に上る。

三門楼上には釈迦如来像、十六羅漢像、天井には龍が描かれていた。


2017年

11月

12日

京都姉小路通り/墨のパフォーマンス

今年も11月に姉小路通りの道路を車道文上にしての墨のパフォーマンスを行った。字は来年の干支に因んで「狗」(子犬のこと)とした。

昨年同様参加者に余白を思い思いの言葉を書き込んでもらった。出来上がった作品はこれも昨年と同じく姉小路界隈を考える会事務局長の隣人、老舗の表具師山中祥吾さんに依頼。裏打された作品は京都市景観まちづくりセンターに一年間掲げられる事となる。

京都行きの楽しみの一つに当地のそば処「わたつね」の中塚夫妻に会う事と、そこで事務局長と飲む事があるが今年はそこに彩雲堂の藤本さんと亀末広の吉田さんに参加戴き、楽しい一刻を過ごす事が出来たことである。

表具の山中さんを含めて老舗の主人達の話は実に楽しくて時を忘れる程であった。

姉小路界隈の住人「彩雲堂」は日本画専門絵の具店で明治初年創業。江戸時代末期に京都「伊勢屋」から分家、近くにいた富岡鐡斉に品物を納品していた縁で鐡斉が「彩雲堂」と命名1書も贈って今日の看板となっている。

彩雲は李白の七言絶局、早発白帝城の朝辞白帝彩雲の間千里江陵一日還、両岸猿声啼不住、軽舟巳過万重山からとられたものである。当主藤本築男さんは4代目で73才。

古い店舗用は筆、顔料が山をなしていて見ているだけで楽しい。

 

御菓子司亀末広の当主吉田末広さんは7代目で76才永年の皇室御用達の店でもある。

木型は500以上もあるが現在使われているのは200程度だそうだ。看板は近代書道の先覚と言われた山本覚山の書である。

 

◎姉小路の商品看板

造形大の学生である絵(姉小路)、中京区の幼稚園の子供の絵をあんどんに仕立てている。

 

◎京都の迎賓館みる

さすがに赤坂のものに比べると数段レベルが高い。しかしあまり使用されていないようである。

 

池坊展

高島屋京都店での展示の目玉は何と言っていも「大砂物」である。松の大木を大胆に生けた伝統のこの作品は掛けた費用1千万とも言われている。六角堂の池坊会館では、全館を使って皆長年に亘る修行の技を披露しており例年に増して力作が多く充実したものであった。

 

中に池坊ロシア支部を創立、今日の隆勢に育てあげた功労者、山田みどりさん率いるロシア支部の7人が来日。内4人が出瓶した。

2017年

11月

04日

木絲蔵の思い出

92年春頃、金町在住の友人から看板を依頼された。彼の姉が趣味の店を始めるので作って欲しい、名前は「木絲蔵」大きさも書体も特別に要望はないとの事、板は北海道産の目の詰まった桂材、縦70cm横30cm厚さ3cmの美材を使い、表用に隷書の陰刻で顔料は辰砂を用いて、室内用としてはずっと小振りの板に陽刻の平仮名でと2枚作成し以来17年間掲げ続けた。店舗はビルの1階で京成立石駅から5分の線路沿いにあり、木工工芸品、手染め毛織物、パッチワーク小物、額、陶器と様々で各作家と直接交流しながら品物を置いている。

店を始めるにあたりテーブル、椅子等を岩手県岩泉町の工房、純木家具の工藤宏太氏に依頼「木絲蔵」を屋号としたが大木さんは「蔵にはいろいろな物が入っているイメージがある」と言う。交流の輪が拡がり個人やグループ等の作り手から集めた品が並んだ。

又店頭にはお嬢さんの描いたイラストがカレンダーを始めとして店の至る所にみられた。

店主の大木きよみさんは以来私の個展には必ず顔をみせて作品を買ってくれたがそのうちに10点を越え夫の貞一さんは「仕事の事務所に飾っていたが狭くなって飾るところが無くなってしまって事務所を建て直す事になった」と語っていた。店に置いてもらった「十一面観音像」を描いたサム・ホールをみて葛飾区美術会、及、葛飾現代書展の役員が個展会場に足を運びこれが縁となって私は両会の会員となって現在に至っている。

店は初めから採算がとれずにそれを半ば承知で続けていたが両人の老齢化に従い15年程で閉店する事となった。

大木さんから頂戴した保多織の作務衣は剥げてボロボロになるまで愛用した。

2017年

11月

03日

「国会前で改憲反対の集会」

「全国市民アクション国会包囲大行動」に参加した千代田線国会議事堂前で下車すると、集会参加者の波であった。様々な旗を掲げたりゼッケンを付けた人達が国会前を目指す。参加者は4万人に達した。国会正面前、議員会館前、国会図書館前、町会会館前に各ステージが設けられて立憲民主党の枝野幸男代表、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂代表、ノーベル平和賞が決った国際NGOの川崎哲氏の決意表明に続いて、自由党代表の小沢一郎氏のメッセージが読み上げられた。参加者には憲法を無視した「集団安全保障条約」「共謀罪」の強行に対する安倍政権への危桟感がみてとれたが、暖かく風もない絶好の日で、圧倒的に多い中高年者は小団体、小グループでの参加が多く弁当を食べたりして若干ピクニック気分もみられた。警備の警察官は皆親切であった。

やはり生の演説は人の気持を揺さぶるものである。

2017年

10月

31日

日暮里の山内酒店に

山内酒店は石川県の菊姫の特約店で昭和3年開業の老舗であるが、日暮里界隈では未だ新参者であると言っていた。菊姫の加陽大吟醸。鶴の里純米酒等購入。

 

夕やけだんだんの半ばに竹工芸「翠屋」がある。

主人三代目武関翠篁は1958年生れ。飯塚小玕斉に師事し、現在日本伝統工芸展監査委員である。

以前にそうぜん籠を購入しているが、今回色紙掛けを購入した。

2017年

10月

28日

日本橋 鰻割烹大江戸で 鰻食す

店内に河合玉堂の扁額が掛っていた。

2017年

10月

26日

陶淵明とその時代を考える 参考:吉川幸次郎 「陶淵明伝」

魏の曹操は漢帝国の末期官界にデビューし、やがて東都太守に任ぜられて始めて本拠地

を得る事となる。帝国に司馬懿(シバイ)を中心とした知識人集団清流派が存在し、宦

官と対抗して勢力を増大させていた。
無能で病弱な霊帝が死去して帝国は瓦解への道を辿るのである。
農民一揆「黄巾の乱」を鎮圧した曹操はその残党30万人と清流派を味方にして「魏」を
建国。三国志の時代となるが「赤壁の戦い」で一時野望が頓挫し、曹操亡きあと清流派

の司馬炎は魏の国を簒奪し317年晋を建国。蜀、呉も滅ぼし天下統一を果すのである。
589年まで続いた晋王朝も滅亡。南北朝時代へと移行してゆくが陶淵明は晋王朝末期に

役人となり、南朝宗の文帝の時代に死去している。
彼は「自祭文」と題する100余篇の韻文を作っているがこれが絶筆である。
 『歳は惟(コ)れ丁卯(ヒノトウ)律(フエ)は無射(ブテキ)に中(アタ)り
  天は寒く夜は長くして風の気は蕭索とわびしきとき・・・・・』で始まり、
 『人生は実に難し、死は如何なるべき、嗚呼(アア)哀しい哉』 で終る。


彼は自分の人生は自由人として満足すべき生涯を送ったことを誇り高く語っているが、
しかし最後にあゝ哀しい哉でむすんでいるのは何故か。
権力闘争に明け暮れた晋王朝末期に長く飢えに苦しみ、農具を捨てゝ役人となり、人々

の為に奮闘努力し、ついに小さな県の知事の位についたがそれが、それが自分の期待に

反し、何と虚しい事であったか。彼は現実からドロップアウトした隠遁者となった。

自由の天地に帰ることが彼の望むすべてゞあったのである。
その事に些かも後悔はない。しかし隠遁したあとも現実世界をしっかり直視していた

のである。


全文340字からなる「帰去来の辞」は次のように始まる。

  『帰んなん、いざ田園は将にあれんとするになんぞ帰らざる』

 そして

  『己に往きしときの諌むべからざるを悟り、来る者のつぐなう可きを知る』

 更に

  『実に途に迷うこと其れ、まだ遠きにあらず、今は是しく昨は非なりしを覚る』

 

なぜ帰るのか、おのれが軍閥の部下として、又知事として方々をとびまわっている間に、おまえの一番大切にすべき田園の旧居は荒蕪に帰しようとしているのになぜ帰らないのか、帰るが良い。過去の時間は取り返しがつかないと悟れば悟るほど未来の時間が自由

な真実の生活を追補すべき時間として貴重に認識されている。
引き返してみれば昨日までの生活が嘘であり今日の生活こそ正しいことがはっきりわか

ると語るのだ。

高級役人として過ごした多くの知識人の理想とした隠者の生活がこゝに見られるのだ。