刺客列伝のうち 荊軻(ケイカ)史記 2021年に読んだ本 12

刺客列伝のうち荊軻(ケイカ)史記 司馬遷  2021/3/24

 

紀元前3世紀の初め戦国時代の末期、秦は最大の強国にのし上がっていた。

首都は咸陽、領主は政。のちの始皇帝である。

 

荊軻は衛の人、燕に移ってからは燕の人は彼を荊卿と呼んで尊敬した。

荊卿は読書と剣を好んだ。

やがて秦に人質としてとられていた燕の太子丹が怨み抱いて帰国、秦に仇討ちをしてくれる人物を探していた。当時秦は斉、楚、三晋を下して全国を統一する勢いを示しており、遠からず燕も支配されることが心配されていた。

丹の教育係 鞠武(キクブ)は「どうして冷遇された恨みなどで秦の逆鱗にふれるようなことをなさるのか」と丹を諫めた。

又秦の将軍 樊於期(ハン キオ)が燕に亡命してきて丹はそれを受け入れていたが、これに対して「早く将軍を匈奴の土地へ入らせて人のうわさを消しておしまいなさい。

どうか西は三晋と、南は斉、楚と同盟し、北は匈奴と講和を結んでください」と進言。

丹は進言を受け入れない。そんな薄情な事はできない、と。

そこで 鞠武は対策として田光先生を丹に紹介。田光は「私は老いさらばえて駄馬にも劣る」として荊軻を丹に紹介する。丹は田光に「この事は決して口外しないように」と釘をさす。田光は荊軻に依頼した後、丹に疑われた事に対して「口外しないことを示した」と自害する。荊軻は丹に秦王殺害を了承し、条件として「 樊将軍の首と燕の南境の地 督亢(トクゴウ)の地図を秦王に献上する事」を要求する。

 樊将軍殺害に同意しない丹に対して、荊軻は 樊将軍に直接談判し、 樊はこれを了として自害する。 いよいよ勇者秦舞陽を従え樊の首と地図を携えて秦に到着。

秦王は正装に身をかため、最高の儀礼を整えて首都咸陽の宮殿で燕の使者と会見。

秦王「舞陽どのの携える地図をこれへ」、秦王の言葉に、軻は地図を献上する。

秦王は地図を開く。拡げ終わって匕首(アイクチ)があらわれた。荊はすかさず左手で秦王の袖をとらえ、右手に匕首をもって秦王に突きかかる。秦王は柱をめぐって逃げる。

秦の法律では殿上にひかえる家臣は身に寸鉄を帯びてはならないとされている。

従って荊軻を打つすべもない。侍医の夏無旦(カムショ)がささげていたや薬嚢(ヤクノウ)を荊軻に投げつける。その隙をついて秦王は剣を抜いて荊軻を殺害するのだ。

死亡に際して荊軻は「事の成らざりし所以の者は生きながらにして、これを劫(オビ)やかし、必ず約契を得て以て太子に報ぜんと欲せしを以てなり」と。

 

やがて秦は5年後燕を滅ぼし、その翌年秦は天下を統一して、秦の政は始皇帝と名乗るのだ。荊軻は数多い刺客の中でも取分け有名である。

秦は中国史上初めての統一国家の成立を成し遂げたが、始皇帝が死亡すると3世16年で漢の高祖に滅ぼされる。(紀元前221~前206年)