観音の道2

おわりに

今まで描いて来た仏像の道を巡ってみたところ、同じ寺院を訪ねている事が多いのを改めて感じた。やはり再会する喜びと、又会って安心する気持ちはいわゆるおなじみさんに会う思いである。それにしても日本人の観音好きは特別なものがある。その中でも十一面観音の人気が高い。それはどの十一面観音も仲々魅力的なものが多い事実は否定出来ない。観賞する環境は何と云っても本堂や金堂といった寺院内部が一番で、収蔵庫に入るのをみるのは味気なく仏像にも気の毒な気がするのである。

経回った寺院や仏像を振り返ってみると、仏教文化の破壊者は第一に戦乱であり第二に狂信である事に気づかされる。

これは仏教文化のみでなく世界中の普遍的事実である。長い間に幾度も戦火を潜り抜けて仏像を命がけで守ってきた人々がいつの世も存在したという事にも驚嘆させられる。

それら人々の思いがのり移った仏像はより美しくなり現在の私達の心を打つのである。

そしてその一方、誰が彫ったかも定かでなく大量に造られた膨大な石仏群、何の価値も見出されずに弊履の如く破壊され、うち捨てられ埋められてその中で辛うじて残って来た石仏達、多くは寺院の隅にまとめて放置され、ころがされている石仏。江戸中期に多く造られた石仏も長年の風雨に曝されて風化し実に味わい深くなっていくのを知れば、これも又捨て難い存在であると思わされるのである。これからも国宝級の仏像と路傍の石仏を追って描いていきたい。

千手観音立像 古保利薬師堂

広島駅からバスで2時間程北に走り八重で降りると古保利山にたどりつく。

古保利薬師堂は石段を登りつめた古保利山の中腹にある。名称は金蔵院福光寺と云う真言宗の寺である。昔は49の子院をもった大寺だったと云うが、昭和57年収蔵庫が建ち、中に本尊の薬師如来坐像、日光、月光、千手観音、三体の十一面観音、吉祥天、四天王、仁王像が立ち並ぶ。皆土地の仏師によって作られたと思われる土肩の貞観仏である。

千手観音は平安時代の作で179.5cmのまことに見事で景観溢れる像である。

兵庫県加古川市の鶴林寺の聖観音像

鶴林寺は天台宗の寺で、聖徳太子の令旨を奉じて建立されたと伝えられ「播磨の法隆寺」と云われる。太子堂は平安末期、本堂は室町時代の建造で共に国宝に指定されていて他にこの金銅仏の聖観音像を始めとして多くの重文を有する大伽羅である。奈良時代には法隆寺に属し、761年の「法隆寺縁起資財帖」にのる賀古郡一百村はこの地であると云われる。

行者堂では僧侶の修行が長年行われていた為に、内部は線香の煙で燻され脂(やに)ですっかり覆われていた。近年、僧の一人が赤外線カメラで内部を撮影したところ、脂の下には多くの僧に囲まれた釈迦の入滅が描かれており、他に川で洗濯する婦人等、庶民の生活も描かれているのが発見された。

長年の僧達による修行が文化財を結果的に守ったのである。鶴林寺見学の目的の聖観音像は白鳳時代の金銅仏の名品の1つで像高82.4cm 着衣は薄く密着し簡素に表現され、頭部から台座仰蓮まで一鋳で造られている。

白鳳期の特徴である新羅様式の影響をみる事が出来る。流麗な衣文の流れは新羅石仏の通性でもあるが、日本に渡って新羅からの影響から脱して温和で平明、清潔感溢れる作風となった。ところで昔いつの頃がこの像が盗賊に盗まれたが隠れ家に持ち帰った盗賊は金色に輝くこの観音像が果して本当の金無垢かどうか確かめる為に叩いたところ反響音が返って来た「アイタタ!」と。これに驚いて仏罰を恐れた盗賊はこの観音像を寺に返還したという。

以来、この観音像ほど写真と実物をみた感じが異なるのは珍しい。写真で何度もお目にかかっており、首が短くやや怒り肩が目につく以外、特徴がなく平凡にみられたが、実物に接するとさにあらず、そのあまりの見事な美しさに驚かされるのである。

白山 向ヶ丘本駒込の寺院

八百屋お七墓所

天和3年(1683年)放火の罪で火刑にされた江戸本郷の八百屋の娘をモデルとした歌舞伎などの登場人物で3年後に井原西鶴が「好色五人女」のなかに取り上げた。

お七の碑文と小さなお堂が建っている。

 

 

 

 


ほうろく地蔵 向ヶ丘1丁目

曹洞宗金龍山大円寺が正式名称 江戸23番札所である。

寺小姓恋しさに放火の大罪を犯した「お七」を供養する為に建立された地蔵尊である。由来はお七の罪業を救う為に熱した炮烙を頭に被り、自ら焦熱の苦しみを受けた地蔵とされる。

その後、この地蔵尊は頭痛、眼病、耳、鼻など首から上の病気を治す霊験あらたかな地蔵尊として有名になった。(注)

永井荷風の日和下駄

第2 淫祠の中に「聖天様には油揚のお饅頭をあげ、大黒様には二股大根お稲荷さまには油揚げを献げるのは誰もが知っている処である。芝日陰町に鯖をあげるお稲荷様があると思えば、駒込には焙烙(ホウロク)をあげる焙烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが癒(いえ)れば御礼として焙烙をお地蔵様の頭の上にのせるのである…」との記述がある。

明王像2体
明王像2体

高耀長元寺

海蔵寺

幻抑童子の石佛
幻抑童子の石佛

身禄行者の墓があり(寛文11~享保18)江戸庶民を中心とした富士信仰の中興の祖として知られる。

富士信仰は「富士講」として組織され江戸中の寺社境内に小富士が築かれ、区内にある富士神社は今に残る富士信仰の史跡である。

十万寺を経て 土物店跡

本駒込1丁目天栄寺の中にある、江戸3大市場の1つで幕府の御用市場であった。土地の人々は「駒込辻のやっちゃば」と呼んで親しんだ富士神社一帯は駒込なすの生産地として有名であり、他に大根、ニンジン、ごぼうなど土のついたままの野菜である「土物」が取引された。

明治12年豊島区に移転、巣鴨の青果市場として現在に至っている。

定泉寺 江戸33観音札所第9番


目赤不動尊 天台宗南谷寺

元和年間(1615~24)に万行和尚が創建、寛永年間(1624~44)に将軍家光から「目赤不動尊とせよ」の命をうけてこの地に移したものである。江戸5色不動の一つ


養昌寺 石仏

大運寺 供養搭

本郷通りは文字通りの寺町であり、実に多くの寺院が各々の由来を持って存在しておりそのいずれも手入れの良く行き届いて塵一つ落ちていない状態であるのに驚かされた。

称名寺(金沢文庫) 弥勒菩薩立像

もう30年以上前の事になる。金沢八景在住の友人から釣りに誘われた。前日彼の家に泊まり朝8時の出船、目指すは鮎魚女(アイナメ)

餌は岩イソメ、仕掛けのブラフリの錘と鉤は例の通り岩礁の間に多く失ったが、ビールビン大のアイナメが数匹釣れた。アイナメは大きな頭を振って、底への引きが強く、ややグロテスクな姿に反比例して味は頗る美味である。

途中雪が降り出して1時頃に納竿、着替えて今一度のお目当て称名寺の本尊弥勒菩薩を保管している金沢文庫で拝観した。

称名寺は、真言律宗の寺院、奈良西大寺の末寺である。1267年創建、鎌倉幕府滅亡で衰退したが、江戸時代に家康の援助によって復興した。称名寺には運慶の造った小さな愛染明王像がある。弥勒菩薩は鎌倉彫刻の特徴を良く表わしてまことに美しいものであった。

広隆寺 宝冠弥勒菩薩像

真言宗別格本山 太奏寺とも云う。

622年創建 弘仁9年(818年)、久安6年(1150年)と2度の火災にあって大半を焼失。永万元年(1165年)堂舎再建

本尊は阿弥陀如来像である。

宝冠弥勒菩薩像は国宝で、中学1年の頃、美術の時間に課題となった木版画の際に日本史字典の口絵にあったこの像のあまりの美しさに版画としたが先生はこれに否定的であり、もっと日常のものを彫るようにと指示された為に木に花が止まっているものを提出したが、返却された版木はすぐ捨ててしまってこの版木は今日までとっておいたものである。

 

熊野古道の石佛

和歌山県の熊野三山への参詣路、京から難波を経て海岸沿いに田辺へ、田辺がら山間を本宮に至る紀伊路。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。途中に石佛や淫祠がある。

 


赤山禅院

比叡山延暦寺の伽藍鎮守神の一つで、仁和4年(888年)創建。11月23日には数珠供養が行われる。比叡山荒行千日回峰行と関りが深い。

元は唐士の赤山法華院に祭祀されていた土俗的山神を慈覚大師が帰国に際して、護法神として日本に請来したものである。境内には八幡大菩薩、住吉大明神、弁財天などが祀られて、古い神仏習合の趣が残る。

尚境内には多くの石仏が並んでもいる。

京都市左京区にある修学院離宮からさほど離れていない場所に赤山禅院はある。

岡寺

11月 前日柊屋に宿泊。この日は橿原神宮から石舞台を経て、橘寺につづき西国7番霊場岡寺に至った。石の鳥居を潜って手摺が付いた石段を登ると朱色に塗られた桜門の前に出る。「龍蓋寺」の扁額が掲げられている。境内の池に龍神を観請して石で龍穴をふさいだので「龍蓋」の寺号を称するようになったのだと云う。岡寺は草壁皇子と縁が深い、奈良前期の法相宗の僧義渕が草壁皇子の宮殿址を賜り岡寺を開いたことからの縁であると云う。

しかし創建当時の建物は残っておらず、現在は本堂、大師堂、楼門が配置されている。

草壁皇子の母、持統天皇は自分の生んだ病弱で無能と云われた草壁可愛さで父天智天皇の娘大田皇女と夫天武天皇との間の子で、天智が自分の後継者と望んでいた大津皇子、彼は当代有数の詩人と称され「懐風藻」に歌が収められている極めて有能な人物であった。

この皇位継承の有力者を686年謀反の名目で処刑している。有能であったからこその悲劇であった。

この季節、紅葉の1番良い時期であったが、当時は地理的関係からか岡寺への参拝者はほとんど見られなかった。岡寺と云えば、平安時代に造られた像高16.5cmの小金銅仏の菩薩半跏像が有名である。この小さな仏像は写実的で、しかも造形が素晴らしく、その上まことに可愛らしい童形であるのだ。岡寺の本尊は 塑像の大如意輪観音座像(重文)であるが、その胎内仏と伝えられる。金銅仏の時代は8世紀で終り、銅の材科難と製作費用がかかりすぎる事から、急速に減少し、平安時代の金銅仏は極めて少ない。

西国三十三所観音霊場第7番礼所である。

この日の宿は八千代、現在は料亭となっていて宿泊は止めてしまっているようである。

1993年10月の第1回個展のDMに登場してもらった。

綾瀬の観音寺 観音菩薩立像石仏

足立区綾瀬には酒店「磯川」があり100年来酒店として営業を続けて来た。20年来、月に数回通って我家で消費する酒の大半をここで賄って来たのである。店には夫婦と主人の弟がいて皆頗る人が好く、弟は実に酒に詳しく、珍しい酒も置いてあった。(この店は篠田次郎氏から紹介されたのである)特に店の裏に部屋そのものが冷蔵庫になって様々な古酒が並んでいた。西の関秘蔵酒(ラベルは坂口謹一郎博士の書いたもの)香露、梅錦、越の寒梅、東力士、富久長、爛漫等何れも大吟醸ばかりで20~30年も経った名酒揃いであり、宝の山であった。店に通うのがレクリエーションで当日は満足感に浸って帰ったものである。

店の母屋の2階を借りて演会を開いた事もあった。

今は「磯川」は廃業して終わった。

さて通ううちに近くに「観音寺」があり、本堂を建て替えたばかり寄進した人達の名前が建てられていた。中に際立った篤志家が数件あり彼等が居てこそ、こうした事業が成り立ったと感心した。境内も見事に整備されており、寺と檀家との結びつきも良好なのであろう。個人の墓に石仏があり、仲々の優品の観音菩薩立像であった。60cm程であったろう。何回目かの個展のDMに登場してもらった。製作年は寛文12年2月(1672年)である。

聖林寺の十一面観音

仏教伝来以来神道とは1000年余りに亘って徐々に仏教と習合し長く神仏習合の時代が続いたが、近世になって儒教や国学の排仏思想によって、仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩、岡山藩、会津藩で神仏分離が行われた。この動きは幕末に一層強まり過激な寺院整理が始まり、新政府は神祇官を再興し祭政一致の制度を実現しようと神仏分離令を発し全国に布告、廃仏棄釈運動となって多くの寺が破却、仏像、仏具などの文化財が消滅した。

聖林寺の十一面観音は元々大神神社神宮寺に安置されていたが、廃仏棄却運動から破壊の目標となるのを恐れて、神宮寺の十一面観音を寺の縁の下に放置した。これを悼んだ聖林寺が、この像を大八車に乗せて聖林寺に運び安置したものである。

聖林寺は桜井駅からしばらく歩くと寺のある坂に行きつく、坂道の左手に白い花を付けた樹があるが、八重桜であるとの事である。

坂の途中右に折れると小さな本堂がある。本堂の廊下を通り、階段を登るとコンクリート造りの宝蔵庫があり全面ガラス張りの中に十一面観音を眺める事が出来る。照明は予想外に明るく、美術館でみるようで有難いが何か味気ない感じもなくはない。像は天平時代後期の作で像高209.0cm 国宝の7体の十一面観の1つである。

桧の一材を芯とし木屑漆を厚くモデリングして仕上げている。乾漆造りの標準的な技法である。

柔らかい肉付の顔や、体のバランスも実に美しく乾漆造の頂点に立つ作品であろう。金箔も美しく残っており、適度の箔落がその美しさを一層引きたてているようだ。元関脇の水戸泉をどことなく彷彿とさせるのもうれしい。

黒石寺の薬師如来

北上川に架かる藤橋を渡って黒石の集落に入ると黒石寺がある。今では毎年2月15~20日に行われる本堂の前で護符を奪い合う禅祭り「蘇民祭」で有名だ。

本尊の薬師如来は長い間秘仏となっていたが、戦後胎内に「貞観4年」(862年)の銘文があることから一躍注目を浴びる事となった。平安初期に造られた仏像は多いが、制作年代が明記されているのはこの仏像だけである。

粗々しい螺髪、目尻の吊り上がった目、張った眉、どうみても親しみの持てないいかつい顔である。

住民は厳しい生活環境の中で頼りになる守り仏を欲したのであろう、呪力にみちている。

訪れた時は、参拝者は一人もおらず閑散としていて受付らしき所に人気はなく、庫裏に回ったところに2人の婦人がいて「薬師如来を見せて欲しい」と頼んだところ、老婦人が「仏像は見せ物ではない」とにべもなく拒絶された。

改めて拝観をお願いするとやっと扉を開けてくれたが、やはり拝観料は取るのである。「金で仏像を見せ物にしているではないか」と思わず口に出かかったが何とかそれを飲み込んだのを良く覚えている。

九面観音立像

室町時代に製作されたと思われる金銅仏である法隆寺の白檀の一木造りの7世紀に唐から渡来した九面観音を模して作られている。童子形である。1990年頃、港区南麻布の仏教美術を専門に取り扱っていた「シルクロード」で見付けたもので、この仏像を始め何体かの仏像を購入する事となった。以来我家の念持仏となっている。「シルクロード」はその後暫くして、商売を畳んだようで今はない、渡金は全体の半分程残っている。

六朝時代の如来座像

後漢滅亡から隋の統一まで南京に都して、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝の総称を六朝と呼んでいるが、この像は隋代に入ってからのものかも知れない金銅仏である。像高12cm

左手を挙げた施無畏与願の形をとる座像である。鍍金は殆ど残っており小像ではあるが仲々風格がある像である。90年代に東京美術倶楽部で京都の骨董商から求めたものである。

鎌倉時代の観音菩薩

善光寺式阿弥陀三尊像の脇侍 観音菩薩立像である。善光寺式阿弥陀三像は百済から伝来したと云われて、長野善光寺式の秘仏本尊を模した像で、鎌倉時代には浄土宗の普及に伴って広い信仰を集め、東国中心に全国で造られた。

中尊の大きさは50cm程のものが多い金銅仏で、観音像はその特徴を良く表わしており、高い冠を戴き両手に宝珠を奉げ持って、光背1つに三尊が掛けられた一光三尊像である。

観音菩薩の背に光背に掛けるカギがついており両手は別に鋳されて、取り外し出来るようになっているのも特徴である。線香の煙で長年燻されてすっかり黒くなっているが鍍金の跡も各所に若干残っている。端正な顔は描いてみると一層引き立つ。

スイスのコレクター、マリオン・ハマー氏が所蔵しておりヨーロッパでの日本の古美術展(図録あり)が開かれた際に出品されている。

額にある白毫から、本来仏の眉間にある白い毛を白毫と云い、光を放つと云われている事から観音の額の白毫をみて図録では観音如来と紹介されている。

ハマー氏の手許を放れて日本に到来した。当時白鳳時代の金銅仏を探していた私はやはりそうたやすく見つかる筈もない時、めぐり会って所有に帰したもので、以降個展の度に中心的存在として描いており、その数は20枚以上に及んでいる。

尚中尊の阿弥陀如来と左脇侍の勢至菩薩の所在は不明であるのは当然の事と云わねばならない。

浄心寺石佛


三田線白山駅から徒歩10分程の向丘2丁目に浄心寺はある。本郷通りに面して道の左側の門前に赤い衣を纏った大きな布袋像が立っている。門を入ると右に筆塚があり本堂の前方左に吊るされた鐘は元総理大臣中曽根康弘氏の寄進によるものだ。墓地の中を通って境内の奥に供養搭が建っており、30余体の石仏がコンクリートで塗り固められている。

その中にお目当ての石仏があり、光背に真誉西念法師、明和9壬辰天6月11日と刻されているのが解る。1772年の事でアメリカ建国より古いのだ。保存状態は比較的良好で、端正な顔立ちと均斉のとれた立ち姿はまことに美しい。

明暦の大火(1665年5月)によって江戸の大半が焼失し、江戸城の石垣も崩壊。その修復に全国から石材と石土が集められた。

工事終了のあと、当時は次第に富を蓄積し、実力をつけてきた江戸の町人の間に石仏を造る風潮が広まり、石工達は寺と結んでこの流れをあおって江戸府内だけで実に350万基の石仏が造られ関東全体に広がった。石仏はやがて大量生産され、ステレオタイプとなって行った。それはそれなりに風化を受けて風情があるが、中には目を見張る石仏も存在している。この石仏も数少ない中の一つで彫刻的にも素晴らしい。幾度となく通った。個展に発表して作品を購入された人から浄心寺に実物を見に行ったところ、いくら探しても見付からなかったと云われた。それもやむを得ない。まさかコンクリートで塗り固められた無残な姿であるとは思いもよらなかった事であろうからである。供養搭から外して単独で立たせてあげたいものだと行く度に願うのである。


神戸異人館の石佛

阪神、淡路大震災の2~3年後に神戸を訪ねた。神戸の人の話を聞くと、道を隔て」こちらは何の被害もなく向こう側は建物崩壊しており、大災害のさなかでコンビニは正常に営業しているという極地形の災害であったことが判った。

異人館で旧中国領事の中庭に明王像の石佛が2体あったのに注目した。

法音寺の釈迦如来座像

和歌山県有田郡金屋町にある法音寺は有田川沿いの高野裏街道は高野山に通ずる道である。

法音寺は無住の寺で、吉祥寺の住職が兼務している。小さな本堂が建っただけの寺で、萱葺き屋根の本堂は室町期に再建されて、重文に指定されている。本堂には外陣の檀上に重文の十一面観音と釈迦如来像が祀られている。十一面観音は地方色のある造りで桧の一木造りである。釈迦如来座像は68.5cm平安時代の作で、まことに量感に富んだ堂々たる像であった。

 

平等院

藤原道真の別邸として宇治殿と称された。

永承7年(1052年)仏寺に改め平等院と号した。

長男頼通が阿弥陀如来を本尊とする鳳凰堂を建設。その後多くの荘園が寄進され、法華堂等が建立された。当時の童うたにも「極楽疑わしくば、宇治の御堂と礼え」とうたわれた。

建武3年(1336年)の戦火によって焼失、幸い焼却を免れた鳳凰堂と観音像が今に残っている。

阿弥陀如来座像

鳳凰堂に安置されている阿弥陀如来座

像の横顔である。

当時は名工として名高い定朝が京都の工房で造ったもので、大仏師定朝が造って今に残る唯一の作品である。像高279cmの像で当時の貴族好みの優雅な美しさで、「満月のように美しい」「これこそ仏の基本である」とたたえられた事が貴族たちの残された日記に書かれている。

ロサンゼルスでの個展のD・Mを飾ってもらった。

桧材を前後4材を田の字に組んで両脇は横に2材を並べて彫刻している。寄木造りの技術の完成者は定朝であった。

雲中供養菩薩

阿弥陀如来を中尊とする堂内の長押上の白壁に付けられているのが雲中供養菩薩52体である。

天上から雲に乗って舞い降り、阿弥陀如来の徳を讃え、極楽浄土の楽しさを謳っている菩薩である。楽器を演奏するのが26体、あとは合掌したり、様々な持物を持っている。桧材を刻んで制作している。


大覚寺

大沢池の石仏

真言宗大覚寺派の大本山 正式には旧嵯峨野大覚寺門跡と称する。本尊は5大明王、平安初期に嵯峨天皇が当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞御所として嵯峨野院と称した。天皇は疫病流行の際、紺紙金泥の般若心経を書写し空海が心経堂を建て、これを奉納している。天皇の孫恒寂親王が大覚寺を開山、以後代々法親王が入っている。内部には「牡丹図」「紅梅図」狩野山楽筆とされる障壁画の傑作がある。

寺の東には中国の洞庭湖を模した大沢池があり、その周辺に千手観音石佛がある。

観音寺 十一面観音

米原市にある天台宗寺院

7体ある国宝の十一面観音のうち1体である。

1991年の壇像特別展に出品されていた。

石峰寺(せきほうじ)

伊藤若冲

正徳6年(1716年)京都 錦小路の青物問屋「桝源」の長男として生まれる。子供の頃から学問が嫌いで書も下手、技芸百般、何ひとつ身につけたものはないとされている。20代の頃、大岡春トに狩野派の手ほどきを受けたが基本的には独学の人であり、宋、元の絵を直接みてそれを勉強したようだ。

若冲の名付親は売茶翁で「大盈若沖」からとったもの(老子45章より)

40才を迎えた若冲は家督を弟に譲り、作画三昧の生活に入る。

隠居後も町年寄を務めていたが55才の時、錦小路市場に奉行所から差し止めの処分が下される。若冲は奉行所の理不尽を江戸表に訴える覚悟で事にあたった。死を覚悟した「義民」である。錦小路を訴えた五条問屋市場と組んでいた奉行所もついに折れて再開が許される事になる。

 

今も錦小路に行くと若冲の垂れ幕が天井から吊り下げられているのは商売をしている市場の人々が恩義を忘れていない為である。73才、天明の大火により居宅を焼失76才、大火後の窮乏のため石峰寺門前に隠棲。絵一枚の値段を米一斗と決めて、絵が売れた金で若冲が描いた下絵をもとに石製の羅漢像を造っていって1000体に及んだ。

 

現在残るのは520体である。その頃から名を「斗米庵」と名のる。石峰寺は伏見稲荷の南にある小高い山の中腹にある。駅から歩いて15分程か、途中誰にも会う事がない閑散としていた。

急な階段を上ると赤く塗られた中国風の山門があり、その奥に本堂がある。参道の左右には南天が植えられている。石仏は更に奥に進んだ裏山に現存している。

若冲の墓は本堂からやゝ上ったところにあり墓碑銘は「斗米庵若冲居土墓」とあり隣には筆塚もある。

石峰寺の参拝者は中年男性が一人だけ熱心に石仏をみまわっていた。

石仏は皆ユーモラスな表情、形で見て飽きる事がない。

 

醍醐寺

真言宗醍醐派の総本山 貞観年間に理源大師聖宝が山上に草庵を建てたのが始まり。

延喜7年に醍醐天皇によって創建された。天暦6年五重の塔を建立するなど大伽羅の完成をみるに至ったが、文明2年(1470年)兵火によって五重塔を残し悉く焼失、秀吉により再興。慶長3年かの有名な「醍醐の花見」が秀吉によって盛大に催されるのである。

醍醐寺三宝院の弥勒菩薩

快慶作の木造金泥塗 切金 玉眼嵌入

像高120cmである。運慶派の典型的な作品である。醍醐寺の聖観音立像 平安時代 榧の一木造り51.5cmの小像 檀像造りである。小さな口元、しっかりとした下ぶくれのあご、眉も目も強く彫り込まれて、独得の風貌を形づくる天衣を思い切って拡げ全体に黄白色を塗って白壇風に仕上げている。

はっきりしないが10年程前に訪れた時は、醍醐寺の内部の障壁画が全面的に新しくなり、極彩色で絵具の色があまりに生々しく、醜悪ですらあった。説明された僧侶に「これを貴方は良いと思っているのか」と問うたところ、言を濁していた。その数年後訪問した時にはその3分の2が取り払われて大幅に縮小されていた。やはり批判が多かったかも知れない。

唐招提寺の襖絵は東山魁夷が描き、薬師寺は平山郁夫が担ったが双方とも力不足か寺院に合わないと感じた。寺院の仏教美術の伝承がいかに難しい事柄であるか、寺を管理する当事者の知性と美意識がいかに不可欠であるのを感じている。

鎌倉の石佛

鎌倉の大佛11.5m(高徳院の阿弥陀如来坐像)の入口近くにぽつんと立つ小さな地蔵菩薩である。

仲々の風情で描いてみた。

臼杵の石佛

20年程前にツアーで参加した。国東半島の田染地方、鋸山の懐に胎蔵寺がある。

奥の院への山道を200mほど行くと、自然石の石段があり、その奥に熊野石仏がある。

石段を登って左手に凝灰岩の岩壁には日本最大級の石佛、如来像がある。上半身のみ。682cm

穏やかな表情の不動明王もある。右手に剣をもっている。これも上半身のみ。

又大日如来の全身像がある。私がみた時は既に長らく落下していた頭部が胴体の上に乗せられていたが、以前に写真等でおなじみの頭部がそのまま置かれていた姿の方が様になっていたように思う。

道路に置かれていた石仏
道路に置かれていた石仏

湖北の巳高閣(ここうかく)

滋賀県下に於ては初めての国の補助を受けて建設された文化財収蔵庫があり、他のたくさんの仏像と共に鶏足寺の十一面観音が納められている。鶏足寺は巳高山の上にあったが、明治時代に廃寺になり、たくさんの塔頭にあった仏像が、この収蔵庫に収められたのである。この十一面観音には豊満な美しさはないが、眉の張った細身の姿で、必ずしも派手さはなく地味で地方色を感じる像である。平安時代後期と思われる。重文に指定されている。

172.1cm不動明王と毘沙門天を左・右に従えている。

石道寺

巳高閣から20分程の所に石道の集落である。

細い坂道を上ると山際に小さな堂があり、拝観は予約が必要で、無住職の石道寺は世話役12軒が1週間交代で受け持ち、案内板に世話役の図が貼ってある。

村中でこの十一面観音を守ってきた事が分る。

十一面観音は胡粉のあとが残り、顔から上半身にかけて白くみえる。下唇に紅色が鮮やかに残り若い地元の女性を思わせるやさしい姿で、十一面観音の数ある中で仲々の人気の仏像である。

左手に水瓶に入れた蓮の蕾を持つ。

石道寺は三谷川に沿った山間の僻地にあったが、明治2年現在の地に本堂を改築し、同4年4月旧石道寺にあった諸仏をこの堂に合祀したもので、真言宗豊山派の寺、近江第11番伊香西国33番の札所として、又、子授け観音としても知られる。椿材の一木造、極彩色、像高173.2cm平安中期の作、光背は全高212cm。

明治41年修理の際取り付けられた。

長 浜

湖北の観音めぐりに欠かせないのが長浜である。1574年頃、秀吉によってひらかれた、楽市楽座といわれる自由都市商業地としたのである。

それまでの城に共通する防御優先の城でなく流通経路を重視した。

この策が奏効、人口移動を促して城下町を形成することとなる。長浜は大衆文化都市の原型といわれる町衆文化が花ひらいた。秀吉の在城は7年あまりであったが、江戸中期に至って、流通の拠点となり、経済力を誇るようになって彦根藩の経済を左右するほどとなったのである。長浜は町人の合議のなかで自治運営がなされた自由都市となり、様々な文化を生み出すのである。その一つが「子供歌舞伎の曵山まつり」といえるのだ。

曵山は12基あり、祭りは例年4月13日~16日であり、会館に常時数基が展示されている。歌舞伎の芸題と子供役者が決まると厳しい稽古が始まり、終ると直ちに翌年の準備が始まるのだ。町の中には親子三代に亘って出演している家族も多い。

八幡宮境内で子供歌舞伎は奉納され、そのあと曵山は市街地へ曵行され、4ヶ所で上演される一大行事である。曵山自体は18世紀ごろ多くつくられた。30年程以前に訪れたときには船坂塀の蔵などが並ぶさびれた街であったが20年後にはすっかり整備されて奇麗な観光地となっていた。

葛井寺(ふじいてら) 本尊十一面千手観音菩薩

大阪府藤井寺市にある真言宗の寺。西国33所第5番札所の本尊である。聖武天皇の勅願により行基が開創したもの。南北朝時代は南朝の楠木氏との関係が深かった。のち焼失。豊臣秀頼 徳川家光が再興。寺宝に大般若経、南北朝時代の古文書などがある。

葛井寺は百済の渡来人葛井氏の氏寺として開創された。像の背後に一見光背を思わせるようなにぎやかな千手を配し、一つひとつに千眼をあらわしている珍しい作品である。脱活乾漆の技法によってつくられた天平時代制作された我国最古の千手観音の坐像である。像高98cm

毎月18日に厨子を開扉するだけの秘仏となっている。通常の千手観音の手は数が少ないがこの仏は文字通り千本の手をもっている。