観音の道1

佛画を描いて25年が経ち20回以上の個展を開いてきた。

ここでそれまでの作品と巡った寺院、観音の道をふり返ってみようと思う。

渡岸寺(どうがんじ)滋賀県長浜市 十一面観音

渡岸寺 十一面観音

近江には十一面観音を祀った寺が41ヶ所もあり、その中でも向源寺の観音飛地湖北の東岸、高月町にある渡岸寺は雪が深い所で、大正時代には草葺きの観音堂があってそこに置かれていた十一面観音は、1974年にコンクリート造りの収蔵庫がつくられ、そこに移された。

第1回目の拝観は、この時期で床はコンクリートの打ちっぱなしで収蔵庫の中は狭く、仏像に手を触られるようであった。照明は明るく、周囲を巡ってみる事が出来た。2回目は収蔵庫の建て直しの時期で、他の仏像と並んで本堂の奥に移されていたが、3回目の時には新しい従来よりも広い奇麗な収蔵庫に安置されていた。前後、左右から観賞でき、照明はむしろ明る過ぎる程で、こんなに照らして良いのだろうかと心配する程であった。

1974年4月から約1年間朝日新聞に連載された井上靖の「星と祭」にとりあげられて一躍日本中に知られるようになった渡岸寺の十一面観音は頂上面から足もとまで194cmの木彫で頭髪部に乾漆を盛っている。左手に水瓶を持ち、腰をやゝ捻って立ち、頂上仏に特色がある。

頂上に菩薩面(注:下段写真4枚の右下)を置き、通常は如来面であるが、瞋怒(シンヌ)面2、牙上出面2、大笑面1本面の両耳後に1面づつの形はこの像以外に例はない。耳朶には大きな耳飾りを嵌めている桧の一木造りである。平安時代初期9世紀の作と考えられ、日本に数ある十一面観音の中でも飛びきり傑出した作品である。やゝ伏目で、通る鼻筋、美しい口許、すべてが美性美に満ちており、頭上面の彫刻も精細を極めアンバランスな頭上面の大きさを全体像の中で巧みに均衡を保っている。

彫刻としての完成度と云い、漂う女性の官能美と云い、日本の仏像中で屈指の仏像であると云える。

渡岸寺は聖武天皇の発願と伝えられ、最澄創建となる7堂伽藍であったが、織田、浅井の兵火で焼失、住民が本堂からこの十一面観音、大日如来、阿弥陀如来の3体を運び出し土中に埋めて難を避けた。翌年萱葺きの小堂が出来て、移されたのが以来400年に亘ってここに置かれていたのである。

明治30年十一面観音は国宝に指定され、明治末期、材料や労力は信徒が寄進して支え、数年がかりで本堂が建設されたのである。村人総出の協力は「木引きの日は大人は笛・太鼓で気勢をあげ、多い時には一木の木を引くのに1000人もかかった欅の大木ばかりであった」と云う。

日本中現在残るほとんどの仏像は戦火で焼け落ちた建物から住民の手によって救い出されている事を思うと文化の担い手が民衆であったのだと改めて思うのである。

個展のDMに登場してもらっている。都合絵は6枚描いている。



神護寺 京都右京区 高雄

国家鎮護の真言寺院

薬師如来立像

榧の一木 170.6cm 平安時代

神護寺の前身、河内の神願寺が延暦年間に和気清麻呂によって創建された時から御本尊であると伝わる。原材が重量感、量感をそのまま活かしたように太く逞しい。

平安時代初頭の一木彫刻像が持つ特色を最も鮮烈な形で表わしている。特に太腿の表現がすごい、力感が溢れている。ここで見逃せないのが頭の位置と太腿の位置が微妙にずれている点である。これは唐招提寺の鑑真和上座像に至って、そのずれは一層はっきりしているのだ。両者ともに、あまりの出来栄えに見落としてしまうが、見る人の深層心裡に何か違和感を残すようにわざと造っているとしか考えられない。

その違和感が緊張感を生み出しているのかも知れないのだ。日本人の美意識の根底にある破調はいたるところに見る事が出来る。

例えば桂離宮の建物

八条宮智仁親王によってつくられた離宮は智忠親王に引きつがれ建物は雁行し、又極めて簡素にみえるが、実は一部の隙もなく考え抜かれてつくられており、その事を表面につとめて出さない。庭は至るところに工夫がなされていて、対相形を嫌い回遊式である。

良くみると庭園内の道一つにも手が込んで造られているのだ(※注)

日本の陶磁器にもそれはみえる。中国のものは形も完璧でインターナショナルに好まれるが、日本や韓国のものは形を崩しており、絵も同じで世界的には田舎骨董と揶揄される所以となっている。

完璧や単純を好まず、やゝ崩した、ゆがんだものを好む古来からの日本の美意識をこの像造からみても納得するのである。

※至る所に曲ったりゆがめたりがみえる

神護寺の不動明王

秋に訪れたのは神護持の紅葉が美しい為であった。

やっと坂をのぼって本堂に辿りついて見下した伽藍の空色への屋根と紅葉の美しさに嘆声をあげたが、今まで何回か来ているのに気がつかなかった本堂の向かって右側に不動明王の石佛があったのだ。

しかも堂々として仲々立派な事に今更ながら驚いたのである。


正花寺(しょうけじ)高松市

琴平電鉄の円座駅から北西に2kmの堂山の麓に正花寺はある。奈良東大寺へ施入された讃岐の封戸に含まれており、宝亀10年(779年)には讃岐国の封戸50戸が唐招提寺に施入される等、奈良との密接な関係が想定されている。

正花寺の聖観音立像


榧の一木造り 奈良時代 139.7cm

奈良唐招提寺の伝承宝王菩薩像 奈良時代173.0cmと共通点が多く顔、体型も極めて近似していることからも奈良との関係の深さをうかがわせる。

慈恩寺 寒河江市

JR羽前高松駅から徒歩20分のところにある。慈恩寺本堂は永仁4年(1296年)の火災で焼失している。本尊の弥勒菩薩は永仁6年法橋寛亮仏師によって作成された。

2013年4月寒河江市の慈恩寺で秘仏展が開かれ、秘仏の木造観音菩薩と同勢至菩薩と(いずれもS字形の立像で珍しい)

他に非公開の木造の阿弥陀如来と大口如来が公開された。

本堂宮殿内に普賢菩薩が納められている。

材はゴヨウマツが使用されている。38.6cm平安時代作。

さて山形と云えば日本酒で、全国ブランドに東北銘醸の「初孫」がある。訪問したが私が行った50程の蔵元で最も設備が整い、全てステンレスのような建物内で、清潔さも一際目立っていたが、悲しい事に試飲した酒が駄目であった。その点酒田酒造の「上喜元」は建物が歴史あり県の文化財に指定されており、まことに風情があり内部も頑丈な2階に渡り板が掛けられて昔使用した大きな樽が並んでいた。訪問時にその2階の大きな丸テーブルにある上場会社の社員が10人程、肴は各自持参で車座になって「上喜元」を飲んでいて仲間に入れてもらった。昨今は経営者も杜氏も代替りで若返って、全国的に酒の傾向が均一になってきている。

これは鑑評会のせいでもある。金賞を取ることで、良い酒の看板を得ることが売り上げに大きな差が出るからだ。従って香りの高い淡麗辛口の味の薄い飲み口の良い酒が氾濫している。その点「上喜元」はしっかりとして旨みのある数少ない酒の一つである。尚石川県にも「常きげん」があるが別物で、日本一の杜氏と云われた菊姫の農口氏が移転先となったのがこの「常きげん」であった。早速飲んでみたが従来からの従業員との関係と酒米の確保はむつかしさもあって、思ったような酒造りは出来なかったようである。

やまがたには「米鶴酒造」の米鶴もあり「えふわん」が美味であった。社長の話では蔵にモーツァルトの音楽を流して酒造りをしているのだと語っていた。

山形の「ドキュメンタリー映画祭」に2泊3日で8本の映画をみたが一日目の夜、食事の際に米鶴や上喜元が久方振りに飲めて幸せだった。

深大寺

東京府中市にある天台宗の寺、山号は浮岳山。天平5年(733年)開山。

釈迦如来倚像 像高60.6cm

金銅仏の完成期に属する鼻の線も鋭く引かれ切れ長の目で清々しい少年の風である。全容一鋳 関東以北での有数な金銅仏であり、むしろ国宝指定が遅かったのではと思っていた。

本堂に伺って左手前に30cm移行くと観音堂があり、ここに安置されている。

興福寺

奈良市登大路町にある法相宗の寺院 藤原鎌足没後、妻の鏡女王が鎌足の念持仏であった釈迦三尊像を祀ったのが始まり。8世紀前半に主要伽羅が建立された。官侍として位置づけられた11世紀には数度主要伽羅は焼失。直ちに再建される。しかし治承4年(1180年)平重衛に南都焼討によって伽羅のほとんどを焼失。再建の努力を進めていたが、建治3年(1277年)雷火によって再び大半を焼失、その後も再建焼失をくり返し、明治の廃仏毀釈によって廃寺同然となったが、1882年(明治15年)再建される。1998年世界遺産に指定された。

さて明治5年、経営危機に陥った興福寺は五重塔を売りに出した。当時の金で250円である。この値段は焼き払われた後の金物の値段として見積もられたという。買った業者は焼く手数の費用にも足らないうえに近所への類焼も心配され、見送られて現在に残っている。

この塔は寛仁元年 康平3年 治承4年 延文元年 応永18年 5度火災で焼失している。応永33年に再建された。

さて興福寺北円堂に無著・世親像がある

5世紀頂北インドで活躍した兄弟の学僧で兄の無著は老相、弟の世親は壮貌でともに唯識に関する多くの著書をあらわし、法相の教学を確立した。無著は左手掌土に宝蕎(袋に納め、袋の口を括る)を捧げて右手をこれに添え右足をやや踏み出して立つ。桂材の一木造り

王眼を嵌入する 194.7cmの木造である。

東大寺の仁王像に続く作品とみられる。仏像と異なり、束縛されつ約束事がなく、思うがままの作技を振って制作した事であろう。

仏像と云うより、今日に至るまでの日本の木彫の一頂点を示す作品である。

 

 

 

 

       無 著 像

興福寺 山田寺仏頭

白鳳時代のもっとも優れた作例のひとつである。若々しい張りつめた表情が何とも爽やかで青年特有の美しさを表わしている。

 

法輪寺

奈良斑鳩町にある聖徳寺院 推古天皇30年(622年)聖徳太子の命で創建した。もと法隆寺式の伽藍であった。平安時代に入り以後荒廃。明治期には東寺真言宗の末寺となったが、戦後聖徳宗に復帰している。昭和19年三重塔焼失(1944年)中宮寺から法輪寺への畑中の道は行きかう人も少なく絶好の散策道である。法輪寺へ北に1km、三重塔焼失後「五重塔」の作者幸田露伴の娘幸田文等の尽力によって1975年再建がなった。

薬師如来座像 木造

止利仏師の作といわれる。たしかに法隆寺金堂の釈迦三尊像と類似したところがある。

しかし釈迦三尊像が左右相称性を強調し、緊張感に溢れているのに対し、より素朴で穏やか、顔、手はより大きく表現されている。光背は後補。

虚空蔵菩薩立像

聖徳太子と縁が深い寺で、太子信仰が盛んな為に、太子の本地仏である虚空像菩薩として祀ることになったようである。

両手、水瓶は後補。左手はその為ぎこちない形が似ているところから百済観音とよく比較される。

法起寺

法輪寺近くの聖徳宗の寺 聖徳太子が創建

684年三重塔を建造 この三重塔は法隆寺五重塔よりさらに洗練された技法を示し、優雅な建物で国宝に指定されている。日本最古の三重の塔である。堂内には木造の十一面観音。

塔内に寺宝の虚空蔵菩薩と通称される菩薩立像がある。中央に房飾りのついた宝冠を戴き、左手に玉を持し、頭と腹を突き出した、くの字形の金銅仏で像高は90.1cm、現在の保管は奈良国立博物館である。

何といっても見どころは国宝の三重の塔である。

唐招提寺

唐招提寺 律宗の総本山

聖武天皇の招請に応えて来日した鑑真が719年に創建、「唐招提寺文書」等多くの文化財を伝える。1998年世界遺産に登録された。

金堂、講堂、経蔵、宝蔵といった奈良時代以来の建築が現在、創建当初の状況を偲ばせる。金堂、講堂、経蔵、宝蔵はいづれも国宝である。

帝釈天立像

帝釈天立像 奈良時代158cm

桜材の一木造り 壇像である。

両肩部を矧ぎ付けした構造で、対となっている梵天と共通している。作品は桂材の上に描いて材質感を表現した。

大安寺

奈良市大安寺町にある真言宗の寺院、東大寺に次ぐ大寺。南都7大寺の一つ、639年舒明天皇の発願にかかる百済大寺の後身として天武天皇により高市大寺が建立され、のち大官大寺と称されたが、平城遷都に伴い左京六条四坊の地に移され大安寺と改めた。

710年国家仏教の中心的施設となった。10世紀以降しばしば火災にあい寺勢は衰微した。わずかに残っていた金堂も1744~48年に崩壊、1889年橿原神宮造営に際して、当寺の礎石の大部分が運び去られて荒廃。1912年に堂舎再建の運びとなり、現在の堂宇が建てられた。収蔵庫には楊柳観音、不空羂索観音、聖観音四天王像等、天平末期から平安初期につくられた一木造りの像が建ち並ぶ。

楊柳観音 (ようりゅうかんのん)

楊柳観音 8世紀作168.5cm

忿怒相を示した観音菩薩は極めて珍しい。

楊柳観音の名称は中世以降にみられる名称で伝承にすぎず、十一面観音である可能性も残っている。いずれにせよ力感あふれる像である。

全面に漆を施し、その上に黄白色の彩色が行われて、白檀の木の色になぞらえた檀像独得の彩色法をとっている。

 

増長天

増長天 桧の一木造り 像長140.0cm

忿怒の表情も何か静的であり迫力は乏しいが体躯の造型は力がこもっている。肩から先は後補で両手の形はぎこちなさが残る。

多聞天

桧の一木造 138.8cm

多聞天は体に残る文様が良く残って四天王の中でも最も精彩を放っている。

四天王ともに、当時から同じ揃っていたものかも判かでなく、元の形姿が明らかでない為に尊名も確かでない。

ツアーで回った時に訪れた寺院で、到着した時間は暮れかかっていて添乗員は説明を20分と限って僧侶に依頼した。熱の入った僧侶は30分を過ぎても話が終わらず、40分過ぎて切り上げてもらったが僧侶の説明は尚終らず。

バスまでついて来てバスの中に、語り込んだ。すっかり暗くなっていた。それだけ自分の寺の仏像に誇りがあったのであろう。

櫟野寺( らくやじ)

湖尻より東に櫟野寺はある。

日本に9体しかない十一面観音の座像の中で最大がこの十一面観音である。

最澄が比叡山根本中堂建立用の材木を求めて当地を訪れたときに霊夢を感じて櫟(イチイ)の大木に彫刻し安置したものだと伝わる。

櫟野寺は昭和43年1月焼失。

幸いにて本尊以下20数体の仏像は収蔵庫に移されていた為に焼失は免れた。元亀2年(1571)織田信長の叡山焼き討ちに伴い、各地の天台寺院も悉く焼かれたときに櫟野寺にも信長勢が押し寄せたが境内に映える紅葉を味方が放った火の手と見まちがえた信長軍は早々に退去し焼き討ちを逃れたと云う。

像は桧の一木造りであるが秘仏の為、見る事はかなわなかった。

但し11月3日に限って公開されている。

雨宝院 (うほういん) 京都

前日は京都の俵屋泊

俵屋は老舗の旅館である。洗面所等に置かれた石鹸は「俵屋」名入りで長く「花王石鹸」が納入している品だ。布団にもこだわりがあり、ポーランド産のグースの胸毛を手で摘んだ上質のダウンボールを95%使っている。こんな宿は他にないそうだ。酒は「俵屋」のラベルが貼ってあるオリジナルで純米吟醸酒である。食事の際に注文すると定価で出してくれる。

麸屋町の通りから俵屋に入ると、打水をした敷石を踏み、日常から非日常の世界に入り込むのを感ずる。廊下の突き当りの花入れに寒菊、水仙が活けてあり、何か茶室のたたずまいの雰囲気がある。部屋の掛軸、飾り、花と細心の注意を払って、季節感を醸成し、しかも何気ない風情である。建物の内部は一年中と云って良い程手入れを怠らない。

女主人佐藤年さんの話では「建て替える事はもう出来ないであろう」との事。職人が居なくなって来ているのだ。近年隣に高層ビルが建ち、昼でもすっかり暗くなって終わった。この国は文化財も景観も無視して金が大事なのである。腹立たしい限りだ。

俵屋の前に柊屋があり付近に炭屋があって、日本有数の旅館が3軒もあるのだ。

尚 年さんの夫でアーネスト・サトウ氏は東京生れで音楽評論家であり写真家、京都市立芸大教授であった。

近くにあると聞いた雨宝院に十一面観音があるとの事で、訪ねる事とした。門前に弘法大師、千手十一面観音菩薩、西陣聖天と墨書した提灯が下がっており、弘法大師云々の石碑が建っていた。

門を潜って庫裏に至る。老齢の住職夫妻が炬燵に入って休んでいた。十一面観音を拝観したい旨告げると「うちは報道陣や学者が沢山来て頼まれるが何十年と一切断っている”駄目だ” とにべもなく断られた」同行した妻が何と頼んだかは定かでないが、何で気が変ったのか、住職は杖をついて庫裏を出ると、下駄を履いて観音堂の雨戸をガラガラと開けて、拝観させてくれたのである。

 

平安時代の作とおぼしき等身大の長年秘仏であった十一面観音は、ゆったりとしておおらかな美しい姿であった。写真撮影はさすがに依頼するのは躊躇われたが、申し出ればよかったと今でも残念である。

そのあと住職は急に饒舌となり、戦後、奥さんの着物(住職は腰巻とも云っていた)を売って、観音堂を修理、押入を取り払って厨子とし十一面観音を安置した事や、自分も老齢で後継者を探しているのだが、仲々気に入った人物が見当たらない事等を30分余に亘って語ってくれたのである。偏屈な老人夫妻に皆敬遠し寄り付かなくなってでもいたのか、今でも何て頑固なあの住職が私達に秘仏をみせて呉れたのかは謎である。今あの雨宝院の十一面観音はどうしているであろうか。

仏像関係の書物を色々みる限り雨宝院の十一面観音にはお目にかからない。

最近のインターネットで確認すると、今は公開していて新しい住職が優しく温い印象で迎えてくれているそうである。

南蔵院

平安時代の歌人在原業平が東下りの際に墨田川で舟遊びをした時、舟が転覆し多くの人が亡くなった。彼はその人々を弔い、像を刻み村人に与え法華経を写経して塚に納めた。その傍らに南蔵院が創建されたと云う。

天台宗 業平山東泉寺と号し、延暦寺の旧門末。草創に関しては1348年(貞和4年)の記録がある。

1698年に本所小梅から中之郷8軒町に移ったが、関東大震災に罹り、昭和元年12月に現在地に移転した。境内には大岡政談で知られる「しばられ地蔵」が安置されている。

愛染明王像

境内本堂より左に入っ墓地内に置かれている。制作年代は不明。


観音菩薩立像

2017年12月に久方振りに訪ねたところ、墓地が大幅に改修され全ての墓石が新しく統一され古い石佛は一体もみる事が出来なかった。

工事中であったが付近に石佛群は見当たらず工事終了後は戻ってくるのであろうか心配な事である。

金連院の愛染明王

正式には法護山金剛宝寺金連院である。

本尊は大日如来 真言宗豊山派の寺である。

開山は不明であるが、永世年間(1504~1520)の創建と思われる。開祖賢秀和尚入寂は天正13年(1585)と判明している。旧門末30余ヶ寺朱印地10石をもった本寺格の寺院である。

愛染明王像

1710年26夜待講中の人々が26日夜に人々が寄合、飲食などしながら月の出を待ち、五穀豊饒、商売繁盛などを願うことである。

26夜待ちの本尊は愛染明王石像を彫るよりも文字を刻む例が多い。

像容は三目六臂像で中央の第1手に鈷鈴、右手に五鈷杵、下部の第2手に弓、右に矢を持ち、上部の第3種、左が拳をつくり、右に蓮華を持つ形である。造形的にも面白い、寺の境内の本堂の左脇に建てられている。和田家の菩提寺であり、子供の頃から見続けて来たものである。

境内に観音堂が信徒有志の資金で建設されて境内に十一面観音が納まっている。

昭和初年の頃に当寺の末寺の吉祥寺が廃寺となった時、本尊の十一面観音が金連院に引き取られたものであり、一時盗難にあったが無事戻ったと聞いた。毎月17日を縁日と定めている。尚境内に羅漢槇の大木があり、区の天然記念物に指定されている。樹齢は400~450年と云われている。


月輪寺十一面観音

月輪寺は京都の嵯峨野清滝の奥にあり、愛宕山への登りの途中にある。小さな寺で収蔵庫の中に聖観音、十一面観音、十一面千手観音、天部像と平安時代の仏像を多く揃える。土着性の強い十一面観音である。左手に水瓶に入れた蓮の花を持っている。頭上面は半数以上失われている。

東楽寺の聖観音

豊岡市の清冷寺集落にある。中に重文の四天王像がある。平安期の作だ。

聖観音は本尊秘仏の観音天像の前立ちの像として祀られている。木造で長年の護摩焚きで黒く煤けている。平安時代の作。51.2cm 壇像風につくられている。

注 前立ち 秘仏として厨子などに納められている。本尊に代って、その前に安置される仏像のこと。

京都北白川の石佛

ハーバード大学の植物館教授、D.ビューホド氏から古い雪見灯籠があったら、適当に見立て送って欲しいとの依頼があった。長年の友人の誼でもあり、京都の北白川まで探索に出掛けた。当地に石土が昔から多く存在し、現在でも石の作品を商う店が多くある事を知っていた為でもある。

(注)(株)西村石灯呂店 古代形石灯          呂創作所 北白川琵琶町15~1

その店には山の山腹にかけて数百という石灯籠が立ち並んでおり、皆苔むしてまことに風情なる景観を形づくっていた。しかし隈なく見て歩いたが雪見灯籠で、あまり大きくなく、形も良いとなると仲々気に入るものは無く、購入は断念したがその中にレリーフの不動明王があったのである。

古さもそこそこありそうで形も良く、作者も不明であったが描いてみて面白いと見たものである。

ディビッドも個人的に色々探したようだが結局見つからなかったようである。

ちなみに彼はボストン在住で、写真で紹介してくれた彼の家は日本家屋、天井は秋日杉の征目板で障子も入っており、床の間もありそこには私が進呈した書が掛軸となって飾ってあった。

 

湖東三山 西明寺(さいみょうじ) 西国薬師第32番霊場 近江湖東名刹第8番霊場

西明寺は承和元年(834年)に仁明天皇の勅願によって開創された。延暦寺が隆盛を誇るようになると、西明寺も天台宗の修行道場として栄え、山内には諸堂17、僧坊300を有する大寺院となったが、織田信長の兵火のあとは荒廃の一途を辿る事となる。徳川家光の代、天海大僧正の力により全面的な復興が行われた。

西明寺の入り口には「不断の桜」といって秋から冬にかけて咲き続ける桜樹がある。

地下水で根が暖まって咲くという話である。本堂と三重塔が国宝に指定されている。鎌倉時代の三重塔は美しく、内部には絢爛たる極彩色で浄土の風景が描かれており、中央には大日如来が鎮座。巨勢派の画家が画いた壁画が堂内を埋めている。

大日如来の脇侍仏32菩薩等が画かれ、鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものと云われる。釈迦如来は良かったが、他の重文の5体の仏像はさほど関心をひかなかった。やはりこの寺の魅力は三重の塔である。


金剛輪寺 (こんごうりんじ) 湖東三山の一寺

聖武天皇の勅願によって天平13年(741年)行基が開いた寺院。

石畳の参道にはつつじの刈り込みがつづき、国宝の本堂、三重塔が現れる。11月で紅葉が美しかった。織田信長の兵火に襲われて本堂、三重塔、二天門などがわずかに難を逃れた。昭和53年に至って、長年続けられた修復が終わり、本堂、二天門との伽藍配置が完成。現在に至っている。本堂内部に秘仏聖観音像があるが、みる術もない。他に阿弥陀如来(木像)に金箔が多く残る。脇を固める四天王像、十一面観音像があり、如来像は穏やかで藤原風の作風。当時流行の玉眼を用いずに古い彫刻眼の技法を用いている。この時代は運慶等の慶派仏師の活躍した時代であるが、天台宗は旧仏師を用いたのかも知れない。仲々良い像であった。

百済寺(ひゃくさいじ)湖東三山の一寺  近江西国16番札所

百済寺は推古天皇の代 聖徳太子の御願により百済人のために創建された古刹である。

比叡山に天台宗が開創されると、百済寺も天台宗の寺院となり「湖北の小叡山」と称されるほど壮大天台別院となる。

明応7年(1498年)自火により一部建物焼失。更に元亀2年(1571年)信長の兵火により一山悉く焼亡し、僅かに仏像数体と経文類を奥の院に守護していた為に難を免れた。

江戸時代以降は修復に修復を重ねて、今日に至るのである。

尚奥の院といっても寺はなく、裏山の集落に白鬚神社がその奥の院であるが、石段を登ると仁王門があり、そこに巨大な草蛙が掛ってあり、さらに登ると百済寺がある。

ここの紅葉はまことに美しい(仁王門に行くまでの紅葉が特に美しい)

兵火を経て、尚残る金剛仏弥勒菩薩像がある。白鳳時代の作で23.4cmの小像で、右肩は溶け落ちて火災の跡が痛々しいが好い像だ。

しかし、何と云っても見るべき物は全8巻の紺紙金泥妙法蓮華経である。

漆蒔絵函裏には金泥で「応永16年巳丑2月17日」の銘があり、1409年が制作年とされる。字も見事であるが、金泥の扱い方や磨き方が完璧で、これ丈の作品が現在見る事が出来るのは極めて少ない。

 

今日、金泥の書の伝統はすっかり失われており、あとを継ぐ人もないと云って良いのが現状である。私も微力ながら金・銀泥の書を継続して行く努力を続けている。

 

百済寺が百済人の為につくられた寺であるとすれば当時の天皇家と百済人との深い関係を良く示していると云える。

11月に訪れたこの湖東三山の寺はいずれも良く手入れが行き届いて、特に紅葉の美しさは別格であった。

 


羽賀寺の十一面観音

羽賀寺(はがじ)

福井県小浜市羽賀にある高野山真言宗の寺院。霊亀2年(716年)行基の創建で、その後勅願所となり、鎌倉期には源頼朝が国富荘内の田地5町を寄進した。

中世では18の坊があったと伝えられる。本浄山と号す。947年山津波ですべての堂塔を失ったが、その後土中に本尊を発見伽藍を再建し隆盛を迎えた。1190年三重塔を焼失したが1447年(文安4年)本堂再建(重文)寺宝には本尊の十一面観音、毘沙門天、千手観音、後陽成天皇勅筆の羽賀寺縁起がある。

並木の中の階段を登ると小さな本堂があり、重文の十一面観音が安置されている。菊の紋のついた赤い幕に囲まれて、金色の光背の中に異形の姿である。9世紀後半の作とみられ、頭上の菩薩、如来面は帽子を被ったように載せられており、左手には水瓶に入った蓮の花を持ち、右手は膝下まで届く、他の十一面観音と比べても異状に長い、7等身の像である。永く秘仏とされてきた為に、特に看衣に鮮やかな彩色が残っており、顔は他に例をみない異相であると云って良い。しかし何とも魅力に満ちていて、極めて印象に残る十一面観音である。3月中旬に参拝したが、他に人影もなく静かな寺の佇まいであった。

山形市の宝積院の十一面観音

宝積院(ほうしゃくいん)

真言宗の小寺で土地の信徒60戸が観音堂に納められた十一面観音を管理していると云う。像高52.0cmの平安仏である。榧の一木から彫り出されている檀像であり、やゝくの字形の体型で安定感を出している。風貌とその格調の高さから京都の仏師の作とみて間違いないようである。背面の天衣の交差しているのは珍しい。

奈良国立博物館でみた作品である。

奈良国立博物館の十一面観音

平安時代の作。白檀の一木造りで台座も白檀で別に造っている。

唇に朱を差し、眉や目に墨を入れ、他は素の木肌の美しさをそのまゝ活かした典型的な檀像である。

まことに精緻で完璧な彫刻で頭上面も損傷なく、見事な作としか云いようがない。

 

葛西神社の愛染明王と鍾馗石像

もと香取宮と称したが、明治5年社格制定の際、香取神社と改められ、同14年葛西神社になる。1185年葛西郷の領主葛西三郷清重の篤信により上葛西・下葛西あわせて33郷の守護神として、下総国 香取大神の分霊をお祀りしたと伝えられる。我家も祖父の代からの氏子である。近年まで長年我家に年4回は祝詞をあげに来ていた。

愛染明王 石仏

葛西神社の裏門を出て、道路際の草むらの中に昔から置かれている。損傷が激しく目鼻は全く判明出来ない。制作年代不明


鍾馗石像

区の文化財に指定された石造りの鍾馗であるが、全国的にみても石造りの鍾馗は珍しいとの事である。

羽曳野市 長月寺の十一面観音

桧の木目の緻密な一木から像全体を彫り出している。目・鼻・口をやゝ中央に寄せ、少し首をかしげてずんぐりとして堂々たる体躯を左に傾け、天衣は肩から今にもずり落ちそうであること等から変化を出している。全体の大らかな作りと細部の繊細な感覚が見事に統一されている。ー奈良国博展ーでみる。平安時代の作。像高47.9cm

法隆寺48体佛

1878年(明治11年)財政危機に陥った法隆寺は330件余りの宝物を皇室に献納した。

昭和22年国有に帰し、内国宝2件重文182件が国立東京博物館に8件が宮内庁に保管された。廃仏毀釈によってもたらされた寺院衰亡の危機による献上の願いが受諾され、当時の金額で1万円が下賜されたのである。

法隆寺献納48体仏もその中にある。

東京国立博物館東洋館として毎週木曜日の空模様の良い日に限って公開されていたが1999年新宝物館が完成してそこに納められた。今は常時展示、透明なケースに入って前後・左右からみる事が出来き、照明も良い。

何れも飛鳥時代の小金銅仏で大きくても40cm以下の仏達である。頭と手足を大きく童形で止利様式の諸像である。法隆寺の釈迦三尊像のような威圧感は全くなく、皆当時の貴族の念持仏として個人が蔵していたものであろう。愛らしいものばかりであるが、造形的に完成された様式美を有している。

さて慶応年間から荒れ狂った廃仏毀釈(神仏分離令)等の神道国教化政策の下で、寺院・仏像・仏具・仏典の破壊や僧侶の還俗強制が行われた。これにより経営困難となった寺院は多くの宝物を手放した。いくつもの寺院で五重塔が売りに出されたのもこの頃である。買った業者は五重の塔を焼却して金具を取り出す為という理由であった。

幸い寺院が慌てて買い戻して事無きを得ている。三渓園の五重塔ものこの時期に原三溪が購入したものである。(注)

神仏分離は仏教排撃運動に発展。全国寺院の60%はこの時期に破壊され、仏像の多くも破壊又は焼却された。夥しい堂宇、仏具什物、経典が灰になったのである。

捨てられた仏像、仏画、教典は1877年前後来日したフェノロサ、ギメによりボストン美術館、パリのギメ美術館に飾られることになる。

お陰で破壊から免れた多くの仏教美術が残った。

(注)三渓園の五重塔

    聖武天皇の勅願寺、京都燈明寺にあったもの。

    康正3(1457)年建築 

   旧燈明寺本堂

    五重塔と同じ燈明寺から移築。室町時代初期の建築

 

法隆寺 百 万 塔

塔高20cmほどの木製小塔とその中に納入された経文(陀羅尼)を合せて百万陀羅尼と呼ぶ。奈良時代 ” 藤原仲麻呂の乱” 平定後、称徳天皇の勅願で百万の小塔がつくられ770年、興福寺、東大寺、薬師寺、大安寺、元興寺、弘福寺、西大寺、法隆寺、四天王寺、崇福寺の10大寺に分置された。法隆寺に現存する陀羅尼は約3000のみが保管されている。

所々に蔵されているものはすべて法隆寺伝来である。中に4種の陀羅尼が各1枚納入されており、これらの陀羅尼は最世最古の印刷物の一つと云われている。

時折、骨董店に出る事があるが、相場は1基100万前後と云ったところである。

素地に胡粉を塗ってある。そもそも当時百万造ったものかは確かではないが、廃仏毀釈の際に売却して終ったのではと考えられるのである。

室生寺

友人の画家に手解きを受けた女優がいきなり油絵の個展を開いたが、それはあまりにも無謀な試みにみえた。しかし彼女は一向に意に介さずに2回目の個展を開く。DMに登場したのは何と宝生寺の十一面観音であった。

そのあまりの醜悪さにあの愛してやまない十一面観音を貶められた気持から予定していた個展に思い入れを籠めて3枚この十一面観音を描いたものである。その1枚をDMに使った。


さて宝生寺である、石楠花の咲き乱れる鎧坂を登ると金堂があり、女人高野として名高い宝生寺である。金堂の中には中央に中尊の像高235cmの大きな釈迦如来、右端は地蔵菩薩で左端にお目当ての十一面観音がある。像高は196cmだが他の像と比較して小振りであり小さく可憐にみえる。

全部の像が光背を負って立ち、特に十一面観音は美しい彩色が残っている。

左手に水瓶を持ち、右手は他の十一面観音に比してさほど長くはない。本面を除き頭上に十一面を戴き美しい瓔珞をつけ、おおきな輪宝を下げて1942年国宝に指定された。平安時代の榧の一木造りである。若い女性というよりはむしろ童女のような幼さが感じられ頬をふくらませて唇をとがらせ腹筋に力を入れて、まさに法力を吹きかけんとする姿にみえる。唇にはしっかりと朱色が残りその秀麗さは比類がない。気品と愛らしさを兼ね備えたその姿は多くの人々を引きつけてやまない。顔に比べてやや怒り肩で、体躯は逞しい。渡岸寺の十一面観音と並んで双璧であろう。金堂のやや左前方に弥勒堂があり、そこに鎮座する釈迦如来像は106.3cmとかなり大きなもので重文であるが、その堂々とした姿は金堂の諸仏に引けをとらない存在感を示している。

金堂を過ぎて本堂があり、その左隣りの坂道を上ると小さな石佛が並んでおり皆涎掛けをかけている。瓔珞のかわりであろうか。これが皆優品揃いである。

その先に国宝の小さな美しい五重塔が聳えており、そこを過ぎて猫坂を登ると御影堂にたどりつく。台風で杉の大木が倒れて五重塔は半壊したがその修復は早かった。


秋篠寺

前日は奈良ホテル泊

奈良ホテルは確か明治42年に建設されており、木造造りでレストランも外部業者が入っていない朝粥が嬉しい。奈良行きには良く泊る宿である。

近くに蔵元「春鹿」で有名な「今西清兵衛商店」があり寄る。志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」のモデルはこの店であり旧くからの春日大社御用達の蔵元でもある老舗だ。この蔵元に重要文化財「今西家書院」があり、もと福智院氏の居宅であったが大正13年に今西家の所有となった。建物の形式手法から室町時代を降らないと推定されている。1978年9月から80年4月にかけて解体修理を行って費用は1億円との事である。

抹茶・コーヒー等は当日可。点心は3日前までに予約が必要だそうだ。酒もそうだがここで売っている奈良漬はすこぶる旨い。


伎 芸 天

大和西大寺から北500m程のところに秋篠寺はある。五段の石段を登ると土塀に囲まれて門がある。南門の近くには塔址が残っており、苔むした雑木の中にはかつて栄えた堂寺の姿はない。780年創建、奈良朝最後の官寺である。

1125年火災で焼失。残った構堂を修理して本堂としている。本堂須弥壇に重文の伎芸天救脱菩薩、帝釈天が安置されており、いずれも脱乾漆造りの立像である。

人気の伎芸天は暗い堂内の中で、わずかに明るく照らされて至近距離でみる事が出来る。伎芸天の名称は頭部を左に傾けて、わずかに口を開き腰を右に捻る。表情・姿態によると思われる。彩色は後補であるが、今も剥落はあるものの残されている。丸顔の肉付きも柔らかく複雑で微妙な表情も乾漆造りの技法が巧みに駆使されてみごとに表現されている。

桧材で像高205.6cm 流石に美しい。

 

       寧楽(ナラ)へいざ  伎芸天女のおんまみに ながめ 

                             あこがれ 生き死なむかも           川田 順 

 

梵 天

眉間に縦じわを寄せて眉目を吊りあげた厳しい表情である。鎧の上に絹布を懸け、裳と腰布を着ける。頭部を脱乾漆でつくり、体部以下は木造である。彩色はほとんど後補であり良く残っている。体部は1289年に補われたことが内部の墨書で明らかである。天平時代後期の作りとみられる。襷の一枚板に水彩で描いた。

西大寺

秋篠寺から中野美術館をみて西大寺に向う。西大寺境内に旧建物の礎石が多く残されて過去の栄華がうかがわれた。

西大寺は真言律宗の寺院で南都七大寺の一つである。764年孝謙天皇の発願によって780年頃までかかって創建された。31町の広大な寺地に薬師金堂、弥勒金堂、東西西塔が並び、壮麗な偉容を示していた。

860年に主要伽羅が焼失し、更に1502年の兵火で残る大半が焼失。その後は再建ならずに現在に至っている。

当日の宿は奈良公園近くの観鹿荘。旧い日本旅館で部屋の床柱に法隆寺昭和大改修で出た穴のあいた廃材がそのまま使われていた。

 

新薬師寺

    伐 折 羅 大 将

高畑町 志賀直哉旧居をみる。(前日奈良ホテル泊)

木造平屋建てが並ぶ閑静な住宅地である。

志賀直哉邸は木造2階建てで、南に面して大きなサンルームが印象的で床は磁器タイル張りであったようだ。いかにも文人が好むような住宅である。瀧坂の道を行くと夕日観音、首切観音、春日石仏と石仏が並ぶ。知事公邸から依水園、寧楽美術館では銅鏡の特別展が開かれていた。依水園は良く手入れが行き届いて美事な庭園であった。

 

新薬師寺の伐折羅大将

高畑町にある華厳宗の寺院で光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したが平安時代は衰微し、興福寺の末寺となった。十二神将の大半は天平時代(729~749)の塑像で十一体は国宝、残る波夷羅大将が昭和の模作である。

甲冑の形式は同一形式の反復であり、大形な表情と動きをみせているが、その割に迫力に乏しく、造形的にもやや破綻がみられるようだ。

 

飛鳥園の創立者小川晴暢が伐折羅大将の頭部に照明を当てて劇的に表現し、絵画的な写真にしたことによって十二神将は一躍人気となり、観光客も殺到する事となった。

しかし東大寺の戒壇院の四天王像と比べると造形的にも精神性でもかなり見劣りするのは否めないところだ。

境内に石造りの五重塔と如来石像があり「ちかつきて あふきみにとも みほとけの美そなはずとも あらぬさびしさ」の碑文があった。作者は判読不明
「神将立つ 内陣涼し 薬師窟」月甫

奈良ホテル
奈良ホテル

        1982年初めて参拝した後に彫った伐折羅大将の版画

海住山寺(カイジュウセンジ)

十一面観音(45.6cm)

京都府木津川市加茂町例幣海住山

             境外20                            関西本線加茂駅より北西木津川を越えて3km離れた標高400m余りの山中に海住山寺はある。歩いて登るのは難しい為に車を使用するが道幅が狭く、擦れ違う事が出来ない。当時は車同士が無線で連絡し、上から車が下りてから上るしかなかった。

本堂は東向きでその南前方に五重塔、北前方に文殊堂が配されている。

海住山寺の象徴的存在の国宝五重塔は山麓からも見える位置にある。寺院の草創は天平年間と伝えられている。

文殊堂も国宝。本堂内には重文ゝの167.7cmの堂々たる十一面観音があるが、お目当ては45.6cmの十一面観音である。榧の一木造り、頭上に十一面を頂き、左手に水瓶蓮の花は銅製である。     

当初から素木のまゝの檀像のつくりである。十一面を頂く頭部を大きく造る小像の特徴

を示して、僅かに左に腰を捻って立つ。9~10世紀の作とみられる。

作者の冴えた力量が遺憾なく発揮されて小像ながら彫刻的にみても誠に見事な出来栄え
で、数多い十一面観音の中でもひと際群を抜いている。須弥檀中央に設けられた厨子に
安置された本尊の十一面観音が古いぎこちなさの残る彫刻としては魅力に乏しい像に
比して際立って精彩を放っていた。

東大寺

華厳宗の大本山。本尊は盧舎那仏で奈良の大仏として有名。741年3月24日の詔に基いて
設置された全国国分寺の中心となり、総国分寺とも称せられた。大仏造顕の目的は華厳
経で説く理想世界をこの世に実現しようとしたものである。
聖武天皇の発願で光明皇后の勧めによって創建された。行基は勧進の大役を命ぜられ、
当時は76歳であったが勧進に奔走し749年大仏は完成した。
この本尊を中心に東大寺は創建された。757年までに南大門、東西西塔院講堂等完成。
1180年平重衡の南都焼討ちにより諸堂ほとんどが焼失した。
鎌倉時代に再建。1567年兵火で大仏殿炎上。江戸中期まで露座の大仏と化している。
徳川綱吉の代に1692年大仏殿再建。

三月堂の月光菩薩 


三月堂には本尊の不空羂索観音、脇侍の位置に日光、月光。四隅に四天王、二体の金剛力士、帝釈天、梵天と十一体総てが国宝である。

堂内のたたずまいは拝観するのに最適な形をなしている。日光、月光は俗称であり菩薩とは言い難く、脇侍は帝釈天、梵天であろう。

大きな仏像群の中にひっそりと立つ小ぶりな日光、月光は後に他から移されたと云われ、胸高に花形の飾り、襟の縁取り、帯などの華やかな飾りと大きな唐風の宝髻を結い上げて、品格あるやさしい顔立ちと相俟って高貴な婦人を思わせる。
天平時代を代表する塑像である。

戒壇院の四天王 
戒壇院は僧侶に戒律を授ける為に建立されたものであるが、奈良時代にはこゝだけで一
つの寺院形式を形づくっていた。
今は国宝の四天王だけが多宝塔のまわりの四面に立っているのみである。
7世紀半ばに日本に伝えられた塑像の技術は同じ頃中国から伝えられた乾漆の技術と共に
8世紀天平時代の彫刻の主役を務める事となる。
やがて天平時代末期に至ると日本で入手しやすく彫刻にも適した桧材が多く使われるよ
うになり、塑像はほとんど造られなくなる。
乾漆は仏、菩薩の静かなもの、塑像は動きの激しい天部、神像と使い分けられたようで
ある。
11月正倉院見学のあと、東大寺三月堂の月光、日光をみて戒壇院に向った。途中の住宅
に榊莫山の手による真新しい表札が掛かっており流石に目をひいた。

 

北西に位置する 「広目天」         北東に位置する 「多門天」 

南西に位置する 「増長天」          

 南東に位置する 「持国天」



さて戒壇院に着くと拝観者は私達二人以外に二人しかおらず、その二人とは加藤周一氏(注)と夫人矢嶋翠氏であった。

厚かましくも正倉院展の図録にサインを求めたところ加藤氏はあの鋭い目で私をしばらくじっとみつめたあと、柱に寄り掛かってサインをしてくれた。

矢嶋氏が隣で「アラ貴方にもミーハーな読者がいるのね」        

と云わんばかりに笑いをかみ殺       加藤周一氏と夫人の矢嶋碧氏

していたのを思い出す。             

   

 四天王は1733年戒壇院が再建されると東大寺大仏殿から移されたと云われている。
持国天は兜を被って口をきっと結び、目を見開き、口を開いて怒号している。両者と
も片足をやゝ上げて邪気の頭を踏みつけている。多聞天と広目天は口を結んで、目を
半眼に開き、深い眼差しで沈痛な表情をうかべている。各像とも装飾も細部に亘って
絶妙につくられており、四像とも表情や動きは異なるものゝ見事に抑制されて高い精
神性が籠められており、日本の彫刻史上の最高の出来栄えと云って過言でないと思う
のである。
塑像が今日まで破壊されずに存在する事にも驚くのである。

 

(注)加藤周一は1942年に福永武彦、中村真一郎と3人でマチネ・ポエティクを結成
し4行詩を作ったりの活動をしていた。「桜横ちょう」は加藤の詩である。その後精
力的な評論活動を行い「日本文学史序説」を始めとした幅広い分野で鋭い論陣を張った。
その博覧強記振りは驚異的であった。晩年「九条の会」の発起人となり」、終生積極的
に社会に発信し続けた。「加藤周一著作集24巻」他多数あり。

 

法 隆 寺

   釈迦三尊像

松並木の参道から南大門、中門を経て、中央に金堂。東に五重の塔。

中門、金堂、五重塔は日本最古の建物で、世界最古の木造建築である。金堂内の須弥壇中央に安置される三尊像は光背に刻された銘文によって、聖徳太子死去の翌年623年、南梁の末裔である鳥仏師(鞍作上利)が造った事が判る。金銅仏である中尊は聖徳太子を模して作られ、座像で頭部や両手は大きくつくられ、衣の壁は装飾的で裾にいくほど左右に拡がる。中国北魏の磨崖仏の影響を強く受けており、杏仁形の目と古拙の微笑が特徴的であり厳格端正な作風を示しており、やや平面的である。左隣りの文殊菩薩は特に渡金が良く残っている。

当時の人達が避ける事の出来ない強大な自然の脅威に恐れ戦いた畏怖の念がこの像から受ける印象である。

6世紀半ばに軌道に乗った部民政(注1)、国造制を基礎とした氏姓制度はヤマト政権を次第に安定させ、大王の世襲化を図り、大臣、大連に率いられる太政官会議の形をなしていった。

仏教の受け入れをめぐって、積極的な蘇我氏と、これに批判的な物部氏の対立は激化し、やがて蘇我氏は物部氏を滅ぼし、政権内でぬきんでた勢力を誇る事となる。

中国大陸では北朝の隋が巨大な統一国家を建設、ヤマト政権は隋に朝貢し、呼応して自らも小帝国形成につき進むのである。

高句麗や百済から僧侶を迎えて仏教を積極的に受け入れた。当時はヤマト政権は関東以北、九州以外の列島の一部を支配していたに過ぎず、単なる一地方を支配した政権と云えるのである。

隋大国からの圧力、政権内部の軋轢等脆弱な政権を急速に強化する為に諸制度の確立。仏教を利用した支配下住民の思想統一を目指した。

仏像製造と巨大寺院の建設で支配強化を図った603年12階の冠位を定め604年には「憲法17条」を制定。中国風の政治体制づくりを推し進めた。

厩戸王子は蘇我馬子と協力。607年には法隆寺を創建。

着々と体制づくりをすすめたが、622年厩戸王子は志半ばで死去。百済、高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝時代の文化の影響を受けつつ厩戸と大臣馬子の時代を頂点として飛鳥文化が花咲いたのである。以後ヤマトを中心とした日本列島初の本格的国家が始まりつつあったのである。

この国内外の緊迫したなかで飛鳥文化が花開いたのは丁度16世紀フランス・ルネッサンスが政治的混乱の中から花開いた事を思わせるのある。

 

(注1)部民

王権の形成に伴い、近畿の中小豪族を伴(トモ)として宮廷の各種の職務に奉仕させたことに始る。

ヤマト政権の全国支配の進展に対応しこれが全国に拡大された。

 

    多聞天・広目天立像


  百済観音

西院伽羅の東寄りの大宝蔵殿に安置されている仏教伝来から10年程経過して作られたといわれる従来虚空蔵菩薩と伝えられて来たが、明治時代に入って透彫りの美しい宝冠が発見され中央に化仏があることから観音菩薩と訂正された。

百済から渡って来たのではないかと考えれてこの名がついているが日本の作で楠の一本造りである。日本に白檀が産しない為に目が詰まって香りの良い楠が用いられている。

やがて8世紀に入ると檜が多く使われるようになる。左手は水瓶を摘んで下げて持ち、右手は如意宝珠を捧げ持っていたと思われ、その痕跡が手の平に残っている。顔や胴には乾漆が使用されている。像高は210.9㎝、痩身の八頭身であり身体の微妙な曲線が優美で美しい。

 

   救世観音

聖徳太子の遺族、山背大兄以下を蘇我入鹿は謀により滅ぼし、斑鳩宮も643年焼き払われた739年に至って東院の建立が行われ太子在世時に造立された御影救世観音が安置された造立銘中に「当造釈象尺寸王身」と記されていて像高180cmに及ぶ丈高な姿であったが当時の人々には超人的な徳を備えた太子の大きさをみて不当に大きすぎるとは感じなかったようだ。

長い間深く厨子に閉ざされたまま秘仏として伝えられていたが、明治17年夏、フェノロサが強いて鍵を開けさせ、塵埃に閉口しながら天保時代には既に厚く巻かれていた木綿の白布を取り除いて、現れた黄金色に輝く佛像をみた僧侶達は恐ろしさのあまり、皆逃げ出したと云われる。観音像は大きな山形の宝冠を載き、火焔付きの宝珠を捧げている。樟の木の一木造り。白土下地を施した上に、金箔を押して仕上げている。形は釈迦三尊の釈迦像に類似しており堂々たる姿である。この観音像は慈愛に満ちていることもなく、やさしさもない。まさに異形の相であり、威圧的ですらあり人を平伏させるような姿にみえるかその存在感は実にみるものに迫ってくる。

4月11日~5月5日、10月22日~11月3日が公開日で照明も充分で、充分拝観できる。大宝蔵院のすぐ西に夢殿があり一名夢殿観音と称される。

 

九 面 観 音

大宝蔵院に入るとすぐ右に棚があり諸仏が並んだ中に目立つことなくこの国宝の九面観音が鎮座している。手が触れんばかりの近さにその美しい姿をみせている。

同じ場所にあまりにも有名な百済観音がある為に、この小さな仏像を知らなければうっかり見落とすところだ。

白檀の一木造り37.1cmの小像である。本面の他に頭上に8面の形を持つ。この形はこの像以外に類がない。その彫りは精緻を極めており、檀像彫刻の典型である。若い男性の風貌で凛乎とした姿である。二重瞼に切れ長の目、叡智にみちた表情をみると、作者の腕の冴えと精神性の高さにただ驚嘆するのみである。

壇像彫刻の善美を尽してその頂点に立つ作品である。8世紀に盛唐から渡来したものと云われる。

夢 違 観 音

法隆寺夢違観音 宝蔵殿蔵 白鳳時代

江戸時代に東院殿の本尊として祀られていた。悪い夢を見た時にこの像を拝めば良い夢にかわり、良い夢は実現するという信仰を得ていた。

金銅佛 佛高87.0cm 慈愛に満ちた表情はその清純さから人気の高い仏像である。

橘夫人念持佛

法隆寺橘夫人念持佛 中尊33.3cm

蓮華座に安置される阿弥陀三尊像で7化仏を浮彫りにした後屏を負い、浄土の世界を展開している。光明皇后の母橘三千代の念持仏

小金銅仏としての最高作品といえる。

中尊の後頭部には流麗な透かし模様の円光を配し、その趣向は華麗の限りを尽して、貴人の要望に見事に応えている作品となっている。

 

中宮寺

 如 意 輪 観 音

中宮寺は法隆寺東院の北東に門を開いている。

創建は飛鳥時代にさかのぼり、もとは現在地から東へ500m程の地にあったが室町時代に荒廃しその後現地に移された。

 

本尊の如意輪観音は漆地の上に岩絵具で彩色されており、当初は金色の宝冠を裁き、胸飾り、腕臂釧を付けていた跡が額や側頭部に残る。

樟材であるが両腕等別材を組んで造られている。

時代が彩色を失わせ、漆黒の肌の光沢を生んで、現在の美しさをつくり出したのである。

哲学者の和辻哲郎は「なつかしいわが聖女」と呼び「神々しいほどに優しいたましひのほゝゑみ」と述べている。

 

又会津八一はこんな歌を残している。

「みほとけのあごとひぢとにあまでらのあさのひかりのともしきろかも」

みるものをこのように言わしめる美しさがこの仏にはあるのだ。

金堂の須弥壇の4隅に木造の四天王がいる。

光背の銘文から作者は仏師山口大口費と知れる。650年の作で、共に憂いに満ちた眼差しで邪鬼の背に直立している。

四作とも造りに硬さがあるが、描いてみるとそれはそれで魅力的である。