和田 大諷

東京都 葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作。

個展は都内、ひたちなか、米国のロスアンゼルス、ロシアのサンクトペテルブルグで開催、20数回に及ぶ。

過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

2022年鳩居堂「和田 大諷 金泥の世界」は終了いたしました。

本来2021年の個展(2021年4月)が新型コロナウィルス感染防止の為延期となり1年遅れて開催となったものです。2022年 4月 5日(火)~

      4月 10日(日)

 

   

著 書

 2014年2月

  「大諷の映画狂時代」

  2018年1月「大諷のへそ曲り

            読書日記」

  2019年7月  「大諷の観音の道」

  2020年11月  「大諷の無辺楽事」

  2021年11月「続 ・大諷の無辺楽事

         ボクシング編」

  2022年 目下制作中 8,9月頃予定

          和田大諷「金泥の世界 」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

雲岡石窟について    2022年8月28日

雲岡石窟(ウンコウセックツ)について 

 

(註:雲岡石窟は現地名。2001年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された名称は雲崗石窟 )

 

1. 漢帝国の末期、帝国の内部に勢力を有した司馬懿(シバイ)を中心とした知識集団清流派が存在した。

清流派の勢力拡大を恐れた漢帝国はその中心人物の身柄を獄中に拘束するが、この勢力が黄巾の乱と結託するのを危惧して帝国は懐柔政策をとり、牢から解き放つ。鎮圧された黄巾の乱の残党30万と清流派を味方にとり込んだ魏の曹操は、天下統一を狙って赤壁の戦に臨むが敗退。曹操の死後、司馬懿の孫 炎は魏の王位を簒奪し、蜀、呉も滅ぼして天下統一。晋帝国を建設(265年)するが316年4代で滅亡。317年司馬睿が南京にて再興するが、420年に滅亡(東晋)。

 

2.後漢から魏、晋時代にかけて北西方向から中国本土に侵入移住した匈奴、羯(ケツ)、鮮卑、氐(テイ)、羌(キョウ)は五胡と云われ、鮮卑、匈奴、羯はモンゴルもしくはトルコ、ツングース系である。十六国はいづれも漢民族。胡のうち鮮卑が北西より侵入し勢力を拡大し386年北魏を建設。拓跋珪は398年大同に都し、帝位につく。439年は華北を統一、漢民族の伝統や新事の仏教文化、知識人、僧侶、技術者などを集めて大規模な都城を建設した。ここに居住していた漢民族のうち裕福な人達は肥沃で温暖な太平洋側に宋(420年~497年 南朝の最初の王朝)を建康(現南京)に建設。北魏には貧しく脱出も難しい人達が残った。こゝに南北朝時代が始まるのである。

北魏は西方にも勢力を拡め、和平元年(460年)宗教長官(沙門統)に就任した僧侶曇曜は五代文成帝に上奏し5人の皇帝(5人とは  道武帝ー明元帝ー太武帝ー景穆帝ー文武帝ー(孝文帝))を供養する為に大同の西郊武州塞に5つの石窟を開いた。これが雲岡石窟の始まりで、仏法を広める皇帝は如来であるとした。

雲岡の崖に1㎞にわたって造られた曇曜石窟は53を数え、その他に小窟、仏龕も数多く穿れた造像の総数は5万1千体に及んだ。

 

3.北魏では皇太子の生母は殺されることになっていた。皇太子の生母となると親族がこれを利用して王権に介入する危険がある事から定められたものである。5歳で即位した7代皇帝孝文帝の執政は5代皇帝文成帝の馮皇后であったが、子供を産まなかった為に生き残った。決断力、実行力に富んだ人物であり、次第に権力を高めていった。文成帝の皇太子であった19歳献文帝を意に副わずに毒殺したと伝えられている。馮皇太后は孝文帝の養育を荷って、やがて孝文帝と2人で戸籍と税の制度である

「均田制」( 註1) 「三長制」(註2) を創設させるなど統一国家としての基盤づくりに力を発揮した。

  註1「均田制」従来豪族の支配下であった農民に、国が15歳男子には40畝、同女子には20畝の土地を給した。(1畝は単位6尺四方を1歩とし、100歩を1畝とした。)当該者が死亡した際には国に返却するもので豪族の過酷な支配から脱した農民の生産力が飛躍的に上がり、従って国の財政も豊かになっていったのである。この制度は日本にも伝わり班田収授法として奈良時代に取り入れられた。

註2「三長制」北魏の隣得制度。村落の五家を一つの隣とし、五隣を一つの里、五里に一つの党として各々に隣長、里長、党長を立て、治安維持と徴税機能の強化を図った。486年に制定している。

 

孝文帝は胡族と漢族との通婚を奨励。公服を漢風に改め494年には漢族の古都洛陽に遷都、鮮卑服の着用を禁止、495年には鮮卑語の使用を禁じ、496年には胡名を漢風に改める等積極的な漢化政策を打ち出した。これが鮮卑族の反感を買い、帝国の弱体化に繋がった。南と北の帝国は隔絶し交流は全く無く、北魏は半ば鎖国状態の中で独自の文化を発展させた。書については唐時代の隆盛の基礎となり、日本の仏像彫刻の原点となって大きな影響を及ぼした。孝文帝は中国皇帝の中でも指折りの名君である。

質実剛健な気風、武力の充実に加えて均田制が施行されて農業が奨励さてたことで著しい農業生産の発展は経済の発達が退廃した南朝を圧倒して、隋による中国の統一となった。隋王朝は自らは漢人としているが、北魏の流れを受けており、初代揚忠の子隋王朝の初代皇帝高祖文帝の妻は鮮卑系の名門独弧信の娘であることからしても北魏系であると思われる。

歴代皇帝

1.太祖道武帝 386年~409年(拓跋珪)

2.太宗明元帝 409~423(拓跋嗣)

3.世祖太武帝 423~452(拓跋燾) 

4.隠帝(南安王) 452(拓跋余)

5.高宗文成帝 452~465 (拓跋濬)

6.顕祖献文帝 465~471(拓跋弘)   

7.高祖孝文帝 471~499(元宏)

(孝文帝の漢化政策によって漢風の姓「元」に改めた。)

8.  世宗宣武帝 499~515(元恪)

9.粛宗孝明帝 515~528(元詡)

⒑ 敬宗孝荘帝 528~530(元子攸)

⒒ 廃帝(東海王) 530~531(元瞱)

⒓ 廃帝(節閔帝) 531(元恭)

⒔ 廃帝(安定王) 531~532(元朗)

⒕ 孝武帝 532~534(元脩)

 (北魏最後の皇帝)

東西に分裂 東魏  孝静帝

      西魏  文帝