和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

2021年鳩居堂の個展(2021年3月30日~4月4日予定)は延期となりました。新たな開催予定が決まりましたら

本ページにてお知らせ致します。

  

著 書

 2014年2月

  「大諷の映画狂時代」

  2018年1月「大諷のへそ曲り

            読書日記」

  2019年7月  「大諷の観音の道」

  2020年11月  「大諷の無辺楽事」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

今西錦司とはいかなる人物か

今西錦司とはいかなる人物か   2021年2月26日

 

1.1902年1月6日京都西陣の織物業の家に生れる。屋号は「錦屋」と言い、西陣の織元の中ではトップクラスで銀司が生まれた頃は総勢30人もが働いていて、その中心に祖父平兵衛がいた。平兵衛は進取の気性に富んでいて、織物の研究のためヨーロッパにも出掛けており、最新のジャガード織機の導入から、これを改良して新ジャガード織機も考案している。

又同業組合の頭取うあ商工会議所の役員を歴任、京都市議会員もつとめていた。

 

2.当時の京都には未だ自然が多く残っており、銀司は小学3、4年生の頃には昆虫採集を始めており中学入学の頃には特に蝶の採集コレクションを驚くほど有していた。

 

3.13才で富士登山、16才で同級生と青葉会をつくり山城30山を設定し、登山に傾倒する。1年浪人の後、第三高等学校入学。1925年京都帝国大学農学部入学。’28年卒業、結婚。’31年ヒマラヤ遠征計画をたてるが、満州事変で中止。’32年樺太、東山山脈を踏破。理学部大学院を終えて研究嘱託となる(無給)。’33年加茂川のカゲロウの棲み分け発見。’39年京都探検地理学会設立、内蒙古調査。同年「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学博士の学位をうける。’41年ポナベ島へ生態調査。同年「生物の世界」出版。’42年中国東北部の大興安嶺を63日で縦断。’44年内蒙古奥地調査(9月~翌年2月)。この頃まで登山、探検は藍染めの足袋・脚絆に草鞋履きである(蝮よけのため)。

尚今西の生活費については三高卒業の直前’25年2月父平三郎はガンで死亡。

家の商売は既にやめていた。生活は家作があってその賃料を当てていたのである。

 

’48年京大理学部講師となり、始めて常勤講師となる。同年宮崎県都井岬でウマの調査を開始。その間ニホンザルの一群に出合ってサルの調査に転向する。’52年日本山岳会マナスル登山の先発隊長として、ネパール、ヒマラヤを踏査。宮崎県幸島で二ホンザルの餌付けに成功。’58年第一次ゴリラ調査隊長としてアフリカ調査。’61年京大類人猿学会調査隊長としてアフリカへチンパンジー調査。’63年第2次アフリカ調査。

’79年文化勲章受賞。’85年83才で奈良県白鬚岳1,378m登頂成功。日本登山史上例のない1、500山登山達成している。頂上ではいつも酒盛りを楽しみ「酒は山の上でこそうまい」と語っている。彼は頑固一徹でやれ個体識別だ、長期観察だ、熱帯林だ、サバンナだと野外を流れ歩きまわったあとに、日本の霊長類学や、日本のアフリカ地域研究が育っていった。

 

彼は学術探検のリーダーだった。青年たちに対する指導は徹底したもので、常に自然を正確に自分の目で見よというのが基本であった。彼はフィールドにおいては比類のないリーダーであって、登山においても探検においても研究活動においても常に優れリーダーシップを発揮し、若者たちはそのリーダーぶりに心服してフォロワーとしてついていったのである。

彼は自由人であり何事にもしばられることを最も嫌った。自分のやりたい事を自分のやり方でやり遂げる。彼は自分でも野人と称していたが、京都というなかで人間形成を行った都会人であり、生まれながらの自由な近代的市民であった。

彼の率いる様々なチームの関係はドライそのもので若いメンバーの間では「団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすい」と語合っている。

晩年は「自然学」の提唱を掲げて進化論研究の締めくゝりとした。

        (1992年6月15日没 90才)