廉頗(レンパ)、藺相如(リン ソウジョ)列伝 司馬遷 21年に読んだ本10

廉頗(レンパ)、藺 相如(リン ショウジョ)列傳  司馬遷 

 

趙の恵文王の時、王は楚の和氏の璧(カシノタマ 又は ヘキ)を手に入れた。

璧は環状の玉器で環の幅が孔の直径に等しいもの。

楚の和氏は玉の原石を手に入れて楚の厲王に献上した。王が細工師に鑑定させたところ「ただの石ころにすぎません」という。騙されたと思った王は罰として和氏の左足を切断させた。厲王の死後、武王が即位すると和氏は再びこれを献上。細工師は「ただの石です」と云い、今度は右足を切断された。

 

武王が死去して文王が即位。和氏は玉の原石を抱いて山中で泣いていた。文王がこれを

細工師に磨かせたところ、見事な宝玉があらわれた。これを「和氏の璧」(カシノヘキ)と名付けた。

 

秦の昭王はこの璧が趙王の手に入ったと聞き、趙王に手紙を送って15の城と璧を交換したいと申し出た。趙王は臣下達と相談、璧を秦に与えれば秦の城は手に入らず、一杯食わされるだけで、これを拒否すれば秦軍の襲撃が心配であると相談がまとまらない。

すると重臣の一人が「それがしの家令藺相如ならば使者の任に堪えます」と過去の事例を挙げて説明。王はこれにより、これを使者と任命。使者にたった相如は璧を捧げもって秦にのり込む。

秦王は遊興にふけっていた場所に相如を呼び寄せた。秦王は大いに喜び、璧を側室や側近のものに回して見せる。側近達は皆万歳と叫んだ。相如は代償として趙に城を渡す意志のない事を見とどけると「璧にきずがございます。その個所を教えて差し上げます」と王から璧を受けてると、相如は「因りて璧を持ち却(シリゾ)き立ちて柱に倚(ヨ)る。怒髪上りて冠を衝く」

大王は璧を手に入れようと手紙を趙に届けられた。趙は家臣を集めて相談したが、誰もが秦は貪欲でその強大さをたのみ、でたらめを云って璧を取ろうとしている。

城を代償にするなど実現しまいと一致したが、私の意見は、たかが璧一つの為に強国秦との友誼を無いにするのは良くない。大国の権威を尊重して十分に敬意を払うためです。しかるに璧が手に入ると遊興の場所で私と会い、傲慢なあしらいで璧をお妾共にまわし私を馬鹿にされる。

 

ここで本文「臣、大王の趙王に城邑を償うに意なきを観る。故に臣復(マ)璧を取れり。大王、必ず臣に急らんと欲せば、臣の頭、今璧を倶に柱に砕けん」と秦王は驚いて詫びを述べると、相如は大王は5日の物忌みをなさり、宮廷で正式なる引見の礼を行うべきですと述べた。

秦王は5日のものいみをして宮中で引見の礼をととのえ、相如を迎えた。

相如は「秦の繆公より以来、20余君未だかって約束を守った者はいません。私の恐るゝは大王に欺かれて趙にそむく事である。故に人をして璧を趙に持ち帰らせた。秦の強さを以て、先ず15都市を趙に与えれば、璧を秦に渡さない事などありません。臣、大王を欺きし罪誅に当ると知る」として、どうかゆで釜のところに参りましょうと申し出る。

 

結局相如を殺したところで璧は手に入らず、趙を敵に回すことは得策でないと知って、相如は厚いもてなしを受けたあと無事帰国する事になる。

 

趙ではこの功績を多とし、相如を宰相に任命する。これに対し廉頗は自分が大将軍とし

て国を守ってきたのに対し、相如は口先一つで自分より位が上になったのが面白くない。事あるごとに相如をそしる。

やがて相如が外出するとき、廉頗を彼方に見かけると車を戻させて廉頗を避けて隠れた。家令たちは「あなたは廉頗を恐れて、逃げかくれて私達は恥ずかしい」と口々に意見した。そこで「相如は秦王の威光をもってしても、私は宮廷で怒鳴りつけ、秦の家臣どもを宮廷で怒鳴りつけ、秦の家来どもに恥をかかせた。私は駄馬ではあろうが廉頗ごときを恐れようか、巨大な秦が趙を攻めないのは私達二人がおればこそ、二頭の虎が争ったら必ず一頭が倒れる。私がぶざまな姿をさらすのも国家の危急を第一と考えるからである」と。

廉頗はこの話を聞くと、相如の門を訪れ「育ちのわるい私めは、将軍がこれほどまでに

心広い方とは知りませんでした」ついに二人は友情をかよわせ、刎頸の交わりを結んだのである。

 

或る時秦王は酒宴をひらき、宴がたけなとなると「趙王どのは音楽好きだと伺っている、どうか瑟(オオゴト)を弾いて下され」趙王、竹べらがかきならす。相如が進み出て云

う「秦王は民謡をうたうのがお好きだそうで、趙王の為にご一緒に楽しみましょう」秦

王は立腹して承知しない。相如はひざまずいて秦王に頼む。秦王はかめを叩こうとしない。相如は「わずかに5歩のへだたり、一つそれがしめが首の血しおを大王にふりそそいでお目に掛けましょう」身をすててかかれば秦王の一命はないぞとおどしたのである。

秦王はやむなくかめを一度たたいてやった。いわゆる「澠池之会(メン 又は レンチノカイ)」である。

何故この事が大事であったか、趙はこれで秦の属国となるのを防げたのである。

 

文字の重要性が古来存在しており、周王朝の成王が弟叔虞とふざけて桐の葉を珪の形にきりとり叔虞に与えていった。「これで君を大名に取り立てよう」(桂とは領地権の象徴として君主より授かる玉器の一種)史官の伊佚はこのことをたてに、叔虞を諸侯にとりたてるようお願いした。成王はいった。「わしはあれと遊んでいただけだ」伊佚は言った。「天子に冗談などありません。なにか発言なされば史官が記録し宮廷の儀式のかたちで、その発言を実現完成し、雅楽部の手で楽歌にうたって公表するものです」と。

中国では前11世紀には天子、諸公の発言はすべて書記が記録して、その内容を正確に諸国に公表されていた。従ってあまりに理不尽な行為はその権力者の権威を著しく失墜される事になったのである。

 

顧みて日本の現状は公文書の破棄、紛失、改竄(カイザン)と、権力を握った暴権が跋扈していた紀元前11世紀より程度が悪いと言わざるを得ない。

「完璧」壁を完うするの意。「怒髪天を突く」「刎頸の交わり」等の語源はここにある。