(5)「生命の世界」 今西錦司 全集13巻
1937年7月7日 盧溝橋事件をきっかけに日本軍が中国に攻め入り、日中戦争に突入。
今西は「生命の世界」の序に次のように書いている。
「今度の事変が始まって以来、私にはいつ何時国のために命を捧げるべき時が来ないと
も限らなかった。私は子供の時から自然が好きであったし、大学卒業後もいまに至るま
で生物学を通して自然に親しんできた。まだこれというほどの実績ものこしていないし、やるべきことはいくらでもあるのだが、私の命がもしこれまでのものだとしたら、私は
せめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、何らかの形で残
したいと願った。それも急いでやれることでなければ間に合わない。この目的に適うも
としては、自画像をかき残すより他にはあるまいと思ったのである」と。
1939年、10年に亘る研究の成果である「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学
博士の学位を受けるが、当時の新聞には「登山家が博士に」と報じられている。
今西は学者というより登山家として知られていたのである。
1941年「生命の世界」は出版された。書下ろしである。
一章の相似と相異と二、三章で今西は地球の世界を船にたとえている。
「地球という一大豪華船に船客を満載しているというのは、地球のことであって、その
船客が他から乗り込んできたのではないのと同じように、この豪華船の建造に要した材
料もまた他から持ち込んできたものではないのである。地球が太陽から分離して、それ
が太陽に照らされながら、太陽の周囲を回っているうちに、それ自身がいつのまにか乗
客を満載した。今日にみるような一大豪華船となったというのであるから、全く信じら
れないようなことであるに相違ない。地球自身の成長過程において、そのある船の材料
となり、船となっていった。残りの部分はその船に乗っている船客となっていった。
船も船客も元来一つのものが分化したのである。船は船客をのせんが為に船となったの
であり、客船は船に乗らんがために船客となっていったということである。
つまり、この世界が混沌とした、でたらめなものでなくて、一定の構造、もしくは秩序
を有しそれによって、一定の機能を発揮しているものと見る」という今西の世界観が語
られている。
そして第四章の棲み分け論である。「生活内容を同じうするということは、環境的にみ
れば、同じ環境を要求しているということである。それでもし同一の環境条件を共有す
るということが許されないとしても、同じ内容を持つものが相集ってきて、その連続し
た環境を住み分けるということは、当然予想されていいことなのではあるまいか」と述
べて、いよいよ「棲み分け」理論が始まる。
今西は「棲み分け」をどのように思いついたのか。
「渓流のヒラタカゲロウ」の研究で1933年加茂川へ採集に出かけて「いままで気づいていなかったことを発見した」と記述している。4種類のヒラタカゲロウの幼虫の棲み分けの発見は「種社会の発見」であった。この発見は偶然などではなく10年に及ぶ、徹底した孤独なフィールドワークによるものであった。
18世紀ヨーロッパで始まった産業革命は資本主義を確立させて、自由な競争を前提としたダーウィンの進化論の適者生存、自然淘汰、弱肉強食は生物学的に資本主義の競争を
理論づけるものとして受け入れられたのである。
今西は生物社会が弱肉強食などではなく、各種が又同種内でも棲み分けて居るのだとの
画期的な論陣を張った。
しかし欧米ではなかなか受け入れられなかったが、その後理論は少しづゝ拡がっている
ようである。