大諷 雑感帖 『 壊れていく東京』   2022年10月25日

雑感 『 壊れていく東京 』 2022年10月25日

昭和30年代初めまでの東京には、未だ江戸時代から明治にかけて色濃く残っていた風景が存在していた。

家屋の多くが木造平屋建てゞ押縁下見の横板張りで至る所にある節穴に栖んでいる蝙蝠が夕方になると一斉に飛び出して、夕焼空に乱舞した姿や、庭の奥に稲藁を積み、桟俵法師(サンダラボッチ)のような蓋を被せた、毎日の煮炊きに使用する燃料がある家もある。家の中は概して建付けが悪く、風が吹くと障子がガタガタとなり縁の下から畳を通して吹き上げる風で、冬には東京でも厚い氷が張り、北風が強く吹き、暖房のない寒い時期が長かった。炬燵が唯一の暖をとる場所であった。

家は年中ジメジメして便所の臭いがしており、夏は蚊が多くて網戸もない頃で戸を閉め切らなければならず、寝る時は必ず蚊帳を吊らなければ蚊の集中攻撃を受けたのである。時代劇でみる屋外での夕涼みなど、決して出来る事ではなかったのである。

中年女性の多くが着物を着用しており、汲み取り、赤線の時代でもあった。

子供達は盆暮れに僅かな小遣いを貰い、粗悪な紙を使った本や玩具などでも購入できる家庭はほんのわずかしかなかった。足袋に下駄の生活で朝鮮戦争による金偏景気で、金属が高騰した事から子どもたちは挙って金物を拾い定期的に廻ってくる屑鉄業者にそれを売って小遣いととしていたのである。

ほとんどの男の子は狭い地域ごとに集団をつくって縄張りを設け未就学児童も含めて六年生のリーダーが集団を管理していた。面子、ビー玉、ベーゴマ、剣玉が男の子の主たる遊びであった。

女の子はすべてモンペを履いて、ボロかくしの上っ張りを着用していた。

年に一度町内で大掃除を行い、衣更えの為に家中に着物を吊るして、虫除けをする年中行事が行われた。丁度滝田ゆうの「寺島町奇譚」の世界だったのである。

 

しかし1960年7月19日から始まった池田内閣の高度経済成長政策によってそれまでにも破壊されつゝあった東京の風景は一変していき、それなりに未だあった風情ある東京の街は、国籍不明の誠に味気ないものとなっていったのである。今やアジアの諸都市と変わらないものとなってしまった。

ヨーロッパの街はいずこも昔の景観を大切にして古い建物も残して見事な街ばかりである。例えば第二次大戦で総て灰塵に帰したポーランドのワルシャワは画学生残した多くのスケッチをもとに元通りに復元している。

 

日本の政治、経済を担うリーダー達の文化レベルの低さはまことに嘆かわしいと云うべきである。

70年代あたりまでは30才台あたりで、中小企業に勤めていても何とか自宅を持つ事が出来たが、今はそれは不可能となってしまい、国民の貧困度は昭和30年代に劣っていると言わなければならない。誰も責任を取らない政治、経済を始め国民の意識が今日を生んでいるのだ。