項羽と劉邦  史記(司馬遷)朝日新聞社 21年に読んだ本 9 

項羽と劉邦 史記(司馬遷) 朝日新聞社  

 

そもそも本記とは帝王の事跡を叙述するもので、項羽はどちらかと言えば外伝に載せるべきものであろうが、本記にのせたのは項羽がそれだけ重要人物であったからである。

 

秦の始皇帝が戦国期の六ヶ国を滅ぼして中国に初めて統一国家をつくったのは前221年のことであった。しかし彼が死去すると宦官趙高が権力を握って承相李斯を獄死させ、自ら承相となり横暴を極めた為、たちまち帝国は根本から揺らぎ始め、人々の抑えに抑えていた憤懣が爆発し、群雄が再び立ち、戦乱の坩堝と化した。

中でも楚の中から出現した二人の人物が秦帝国を打倒するのである。

その頃のヨーロッパはローマ帝国がカルタゴの勇将ハンニバルに大敗を喫した時期でもあった。

項氏は代々楚の将軍をつとめた家柄であった。項羽の叔父である項梁は頭角を現わして、打倒秦の中心人物となる。項梁は戦乱の中で死亡するや、あとを項羽が継ぎ、秦滅亡のあとを担う中心人物になって行く。

劉邦は項羽に対抗するまでの勢力を有していなかった。

項羽の軍は進軍して、函谷関に到着したが関所を守備する部隊がおり、入る事が出来ない。劉邦が諸侯の入関を阻止する為に部隊を派遣しておいたのである。しかし劉邦が首都咸陽を破り「関中の王なるつもりで秦王室の珍宝類は全部自分のものとしている」との讒言があり、激怒した項羽は函谷関を攻撃して関中にのり込む時に項羽の兵力は40万人、劉邦の兵力は10万人である。ここで有名な「鴻門の会」が行われた。

項羽は軍師范増の勧めによって劉邦を殺害する事とする。会場の上席には参謀亜父范増が座る。范増は項羽のいとこ項荘に祝いの名目で剣の舞をやらせ、機会を狙って劉邦を殺すように指示する。かつて張良から命を救われた恩を受けている項伯は立って同じく剣舞いをおこない、項荘の企てを妨害する。そこへ、劉邦の部下で劉邦の正妃呂后の妹婿樊噲が陣幕内に侵入、項羽をにらみつける。頭髪は逆立ちまなじりはひき裂けんばかり、これをみた項羽は「偉丈夫じゃ、この男に酒杯をとらせい」と一目でその豪傑振りに惚れ込むと、急に劉邦を殺害する気がなくなってしまうのだ。

劉邦はその間にここを脱出して自陣に戻る。

范増はこれをみて「唉(アア)、豎子(ジュシ)与(トモ)に謀るに足らず。項王の天下を奪うものは必ず沛公(劉邦)ならん。吾が属、今にこれが虜とならん」と憤嘆する。

 

その後の両者の闘いは殆んど項羽軍の勝利に帰し、劉邦は命からがら逃げ続けるが、臣下張良と陳平の計略を採用して項羽から范増を引き離す事を図る。

項羽は范増が漢と内通しているのを疑い、彼の権力を剥奪してゆく。怒った范増は「天下のことは大体決定的です。わが君ひとりでおやりなさい。おひまを頂戴して部隊に帰らせてもらおう」と離脱。途中背中に腫れものが出来て范増は死亡する。

項羽の唯一のブレーン・トラスト范増を手放した為にその後項羽は滅亡の道をたどる事となる。

 

一方の劉邦には参謀の張良、大将軍韓信、財政、軍の兵力補強、食料確保を一手に引き受ける蕭何を有し、有能な人材を多く抱えていたのである。

やがて大勢は次第に劉邦軍に傾いて行き、両者は天下を二分して支配する事で合意。

項羽は軍を引き連れて戦闘体勢を解き、東に帰って行く。西に帰るつもりの劉邦に張良、陳平は「今こそ天が楚を滅ぼす時で、今をおいてない。楚は兵力が疲弊して食料も底をついている」と進言。劉邦は二人の勧告に従い項羽を追撃する。

前202年漢の劉邦の軍が垓下の地で項羽軍を包囲。「項羽の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵これを囲むこと数重、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王、乃ち大いに驚く。漢、皆已(スデ)に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人多きや」と嘆く。

実は漢の策略で楚の歌を漢軍兵に歌わせたのであった。

 

項羽はここで哀調をおびて歌う。

「力は山を抜き 気は世を蓋う 

時利あらず 騅逝かず 騅逝かざるを 

奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん」 

歌うこと数闋(ケツ)美人これに和す。

大王涙数行下る。

唱和した美人の歌「漢の兵 已(スデ)

に地を略し 四方楚歌の声 

大王 意気尽きたり 

賤妾何ぞ聊(ヤス)んじ生きん」

 

項羽は囲みを破って脱山、騎して従う者八百余人。やがて「東の方烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥して待つ。項王に謂いて曰く「江東小なりと雖も、他は方千里、衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。願わくは大王、急ぎ渡れ、今独り臣のみ船あり、漢軍至るも 以て渡るなし」

ここで項羽は「天の我を亡ぼすに 我何ぞ渡るを為さん 且つ籍、江東の子弟八千人と江を渡りて西せしに、今一人の還るものなし、たとえ江東の父兄憐れみて我を王たらしむとも、我何の面目ありてか、これに見えん、たとえ彼言わずとも〇独り心に愢じざらんや」と語ってここで戦い自刀する。

 

烏江の亭長がこのような暖かい呼びかけを行わなかったら、項羽はこれを切って舟で渡ったことであろう。亭長の言葉で逃げる気分が変わったのである。

 

「鴻門の会」で樊噲の偉丈夫振りをみて劉邦殺害の気が失せた場面と云い、時利あらずして騅行かずの自分に力がなかったり、失敗があったのではなく唯時が自分に味方しなかった為の結果を語る場面と云い、誇り高い項羽の人柄を余す事なく見事に描き切っている。又豪傑である為に、他人の云う事を聞かずに何事も自分が決定したがるあり方も、劉邦の自分の実力を知って臣下の力に依存するやり方と対比して味わい深いものがある。

 

司馬遷は滅びの美学を描きたかったのであろうか。

物語の最後に項羽の死骸を多くの騎武者達が互いに踏んづけあって争奪し、同士討ちで数十人もの死者が出て、あげくのはてに五人が切り刻んだ肢体を劉邦のもとに持ち込む。

恩賞に預かる為だ。司馬遷は戦争の残忍さも見逃さずに記述している。