和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

2021年鳩居堂の個展(2021年3月30日~4月4日予定)延期となり、新たな開催予定が決まりました。

  2022年 4月 5日(火)~

      4月 10日(日)

  時間 午前11時~午後 7時 

    最終日は 午後 5時 迄

 

  

著 書

 2014年2月

  「大諷の映画狂時代」

  2018年1月「大諷のへそ曲り

            読書日記」

  2019年7月  「大諷の観音の道」

  2020年11月  「大諷の無辺楽事」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

高見 順 著  故旧忘れ得べき (2)闘病日記 上・下(3) 

 

(2)故旧忘れ得べき  高見  順 集英社 日本文学全集  No.65 

昭和10年2月発行の同人雑誌「日暦」第7号から11号まで、以降「人民文庫」3月刊から

9月刊まで6回連載されたものである。1925年(大正14年)治安維持法が制定され、昭和3年改正され言論、思想の自由が蹂躙され、弾圧が苛烈を極めていた時代である。

当時高学歴青年層の誰・彼の区別なく熱病のように襲った社会主義革命思想の傾向は東

大生の中にとりわけ影響が強く、生活力のない、労働者との結びつきのない、社会的に

根のない彼等の情熱は失われざるを得ず、理想と希望の燈は他愛もなく消えて、生活の

安定した瞬間に生きる気分をなくして、暗中に低迷した若者達、変り身早く出世街道に

乗った者、乗れずに生活苦に呻吟し性格を歪めていく者、様々な生態が描かれている。

作品の中でも当時の風俗描写の筆の冴えは誠に見事なものである。弾圧の中で多くの転

向者が出たが、高見の転向はマルクス主義を引きずっており、この作品にその気分の

複雑さが窺える。

 

(3) 闘病日記    高見 順  上・下 岩波書店

昭和38年10月高見順はガンを宣告された。そして昭和39年12月31日「昭和39年12月

31日、昭和39年よ、さようなら今年1年こうして生きることができた!」で終わって

いる。昭和38年10月5日千葉大付属病院で検査、ガンが食道、胃、胸の3ヶ所にあるこ

とが判明する。同月9日手術、以降壮絶な闘病生活が始まり、昭和39年11月一時退院。

同年12月5日千葉の稲毛「放射線医学総合研究所」に入院。放射線治療を開始する。

「放医研」は全国に5件程しかない組織で、放射線を扱う為に広大な面積を必要としており、従って地価の安い地方にしか存在しておらず、高見の入院した稲毛は東京から最も

近い場所に位置している。私も2019年秋ここに前立腺の治療の為に3週間程通って、今も通院している。

 

高見順は激痛の伴う闘病生活中、著しい体力の衰えと気力の減退のなか「日本近代文学館」設立の代表者となり各方面への折衝にも気を配っており、社会的関心も失っていない。更に驚くべきことに家から病院に「内村鑑三全集」を取寄せており「正法眼蔵啓迪」上・下巻、暁烏敏(アケガラス ハヤ)師の全集1,2,3巻各頁600頁に及ぶ、大拙全集、沢木興道師「永平寺広録抄話」全7巻等多くの書を病床で読んでいる。

又、昭和39年11月17日の公明党結成や、同年8月の中野重治、神山茂夫の党員資格停止処分や、佐多稲子、国分一太郎、渡辺義道、野間宏の除名に関する報道や12月の志賀義雄等の4人の除名処分を不当として別に「共産党」として活動を始めた事などに注目している。

除名が続いたのが1956年(昭和31年)のスターリン批判に端を発し、1962年のキューバ危機で公然化した中ソ論争に際して日本共産党もその態度を明確にする必要に迫られて、各国共産党の中での自主独立を主張した。これに対し党内の有力党員から激しい反発が

生じ、これは事実上国際共産主義運動のリーダーであるソ連共産党に反対することになり、国際的孤立を招く事になるとし、ついに多数の除名へと繋がったのである。

はっきりとはしないが高見順は1927年日本(ママ)帝大文学部英文科入学後1928年には壷

井繁治、三好十郎らの結成した左翼芸術同盟に参加、小説を発表し始めており、日本プ

ロレタリア作家同盟(ナプル)の成南地区キャップ、そして日本金属労働組合等の非合法運動にも携わっており、1933年2月小林多喜二の死の直後、治安維持法違反で検挙されて勾留されている。以後特高にマークされてきており多分共産党員であったのであろう。

 

高見順は自分の立場をこう語っている。『私たちはたとえ転向しても「反動」にはならないという事だ。そうなりたくなかった。日本主義で武装することなど当局から要求があったが、あくまで拒もうとした。そこで現実につくという態度をとり風俗小説的なものを書くようになっり、デカダンスの積極性というようなことを考えた』と。

昭和40年(1965年)8月17日最後の一喝で読経は終わった。

その時閉じられたまゝだった高見の眼じりから涙がひとすじ流れ落ちた。

 

註:本の題名の頭の()番号は2021年に読んだ本のカウント参考番号です。