ドキュメンタリー映画「死霊魂」第三部

2019年 山形ドキュメンタリー映画祭上映 『 死霊魂』 第三部  

 

1.朱照南の証言77才2007年9月取材 朱は夾辺溝の元職員

収容者が送られてきた夾辺溝は高台県農場にあった荒地で、冬には零下30度になりなり、1mの凍土となる作物等全く育たない土地であり、しかも受け入れ態勢もない所の収容所へ収容者が次々に送り込まれてきて収容者達はやむなく荒地に壕を掘り、雑草を刈って敷き藁替わりとして凌いだ。しかも1960年に入ると全国的飢餓もあり、一人当たり一日雑穀250gが支給され、寒さと栄養不足で1960年12月撤収が始まるまでに3500人の収容者のうち生存していた人は500人であった事、生存者をバスで高台農場に移すが、途中で次々と死んでいった。

 

2.裴紫豊 元教師(天文が専門)1960年11月飢餓で死亡 享年44才

范培林 教師 吹生の妻の証言 80才 2005年11月7日 取材

夫婦で収容所へ 妻だけ帰される。夫吹生は真面目な人で、再教育と希望に満ちて受け入れ、教育施設は良いところらしい。再教育を受けて新しい自分を作るのだと、又労働者と農民と共に働けると喜んで収容された。こんな厳しい所だとはと漏らしたが、妻には決して苦しいと訴えたことも、食料を送れとも云わず、4人の子供に与えてくれと最後まで手紙に云い続けていた。范培林はその後1961年12月解放された元同僚と再婚したが圧力は続いた。范は1984年に死亡している。

当局は党員になると傲慢になるものが多く、利益の享受を優先し苦労は後回しにする。入党すれば職場で昇格し給料が上がる。上層部がいくら統一戦線を語っても一般の党員にあるのは不満や軋轢だ。思想矯正というのは人を疲弊させ抹殺する。政治教育は開放と締め付けを繰り返すとテロップが流される。

この映画の最後はかって収容所のあった荒野にさんらんする多くの人骨を執拗なまでに映し続けて終わる。

 

3.この映画に出てくる収容所は夾辺溝、明水、新添墩の3カ所で夾辺溝は甘粛省にあった労働収容所全体の名前で、新添墩は夾添溝の主要部から7㎞に位置しいる分場。明水分場は1960年夾添溝のほとんどの収容所がすでに疲労と飢餓であとにできたものである。映画が明水で始まるのはすべての証言者が明水収容所に関連している為である。

 

4.この映画は政治的、社会的に正義であり、進歩であると信じた遂行された社会主義の現実が、これが人間の業(ゴウ)のなせる業(ワザ)によって実行されると、かくも残虐な結末が待っているものかと思い知らされる。現在の中国、北朝鮮の現実とオーバーラップして見えるのである。