私の進化論 今西 錦司 全集第10巻 21年に読んだ本 7

(7) 私の進化論  今西錦司 全集第10巻 1970 年

 

1.ダーウィンの進化論について

 イ.生存闘争における適者の生存というところから出発しており、生存闘争において  どの個体が生き、どの個体が生きそこなって死ぬかという同種のなかにおける個体対個体の関係が問題であり、少しでも有利な条件をそろえた個体が生き残ることを自然淘汰といったのである。ダーウィンの進化論は生物の世界を生存闘争に終始する世界とみなし、この生存闘争の結果、適者が生き残って、不適者が死滅し、優者が勝ち残って劣者が敗れることを繰り返しているうちに、しだいに生物の進化ということも認めるようになるというものである。

ダーウィンの進化論は自然淘汰であるが、これでは種の枠をこえることは出来ない。

そこでその弱点を補う形で役割を果すことになったのが、突然変異論であった。

 

 ロ.しかし、突然変異の発生する頻度は驚くほど低く、発生した突然変異のほとんどが

その種にとって有害なものが多く、進化の足しとはならない。

たまに有用なものが出来たとしても個体中の1個体が現れたぐらいではどうにもならない。

 

 ハ.進化は千篇一律の速度ですゝむのではなく、環境の変化に応じて、比較的短い時

間のあいだに進化は急テンポで進行し、それによって環境に対する適応ができるように

なれば、進化のテンポはにぶり、あるいは停頓するようにもなるのではないか。

環境の変化に適応しなければならないのは生物の個体ばかりではなく、生物の種も種の

立場で、これをやらなければならない。種そのものが、その構成要素の一つとなってい

る生物の全体社会になにかの原因で大破壊がおこり、そのあと再建しなければならない

とき、種を維持しつゝしかも種は変ってゆくのではなくてはならない。

種の生命は個体の生命をこえて、持続してゆくものでなければならないのである。

種はこの要請を種に属する個体のすべてを出来る限り同質にしておくことによって満た

しているかのようである。こうしておくことによって、どの個体が死に、どの個体が生

き残って子孫を残そうとも種は変らず存続することが保証されるからである。

種は同じ環境の変化に対して、同じように反応し、同じように変化するものでなくては

ならない。同じように変化しながら結果的には違う種にまで進化して行くものでなけれ

ばならない。この場合自然淘汰はこの進化をわきから護衛するものではあっても、進化

をすゝめている主体はどこまでも種そのものにあるのでなければならない、とする。

 

 .今西は同種の個体間に甲乙がないということを前提にしており、どの個体が生き

死んでもさしつかえないように同種の間に甲乙があってはならないと述べている。

ここにダーウィンの適者生存と自然淘汰との大きな違いがあるのだ。

 

2.人類の進化について

 1400万年前に生れた人類の祖先は未だ二足歩行をしていたか確かではないが、200万年前には二足歩行が確認されている。樹上から地上に降り立ったのであるが、人類の一

部が好奇心か何かで下りてきたのではない事は、この時代アフリカでもインドでも時期

を同じくして二足歩行が始まったことが判明している。

人類もサルの一種から人類に変わったのである、その進化の特徴的なことは3つあり、

1つは四足歩行から二足歩行に変わったこと。2つは頭が大きくなったこと。3つ目は

歯が弱小化したことであるが、一番基本的変化は二足歩行である。

化石の研究で人類を見分ける手がかりは二足歩行であったか否かが決定的である。

人類は1400万年前から200万年前までの長い間をかけて二足歩行を準備して来たとも云えるのである。

世界中の人類がほゞ期を同じくして地上に降り立って二足歩行を開始して人類となった。

今西ははこれを「人類は立つべくして立った」と表現している。

今日世界には実に250万種に及ぶ生物が存在しているが、弱肉強食の世界ではなく、各々が上手に住み分けて生存しているのだ。