和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

中村真一郎 頼山陽とその時代 4

山陽の交友について先ず取り上げるべき最大の人物のひとりは田能村竹田(たのむらちくでん)である。
誠にうまの合う友人関係であったようだ。関城下で友好を深めた2人は文政6年君主から一年間の休暇を貰って、竹田が京都にやってきたことで再会実現、大いに愉しんだ。2人は要するに遊び友達で遊びが人並み以上に好きでその遊びの内容も一致していた。
彼等は「笑社」とか「白雪社」とかの遊び仲間を作って例会を持っていた。二人の関係は反対でそしてしっくり合っていた。
 
竹田は遊びだけでなく藩地に帰った直後に起った百姓一揆に対して藩に建言書を差し出している。
極めて革新的なもので、下級武士の出であった彼の同情は農民の側にあったことは歴然である。
一揆の原因は百姓を仇讐の如く搾ったからである。百姓は一人も咎めを受けないようにすべきであると断言している。また藩の奥向きで笄(こうがい)2本を30両近くで買ったことに対し、百姓はその半分の金があれば上納も済むし、首がね、手錠の咎めも遁れると進言している。又百姓共は国家第一の宝と述べている。
竹田は隠居のあとも晩年にいたるまで天下国家の議論を聞くことを好み、広範囲の趣味を愛し優雅な感覚主義者は同時に生涯熾烈な社会的関心を失わなかった。
 
次に当時江戸学会の中心は寛政の改革により幕府の官学となった昌平校の学長林述斎(じゅっさい)である。
松平定信は自己の構想による改革の進行の途中で自分の信頼する述斎を林家の養子として納れ、改革の進行速度を早めることを計った。述斎は熱心に改革に協力、定信の最も忠実な幕僚となったが彼の改革の中心はより多数の学生の参加、より一般的な身分の拡充であった。(予算の拡大、教職員の増員)
 
述斎の下に佐藤一斎と松崎慊堂(こうどう)がおり二秀才といわれた。
京住いの間、周囲の儒者から孤立していた山陽は次々と自分の文章を一斎に送って添削を求めている。
世人は東の一斎、西の山陽を文章の双璧と称した。昌平校出身の陽明学者大塩平八郎(中斎)は一斎を尊敬し接近を図っていたが中斎が国事犯の汚名を着るや、一斎は忽ちに中斎を見放した。
師の述斎は将軍家斎に上告し、法の定めに従って死罪と決った遺子を寛永寺預けにすることに成功したが更に後の蛮社の獄に於いての一斎の態度は世間の憤激を買った。
 
蛮社の獄の弾圧を指揮していたのが妖怪と云われた大目付鳥居甲斐守輝蔵である。
鳥居は林述斎の第3子(4子とも言われている)であり一斎とも親しかった。一斎は公開の席上崋山について訊ねられて自分は会ったこともないと答えており、救済運動を開始した崋山の友人、弟子の要請も拒否して「一斎頼むべからず」と言われた。
 
一方松崎慊堂は百姓の子に生まれ僧となって江戸に出て還俗し昌平校に学んだ。
述斎は私塾に引き取り一斎と共に塾生の指導に当たらせた。それで一斎は慊堂の終生の親友となった。
慊堂は老中水野越前守に上告文をあげて、崋山の人物の精錬潔白なこと、母に孝であることを実例を挙げて述べ、田原藩の家老としての業績にも触れた。崋山を罰するならば自分も罪にして欲しいとまでの語調であった。さらに自分の主君であり老中の職にあった掛川藩主にも面会請願、崋山の仕えていた田原藩の人たちとも密議をこらした。慊堂の決死の運動により崋山は罪一等を減じられ死罪を免れた。
この勇敢な釈放運動は世人を感嘆させたのである。

 

中村真一郎 頼山陽とその時代1

中村真一郎 頼山陽とその時代2

中村真一郎 頼山陽とその時代3

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