和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

中村慎一郎 頼山陽とその時代 その1

当時(北条薜亭と頼山陽は共に寛政9年-1797-生まれ)の知識人は昌平校を卒業すると諸侯のもとに儒員として就職することが習慣のようになっていた。
 
寛政以降各藩は急速に藩校を創設し始めたので丁度第2次世界大戦後の大学急増に似た現象が起り、大学教授の速成時代に入ったように新しい型の儒者達の階層が生まれた。彼等にとっては新しい雇い主である殿様よりは藩の垣根を越えた学校の同級生同士への愛情が強く、縦より横の関係が強く意識されると言う「近代的」型になっていった。
 
儒者の間では徳川身分制の枠を飛び越えて社会的身分による差別がなくなり、武士と百姓、町人との関係は明治以降の官吏と民間人との関係のようなものに変わっていた。そうした生き方は男女関係にも反映、家庭経済を支える俸給か?親から譲られたものではなく、自分の才能で獲ち得たものである限り親への遠慮は不要となり、家と家との結合と言うより当人同士の結びつきつまり「恋愛」によるものが多くなっていった。
 
注)昌平校 
林羅山(1583-1657)が上野忍ケ岡に創設した家塾に始まり、1690年将軍綱吉が昌平坂に移し大成殿(聖堂)を造営し林家当主に主宰させた。1797年幕府直轄の学問所となり主に旗本、御家人の子弟を教育した。このような人間関係の社会的変化が幕府崩壊を準備したとも言えよう。