中村真一郎 頼山陽とその時代 3

山陽の父春水は文化人であると共に福山藩の儒者であり江戸でも聞こえた当時の大家で昌平校の三博士と親友で後に江戸の昌平校の教授として採用された。
中村真一郎は当時の山陽は極度の神経症であったと推測しているが、放蕩振りは激しく、春水は嫁を貰うことで(山陽20才、嫁淳15才)治るのではないかと考えたがその不良少年振りは変わらず、大叔父の弔問に行く途中で行方不明になり脱奔した。父春水が藩主斉賢公に厚い信頼を受けていたことから藩主は法律どおり追っ手を差し向けるかわりに発狂したと解釈することにしてくれたが出奔先の京都から連れ戻された山陽は自宅監禁、妻は離婚、後継ぎには養子を取ることが許されて、頼家は危うく取り潰しを免れた。
座敷牢に3年幽居された山陽は監禁されたことと廃嫡によって精神的安定を取り戻し、牢中で生涯の事業であった「日本外史」の下書きを完成させている。歴史哲学の部分を書き加えて完成させたのは40才近くである。長期に亘る仕事も回復期の作業療法のようにみえると同じ病気を経験した中村真一郎の率直な感想である。
出牢後はまた放蕩が始りやがて30才、菅茶山に預けられ茶山の代講として暮していたが32才、儒者の多くが各藩に良く抱えられたが、山陽は在野に生き方を決め塾を離れて京都に塾を開業名声は徐々に上がった。
父春水は息子の金と女についての悪評を死の床まで心配していた。酒と女は彼の自由な生活の代償でもあっただろう。
山陽は文政元年広島に於いて春水の3回忌を行いそのまま九州旅行に出発した。途中関山で小原梅坡のところに泊まったが、詩文に興味のあった梅坡は同好の士中村嵓州を呼んで大いに一夕の歓を尽くしたが両名とも人生に対して率直で謙虚な態度を持しており極めて穏健な人物であったが、そうした調和型の人物が欠点だらけの気分の変動の激しい天才である山陽を愛し喜んで交わったというのも面白い。
このように山陽の周囲には凡庸で善良な人がいつも大勢いてお山の大将であったが他人の人格的な美質には敏感なところあり、無警戒で交際する友人との遊宴を好むという淋しがりやのところもあったようである。

 

中村真一郎 頼山陽とその時代 1

中村真一郎 頼山陽とその時代 2

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