はじめに
1940年生まれで気がつけばもうすぐ85才なる。60才を越えた頃から年月の経つのはそれ以前の3倍になったようだ。
その頃から自分はいったい何者かが少しづつ自覚されて来て、何をなすべきか、自分に何が出来るかがぼんやりとはしても明らかになってきたような気がするのである。
ここで取り上げる人々も従ってそれ以降に巡り合った人達が多い。
巡り合った人達は一体どれ程の数になるのか数えたこともないが相当数になるであろう。大半は名前も忘れてしまっている。
一度しか会っていないが何か印象に残っている人物もいるが、永年顔を合わせ続けているが印象の薄い人もいる。
ここで思いつくまゝに取り上げた人達は皆ユニークなとは言えないが、強い印象を私に与えた人達であることは確かなところだ。
心に残る人達はまるで合わせ鏡のように私の後ろ姿を見る思いがするのである。
1.川島 勇三、 高谷 銀行員
1959年に銀行に入社したが、職場のあまりの時代遅れの状況はまるで徒弟制度のようであった。
2年程経過した時、転勤してきた男性から小さな読書会に誘われたのである。会場はある公民館の一室であったと思われ、10人程が畳に座って、2時間程、真剣に意見を述べ合っていた。チューターは銀行支店長代理(職場の体制は支店長、次長、代理、一般行員となっていた)の高谷氏、30代半ばの男性は会合の都度ガリを切った数枚を用意、参加者に配布していた。テキストは岩波新書「遠山茂樹の『昭和史』」であったと思う。
毎回レベルの高い話し合いが繰り拡げられており、このような人権も民主主義も無縁な会社の中にもこんな人達が存在していたことに計り知れない程の感激を味わった。後に参加者の内4人が共産党員である事を知る事となった。
高谷氏の知性の高さと水際立った会合の進行に毎回驚かされていたのを覚えている。
私にとってこの事がその後の私の社会参加のあり方を決定したと言って過言ではない。
この中に30台始めの 白晢の好男子 川島氏が居て、その論旨の明快さは見事なものであった。彼の夫人は蕎麦屋を経営していた。
2. 高橋 祐次郎 ドイツ文学者
熱心なカトリック信者 特にドイツの神学者で、反ナチズムによってヒットラー暗殺の疑いで処刑されたディートリッヒ・ボンフェッファーの研究に力を注いでおり、「ボンフェッファーとマリア」の書簡集を始め数点の翻訳本も出版している。その後ボンフェッファーの遺跡を巡る旅に同好の志を募って、私も誘われたが、同行する事はなかった。後に感想を聞くと、ビールと白アスパラが美味だったと語ったのを思い出す。1998年にB型肝炎によって死去するまで濃密な親交があり、親友を亡くした事はまことに残念であった。
3.久保田 政子 画家
1993年銀座で第一回個展を開催した際、ブラリと姪を連れた彼女は法隆寺の救世観音の絵を購入、その際「あなた、充分やっていかれるわよ」と一言。その後計24回の個展を続ける切っ掛けとなった。青森県八戸市出身で美人の彼女は地元名士の愛人となり男子を出産、その事は狭い土地もあって、地元の非難を浴び、石もて追われるように息子を連れて東京に出てきて、以後絵筆一本で生活を支えてきた。研鑽を積んでやがて馬の油絵では日本の第一人者となり、府中のJRA競馬博物館に多くの絵が展示されている。本人は生涯一万頭の馬を描くのが目標であると語っている。
追われた故郷ではあるが、著名人となった時から人々は手の平を返し、彼女に群がるように近づくと今は知事室、市長室を始め多くのホテル等彼女の馬の絵を至るところに存在している。
彼女は故郷への帰郷も頻繁でその都度、地元の歓迎会が開かれ、市長や、市のお偉方が多く参列、そのお供で何度か同行させられている。岩手県の種市町(注1)では文化会館の杮落しに招待された。バブルの終盤であったが、人口一万一千人の人口の町なのに実に40億かかったそうで、その会場の緞帳の絵を久保田氏が依頼されその雅印を私が作っていた。ちなみに緞帳の値段は五千万円だったそうだ。当日は作曲家の船村徹と女性歌手の松原のぶえが登場していた。
翌日は種市町長(注2)主催の大茶会が催されて5~60人が参加、大半が女性で皆訪問着を着用していた。
何度目かの旅行では八戸地区の海岸にある小島、海岸から100mの海上にあったが現在は埋め立てられて陸続きになっている周囲1㎞の蕪島(注2)に彼女の絵馬を奉納した事から同行している。
また盛田牧場は土地面積40万坪、新幹線が敷地内を通るとの事であった。敷地内に宮水が湧いており酒も造っていたと思われる。夫人は駿河徳川家のお姫さまで、訪問した際には、抹茶の接待を受け、出された茶陶は何と魯山人と、人間国宝の藤原啓であったことに驚かされた。手で打ち出した第一回の銀製天皇カップも見せて戴いた。
青森県金木町(かなきまち)では地元の名士の庭に久保田氏の滞在に備えて一軒家が建てられていたのも驚きであった。
又海岸で年に数回小石が打ち上げられるそうで、その石を私の希望で拾う為にジープと長靴と袋も用意されて海岸に降ろされたが、後で聞いたところもし海岸で小石が打ち上げられていなかったら、自分の収集した小石(リンゴ箱に積み上げれれていた)をばら撒く予定であったという。リンゴ箱何個かを送ってもらった。
彼女は遊び人でもあり、必ず取り巻きを連れて遊び歩いており、生活の総てを画商に握られていた実態もあり、個展を催いても彼女の手許にはほとんど入ってこないとこぼしてもいた。
彼女は文章力もあって、多くの文章が様々に残っている。文字もうまく、私のところに届いた手紙は数十点残されているが、多くの書家から届く手紙の数々も彼女の字に遠く及ばない。
ある時彼女から突然電話があり、これから友人を連れて行くから宜しくとあり、何と7~8人連れており、酒を提供し、食事も用意した事があった。お供を連れて歩く事が好きだったのでもある。
(注1)種市町:現在は2006年大野村との新設合併により洋野町となっている。
(注2)種市町長は鈴木善幸元首相の秘書であったことを一枚看板にしていた。
(注3)蕪島:ウミネコの生息地として有名。訪問した時期はヒナも多く島が鳥で埋め尽くされていた。島を歩くのには皆傘を差さないと糞だらけになってしまうからだ。
4.宝官 優夫、末永 昌子 旅行会社経営
第一回個展の際に会場で初めて出会う。
その際に東大寺二月堂の月光菩薩の制作を依頼された。
以来30年交際が続いている。末永氏は旅行社を経営しており、顧客の顔ぶれは法人会や業者団体等お金持ちばかりである。理由は一体どこにあるのか。1 には日本全国知らない所はないと思われる程の知識 2各地の食べ物とおすすめ食事処、見るべき穴場等他の追従を許さない知識にある。
宝官氏は元アメリカ在住の神父であり、帰国後はテレコム・スタッフに在職していたがその後退職し今日に至っている。
金粘土を使った指輪など装飾品の制作を気の向くまゝに行っており、宝石特にカメオに詳しい。20年以上、年に一度東京プリンスホテルの美術骨董ショウーにブース借りて出店している。
5.橋本 貴志 美術品収集家
従来、日本の骨董のコレクタ―であったが、ある時和時計の価格のあまりの高価に日本物を見限って、世界の指輪の収集に転換。ヨーロッパ各地で開かれている紙上オークションに参加、やがて系統的に収集された指輪の世界の第一人者となった。
収集した指輪の図録を出版している。その後庭園美術館に於いて一般公開した。橋本氏には子供が無い事から寄贈先を探していたが、なかなか見当たらず、最終的には大英博物館との話もあったが、幸い西洋美術館で引き取る事が決まって同館で収蔵されている。
橋本氏所蔵による利休立姿の掛軸があり、これを我が家で公開される事となり、知人20人程の参加で橋本氏解説のもと皆で鑑賞した事があった。
彼の話ではお茶の「今日庵」、「不審庵」両家から数千万での引き合いあったと云う。
橋本氏は今は亡い。
6.大場 秀章 東大名誉教授
理学博士(植物分類学)
25年程以前、高校の同級生であった義妹の紹介で知り合う。以後年2回のペースで我家に来訪されている。彼はワインを好み、私は日本酒である。その間個人にまつわる、例えば夫人の事や子供の事等は一切した事がなく、社会、文学、芸術、音楽その他多岐に亘るが、受け入れる当方としても、今日は何をテーマとした話題にするか予め用意しておく、大方は予定通りに行く事はないが、、、、
途中から2年毎に開く個展の最終日の日曜日に特別講座と題して会場で講演して貰うのが恒例となった。
第一回目は源氏物語の巻子が展示されていることから、当時の特に宮中の植物を中心に話をされた事を覚えている。出版される本も多く、その都度送ってもらっている。最近ではシーボルトに関する本が楽しかった。
7.ディビット・E・ビュフォード
ハーバード大学植物標本館館長
ビュフォード氏が長年の友人の東大名誉教授の大場先生に依頼したのは「一般家庭に於ける日本の伝統文化がどのように生き続けているか」という事であり、大場氏も色々物色したが仲々該当者が見当たらずに、我が家に白羽の矢がたったものである。その理由は神棚、仏壇があり庭には淫祠(お稲荷さん)もある為であった。
以来年2~3回来日する際は必ず我が家に訪問されている。毎回酒、食で歓待するが、とりわけ酒については壁に4種類程書き出して張る事にしている。日本酒については国内でこれ以上は望めないものを提供しており、多分来訪する目的の半分はこの為であろうと判断している。
初釜、茶飯釜に招待した時は大満足の様子であった。
ある時ネパールと中国の国境辺りで各国の学生10数人を引き連れてのフィールドワークの際3,500mの高地での地元の住民によるものとみられる数多くの石に彫られた佛像を発見、その中から石の大きさと形、彫られた像の美しいものを撰んで一つリックに詰めて持ち帰り、我が家への土産とした。これが真に美しいもので飾って楽しんでいる。又黄色の布に印刷された佛像や50㎝木材に細かく彫刻された何に使われたかは不明だが、多分宗教行事に使用されたかと思われる物など様々な物が彼から贈られている。
大抵は大場氏と一緒に来訪されるが、時に一人の場合もある。彼が日本語が本当にわからないかは不明であるが、不思議に意志は通じているようである。
時折無理な要望がアメリカから送られてくる。「自宅の天井を秋田杉の柾目で調達できないか」には金が幾らかかるか分からないから止めた方が良いと回答したが.....。「畳」の要望や「雪見灯籠」が欲しい等多くの要望が寄せられている。また土産に手渡した条幅の書2枚は鳩居堂で掛軸に仕立てゝ自宅に飾ってあると写真に撮って送付されてきている。年2回の会合を楽しみにしている。
8.佐藤 光洋 葛飾の文化人の発掘者
30年程以前になるか、立石の線路そばに趣味の店「木絲蔵」があり、その看板の制作を依頼された。店内にも1枚、暖簾も1枚制作したが、以来店に立ち寄る事となった。
店に私の制作による佛画を飾っていたが、佐藤氏がこれを見て作者を問い、店主が近く銀座で作者が個展の予定を知らせたところ、会場に来て熱心に葛飾現代書展の第一回展が開かれるので、会員となって参加してはどうか勧められたのが出会いの始めである。
次いで葛飾区美術会への参加も勧められて、2つの会に参加する事となった。
会は両方とも佐藤氏の尽力によって会員を集める事、会則の作成、運営の方法などが考えられて、結成される運びとなった。特に書については各書道会が存在し、各団体を越えて一同に会する事は極めて希有な事であった。
書家でも画家でもない元一介のプレス工場の社主で、その当時既に年金生活者であった佐藤氏でなければ成し得ない事であった。皆がこの呼びかけに応じたのは、佐藤氏が達筆であり、文章能力が極めて高かったことによる。若い頃に俳句を嗜み、小説を書いていた事で知られた文才があった事や、文化果つるところと言われた葛飾区の文化を何とかしたいとの情熱と、全く私心の無い人柄が人々の心を動かしたのである。
文化事業に全く関心の無い区を動かして、文化事業の大切さを区長を始め幹部に訴え続けてやっと協賛を取りつけて発足、以来20年、30年と続いている。
その間「葛飾に於ける書道史」の講演も区の施設で行っており、葛飾の文化事業に於ける佐藤氏の貢献は絶大なものがある。
また葛飾区のゆかりの人物の発掘調査にも熱心に取組んで、その発表も行っている。
著名人との友好関係も多く写真家の細江秀公、永青文庫の館長、将棋の渡辺明とも親しい等多くの知人を有している。時折我が家にも来訪するが、2~3時間は話が止まらない。特に書に対しての鑑識眼は厳しく、いい加減の文章にも容赦が無い。
葛飾区にとって得難い人であったが2023年11突然逝去。
9.大口 真美 竹製品骨董商
老舗骨董商『不言堂』の姪で日本橋高島屋の近くで竹細工の骨董商を営む。
大分以前にこの店で名工飯塚琅玕齋(1890年~1958年)の竹籠を購入。人間国宝の飯塚小玕齋の父親でそのレベルは息子より遙かに高い。見事なサイン入りであったが箱が無い為に破格の値段であった。
以来親しくなり、その後現代の作家ではあるが茶箱や渋柿で作られた箱に入った多くの印材等購入している。
何時だったか本人と母親を水元公園での野点に誘った事がある。
年に一度の東京美術俱楽部に出店している。母親は飯茶碗を多数収集している。尚、店に並ぶ竹籠等は高額で一級品ばかりではある。
10. 石丸 寿子 税理士
40年程以前から所得税と相続税の申告については或る税理士事務所に依頼してきた。
石丸氏はそこに勤務していたがその後独立。相続税に特化して仕事している。取引先は殆んど税理士である。税理士は通常相続税を取り扱うことが少ない事から不得手の為に専門家に依頼することが多い。
彼女は優しい、親切、人当たりも良い人であるが、事、仕事となると一変、些かも妥協は許す事が無い。その事を知っている私は、仕事を彼女に頼まないが、姉の相続を依頼した。姉は彼女のあまりの細かさに泣く思いであったろう。
ついで娘の連れ合いの兄が死亡した際も彼女に依頼。亡兄のポケットの中の10円玉から、一円切手、更に山と積まれた蔵書の一冊に至るまで業者の評価を指定した。
娘夫婦はさぞ大変で会ったろうが、自分達が今まで経験した事のない様々に向き合う事で、勉強になったと感謝していた。
その仕事振りは完璧で、まことに気持ちの良いものであった。
今まで様々な業者を見て来たが最近は未熟な者が多く、呆れる事ばかりの中で誠に得難い存在である。私の死亡した時の後始末は既に計算を依頼。用意は万端整っている。
11. 上野 重光 文筆家
佐藤光洋氏を通じて知人となる。綴り方教室で知られる豊田正子の研究を行い、その会合も開いている。東京下町の様々な伝統行事にも強い関心を持って、その存続に力を注いでもいる。
私の個展、葛飾の美術家展、葛飾現代書展等で会う事のみであるが、6回に及んだ私の本出版にその都度、的確な批評を戴いていることは本を出す何よりの励みとなっている。
葛飾在住の得難い文化人である。
12. 磯川酒店の人達
酒蔵の設計で有名な篠田次郎氏の紹介で綾瀬の磯川酒店を知る。
店は年配の磯川任弘、君江夫妻と弟の和雄氏で営業していたが、皆頗るつきの親切である。
この店の特筆すべき事は店の奥に厚いビニールで仕切られた空間(かなり広い)冷房されており、そこに膨大な量の大吟醸の古酒が眠っているのである。10年を越えるものが多く、こんな店は全国広しといえども、いくら探しても他にない。しかも別棟に、もう一つの大きな冷蔵庫があるのだ。
月に2回程10年以上通った。その楽しさはまるで宝の山に入るようなワクワク感があったのである。ここで試飲する楽しさは又格別のものがあった。
また、この3人は殆んど酒を飲まない。この事は酒関係者によく見られるもので、石川県の菊姫の会社社長の柳氏や日本一の杜氏と謳われた農口氏も酒は飲まない。
しかし磯川の和雄氏は私の知る限り、誰よりも酒に詳しく、その味にもうるさい人で、試飲のあとの私の評価の是非をそれとなくチェックしていた。「この人は酒の本当の味を解っているのか?」と判断されているようでいつも緊張したのを思い出す。酒を味わうのに真剣であった。
時には夕方から店を閉めて私の家族で酒盛りを楽しんだり、家族の住まいで料理を作ってもらって大いに飲み、かつ食べた事もある。
しかし数年前に突然廃業に追い込まれてしまった。他人の保証人となって破綻、店を仕舞う事に追い込まれたのだ。昭和の始めから続いていた店なのに本当に残念であった。店に預けてあった酒30本程と香露大吟醸大古酒2本を持参、送付して呉れた。
今も我が家の冷蔵庫には梅錦大吟醸30年古酒が1本宝物のように眠っている。
尚、磯川から紹介された蕎麦屋が店の近くにあり、夫婦でやっていたが、これが実に美味で、よく磯川の帰りに寄ったものである。ビールをたのむとコップをキンキンに冷やして出して呉れた。
ある時、店で10割ソバを出して呉れて、磯川で購入した酒を店主と一緒に飲んだがその夜、夜逃げしてしまったのである。磯川から電話があり「和田さん彼等どこへ行ったか知らないか」と聞かれた事があった。彼等は今どうしていることやら---
13. 奥田 富士子 日本最高齢のバイオリニスト
1952年から放送された菊田和夫作「君の名」のラジオドラマで後宮春樹と氏家真知子が東京大空襲の夜に運命的出会いから始まる。ここに数寄屋橋が出てくるが、この作品はアメリカ映画マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」を下敷きにしたもので、橋はウォーターブリッジであった。
さて、放送が始まると銭湯の女湯がガラガラになると言われた程の人気であった。当時は総て生放送であり、その都度バックで演奏していたのが若き日の奥田氏であった。
彼女は子供の頃天才少女の名をほしいまゝとし、昭和天皇の前で演奏もしている。
知り合ったのは知人のみづほ銀行の元頭取の夫人林ヨシエさんに連れられて我が家に来訪して以来の事であった。
最近自伝を出版したが、92才の今でも現役であり、お嬢さん二人はピアニストとバィオリニストである。ピアニストのお嬢さんの旦那は前のN響のコンサートマスターで、長男奥田佳道氏は「音楽の泉」の現在の進行役と、文字通りの音楽一家である。奥田家訪問した時には本人のバィオリンと娘のピアノの合奏をしてくれた。
海外の演奏も多い、又最近の事だが、天井裏に刀剣があるのが判って調べてみると彼女の曽祖父
(?)が伊勢神宮の神職であり退職した際に神宮から記念に賜ったものだそうだが、神宮にその記録がなく、行方不明扱いとなっていたいたらしい。そこで返納することになったが、神宮側の言い分によれば、以後一般公開する予定はなく秘物として収蔵されることゝなってしまったとの事、ただで取り上げられてしまったそうで、何か納得できない話ではあった。
14. 岩波智代子 出版社社長
私達が結婚50周年を迎えたときに、大場氏から記念に本の出版を提言され、出版社も紹介された。「大諷の映画狂時代」の出版である。「智書房」の社長が智代子氏である。
彼女は本業の看板業を有しており、出版業も手掛けている才媛である。その人柄に惚れ込んだこともあって、その後5冊、計6冊の本を出版する事となったが、彼女なくしてはありえない事であった。
白山に事務所があるが、住居を箱根に移し新幹線通勤をしている。熱心なカトリック信者で故郷の長崎に関係の美術館を建築し、生活の3分の1は長崎にあるようだ。時々家に招待して、酒を飲んで歓談するが、話は楽しく、会うと話が多岐に渡り尽きる事が無い。あと一冊出版を依頼する予定である。
15. 伊藤 俊夫 元区議
長い間共産党の区議として活躍した。議会の中では数少ない論客で重きをなしていた。議会を辞したあと、年金生活者となり、老人施設の協力など等していたがその間取材を重ねて歴史小説を3冊したのには驚いた。政治、社会に対する鋭い感覚は衰える事はなく、指摘はいつも的確であり、永い付き合いの中で、途中断絶する事もあったが計50年以上になる同時代を同じような歴史認識を共に過ごした事もあって特別な人物ではある。
16. 小坂 栄治 石川県津幡町在住 地元の文人
最近横綱となった大の里の故郷石川県河北郡津幡町の人。
長く続いた友人の義兄で農業を営む。地元の歴史、文化に対する研究を行って、その造詣が深く、本当の文化人であり、地元の遺跡の発掘等にも関わっている。自宅付近にある別棟に骨董品を収集しており、その看板の制作を依頼されて、贈呈した事もあって時折自作の野菜を送ってくれる。
今は亡き愛犬が異常なまでに主人を慕い毎日の主人の読経に合わせて必ず一緒に読経をしていた。また本人は外見に似合わない含羞の人でもある。
17. 金 立言 中国の古美術商
大分以前に会った時は友人の紹介で慶應義塾大学の留学生であった。
既にその時から将来は一廉の人物になるであろうと思われた。その後忘れた頃に北京からオークションのカタログが数冊送付されて来、以来毎年続いたのである。
差出人は彼であった。彼の近況を知ったのはテレビの放映で、今や中国古美術の第一人者であるという事で驚いた。
東京にも夫人所有の住居があり、そこにも多くの美術品があるそうで、久方振りに我が家に来訪された。
時を越えて話は盛り上がって、時のたつのを忘れる程であった。
私達の結婚60周年に是非参加したいとの事であったが母親の病気の為実現適わず、残念であった。
その後連絡があって、我が家の茶室で茶会をやりたいと申出があり、所有の骨董品も何点か持参すると言う。彼が扱う骨董品の金額は私達の想像を絶するもので、中国の経済事情は唯々驚くばかりである、
18. 小沢 一雄 漫画家
久保田政子氏の紹介によって知り合う事となった漫画家。
たしか新聞の連載も行っていたと思う。作品の殆んどが、作曲家、演奏家を扱っていて、その人物はすべてクラシック関係であり、人物はとてつもなく幅広いもので我家にも作品の一点があり、図録もある。
毎年お茶の水の画廊で個展を開催しており、夫人の陶芸作品も合わせて展示している。
19. 佐々木 信也 漆工芸家
聾啞者であり、漆工芸作家、日展入選の常連である。
作品は木材による屏風を始め、木材を基礎として、加工、漆絵で描いている。多くが大作であり、移動するのにも大変で、公共施設やホテル等、又は寺院にしか飾る事が出来ない。従って制作した作品は収蔵に苦労し、両親から相続した家屋は忽ち倉庫と化してしまったと語っている。
夫人が常に夫に寄り添って献身的に支えており、その事には頭が下がるのみである。
20. 谷口 親平 京都市在住 姉小路界隈を考える会事務局長
1995年10月 看板の似合うまちづくりを目指して行動を展開
考える会設立
2002年8月 姉小路地区建築協定締結
当所92軒の加入をみる
以後、この地域で様々な行事を開催して市行政をも動かしている。
2015年私が谷口氏の依頼を受けて、姉小路通りを一日通行止めにし(警官が2ケ所を封鎖)次年の干支の書を毎年路上で書く事となった。2x2.7mの和紙に1~2文字書いた余白に参加者が各自寄せ書きを行うのである。出来上がった作品は事務局長の隣の表具屋で掛軸に仕立てゝ下京区の「ひと・まち交流館」に一年間掲示する事とし、年中続く事となっている。毎年この路上パフォーマンスに市観光課長、係長が参加しており京都市の一事業となっている。
2024年には隣接する空き地で、ボッチャ競技の大会や普及活動員による初心者指導、立命館大学の生徒たちによるバンド演奏も繰り広げられた。
この地域は古くからの名店も多く、店に掲げる木彫の看板も多い、そのうちには竹内栖鳳、北大路魯山人、富岡鉄斎、武者小路実篤等錚々たる人達の手による作品が多く存在している。
名店の経営者は小学生の頃からの友人、知人でが多く、彼等との交流、市との関係強化も欠く事の出来ないものである。その運動の中心に居るのが谷口親平氏である。
会の規則、年間の活動資金の集収、全ての行事、市との交渉、対外的な対応、これには日本各地の町づくりと同様の海外からの見学者も多いのだ。特に日本各地からの町づくりのあり方、運動、町の人々の協力等ノウハウを求めて谷口氏を訪ねてくるのだ。全国各地に存在する町づくりに献身する人々にとって谷口氏は真に師と仰ぐ人物である。市との関係も、時には進行しない事もあり、彼はニューヨークタイムスやフランスのル・モンド紙に論文にを書いて送り、記事になった紙面をもって市に交渉する荒技も時には揮っている等政治的手腕も仲々のものである。
しかしその皺寄せは夫人の泰子さんに押し寄せて、その苦労が忍ばれるのである。
若い頃、ヨーロッパをバイクで走破している。最近はアメリカ在住の息子を尋ね、一緒にニューヨークをレンタカーで廻ったそうだ。
21. 星 純一 油絵画家 仙台在住
水戸の百貨店の一階で油絵の個展が開催されていた。無論知らない人物である。20~50号程の作品が多く、ヨーロッパの風景であったが、皆頗る美しいのである。一目ぼれして姉が新築した住宅の玄関に丁度良いと購入した。これが縁となり、私の個展にも仙台から来てくれた。「大諷の映画狂時代」の中にナチスに銃殺される神父を、高台の道路の上から見る少年達、そしてその後にサン・ピエトロ大聖堂が聳えていると記述したところ、彼は宗教の欺瞞性を的確に捉えていると見逃さなかった。
ロッセリーニの「無防備都市」の一場面のことである。これですっかり解り合えた気持ちになり、急に親しくなったのである。彼はその後も毎年のように各地の主にデパートで個展を開催しているが、相変わらずその作品は素晴らしい。
22. ミコ 吉山 アメリカ国籍 元画廊主
銀座画廊美術館で二人展を開催していたところ、フラリと入ってきた色の黒い小柄な女性、始めは髪の毛にビーズを垂らしておりペルーあたりの南米の人かと思ったが、アメリカ在住の日本人だった。彼女曰く「私もロスアンゼルスで画廊をやっているが、そこで個展をやらないか」と持ちかけられた。半信半疑で受け答えしていたが、後で本気である事が判明。作品を40点程ロLAに送る事となり、額装は先方で行うとのことであった。会場は広く綺麗で入場者も多く、その中に「青い山脈」での新子役の杉葉子の姿もあったが、永くアメリカに居住していたようで、当地の人のようであった。その後、ミコ氏は時折日本にやってきて、我が家にも寄る事が多くなり、そのうち熱海に広大なマンションを購入、年に数回滞在するようになった。更にマンションをもう一室購入、これもべらぼうに広いものである。
画廊経営は止めて、以後単独行で世界中を旅行しているようで、50ケ国以上廻っているとの事で、写真集も送られる。アメリカのマサチューセッツの住居は広く、庭に川が流れて林もあり熊も出るそうである。ともかく破天荒な人物であり来訪して話を聞く度にアングリ口をあけて聞いている。
23. 萬羽 啓吾 骨董店 萬羽軒主人
神田の店にたまたま入ったところ、素晴らしい硯が目にとまった。雲龍の刻が見事で眼も有した端渓方形硯であった。これを購入して以来、数点の硯、古書、印材等を求める事となった。中でもアンリ・マチスの書簡は美しい。東京プリンスホテルの骨董市に毎年出店しており、硯と沢山の古書が主力である。時に購入するが、主人の顔を見るのを楽しみにしている。萬羽氏の硯の鑑定眼は随一であり、又書の目利きでもある。良寛の書も数点所蔵しており、研究の本も出版している。話を聞くと本当に勉強になる。しかも楽しい人物である。
24. 田村 茂 画家
22.のミコ氏が我が家に来訪する目的で、途中東京駅のベンチで一休みしていたところ、中年男性に声を掛けられた。「どこへ行かれるのですか」と問われ「金町の画家和田さんのところ」と答えてところ、男性は何を思ったか「私も連れていってくれますか」と申出。ミコ氏は始めて会った男性を連れて我が家に来たのである。ついて来た男性も、又連れて来たミコ氏もどうかと思うが二人とも常識をかけ離れた人達のこと、何の不思議もないのかもしれない。
その男性田村茂氏は能の面打ち師で、油絵も描き、寺院の天井画も描き、絵なら何でもという人で、楽器の演奏もする多芸の持ち主であった。面白がって適当にいびったところ、後に手紙が届いて「悔しくて夜も眠れなかった」と書いて寄越したものである。彼からは時々作品の絵、天井画等の写真が送付されてくるが、世の中にさほど知られていないがその能力の高さに唯々驚愕するばかりであり、無名でもこんな人物が世の中に沢山居る事を知らされている。
25. 南風 洋子 女優
1970年代の始めの頃、職場の有志を募って、識者の話を聞く講演会のようなものを定期的に開催していた。参加者は10人位であった。公民館などを使用していたと思う。当時、社会派テレビドラマ「判決」が政府の圧力で中止に追い込まれるかもしれないと囁かれていた時であり、当事者から話を聞きたいと関係者に要望を伝えたところ、快諾された。当日はスタッフの男性一人と、何と出演者の女優南風洋子氏が現れたのである。彼女はポニーテールの髪形にほとんど化粧気もない姿であった。女優と言うよりは一市民として自分の置かれた場所で、民主主義や人権が破壊される事を許さないといった毅然とした美しさに満ちていた。話も充分考えられた的確なもので、何とか自分の思いを届けたいとの気持ちに溢れていた。その時の感想は我々の生きている世界とは全く異なる別世界と思われた女優さんのこの姿をみて、あゝどんな場所でも自分の気持ちを大切に、様々な困難と闘っているんだなあーと思ったのが実感であった。今でも真近に接した南風洋子氏の事が思い出される。
26. 川村 俊夫 元憲法会議事務局長
27. 南風洋子の項で紹介した講演会の一環で呼んだ「小選挙区制について」の講師が川村氏である。当時政府は自分達の政治支配が崩れるのではとの危機感から小選挙区制の導入を画策していた。これは岸政権以来の日本の政治を欧米のような二大政党にし、中小政党を排除するという思惑を警戒する動きが、国民の中に少しづつ拡がり始めてきた。この状況の中で若き論客川村氏を呼んだのである。川村氏の論旨は実に明解で、小選挙区制の中身についてもドント方式等具体的に説明され、これがいかに非民主的なものであるかが参加者が一様に思い知らされたのである。川村氏の略歴を見てみるとその理由も明らかとなる。中学生の頃全国一律の模擬テストが行われた。9科目であったが、彼は全国一の成績であった。つまり満点であったのだ。ただし本番では一問間違えたそうだが…。東大卒業後1965年憲法会議の結成に参加。事務局専従となりその後事務局長に就任。2004年の九条の会結成以来事務局員として活動して来た。その間多くの書物を出版しており、憲法記念日には渋谷の山手教会で毎年講師を呼んで記念講演を行ってきた。平和憲法を守る為に一貫して活動して来ており、その貢献は多大なものがあった。2022年11月20日老衰のため死去81歳。ちなみに彼は過去私の義弟であった。理が勝っており、人情味の面ではやゝ乏しかったようだが、我が畏友であった。
27. 山田 みどり 池坊華道教授、表千家茶道教授ほか
山田みどり氏は若い頃社会党の衆議院議員であり、国会の爆弾男の異名をとった楢崎弥之助の秘書を長く務めていた。その間同じ秘書仲間であった海部俊樹、小渕恵三等と協力。秘書の待遇改善勝ち取っている。
当時社会党には勝間田精一、高沢寅男、岩垂寿喜男、上田哲、成田知巳、田邊誠と多くの人材を有して一番充実した時代であった。
その後、彼女はこの職を辞し、ロシア語を習得の為日本の自宅を売却してソヴィエトに渡り、腕に覚えの池坊の華道、表千家の茶道の技術をもって現地の人々にこれを伝授、ソヴィエト支部を結成し、多くの弟子を育てたのである。その後近隣諸国にも弟子を拡げ、現地では日本最大の有名人となったのである。
その他にモスクワ大学の日本語教師、日本の書物の翻訳、書、お琴の名取りと多芸を極めており、水墨画でも現地で50人以上の弟子を有して毎年新日本美術館で開催される全国展で10人以上の入選者を出してもいる。私も彼女の紹介でエルミタージュ美術館での個展を実現し、国立宗教博物館への作品21点の収蔵も彼女の力による事が多い。
何度か我が家にも来訪しているが、食べられないものが多く、特に肉が駄目と来ている。
サンクトペテルブルグの国立植物園内に茶室を建設する事業をすすめ、その設計も彼女が担当し、庭の石の配置等総て彼女が差配したものであった。
我が家への3度に亘る日露青年交流協会の来訪は15名、20名、24名の規模であって外務省差し回しのバスで到着、表千家、裏千家のお茶、お花、書の分〇に分れて実習した。彼女は勲章も授与されている。日本、ロシアを行き来して活動しており、そのエネルギーは驚くべきものがあった。2023年2月末最後のロシア行きを敢行したが、その4月に現地で死去。88才であった。ロシア大使夫人から「当地で死亡した場合には私達が責任をもって葬儀等を行うから心配しないで」との言質を得ており覚悟のロシア行きであったと思われた。何れにしても文字通りのスーパーウーマンであった。