『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』ジョルジュ・シムノン  2025/05/17

『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』

            ジョルジュ・シムノン   

             訳=高野優(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

マジェスティック・ホテルの〈コーヒーと軽食の準備室〉の主任、プロスペル・ドンジュがホテルに出勤すると、ロッカーの中に三十歳前後の女性の死体が押し込まれているのを発見する。

事件は司法警察のメグレ警視に委ねられることになる。殺されたのはアメリカの実業家オズワルド・クラークの妻テディ・クラーク。やがて被害者があるキャバレーで働いていた時にドンジュと関係があったことを知る。更にクラーク夫妻の五歳の息子が実はドンジュとの間の子であることが判明。夫にそのことを知らせないかわりに金銭を要求するドンジュから夫人への脅迫文がみつかる。状況証拠はドンジュが犯人であることを示している。しかしメグレはどこか違和感を覚え、真犯人は別に居ると睨んで執拗に調査を進める。

さて、〈十一章 大団円〉では、このシリーズでは珍しく、関係者を集めてメグレが自らの推理を披露する─「さて、皆さん、お集まりかな? じゃあ、トランス、扉を閉めてくれ」と見得を切り、読者を満足させる満点の終盤である。

 

〈八章 メグレ、居眠りをする〉の冒頭の文章を見てみよう。

「メグレは執務室に座って、朝のひとときを楽しんでいた。これはこれで悪くない。

背後では古い石炭ストーブが炎の音をたてている。左側の窓は厚いカーテンのような朝露に覆われている。目の前にはルイ・フィリップ様式の黒い大理石の暖炉がある。暖炉の上には同じくルイ・フィリップ様式の置き型の振り子時計があり、その針はもう二十年も前から正午で止まっている。壁には金と黒の額縁に入った写真が飾ってある。昔、警察署の〈事務官の会〉があった時に仲間たちと撮ったものだ。みんな元気いっぱいで、フロックコートに身を包み、全員が口ひげをたくわえて、先のとがった顎ひげをはやしていた。二十四歳の時のことだ。

机の上には大きさ順に四本のパイプが並べてある。その手前には昨日の夕刊が置いてあった。一面の見出しはこうだ〝アメリカの富豪夫人《マジェスティック・ホテル》の地階で絞殺される!”まったく新聞ときたら! アメリカ人の女性は誰もが富豪夫人でなければならないらしい。メグレは呆れた。」

まるでバルザックの『ふくろう党』や『ゴリオ爺さん』を髣髴とさせる文章である。フランス社会を形作る多種多様な人間の気質を描出した十九世紀半ばに確立された近代リアリズムの流れを、シムノンがしっかりと引きついでいるのをつくづく感じるのだ。

参考:『バルザック全集』第一および八巻(東京創元社)