「 死霊 」埴谷雄高 講談社 文芸文庫 3巻 2023年12月28日 

「死霊」埴谷雄高 講談社 文芸文庫 3巻

1.埴谷雄高は1910年台湾の新竹に生まれ、中学一年まで台湾で育った。1930年日本共産党に入党。1932年3月治安維持法により検挙、獄中にて肺結核に侵され翌年転向。11月に釈放、その後も入院生活をおくる。幹部佐野学、鍋島貞親らの転向に続く集団転向の一つとみられた。獄中でカントの「純粋理性批判」を読み、これを転機として妄想的実験記録を文学として書いてゆくことを決意する。

 

2.さて物語りは3日間の話である。郊外にある風癲病院から物語は始まる。ここに長く閉じ込められてた矢場徹吾が今日解放されるので、旧制高校生三輪与志がむかえに来たところから始まる。1,3章までは三輪の異母兄弟首猛夫の旧制高校哲学言語による難解な主張が続けられ、4章に至って与志の寝た切りの兄高志の弟への語りとして「とうとうお前に会ったな」と。その無表情な不思議な一種獣的な迫力をもっていながら、この上もなく落ち着いたまったく動きもない無機質な顔付を同じほど抑揚もない声音と調子で ≪それ≫ はゆっくりといった。高志「とうとうだって?俺はお前をこれまでまったく知らないけれどいったい何処からお前はきたのだ。」

それ「ほゝう 俺が何処から来たかとお前は訊くのかね。そう訊かれれば まあ、お前が時たま夢見る夢魔の世界からと答えておくのがまず至当だろうが、実際をいえば、俺のいる世界とお前のこの世界は、お前達がきめた距離の単位でいえば、ちょうどきっかり千億光年ほど離れているのだ。」 高志「きっかり千億光年だって・・・?」 それ「そうさ、但しお前達がきめたお前達のだけの宇宙の距離のちっちゃな単位でだぜ」 高志「そんなーー  それほど遠い外の世界から、 お前はどうやってくるのだ。」 それ「ふむ。いいかな、俺は何時も即座に一瞬にしてお前の許へやってくるのだぜ。」 高志「一瞬にしてだって? ほほう、いったいお前は何に乗ってくるのだ。」 それ「ふむ、それは決まり切っている。つまり お前の想念にのってーーー。」 高志「えっ

俺の想念にのってだって・・・?」 それ「そうだ。お前が俺のことを考えたとき、俺はそのお前の思惑にのってその同じ瞬間にここへやってくる。つまり、俺はお前に呼ばれて何時もここにきているのだ。犬も俺がここへ呼ばれてきていることに、これまでお前自身は長いあいだ気がつかなかったけれどもな。」と異様な不思議な印象をひきおこす。いってみれば、それのもっている精神自体がのこらずひとつの巨大な傷痕の全体となって、そのまま硬直し固定してしまったような一種怖ろしいほど無機質な顔の表情も動かさず、

≪それ≫ は特別皮肉な調子も帯びずにそういった。

 

3.寝たきりの高志は弟の与志に問う。

「ところで生れついてこの方絶えず外部から突き動かされている俺達が自ら発した意志、正真正銘の自由意思でおこなえることがこの人生に2つあるが、お前はこれが何だと思うかね。」

与志「他のひとつは解りませけれど、ひとつは古くから決ってます。」 レ「というと、何かな?」「自殺で--す」「その通りだったが、それが強制のみに支えられた生の法則に対して俺達が表明し得る貴重な自由意志だと ひとり残らず俺達のみんなに解っても 何故俺達は自殺しないのかな。」「考えつゞけているからです」ー死霊5章ー

これは「あまりに近代文学的な」文学界1951年7月号「濠渠と風車」に連載された「幅が4尺5寸、奥行きが9尺ほどの灰色の壁に囲まれたその部屋に入ると、扉の掛金が冷たい鋼鉄の敲ち合う鋭い鋭い響きをたてて背後に閉まった。青い官給のお仕着せをきた私は、そのうすら寒い部屋のなかに敷かれた1枚の畳の上に、ゆくりと坐った。鉄棒がはめられた4角な窓から青い空がみえた。これが牢獄なのだな、と私は思った。4角な窓から覗かれる青い爽やかな空に灰白色の光が拡がり、それが次第に薄鼠色の翳を帯びて暮れかかってくるまで、数時間、私は凝然として端坐していた。そこに入れられたばかりの私は読むべき本も、為すべき仕事も持っていなかった。私は端座したまゝ眼をとじて自身を覗きこみ、また、眼をあけて眼前の灰色の壁を凝視した。 ときおり頭上の四角な窓から白い光と目に見えぬ風が走っている遠い虚空を見上げた。薄闇が這い寄ってくる宵。この建物の広い区劃から離れた遠い何処かで、号外を知らせるらしく走っている鈴の金属的な響きが幾度か聞えた。5.15事件の日であった。私の記憶には、この入所第1日目の印象は、色が褪せかかってはいるもののなを輪郭を喪ってはいない1枚の古い絵のように、遠い向うに薄日をはなって沈んでいる」

この奥多摩刑務所の未決囚の独房に22才から23才にかけ1年半をおくったこと、そこではじめて本が数冊しかないまゝに、それまでよりどころしていたマルクス・レーニン主義の文献のないままに自分で考えることをまなんだことが彼にとっての思考のスタイルを決定した。しかしその孤独の中で幻覚とも妄想ともつかぬ幻想の世界に浸ったことであろう。高志の語る男はまさに夢の中で埴谷雄高がみた幻覚に外ならない。

死霊5章の中に「俺が達した真実とは、そこに上部があるかぎり、革命は必ず歪められ、その革命的要素をついにまるごと失ってしまうことになるということだ。君達が必ずまずつくるのはほかならぬ『指導部』でそこに大きな指導部、中くらいの指導部そして、ちっちゃな指導部の馬鹿げたごちゃまぜな積み重ねがあちこちやたらに飾り置かれると、どんなに強い『階級絶滅』の金槌で叩いても決して潰れぬ堅固な上部なるものの厚い層の壁がががっちりできあがってしまう。そして、その階級の壁はこの世のはじめから嘗てつくられたいかなる壁よりも厚く、堅いのだ。君達はこのような上部がいかに否定されるかこれまで深く心を砕いて真剣に考えたことがあるだろうか。それがなされるのは諸君のいう革命によってだろうか。否、上部によって進められた革命なるものはその上部をさらに強く仕上げ、いよいよ永劫に破壊されがたい革命の虚像をつくりあげてしまうのだ。

この考えは平野謙の「リンチ共産党事件」の思い出(三一書房)に宮本顕治が昭和8年12月の「赤色リンチ事件」の真相を語っている。

「これらの状態にたいし党は、白色テロル調査委員会を設定して党組織の被害状況と原因調査を強力に促進することにした。調査委員会の攻勢は逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之助(宮本顕治)だどがその委員であった。< その調査委員会の報告に基づいて、党中央委員会 > は両名 < 小畑、大泉を指す > を査問委員会にふする決定をした。すなわち両名をのぞく党中央委員会並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催しそこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成されたと。」と。

平野 「なんとものものしい形式ばった書き方だろう。6人で構成されている最高機関の中央委員会の中に2人もスパイがまぎれこんでいたという悲惨にして滑稽な事態を客観的にみる能力が欠落しているからこそ、宮本顕治はこういうものものしい書き方に固執して『自分を可笑しくする』結果にまるで気がつかないのである。私は宮本の思考方法の中に硬直した一種の固定概念を見出し、それでは、かえって事態をリアリスティックに打開しがたいのではないかと杞憂するまでである。」と(平野謙 談)語っている。この形式論理的思考は現在の日本共産党の規約にもそのまゝ存在しており、民主集中制の中での党内の言論の自由は保証されているとの建前論でその実態については一顧だにされてはいないのである。

この前衛党の実態に接した埴谷雄高はそれに対する不信を死霊の中にこのような形で表現している。

そしてその後共産党(国内、国外の)に接近する事はなかった。また多くの転向者が権力に接近して変節したようには埴谷は決してならなかったのである。

 

著者の思考は(埴谷雄高、鶴見俊輔 講談社 より)

著者が植民地台湾にうまれ育ったことにある。自分にやさしくする父と母が台湾人の車夫や物売りにむごいあしらいをする。自分の家を安住の地として無条件にうけいれる姿勢は著者にとって、はじめからなかった。著者は自分の部屋のとじこもることを好んだ。後に独房に入れられたときにも、それほどいやに感じなかった、という。

ひとり考えることをくせとする少年は(父がなくなったので)一家の「愁いの家」となって母、姉やがては妻にかしずかれ、出獄後は病いを友として、ねたきりの生活をおくる。それが、この物語の実生活上の背景である。著名の言う自動律の不快はここに原因しているのだ。

高志の語る正真正銘の自由意思でおこなえることの一つが自殺であり、もう一つが、自分の子供をつくらないことだ」と述べているが、埴谷雄高自身も自分の子供をつくることを拒否して一生を送っている。