ドキュメンタリー映画「チリの闘い」三部作(1975~78年) 第一部「ブルジョワジーの叛乱」

ドキュメンタリー映画「チリの戦い」三部作(1975 ~78年)

 

(1)チリ出身のドキュメンタリー映画の巨匠パトリシア・グスマン監督。チリでは世界初めて選挙で誕生した社会主義のアジェンデ政権が1973年9月ピノチェト率いる軍部のクーデターで崩壊するまでを描いている。クーデター後逮捕、監禁されたグスマンは亡命。国外に持ち出した撮影済みフィルムをもとに映画を完成させたものである。

 

(2)第一部 「ブルジョワジーの叛乱」

映画は1973年9月11日正午頃モネダ宮殿が爆撃される短い映像から始まり、すぐに6ヶ月前に戻る。

3月4日の選挙を前に野党キリスト教民主同盟と結束した国民党の右派と左派政党が結束した人民連合の善戦で予想された右派が大統領を解任に必要な3分の2以上の多数をとることがかなわず、人民連合の議席増に終わる。

そこから右派の激しい攻撃が始める。砂糖、トイレットペーパー、洗剤、米などの買い占めが始まり、政府が即座にこれに対処。ついで右派は内閣の閣僚を次々に解任し、やがて全閣僚に対する弾劾を始めるが、これに失敗。野党の支援を受けた右翼学生のデモ、ついで合衆国で研修を受けた輸送業者が罷業を行い3分の1が移動不能となる。又軍人4、000人以上が米国で訓練を受け、4、500万ドルに及ぶ軍事援助を受けていた。

4月19日チリ経済の中心である銅山でキリスト教民主党のそゝのかしによってストライキが勃発(銅山労働者は高額労働者であった)。ストライキ中も労働者の半数は残業しながら残業しながら通常の倍の仕事を行って、人民連合を支えたのである。給与を倍額にする事を要求するデモが組織され組織され行く手を塞ぐ警官隊と乱闘を始める。ストの指導者は鎮圧による犠牲者を必要としていた。しかし政府は細心の注意を払って行動するように警官に命じており、このデモは失敗。スト指導者はカトリック大学を煽動し、反政府デモを行わせるに成功。小売業者や輸送業者がスト参加者と連帯してストを呼びかけ、政府は警官隊を動員し、人民連合支持者も宮殿前に結集し、デモを組織し、内戦阻止をスローガンに50万人集会が開かれアジェンデが演説。その一週間後ストライキは終息、そしてついに6月29日第2機構甲連隊が6台の戦車と数台の輸送車を使ってモネダ宮殿を攻撃。

アルゼンチン人のレオナルド・ヘンリクセンがこの様子を撮影している最中に撃たれる。(そのヘリクセンが撮った映像が示される)で一部が終わる。

 

(3)チリという国について

 

イ.住民の95%はスペイン系白人と原住民アメリカインディアンとの混血人(メスティーソ)である。

ロ.スペイン人の征服は遠隔の地であることと、インディアンの抵抗の激しさに手を焼いた為と、金・銀の発見がなかった為に主として牧畜が行われてきたが、1917年スペイン国軍を破って独立を宣言した。

ハ.1964年キリスト教民主党のフレイが社共を中心とした人民戦線がアジェンデを抑えて当選したが、6年間の結果国民の失望を買って社会党、共産党、急進党その他3会派による人民統一戦線におされた社会党のアジェンダに敗れた(70年9月)

 

しかし得票率は36%、決選投票によって当選。当時の国会勢力は上院50、下院150のうち、総計80。キリスト教民主党は78で、不安定であった。軍隊については軍事予算は国家予算の10 %と低く、軍隊については軍事予算は国家予算の10%と低く、陸軍の兵力は3万8千人、政治不介入の原則にたってはいたし、過去の武勲により国民的な人気を確保していた。50万の組合員を擁する労働総同盟は共産党の指導下に置かれ、銅度業、こ公共企業関係、労組は強力でしばしばストライキに訴えており、国民の教育に関する関心は強く文盲率は20%弱である。

 

二. 産業は銅を中心とする鉱山物は輸出の85%を占めてこれからの脱却を図っているところである。チリの銅産業を支配するアメリカの企業にとってアジェンデの国有化政策は脅威となっていた為に何としてもアジェンデ政権を倒す事が急務となっていた。