松谷みよ子 について  2021 年に読んだ本 11

童話作家 松谷みよ子 について 

1.「図書」2021年3月号に松田青子の「古びない物語の魅力」が記載されている。

松谷みよ子著「ちいさいモモちゃん」である。松田青子は「この世界が生まれていることの痛みを容赦なく描いていることに驚かされる」と語る。

 

2.もう40年以上前となるが、松谷みよ子の「貝になった子ども」を読んで強い衝撃を受けて全集15巻を購入した。

「貝になった子ども」は松谷みよ子20才の時の作品である。

 

若い母親おゆうは夏の日がじりじり照りつけている日、5才のわが子 弥一にトマトやなすの入ったボテをもたせて先に家に帰したが、弥一はそのまゝ行方知れずとなる。

おゆうは気狂いのようになって探し歩いたが見つからず、そのうち小さな子供が3 、4人白い街道を歩いているのをみて、あとを追いかけ、やがて北の海にたどり着く。

3羽の雀が話している。「弥一はしあわせだ。白い貝になったのね、いいなあ」おゆうは海の中に白い貝が見えました。おゆうのほゝにはあたゝかいなみだがすべり落ちました。作品をみせられた坪田譲治は驚嘆して「この作品はアナトール・フランスとか、アントン・チェホフなどという人の作品に交じっていても、おそらく疑いをさしはさむ人はいないだろう」と最大限の賛辞をおくっている。

松谷みよ子はこの作品で1951年第一回日本児童文学者協会新人賞を受けている。

 

3.松谷みよ子の最高の作品は多分「二人のイーダ」であろう。夏休み母親と妹と直樹がおじいさんの家に出掛けた時の事である。近所に人の住まなくなって大分経った廃屋があって、中に入った直樹は古い「いす」に出合う。3才の妹ゆうこ、自称「イーダ」は一人でまるで我が家のように廃屋で「いす」と戯れる。「いす」は直樹に語りかける「イーダはどこ」。近所のおねえさんりつ子と直樹は、この「いす」と廃屋について調べ始める。廃屋の住人は広島に落とされた原爆で老人二人が死に、孫娘一人が助かったことを知る。実はりつ子がイーダだったという。やがて予想外の結末が訪れる・・・。

3才の妹「イーダ」のあどけない可愛らしさと、大人にはない不思議な感覚はやゝおどろおどろさを秘めて、読者の前に投げだされる。物事を良く見極めた視点と不思議なメルヘンの世界が、現実のむごさをより一層明らかにするのだ。

この作品は明確なる反戦文学である。「貝になった子ども」「二人のイーダ」は児童文学に納まりきれない深い内容をもって私達の心を揺さぶるのだ。

 

4.「ちいさいモモちゃん」「モモちゃんとプー」「モモちゃんとアカネちゃん」は現実を見きわめてリアルに見つめる目と夢の世界を実にたくみに描き出し、中には夫との軋轢をもそれとなく盛り込んでいる。

 

5.松谷みよ子は1926年2月15日神田元岩井町に生れる。(2015年2月28日没)。

父は日本労農党の代議士で弁護士の松谷與二郎、母は翠、二男二女の末っ子である。1948年横浜銀行労働組合書記となる。翌年まで闘争支援オルグ等活動。1950年春結核発病、信州で療養。1952年片倉工業内に人形サークルをつくり、ここで瀬川拓男と知り合う。1955年11月瀬川と結婚。葛飾区金町4-39 (旧表示)(現在の東金町3丁目付近)に住む。(1967年離婚、1975年12月12日瀬川死去。)

1956年民話探訪、信濃、秋田。

金町の住居は『人形劇団 太郎座』の拠点となり仲間と共同生活は数年に及んだ。

その間留守番に後の白土三平がいる。(なお金町には街頭紙芝居業の雄 加太こうじがいた。)夫の瀬川拓男は東京に「人形クラブ」の創立に参加し、地域に、工場にオルグ活動を行っていた。又下町の文工隊として文化活動の一翼を担っていたのである。

 

続き 日本の民話は未来社から42巻出版されているが、やはり松谷みよ子の書いた「秋田の民話」「信濃の民話」が群を抜いて出色である。

ちなみに私の妻が1958年頃この『人形劇団太郎座』に在籍していた。