『検証』(レッドパージ 電力産業労働者の闘いと証言)1995年 6月 編集 益子 純一 補講 編集 益子 良一

2020年9月14日

『検証』(レッドパージ 電力産業労働者の闘いと証言)

             1995年6月 出版    編集 益子 純一

                      補遺 編集 益子 良一

 

1.(1)1945年  8 月 日本ポツダム宣言受諾し無条件降伏

 (2)1945年  9 月 世界労連結成

 (3)1945年 10月 GHQ指令 治安維持法及び特高警察廃止、政治犯釈放

 (4)1945年 12月  農地改革指令、労働法公布

 (5)1946年  4 月  電産労組結成

 (6)1947年 1月9日 全官公共闘2・1スト決定

 (7)1947年 1月31日 GHQマッカーサー元帥2・1スト中止命令

 (8)1949年   7月 国鉄定員法で第一次首切り37千人

      1949年   7月   〃   第二次 〃 62千人

 (9)1950年   5月 マッカーサー共産党非合法化を示唆

 (10)1950年   7月 マッカーサー警察予備隊創設

 (11)1950年   7月 GHQレッドパージを勧告

 

2.アメリカ占領軍が当初日本再軍備化を進める事を第一義として民主化の手を次々と

打ってきたが、ソ連の原爆所有宣言、中華人民共和国の成立によって、従来の政策を転換。日本を軍事作戦の補強基地として利用する方針を定めて日本を「反共の砦」として

強化する道を選択したのである。

その第一歩としての「レッドパージ」はアメリカの「マッカーシズム」の日本版で

あった。

「レッドパージ」は日本の「逆コース」へ転じた転換点である。

「レッドパージ」は1950年に行われ、民間537社で10,972人、政府機関で1,177人(1950年11月)に及んだ。

 

3.戦後の日本民主主義社会は同じ敗戦国のドイツと大きく異なっていた。

ドイツでは時効を廃止してまでもナチの犯罪の責任者を追求したが日本では自らの手による戦犯裁判は唯の一件もなかった。否、政界、官界、財界における指導者の多くは軍国

日本の指導者で、責任の追及はおろか、戦前、戦後を通じて人物の持続性は保たれてい

たのである。

今日に至るも憲法を改定して、軍事国家を明文化し、教育勅語を是とする政治勢力が

日本を支配している根源がこゝにあり、「レッドパージ」を許した遠因ともなったの

である。

 

4.「検証」では電力産業の労働者達がレッドパージを受けた側からの証言であり

「思想及び良心の自由」を守る為にいかに闘ったかの詳細な現実を、現場労働者の不

屈の抵抗の過程を生々しく語っている。

レッドパージから40年経過して尚、語らずにいられなかった思いは何か。弾圧を受けた現場からのリアルな現実を残すいかに「人権」が奪われていったかと、40年経って再び「憲法改定による軍事国家の明文化と、反動思想の流れが次第に大きくなりつゝある

時代に警鐘を鳴らす必要性を切実に感じていたからに他ならない」