加藤周一について(加藤周一著作集全24巻を読み直して)

加藤周一について(加藤周一著作集全24巻を読み直して)2020年8月27日

 

加藤周一著作集全24巻を改めて読み直す。

加藤周一と云えば「日本文学史序説」であり、物語、詩歌、哲学、宗教と従来の文学史

とは全く異なる切り口で目を見張る論評を繰り拡げた。特に前半の見事さは類を見ないもので、文学史と云うよりも日本文化史とも云うべきものである。

さて、加藤周一の取り上げる分野はヴェネチア、パリを始め数ヵ国に居住、英独・仏・伊語を駆使し各国の政治、社会、文化について論じ建築、彫刻、絵画、宗教、、歴史を語り、演劇はギリシャ史劇から能、狂言に及ぶ、彼が論じないものはスポーツだけである。

 

もう一つは自己を語らない。唯一の例外は「羊の歌」のみであるが、他の分野同様自己

を客観視してみる点は変わらない。

論旨は明解、余分な事は一切書かない、深い洞察力に貫かれているが、優しさは失っていない。

今まで、曖昧に流されて感じていたいた物事を論理的に解明してもらう楽しみは全編に

わたっており、知的読書の娯しみをこれ程味合わせてくれる読書は外にない。

 

加藤周一の人となりを最も良く表している文章を生涯の友人福永武彦に語ってもらおう。『或る時、加藤周一が自伝「羊の歌」を書こうと思うと私に語った。やれやれ君もそん

なものを書く歳になったのかと私はひやかし、どういうポイントで書くのだと尋ねたら、平均的日本人を書くのだと答えた。平均的日本人と加藤周一とではイメージがまるで

重なり合わないから説明を求めると、彼はこういうふうに述べた。多くの日本人と同じく、君も僕も、政治では右でも、左でもなく、宗教では神道も仏教も、キリスト教も

信ぜず(しかしいずれにも関心があり)行動には理性を重んじ、判断は相対的であり、

実人生を楽しむように芸術を楽しみ、目は世界に開かれ、心は日本を愛し・・・・

この上まだたくさんのことを言って、そのうちに笑い出して、君はどうも平均的では

ないかもしれない。

君は芸術家だからとお世辞を言った。そこで私の方はもっと大きな声で笑い、もし君

が自分を平均的日本人だと思っているのなら、それはとんでもない間違い。

君は特別製のインテリだから、その点を自覚して自伝を書かない限りポイントが狂うよ

と忠告した。世界を股にかけ日英独仏の4ヶ国語を日常に使い、政治、思想、文学、芸

術の各分野にわったて鋭い批評眼をそなえた男が平均的ということはあるまい。

「羊の歌」は わが回想 という副題を持ち、加藤周一による1945年敗戦の年までの自伝である。このあとに「続羊の歌」が刊行されることになっている。さてこれを読むと加

藤周一という決して平均的でない一個性が、どのような環境に育ち、どのような他者お

よび自己による教育を経て現在に至ったかが明らかに分かる。彼の持つ観察力と分析力(また記憶力というものもあろう)必要にして充分な描写と説明によって、幼年期と少

年期、そして青年期に及ぶまでの間の、その人間像を刻みあげる。祖父、父、母、妹と

いう肉親たちも、どの一人として決して平均的ではないし、その強い個性が彼の上に投

影している。時代の方は平均した力を彼の上に投げかけたが、彼は決して流れに押し流

されることはなかった。私は彼の身近にいた一人の友人として、殆んど ”巻を措く能わず”  という興味に促されて一読したが、一般の読者諸氏に対してもこの一冊は強烈な印象を与える筈である』

(福永武彦全集第15巻 加藤周一「羊の歌」昭和43年9月)

「羊の歌」は朝日ジャーナル1966年(昭和41年)11月6日~1967年4月9日 

「続羊の歌」は朝日ジャーナル1967年( 昭和42年)7月9日~12月17日 

              1968年9月 に収録