丸山眞男座談 全9巻を読んで

1.1946年から1995年まで実に50年にわたって日本の文化と政治、社会をめぐる

  座談の形で論評している。

座談の相手は

大塚久雄、中村哲、古在由重、清水幾太郎、

林健太郎、宮城音弥、吉野源三郎、

大岡昇平、野間宏、猪木正道、天野貞祐、

渡辺一夫、田中耕太郎、高見順、武田好、

久野収、長谷川如是閑、埴谷雄高、

加藤周一、矢内原伊作、江藤淳、南原繁、

永井道雄、日高六郎、石母田正、鶴見祐輔、

中村光夫、吉田秀和、木下順二、山本安英、

開高健、村松剛、桑原武夫、高野悦子

  等多岐にわたっている。


2.唯物史観と主体性、日本の軍隊を衝く、何を読むべきか、現代社会における大衆、

現代革命論、映画思想と政治、戦争と同時代、民主主義の後退を憂う、現代の政治的

状況と芸術、芸術と政治、学問と政治、現代における平和の理論、日本の言論、日本

の反動思想等文化と文明、政治について幅広くとりあげて論議されている。

取りあげている時代ごとに踏み込んだ話題が繰り広げられており、全体としては、

民主主義がとりくずされていく反動化が全体を通してみると良く分かる。

 

3.中でも9巻にのる「平和問題談話会」については一際光彩を放っているようだ。

石田雄、久野収、坂本義和、日高六郎、緑川亨、吉野源三郎、そして丸山眞男の面々

で1968年の座談である。戦後23年経ち国際的にも国内状況もきわめて流動化した現象

がみられるようになって、その転換期に一定の方向性を定める必要があるとの認識に

立って戦後の日本の平和思想の形成にとって大きな基盤を提供してきた「平和問題談

話会」の思想的原理と論理を明らかにしようとした座談である。


4.1948年12月10日世界人権宣言が発表され、それにともなって、ユネスコの8人

の社会科学者の声明が出された。8人の人達は、内4人が自分の正しいと思う考えを捨

てる事を拒否した為に生涯のある時期を牢獄で送った思想的弾圧の経験者であり、

2名は亡命しなければならなかった人達であり、2名は第2次大戦中肉体的虐待を受け

たおそらくユダヤ人としてのつらい思いをした人達であった。


5.8人の声明を受け入れ、これに対する日本の科学者の声明を発表し、そこから

「平和問題談話会」が形成された。日本の問題は東西両陣営の対立のなかでこれから

いろいろな問題に直面せざるを得ないわけで、ユネスコの声明を日本の問題に引きつ

けて行くことは日本のインテリゲンチャとして孤立し、分散し、各個に蹴散らされた

戦争にいたる体験を経て、新しく出発する覚悟をもたねばならない事や、東西両陣営

の狭間のなかでどのような態度をとるか等極めてむつかしい問題だったのである。

つまり戦前は世論に影響力をもつような知識人の間の交流の場は全くなかったのだから。


6.当時の日本の政治状況
敗戦の直後には「自由懇談会」というものがあり、ずっと左の人まで集っており

「民主人民戦線」が盛んに主張されており、野坂参三が中国から帰国した際には歓送

委員の中には石橋湛山がいたという状況があった。マルクス主義に対する信頼は極め

て高かった。

つまり思想としてはマルクス主義のみが戦争に抵抗したということが最大の原因である。


7.しかし肝心の日本共産党の実情はどうだったか。ファシズムと闘った仏、伊の共産

党と異なり日本共産党は1933年6月7日佐野学、鍋山貞親の転向声明を始めとして雪崩

を打って転向。残った数少ない指導部は戦後になって牢から出てきており、世界の状況

も日本の実状も理解することが出来なかった。またディミトリフによるコミンテルン

の戦略転換が1935年社会民主主義者こそもっとも悪い階級敵だと攻撃の戦術転換を行

った。

以降日本共産党も長い間社会党を敵の補充物として攻撃する立場をとり続けていた。
いわゆる疑似左翼は右翼よりなを悪いという見方である。又戦前の党は拠点を生産現

場に築くことが出来ずに、一部インテリゲンチャに依拠していた為にあっけなく剪滅

されてしまったのである。又民主主義的権利の闘争に充分習熟する事もなく、戦術面

での未熟さもあった。共産党員の転向も含めて日本の民衆の中に「人権」の観念が不

足していた事が大きい。人権とは人民という集合体の権利ではなく、個人個人の権利

で所有権から言論の自由までみんなそれに入る。つまり絶対主義の政府でも「人権」

にそれこそ「絶対」に足を踏み入れてはいけないという観念で、国会にしろ行政府に

しろ政権はどんなに集中しても人権は不可侵なものという思想は今の日本でさえ定着

していないのだ。

ヨーロッパでは17,8世紀の自然思想はみなそれで、いわゆる近代民主主義の勃興以

前の問題で、政治形態の問題ではない。いかなる政治権力であろうと踏み込んではな

らない領域という思想が日本にはない。民主主義もマルクス主義もヨーロッパからそ

の上ずみを輸入して、その歴史を身につけていない事が大きいのではないか。

まるで着物を着たり脱いだりしているような気持がみえる。共産党も国民も民主主義

を勝ち取った経験もなく、従って守る事もないまゝ中味が伴っていなかったつけが巡

って来たとも云えるのではないか。


8.又ソ連は世界革命のリーダーとしてコミンテルンの中枢に君臨していたがレーニ

ン死後スターリンが党の実権を握るや、次第に民主主義の抑圧者となっていった。

1936年スペイン内乱が起りヘミングヴェイ等世界各国から義勇軍が国際旅団として

人民戦線に参加、一方のソ連は武器援助する条件として人民戦線の中のアナキストを

排除するように強く要求。人民戦線の内部ではアナキストの勢力が強い為に、その要

求に応ずることが出来なかった。ソ連の反ファッショを額面通りに信じていた世界の

共産党からは大量の脱党者が出た。ついで独ソ不可侵条約である。これで2度目の転

向者を出す事になる。更にソ連の原爆実験によって世界の民主化運動の分断は深刻と

なり日本でも反原爆禁止運動は分裂「いかなる国の核実験にも反対」か「ソ連の実験

を帝国主義の実験と同一視出来ない」かをめぐり原水協と原水禁に分かれていく。


9.一方共産党は「劇的な文書「赤旗」第一号の冒頭「人民に訴う」に徳田、志賀の連

名で「ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の進駐によって日本

に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対し我々は深甚の感謝の意を表する」と

記された。

更に46年2月第5回大会で戦後進駐軍が英、米、ソの反ファッショ連合を代表していた

面だけをみて、その帝国主義的本質を見おとし無条件に「解放軍」と規定、占領軍は

革命の発展に干渉は行わず、しかも占領は早晩講和によって終結するであろうとのまこ

とに能天気な現状分析のもと「占領下革命論」が指導理論として打ち出された。

闘うべき敵を見失ったこの戦略は50年コミンフォルム批判で「帝国主義占領者美化の理論」と痛烈に批判され反マルクス・レーニン主義の理論として捨てられたのである。
国内外の共産主義勢力の誤りもあってマルクス主義の影響は次第に低下し続けて行くこ

とになる。
しかし戦争直後の1948年多くの知識人が先駆的に日本を民主主義の国とする為に何かしなければとの必死の思いは痛い程伝わってくるのである。