丸谷才一の「文章読本」より

その第4章に実に興味深い文章が記載されている。先ず「文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言わんとする内容をはっきりと読者に伝えて誤解の余地がないこと、あるいは極めてすくないことが文章には要求される」と述べ、次いで「どんなに美辞麗句」を並べ立て歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしている文章は名文ではない、駄文である。いや文章としての最低の資格が怪しいのだから駄文ですらないというのが正しいだろう」と文章のあるべき姿を明確にした後に本題に入る。

現代憲法と明治憲法である

現行憲法は曲がりなりにも伝達という役目を果たしており明治憲法にくらべてずっと上等なのである。明治憲法の文章が粗悪なことは第1条「大日本帝国八万世一条ノ天皇之を統治ス」によっても明らかであるとし、まず「大日本帝国」という名のり方が威張りくさっていて、愚劣で、趣味が悪い、次に「万世一系ノ天皇」がをかしい。これは過去に関しては虚像で、さらに未来に関しては何の根拠もないあやふやな話だからである。真赤な嘘をつくのが恥しらずな振舞いであり、予見不可能なことを断言するのが滑稽なことは言ふまでもない。そして恥しらずで滑稽、醜怪で笑止千万な文章が、読者にまともに受入れられるはずはないのである。それに感嘆することができるのはただ後世の無学で下等なアンポンタンだけであろう。

更に、明治憲法第一条最大の弱点とするのは「天皇之ヲ統治ス」である。この「統治」という概念は不分明なことこの上ない。それはイギリスふうの単なる君臨(すれども統括せず)を暗に指しているのか、それとも天皇親裁と主張しているのか、はたまた、その中間のへんをぼんやりと言っているのか、いっこうにさだかでない。

それは曖昧至極、どうでも伸び縮みがきくチューインガム条項なのた。近代は本史の悲劇はおほむねこの朦朧在る一文に由来する。何のことはない、亡国の文章の見本にほかならない。又、第三条「天皇八神聖ニシテ侵スへカラズ」も又奇怪である。天皇の何を侵してならないのが明記してないからだ。果して天皇の肉体が神聖かどうかはともかく、一般に人間の体に害を加へてならないことは当然だからである。そもそもこういう粗雑な言葉づかいによって君臨すれども統治せずという複雑な内容を述べようとするのはどうみても無理な話である。それはもはや文章家の態度ではなく、暗号作成者の態度だろう。つまり暗号コードの持主にしか解読できないからだ。しかしこの断乎として何かを言い、しかも何を言っているか客観的にはつひに判らない文章は、国政をみだす密呪として作用した。さらにこの文章がその悪文性と呪術性のゆえに一国の精神をどれほど暗うつにし、沈滞させたかはいまさら記すまでもない。

すなわち、この第三条もまた亡国の駄文であった。

それは、威勢がいいだけで内容は貧弱というよりもむしろ空虚であったゆえに文章の本義に反しているのである。このような文章としての政治的な欠陥は第一条と第三条に限らず、明治憲法のかなりの条文について言えるだろう。

明治憲法の文章の伝達の能力を論ずるときは第一に個々の文がちゃんと内容を伝達し、第二に互いに辻褄が合う仕掛けになっていることが要求されるのが当然であるにもかかわらず、明治憲法は第二の条件もまたみたしていない。最もあらわなのは臣氏の権利の条項で第19条から第36条まで、あれやこれやとうるさく保留をつけながらではあるが、権利を保障しているのに、その反面、まず第8条の緊急勅令で、次に第14条の戒厳令で、さらに第31条の非常大権で、それらの権利を根こそぎ奪い取るのである。文章論の立場で言えば混乱と支離滅裂のしるしだろう。ここには文章が常に持たなければならない秩序が全くない。

伝達と論理を伝達であるとの文学者の観点から明治憲法を読み解いているが、まさに快刀乱麻を断つ如く、明治憲法の駄目さ加減を明らかにしてゆく、その小気味良さは胸がすくようである。

 

文章読本 中公文庫 丸谷才一