和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その一)

顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して

2019.1.16~2.24

 

2.漢字の体系が整備されたのは紀元前16世紀殷の時代と考えられている。

文字の始まりは人間が神と交渉し、この世界をどのようなものとして理解し、又それを日常の生活の上にどう実践していたのかを知らなければならないのだ。漢字は単なる絵画的な方法から生まれたものではなく、描写的であるよりも、優れて構造的である特徴をもっている。エジプト文字を始め皆、文化圏の中でも最も高い文化段階に達したところでだけ成立したもので、その総てが神事や儀礼に用いられた神聖文字であった。楔形文字、エジプト文字、漢字がそれである。しかし漢字以外は民族の興亡が激しく文化の降替に伴って著しく変化し、本来的な意味を離して音標化され、それを免れた中国のみで漢字が残ったのである。

漢字が発生から今日に至るまで継続しているのは、その2つの理由によるものと考えられる。

 

2.甲骨文字

殷王朝は始祖の成湯が西夏王朝を倒して建国と伝えられるが、確かな史実のわかるのは第14世紀の20代目盤庚の時代あたりからで、青銅器文化が栄え、都を安陽に移し、この地から亀の腹甲や牛骨に刻された文字が発見された。

絶対権力者が占いによって総ての政治を行っており、亀の甲や牛骨に穴をあけ、そこに火をあてて焼き、裂け目が生じたことにより吉兆を判断したのである。やがてト辞は形式的となり、絶対権力者の行為の権威付けと変わっていく。

甲骨文字が栄えたのは武丁期から殷末の紂王までの7代9王に至るもので2~3百年続いた。無論の事ではあるが、その間、文字を使用。理解したのは王と貞人(神官)だけであり庶民は文字があることすら知られていなかった。

 

3.金文

前11世紀後半 周の文王は、渭水のほとりで釣り糸を垂らしていた。大公望呂尚に何が釣れるから問うたところ、釣り針のない糸を垂らしていた大公望は天下を釣っていると答えたと伝えられ、文王は三顔の礼をもって大公望を軍師として招いた。文王の子武王は、大公望の力を借りて、紂王の殷を亡ぼし、周主国を建設する大公望は、その功績によって青倭に封ぜられ斉の国王となる。春秋時代には、斉、晋、楚、呉、起の5覇と称せられ、各々天下に号令する強国となるのである。この周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝で800年以上に及んでいるが、盛期は西周時代(1050年?~770年BC)であり、都を洛陽に移してからの東周からは名目上の王位を保つことになり春秋時代(722~481BC)戦国時代(480~256BC)の時代となるのである。

殷時代の末頃から製作され始めた青銅器は全盛を極め、蔡器、礼器として巨大なものがつくられ、表面には霊獣が鋳こまれ、その蓋裏等にへらで掘られたのが金文である。

甲骨文、金文ともに高度の美的直観と構造上の苦心が必要とされ、何らかの美的配慮があったことは明白と云わねばならない。

漢字は誕生した時点から美しさに満ちていたのである。

 

篆書

戦国時代に入ると大篆が表われ始めて、221年BC)奏の始皇帝が中国史上始めての統一国家を建設すると、丞相李斯に命じて字体の統一をはかったのである。天稟の政治家であった李斯は、この事業を成し遂げたが、これを小篆と呼ぶ。現代でも印鑑に多く使用されているのがこの小篆である。李斯は史上最初の書家という栄誉を担うこととなった。彼の書は今日に泰山の碑、瑯邪台刻石として残っている。

やがて始皇帝が没すると宦官の超高が実権を握り、宮廷斗争に明け暮れて李斯もこの斗争に敗れて刑死している。急速に弱体化した奏帝国はやがて漢の劉邦に滅ぼされて劉邦は楚の項羽との垓下での斗いに勝利した。漢帝国を建設する漢代に忘れてならない人物が居る。

劉邦の糟糖の妻呂后である(作品展示あり)が皇后の名が史書に記される初例である。

呂后の産んだ病弱な盈の皇太子の地位を守る為に呂后は全力をあげていたが、劉邦の没したあと盈は恵帝となるが、呂后は劉邦の諸王子を次々に殺害。劉邦の生前寵愛していた戚夫人の手足を断ち、眼球をえぐり、薬で聾唖にし厠に投げ込んで「ひとぶた」と呼ばせた。これを見せられた恵帝は気が狂って死ぬ。更に夫劉一族を殺害、排除して呂一族で王朝を固め、自らを臨朝称制して政権を握るのであるが呂后が没するや、劉氏の功臣達が呂氏一族を制圧して呂氏は族滅させれている。中国には時折烈女とも云うべき女性が出現する。

 

イ.則天武后

14才で太宗の後宮に入り、帝の死後高宗の寵を受け、自分の生んだ子を縊り殺して時の皇后王氏を陥れ、皇后に成り上り690年国号を周と改め、自ら皇帝と称して中国史上唯一の女帝となった(尚武則天とも呼ばれるが武とは、後宮の役人の呼称で4夫人9賓妃、27世婦81後妻とある役職のうち9賓妃の中に美人、才人、武人とありその中で武人であった。項羽の愛妾盧美人はこの中での美人である)

 

ロ.西太后

皇后慈安太后が東太后と呼ばれたのに対し、紫禁城西六宮の儲秀宮(チョシュキュウ)に居住したので西太后と呼ばれた。2人で摂政となった。

東太后を樽に塩付けにしたことで有名。

次々に皇帝をたてるが、実権を握りつづけた。

義和国の農民闘争を利用して列強に宣戦布告したが敗れてまもなく死去。

しかし呂后が、中でも烈女の先頭に立っていると云えるであろう。

 

やがて後漢後期、黄中の乱が各地で勃発し、漢帝国の内部に司馬懿を中心とした清流派グループが力を増して来て、これを恐れた政権は主要人物の多くを獄中に捕まえていたが、清流派と黄中の乱が手を結ぶことを警戒して、清流派を牢からとき放つ懐柔策をとる。しかし、魏の曹操は鎮圧された黄中派の残党36万を味方に引き入れ、清流派もとり込んで一大勢力となり、全国統一を狙って動き出し、赤壁の戦いに挑む。曹操軍は軍師筍或、率いるは80万の軍勢、対する呉軍は周瑜率いる5万の軍勢である。この海戦は風を読んだ呉の火攻めの戦術に曹操軍は大敗を喫し、統一国家の狙いは一時頓挫するが曹操の死後、司馬懿の孫炎が魏の王位を簒奪し、蜀、呉も滅して晋王朝を建国するのである。

 

4.隷書

春秋、戦国時代 書写するのに時間がかかる小篆を簡略化するために、漢字第2の公式書体としての隷書が発達、後漢時代の後半に完成してくる。乙瑛碑(153年)礼器碑とその完成度の高い作品が残り、今から40年程前に日本で公開された礼器碑の前に立ったときの驚きは忘れられない。印刷されたものとは比べるべきもない美しさに圧倒された記憶が残っている。

そして隷書の掉尾を飾る曹全碑はもうこれ以上行けば品位が落ちると思わせる程、流麗極まりない美しさで書としての美しさは、空前絶後と言っても良い。この後、隷書の形は崩れて悪く言えば醜悪とも思える形と変って行くのである。