和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

吉村 昭の本

吉村昭の作品を始めて読んだのは「北天の星」である。南部藩領下の貧しい農村に生まれ、やがて北海道に渡って、エトロフ島で番人小頭の地位を得て、アイヌの若い妻を娶

り安定した生活を送っていた五郎治は、当時はピヨートル大帝のもと勢力を拡大し、カ

ムチャッカ半島まで侵出してきたロシアがエトロフ島を攻撃。五郎治と佐兵衛はシベリ

アに抑留される。ロシアの海軍少佐ゴロウニンが千島周辺の測量の為に、国後島に上陸

したところを幕府に捕らえられ、その交換要員として五郎治と、漂流民6人が日本に返

還された。日本に戻って半ば幽閉された状態でひっそりと生涯を閉じる筈であったが、

ロシアで得た種痘の技術が生きて、日本で初めての牛痘による種痘の施術によって、歴

史の舞台に登場する事になる。


この「北天の星」の出来栄えは素晴らしく以後「羆(ひぐま)」「三陸海岸大津波」

「零式戦闘機」「海の史劇」「ポーツマスの旗」等吉村昭の作品の大半を読んできた。

吉村昭の作品はすべて情緒に流される事なく、登場人物の心理描写に深入りする事もない。事実を積み重ねていく、男性的とも云える文体で、それは宮本顕治の「百合子断腸」に通底しているようにみえる読者としての私に心情的に良く合う作品であった。

作品の総てが丹念に調査を重ねて出来るかぎりの事実を究明して作品をつくりあげる姿勢に深く共感を抱いていた。

 

さて「史実を追う旅」である。
「闇を裂く道」の取材で、大正初年の時刻表を手に、沼津から御殿場のジーゼルカーに乗って隣に坐る年輩の婦人と会話を交す。「東海道線がこの線を通っていた頃、ちょう

ど、このあたりでしたが、車内から勤め帰りの男の人が線路ぎわに立った若い奥さんに

鞄を投げるのです。そしてデッキから飛び降りる。近くに家があって、駅で降りると遠

くなりますのでね。それ程汽車の速さはおそかったのです」と生々しい話を聞いている。又当時の担当の技師は「丹那トンネルが掘られた時は上の盆地の水がなくなり、大騒ぎ

になりましたが、現在の工法ではそのような事はありません。当時トンネルの160m上

方にある丹那盆地は豊かな水に恵まれた地であったが、トンネルが掘られたことで地下

水の水位今西はが急速に低下し、トンネル内に噴出、この為盆地の川の流量が激減し、田はひび割れ、ワサビ田に水は絶えた。農民達は驚き、その怒りが騒動に発展した事等。

 

「破獄」での脱獄の天才では戦前青森県警察所(署)の刑事課長P氏の話として受刑者

Sがひそかに入手したスプーンの柄をコンクリートの床でこすり獄房の合鍵を作った事や、Sは3回脱獄した事を聞く。小菅刑務所から秋田刑務所に護送中に、護送指揮をと

った看守の橋本氏の話として「上野を列車が出まして宇都宮を過ぎて間もなくでした。

Sには前手錠をかけていたのですが、いつのまにか片肘を窓ぎわにのせて頬杖をついて

いるのですよ。驚いて手首をみると片方の手錠がはずれて、垂れていましたね。部下が

顔色を変えて立ち上がり、足錠をかけて縛りましょうと言いましたが、私は、「S、ちゃんとかけとれ」とたしなめました。するとSは手がだるかっただけで他意はありませんよと云って手錠をはめました。凄い奴だと思いましたね。」と語っている。

 

「海の史劇」では日本側の資料はもとより、ロシア海軍の公式記録その他も調べて、
「回天」では薩摩海軍史を始め、外務省外交資料館や東京大学資料編纂所、国立公文書

館でも調査している。最後に吉村昭は「昭和41年から7年間、戦史小説を書いたが、そ

の間あくまでも史実に忠実であることを念願とし非力であるのを知りながらも自分なり

の努力はしたとし、零戦戦闘機の執筆の折の忘れがたい記憶として『零式の戦闘機の設計・製作者であった堀越二郎のお宅へしばしば足をむけご教示を受けた。
氏は私の書く技術的な説明に克明な指摘を下さり、私はそれをメモして小説の中に活か

した。その中で堀越氏はプロペラの箇所について書いた部分が80%の正確さしかないと云い、この部分は私の論文をそのまゝ写して書いて下さいときつく云われた』それは出来ないと断った上で理由を説明した。小説家である私には文章が最も大切であり、たとえ

氏の論文が技術的に正しい内容であろうと、その文章は氏自身のものであり、それを挿入する事は、私が小説家であるすべてを放棄することになる。」「老練な編集者は多少誇張があるかもしれませんが、小説家の書く文章の一行を読んだだけでも誰のものかわかるのです。私は学生時代から小説を書いてきていますが、それは文章との闘いということにつきます。堀越さんの論文をそのまゝ引き写せば、私が今まで小説を書いてきた意味はなくなります。正確度80%でもいいと言ったのはこのような理由からです。」
吉村昭の小説家としての矜持がここに高らかに語られている。