1.  印材とその作家について

書に関わって40年程となり、収集の意志がないままに、いつのまにか印材が集って来
た。その中には著名な作家もいたのである。

 

1.徐星州 獅子紐印材 心間夢穏 349(1853~1925年)徐新周字は
星州皇周 心周 いづれも新周の諧音である。
江蘇呉県の人、少時より篆刻を好み、他事に渉ることなく後に呉昌石に益を受け、
呉の代刻をする事が多かった。呉の作風を承けたものであるが、より整斉、穏健に
して、自ら一格(自分一人の主義で立てた格式、一流)を有しており、また上海に
寓しその刻料も廉価であった為に、邦人の刻印を求める者が多く、犬養木堂、河口
慧海、滑川澹始、田口未航等が依頼している。写真の作品は黒檀造りの箱に入って
おり、表面に朱基石藏、田黄獅子鈕方印とある。

2. 石井雙石 (1873~1971) 346、347
千葉県山辺郡四天木村生まれ、四天木学校に4年通い、16才で上京、22歳で陸軍
に入隊。1906年日本新聞主催の篆刻作品展で2席になり、篆刻家になる事を決意
した。1928年5世浜村藏六に入門、2年後に藏六死去。河井荃廬(センロ)を師
とした。戦後葛飾区堀切に居住、1962年紫綬褒章授与される。昭和期の日本を代
表する篆刻家の一人である。最晩年に東村山市に移住。99年の生涯を閉じた。
当然の事ながら書も素晴らしい。この2作のほかに4点の印を所蔵している。


3. 趙之琛(チョウシチン)(1781~1860) 343
字は次閑、献父を号とし、宝月山人とも号した。浙江銭塘の人、終生仕官せず、
布衣に了った。陳豫鐘の門に出て金石学に長じ、また黄易 奚岡、陣鴻寿の長所を
取り、嘉慶、道光以降における浙派第一と称された。西泠8人の一人。兼ねて絵も
よくし、書も巧みであった。晩年大平軍の乱に遇い、所在不明のまゝ没した。

4. 奚岡(ケイコウ)(1746~1803) 353
初名は鋼、字は純章、鉄生と号した。もと安徽省新安の人。浙江銭塘に寓居した。
9才で隷書をよくし、長じては行草に巧みであった。また詩詞をよくし、絵にも
とりわけ優れていた。方薫と交遊し、相並んで方奚と称された。抗郡4家と呼ば
れている。西泠8人の1人。平生酒を愛し、酔えば意気は淋漓として虎のごとく、 意に合せぬことがあると同席した人を大罵して、人から酒狂と呼ばれた。
終生布衣に了った。

5. 新間静邨 (1879~? )351、345
4世浜村蔵六~安達鋳印を師とする。また松丸東魚の師でもある。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

6. 3世浜村蔵六 (1791~1843) 352
名は籍、字は子収、号は南渓。晩年は訥斎(トッサイ)、亀禅。
江戸の人、本姓小林氏。のち金山氏を冒し、2世没後、高弟として浜村氏を称し伝家の亀鈕古銅印を承け、蔵六居を襲ぎ、よく家声を落さずその配金山耀も遷鶯と号し、絵、篆刻をよくしたが、子がなく塩見大澥があとを継いだ。
 

7. 源伯民 (1712~1793) 356
清水氏、名は逸、字は伯民 通称は利右衛門頑翁と号し、南山樵夫、義和堂、雕虫館、掬翠軒など別号する。源氏の出身で源民又は揚伯民とも称した。
長崎玉之浦の人、その篆法は蒼秀、刀法は雄健と称され、晩年益々壮んであったと云う。当時は長崎に古切屏風と呼ぶ。
明末の蘇暁、黄震2氏の刻した酣古集の大印があり伯民はこれを模刻して迫真の力量を示したという。 

8. 益田香遠 (1836~1921)遇所の長子
益田遇所(1797~1860)358 本姓 山口氏、名は肅、字は士敬、号は遇所。
浄碧居と称す。江戸の人。幼くして長橋東原に書を学び、ついで益田勤斉に師事 して篆刻を学び、その技は同門のいづれをもしのいだ。師没後嗣がなく、推され て嗣子となり益田氏を冒す。
その名声は日に高く、安政2年幕府の命令で官印二顆を刻して賞され、貴神土庶 となく彼の印を求めたという。作風は常に泰漢古印の法により加うるに近世名家の筆意も用いた。さて香遠は遇所の長子で名は厚、名は士章、通称は重太郎、勤斉、遇所の跡を襲ぎ、江戸泉橋通に住し、明治篆刻家として著わる。

9. 桑名鉄城 (1864~1938)354
名は箕、字は星精、鉄城又は大雄山民と号した。富山の人、幼時、郷儒小西友義
について、句読と書法を学ぶ。その後、山岡鉄斎の門に入り剣道を修業し、金沢
に移って北方心泉より篆法、金石学を学ぶ。明治25年京都に移り、28年台湾
総督府の印を刻するのを命ぜられた。円山大迂とゝもに京都に於ける新作風の大
家と称せられるに至る。没後京都相国寺に葬られた。

10. 三雲孝 (1769~1844) 357
名は宗孝又は孝、字は子孝、仙嘯と号した。通称中書、先祖は近江国三雲村の人、 代々施薬院使を継ぎ御所に出仕したが、孝は家業を好まず洛西嵯峨に住み、読書、 詩作に耽った。篆刻は葛子琴に学び、高芙蓉に私淑して一家をなした。
しばしば仙嘯堂に印会を催し、快哉社と名付ける。嵯峨大覚寺慈性法親王の命に
より、文館詞林の模刻事業に携わる。俳諧や点茶を善くした。

11.鳥海北岳 355
名は銀次郎、号は北岳、白鳳山人 字は君貞庄内藩士。鳥海良顕の次男として鶴
岡二百人町に生れる。兄良民が早世した為に家督を継ぐ。漢学を遠藤厚夫、赤沢
経言に学び、長じて小学校教員となるが、実業界に転じて鶴岡士族授産場に勤務する。次いで松ヶ岡製糸所に入って、1901年社長、1919年まで勤める。
この間県製糸同業組合役員、済急社監査役を兼務し、鶴岡町会議員を5期20年
勤める。書を黒崎研堂に学び、さらに日下部鳴鶴の指導を受け、能書家として著名となる。その後谷中に寓居し、書道振興会を創設、書道の普及に務める。
墓碑銘は「北岳鳥海君の墓」。

12. 田黄石 348
福建省福州の北40kmの寿山郷の田黄周辺の田の中、川の付近から産出する。
明末から採石され始め、良材はほとんど清の乾隆時代初期までに採り尽くされた
と云われている。採出する高山系の中で田抗、水抗、山抗とあるが田抗で採れる
ものゝ中に田黄はある。寿山郷へ通ずる坂道周辺の田畑から産出さえるもので、
寿山から流れ落ちる渓流によって運ばれた石が、土の中に埋もれ、周辺の田や畑
から彩石されたところから田抗と呼ぶ。
田黄名の多くは微透明、半透明の状態を呈しており、石面中に極めて細密な蘿蔔紋がみられ、また多くに紅筋が存在する。中国では古来黄色を尊重した為に田黄は金と同一、またはそれ以上とされる程高価であり、近年中国の経済の急速な発展により田黄の価は更に急上昇している。此の田黄は10年程前に手に入れたもので、蘿蔔紋と紅筋がよく見られており、石材も極めて良質とみられるものである。田黄石は

印材の中でも鶏血石と並んで群を抜く人気石である。

13. 兎と白菜の紐 痩鉄の作 344

銭 痩鉄(ソウテツ)

江蘇州無錫の人、篆刻は呉昌碩に師事。

画は石涛に私淑している。一時上海の美術学校の東洋画の主任教授に就任していた。在住していた日本から昭和14年頃離れたが、その際、橋本関雪(長い間の友人)が「中国にて文化事業方面に指導もしくは提携を必要とする時には、あの男は全く必要なる立場にありまことに口惜しき事に侯…他日卓を囲んで朗笑の裡に再検討可仕時有るべしと存じ侯」と書いている。関雪はその後亡くなり「他日卓を囲んで」とはならなかったが、痩鉄は日本の敗戦後戦勝国の代表団の一人として来日している。

痩鉄は関雪や白沙村荘等多くの印を刻している。

(注)石涛(1642-1707)

中国清の画家 俗名朱若極 出家して法名を道済又は原済と言い、特に山水に優れた。

 

14. 古寿山石 葡萄 栗鼠紋 350

 

15. 寿山石 馬肉紅 359 15. 寿山石 馬肉紅 359