私と落語(Ⅱ) 6代目三遊亭 圓生

第2回  6代目4三遊亭圓生    1900年9月3日大阪生まれ。


母さだが橘家円蔵門下の三蔵と結婚。円蔵死去に伴って5代目円蔵襲名。

義父円蔵は25年1月圓正の大名跡を継いで5代目圓生襲名。圓生は6代目円蔵となって以後16年間円蔵時代が続くが人気は低迷した。1940年1月義父圓生死去、41年5月6代目圓生を襲名する事となる。
1945年5月志ん生と共に仕事で旧満州に渡って程なく終戦。1947年春にようやく帰国。4月中席から寄席に復帰した。苛酷な体験からか圓生の芸は生まれ変わったように注目を集めるようになる。53年ラジオ東京専属となって放送落語ブームに乗った。

人情噺や大ネタ落語の第一人者としてその名声は上ったのである。

1965年落語協会の長となり、74年圓生落語百席の録音に着手、77年10月に完了した。( LP30巻90枚 )79年9月3日録音修正編集作成に参加し、最終立会い、後3週間を待たず仕事先の習志野市で急逝した。79歳であった。

 

どの作品も完成度が高いが特に大ネタの「品川心中」「中村仲蔵」「文七元結」は見事という他ない。

「中村仲蔵」の中で仲蔵が芝居の定九郎の工夫がつかずにいるうちに蕎麦屋で浪人に出会うを圓生は従来の解釈の旗本ではおかしい、浪人とするのがふさわしいと考え、どんなに零落しても天下の旗本に破れ傘を貸すのは不自然と判断している。

またサゲも圓生の考案である。また定九郎の型と手順については6代目尾上菊五郎の著書「芸」を読み込んでおり、口演に当っては竹本土佐広に依頼して定九郎と与市兵衛の掛け合いのところの義太夫の節をじっくり検討している。


しかし圓生の真骨頂は人情噺「真景累ヶ淵」であろう。宗悦殺しから聖天山まで延べ8時間43分の長丁場である。


『 深見新左衛門が皆川宗悦を殺害しその祟りが妻女を斬殺、狂乱の末斬り殺され、家はとりつぶされる。その長男新五郎は父に愛想をつかして出奔、家の廃絶を知り自害しようとして下総屋惣兵衛に助けられ奉公、お園に恋して誤殺。小塚原で獄門となる。

新左衛門の次男新吉は家廃絶の為門番堪蔵の甥として育つが、小唄師匠豊志賀の愛人となるが、新吉の裏切りにあって死に怨霊となって新吉にとりつく。豊志賀の弟子お久は新吉との仲を豊志賀に疑われ新吉と故郷の羽生村に逃れる途中、豊志賀の怨霊にとりつかれた新吉に鎌で殺される。美男の新吉に◎文の名士のお累は惚れて世帯を持つが新吉に疎まれ自害する ・・・・』と物語りは複雑に進行し絡み合う。まさに演者の腕のみせどころで
あり、圓生は息もつかせずに聴く者を彼の世界に引きづり込むのだ。美しい色気が漂い一分の隙もない風格があり、今後も圓生を凌ぐ演者が現れるのは想像出来ない。


圓生は落語を一流の芸術に高めた功労者である。圓生は後年、道場では負けるとは思わないが野戦では志ん生にかなわないと述懐している。