私と落語 (Ⅰ) 5代目古今亭 志ん生

小学生時代、ラジオで盛んに落語を放送していた。3代目三遊亭金馬の歯切れの良い解り

やすい話や、5代目古今亭今輔の新作落語のお婆さんものを楽しんで聴いていたが、何と

なく物足りないものを感じていた。
暫くして5代目古今亭志ん生や 6代目三遊亭円生を聴くようになり次第に落語の魅力に取り憑かれるようになった。

 

 取り上げる落語家は 下記の4人 8月5日のブログから順次掲載予定

   ◎ 古今亭 志ん生 ◎ 三遊亭 円生    ◎ 林家 正蔵  

         ◎ 桂 米朝          ◎ 三遊亭円歌 

第1回  5代目 古今亭志ん生 本名美濃部孝蔵

 

1890年6月5日神田亀住町の長屋に生れる。父の名は美濃部戌行、母は志う。
その5男である。1908年次男死没、3人は98年民法施行されて以前に死没しており、
戸籍に載っていない。

美濃部の本家は3千石の旗本で孝蔵の祖父は分家で800石、小石川水道町に大きな屋敷を構えていた。ちなみに1万石以上が大名、旗本は200石以上。それ以下は御家人と云われる。明治維新で明治6~8年にかけて秩録処分にあい財産没収。旗本クラスで50石。

 

当時100万円で家が買えた時代に200万円程が支給された。祖父は本郷の切通しに立派な家を建てたが父が連帯保証の借金で家を売り亀住町の裏長屋に引越し、二等巡査の役人

となった孝蔵は下谷尋常小学校を4年で中退。10才頃から酒の味を覚え、博奕の面白さにのめり込んで親は心配して、京城(現在のソウル)へ印刷工として送るが日本に舞い戻って15歳で家出、遊び歩いた。

しかし好きな落語から「天狗連」に入り、三遊亭円盛に「どことなくフラがある」(どことなく他の人にないおかしさがある)と云われ彼の口利きで三遊亭小円朝の弟子となる。以降19回芸名を変更している。

 

前座時代、道具入り芝居噺を継承した。頑固者8代目林家正蔵、洗練された名人芸で「富久」「明烏」などが当り役の8代目桂文楽などが同世代で皆住居もなく、食うや食わずの惨憺たる生活振りであった。1945年5月には円生と共に仕事で旧満州に渡っている。


芸名甚五郎あたりからやっと人気が出てきて1957年には落語協会の長となった。
1961年12月15日贔屓の頼みを二つ引き受け上野の料理店で一席やってから高輪のプリンスホテルの巨人軍の優勝祝賀会の余興で、気のりはしなかったが飲み食いが始まる前ならと条件で已むなく承知したが、川上監督の到着が遅れて、主催者の挨拶が終り志ん生が高座に上ると司会者の「どうぞ召し上がりながらお聴き下さい」の言葉で参加者はバイキング式テーブルに群がった。とても一席演ずる状況ではなく動揺した志ん生は話の途中自分が何を喋っているのか解らなくなって倒れた。脳出血である。入院した志ん生は脳の血管が切れたのと一緒に、長年の酒で胃壁が破れ、生死の境をさ迷って戻り、62年2月のある朝目が醒めて「おい、どうした」再起第一声ある。窓の外は雨であった。


同年11月11日72才で11ヶ月振りの新宿末広の昼席、高座に復活した。
高座に上った志ん生はしばらく黙っていたが「永らく起きられなくて、何しろ2ヶ月ばかり世の中の事が分からないという事があった。あちらの方に行きかけたが、地獄の入口で断られ、おめえもう少し喋ったらどうだ、と云われ帰って来た」が高座第一声であった。73年9月21日84才で没した。

 

満州から帰国後のこと柳橋の料亭に呼ばれ余興に「冬の夜に風が吹く」という大津絵を唄ったら突然小泉信三がハンカチを目に当てて落涙した。

それ以来、三田の家にも広尾に移ってからも毎年呼ばれるようになったが落語のあとは大津絵を唄うきまりが出来て、小泉信三はその度にハンカチを眼にあて、家族も集まっている中で嗚咽を漏らした。

「志ん生さんの大津絵は声に哀れがあって好きなんですよ」と云っていた。

『冬の夜に風が吹く、知らせの半鐘ガジャンと鳴りやこれさ女房、わら出せ、刺し子、

襦袢に火事頭巾48組おいおいにお掛衆の下知をうけ、出てきや女房じ、そのあとで、うがい手洗にその身を浄め、今宵うちの人に怪我のないよう南無妙法蓮華経、清正公菩薩、ありやりやんりゆうとの掛け声で勇みゆく、ほんにおまえはままならぬ、もしもこの子が男の子ならおまえの商売させやせぬぞえ、罪じゃもの』
うがい手洗いから清正公菩薩までを何度もくり返して唄う、誠に哀愁に溢れた唄である。

 

高座でも志ん生はほとんどお辞儀をしなかった。
何を喋るか分からない持ち演目は200以上、小噺まで入れると300に及んで、その演ずる時間は定まらない。15分のものを30分のものを10分に、気がのらなければ途中で降りてしまう。「二階ぞめき」「蛙の女郎買い」等の廓ものが絶品で、話し始めると客をまるで江戸時代の落語の世界へ誘い込んだ。志ん生以外にない独得の世界であった。

生涯借家暮。40才台半ば4子の志ん朝が生れて、名前を志ん生に変える頃まで酒を飲、博奕をうち、女郎買いをするいわゆる飲む打つ買う家計のやりくりはすべて妻のリンの内職に頼っていたのである。

 

「志ん生一代」結城昌治作の解説の中で山田洋次が書いている。

『 志ん生が始めて服を着たのは紀元2600年の祝典に参加する時だったそうである。

すでに軍部によって支配されていた政府はこのインチキな建国スローガンの下に国民を戦争に巻き込む為の大キャンペーンを展開したのである。志ん生たち寄席芸人もこの記念式典に参加する事を強制され、無理矢理買わされたぺらぺらのカーキ色の国民服というものを着てみたが、なんとも似合わないことおびただしい。しかも初めて履いた靴が痛くて仕方がない。「愛国行進曲」を唱いながらゾロゾロと歩くうちにすっかりくたびれてしまって仲間の「おれんちに寄ってちょっとナニをやるか」ナニとは博奕なのだが、志ん生はその言葉に二つ返事で数名の仲間と共に行列から抜け出してしまい、宮城前に東京中の各団体が集まって整然と隊列を組んで「天皇陛下万歳」を叫んでいる頃、博奕に負けてその国民服を巻き上げられていたというのである。まことに非国民である。カーキ色の服に軍靴を履いて宮城に向かって行進するなどという事は全く性に合わなかったのである。

それが志ん生という人の、あるいは志ん生のように芸に生きる人たちの偉さ、素晴らしさなのである。アメリカとの戦争が始まると落語界にも積極的な人が出て来て時局に便乗した軍国調落語が流行しだしたのだが、志ん生は決してそんなものはやらなかった。
彼の芸はそんな怪しげなものを受けつけなかったのである。志ん生の姿に似合うのは安物であっても着物に下駄であり、その声にふさわしいのは俗曲であり廓噺であり色であり酒なのであった 』と。