かつての名歌手シリーズ第1回 岡 晴夫、三橋 美智也

岡 晴夫

戦後並木路子が歌う「リンゴの歌」が爆発的に日本中に拡まった。

外地から帰国した堀田善衛は帰国した日本での革命的状況を予想していたが「リンゴの歌」が流れるのをみて「これは駄目だ」と即座に判断したと云う。徹底的に破壊された

日本国民の生活は未だ復活の目処もたゝず生活は困窮していた。
その時代に登場したのが岡晴夫であった。彼の代表歌は「憧れのハワイ航路」で

     晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音たのし 
     別れテープを笑顔で切れば 望み果てない 遥かな潮路
     あ ゝ 憧れのハワイ航路             と唄う。


当時の日本は外貨保有はほとんど無く、まして観光旅行で外国に行く為にドルを使う事

など不可能な時代でハワイ旅行等夢のまた夢であった。
多くの日本人は苦しい現実を忘れて岡晴夫の歌に一瞬を夢みたかったのである。
岡晴夫の歌は鼻にかかった甘い声で思い切り良く歌い切る特徴をもって、当時絶大な人気を誇っていた。
1950年姉に連れられて行った当時の浅草の国際劇場の演奏会には長蛇の列が出来て、人気の凄さを示しているた。出演者は岡晴夫、田端義夫そこに20才台前半の高峰秀子がピンクのワンピースを着て「銀座カンカン娘」を唄ったのを覚えている。


岡晴夫の唄う時代は紙テープが雨のように乱れ飛んで観客の亢奮はピークに達していた。
キングレコードに所属していた岡晴夫はSP盤を出す際、会社に「レコードを買う人は私の歌を聴く為だからB面も私の歌にして欲しい」と申し入れた。当時B面は人気のない歌手またはこれから売り出したい歌手をのせるのが通常で、A・B面とも同人とは他に例がなかったと云われている。
しかし、日本経済が立ち直りつゝあると共に人気も急速に失われていった。

三橋 美智也

1930年 北海道函館市生まれ 民謡歌手から歌謡界に入り「おんな船頭唄」1955年)が大ヒット、スターダムにのし上がる。翌年の「哀愁列車」が代表歌 
    " 惚れて~、惚れて~惚れていながら行く俺に
      旅をせかせるベルの音 辛いホームに来は来たが・・・・・”


戦後朝鮮戦争の軍事特需を機に復活を始めた日本経済は、地方の中卒者を「金の卵」と呼んで大都市に安い労働者として送り込んだ。
この時期から出稼ぎも増え、彼等が故郷を出て幼なじみ、恋人、家族と離れ望郷の念に駆られ、また故郷に残る人達は離れた家族を思い心配する心情を三橋美智也の歌は強く揺さぶったのである。


民謡で鍛えた喉はハイトーンのボーカルで、現代の森進一や五木ひろしのように独得の声と情感溢れるテクニックの歌唱と異なり、高音の美声とテクニックを弄さない歌い方はストレートに聴く者の心に直接訴えかける力強さを有している。
また都会的でない歌声も魅力の一つであった。
この歌声はディ・ステファーノやマリオ・デル・モナコに通ずる処があるに思う。