和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

「背教者ユリアヌス」辻 邦生著(中公文庫全4巻)

コンスタンティヌス帝がローマからコンスタンテノポリスに遷都する大事業の中心となって働いた腹違いの弟ユリウス・コンスタンティウスはコンスタンティヌスが先帝リキリウスやマグネンティウスを弑逆した事を悪として認めながら協力して来た。
皇帝が野心の為に妻も子供も殺す、友人を裏切れば親も売り飛ばす、彼のまわりは血の海だ。野心と冷血と忘恩に憑かれた怪物なのだと語る。皇帝は先妻ミネルヴァとの間に生れたクリスプスの政治、軍事の才能を恐れてこれを殺害、6人の子をなした後妻ファウスタ
を義理の子クリスプスとの間を疑って殺害しており、コンスタンティヌスの治世25年の後半はまさにユリウスの述懐通りなのである。

 

ディオクレティアヌス帝による数度に亘るキリスト教徒迫害令以来の弾圧政策からコンスタンティヌス帝によるキリスト教解禁に続く半ば国教化政策によって、宮廷内は徐々にキリスト教徒に席巻されて行く。大帝の死去に立ち会ったニコメディアの司教エウセビウスはユリウス一派が反キリスト教であり後継者の権利者であることから、帝亡きあとキリスト教の公認が取り消される事への恐れからコンスタンティヌス帝の死亡前に洗礼を受けたとし、大帝の言葉として長男コンスタンティヌス2世をガリアにコンスタンテウスをティグリス源流にコンスタンスをイタリアに各統治とした。


エウセビウスは大帝の死は病死でなくユリウスによる毒殺であるとの噂を流し、ユリウス一族は皆殺しとなるがガルス、ユリアヌスの異母兄弟は幸運にも殺害を免れる。

ローマ帝国西部を担当したコンスタンティヌス2世はローマ帝国中央部を担当した3男コンスタンスに殺され、更にガリアで叛乱が起こりコンスタンスも殺害される。

 

ひとり皇帝となった次男コンスタンティウスは後釜としてガリア出身の将軍ヴェトラニオンを副帝に任命したが、実利的で猜疑心の強い彼は謀判の罪を着せてヴェトラニオン父子を殺害する。ガリア出身の副帝殺害によってガリアの皇帝への反感は強まり、これを抑える為に、半ば幽閉していた従兄弟ガルスを呼び寄せ、お目付役として皇帝の妹コンスタンティアをガルスと結婚させてガリアに副帝として送る。コンスタンティア死去に伴って皇帝はガルスを殺害。残る唯一人の従兄弟ユリアヌスを後釜として送るのである。

 

幽閉されて学問に励んでいたユリアヌスは350人程の少人数の軍隊を宛がわれて赴任するが、予想をこえて軍事的才能発揮し、行政的手腕も優れてローマ帝国中・西部を安定させる。

これに警戒心を抱いたコンスタンティヌスはガリアから大量の軍隊をコンスタンティノポリスに派遣するように命令を出すが、これにガリア人は激しく反発し、ついにユリアヌスを皇帝に担いでコンスタンティウス帝と対決する事となる。

ガリアを出発し、コンスタンティノポリスを目指し進軍する軍事的勢力はコンスタンティウスの軍の10分1にみたなかったがユリアヌスの進軍の途中でコンスタンティウスは突然病死。元老院の承認を得てユリアヌスは新皇帝となる。

 

税金の大幅縮少人事の改革など積極的政策を実行していくが「キリスト教容認令」も出して、キリスト教の手厚い援助や従来の国教化を廃し、旧来のローマ神教の復活を図るが深く浸透したキリスト教はこれに頑強に抵抗する。

 

やがてユリアヌスはペルシャとの戦争に出陣するが、ペルシャ軍兵士の放った投鑓で志半ばで若くして死亡する。キリスト教徒はキリスト教を擁護し、国教化したコンスタンティヌスを大帝と呼び、キリスト教徒でもないユリアヌスをキリスト教の特権を剥奪したとして背教者と呼ぶのである。

 

辻邦生は各々の人物をコンスタンティウスをギョロッとした灰色の目と表現し、大司教エウスビウスを浅黒い、ぬるりとした感じの顔とし、親友ゾナスを金髪のくちゃくちゃの髪とし、ユリアヌスを顔をガクガクと動かして登場する度に形容詞として使って読者に一定のイメージを与えようとしており、安易な方法である。

 

ギボンのローマ帝国衰亡史にはコンスタンティヌス帝についてこう述べている。

「コンスタンティヌス帝と息子達にとって多事な時代であり、帝国の衰亡を早めた。

コンスタンテノポリスに本拠地を定めたのは強力な自然の要害と商業交易の利点、気候

は温暖、地味は肥え、港は広濶とその選択の正しさを認めあっているが新都の為にギリシャ、ローマや他の都市から悉く財宝、装飾品を召し上げ、納税者市民の税負担はルイ15世時代の4倍に達した」。


巨大化したローマ帝国は延びた防衛線を守る為にその軍隊を属州から報酬を支払って確
保、やがて将軍も属州から大半が選ばれる事となり財政は逼迫、また「帝の晩年の14年は宮殿に貯蓄されていた夥しい財宝は湯水の如く乱費、その貪欲と浪費は止まる事を知らなかった。統一されたものはすべて分割、傑れたものは一切弱体化、従順なものばかり誤信した。小心、怯懦の政策が大帝の全制度を貫いていた」。

 

また「キリスト教公認は帝の最大重要事であった。40歳頃まで伝統的宗教の信奉者であったが、その後カトリック教会と結んだ連携関係は一つに利害観念に基づき帝の野望達成を助けていたにすぎないとし、信仰集団の結束的精神は民衆指導者にとり、十分大きな力となりうるとし忠実な支持者達と増大される目的である」と手厚く保護されたキリスト教は従来の伝統的宗教を抑圧し、またキリスト教内部で教義をめぐって激しい内部抗争を繰り広げた。


肥大した官僚と軍隊への支出も相俟って財政危機は深刻さを増し、属州出身の軍隊も統
制が難しくなる等、西ローマ帝国の衰亡を早めたのである。ユリアヌスは税金を従来の3分の1に減らし、キリスト教への特別扱いを廃止してローマ帝国の建て直しを図ったが若くして戦場で倒れたのである。