松田宏子さんから本戴く。

松田宏子さんから本戴く。(小学生時代の思い出)

近所にお住まいの松田さんから母親千代さんの書いた本人の思い出を綴った文章を松田さん姉妹が本にしたものだ。


千代さんの父親は愛知県小坂井の岩田長左衛門さんの次男として生まれ、東京で一旗あげるべく上京、金町に居を構えた岩田長作さんである。妻のふじさんとの間に長女春子さん、次女房子さん、三女千代さん、四女喜代美さんの四人の娘達である。

石田邸は金町にある数少ないお屋敷の数少ない一軒で敷地は600坪、築地塀に囲まれ、見事な日本庭園が設けられて、中に形の良い百日紅の大きな木があった。敷地内に長作さん
隠居用に建てられた木造2階建ての洒落た建物があったが、戦中、戦後の数年は二女の福谷房子さん一家4人が戦火を逃れて疎開して来ていた。

 

私が小学入学1、2年の頃、房子さんの長男幸一さんと親しくなって福谷家に出入りするようになった。母親の房子さんは小柄で、色白、細面の美しい人で遊びに行くと、白いポットで紅茶を淹れて呉れた。当時金町中で子供にそんな応対をして呉れる人も、白いポットも紅茶もお目に掛かる事がない時代だあったのである。それだけに私にとって強い印象が残っている。

 

長女の恵子さんは私の姉の同級生で3才上、色浅黒く、親分肌で子分を引き連れて幅をきかす頭の良い生徒であった。それだけに腺病質で頭もあまり良くない消極的な弟が歯痒いらしく、心配もしていた。
私が入学したのは昭和22年で、校庭に日章旗を掲げる台や奉安殿の壊した跡が瓦礫として残っていた。坊ちゃん刈で半ズボン、靴を履いてベルトを着けていた幸一さんと、母親の着物の細帯をベルトと替わりに、下駄を履き、父親の戦地帰りの背嚢を使用していた大半の男子生徒と、もんぺと上っ張りと下駄が定番であった女生徒との差はあまりにも大きく、幸一さんは当然の如く他の生徒から完全に遊離していて阻害されたのは止むを得ない事であった。

友達もいなかったのを見て、子供ながら義憤を感じて友達としては面白くなかったが、親しくなったのである。子供でもこの子にはメンコ、ビー玉、ベーゴマ等を持ち出すのは控えたのは学校で禁じられていたからでもある。福谷さんの二階には壁ぎわに厖大なクラッシックを中心として美空ひばりまで多岐に亘るSPレコードが父親のコレクションとしてあり圧倒された。

 

2年程でクラス替えもあり又福谷家の引越しもあって疎遠となり、交流は全く途絶えて
しまった。恵子さんはその後東大医学部に進み医者になったが、幸一さんのその後は親戚の人達とも付き合いがなく、消息は不明との事であった。

 

さて三女の千代さんであるが、昭和3年境野七五三男さんと結婚。岩田長左衛門さんの妹疋田初さんの願いを聞きいれ、廃家再興なり境野、岩田から疋田姓を名乗る事となる。
新居は岩田邸近くに木造平屋建の家を構えて疋田七五三男と墨書した表札を90年に亘って一度も書き替える事なく掲げ続けた。当時は下見板を張った木造平屋が大半で、抜けた節穴がコウモリの巣となって夕方になるとこゝから飛び出した蝙蝠が空を乱舞していた。

 

千代さん夫妻には宏子さん、和子さんの二人の娘がいて宏子さんは旧岩田邸近くに住んでいる。30年程前に岩田邸も等価交換のマンションに変って味気なくなって仕舞った。

戦時立法であった相続税はそのまゝ続行され、金町に数軒あったお屋敷も相続税の為にほとんど無くなって、歴史を感じさせる建物もなくなるのは残念である。何とかならないものであろうか。

千代さんは平成29年3月20日98歳で天寿を全うした。