和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

北魏の書 「張猛龍碑」

1. 漢帝国内の知識人勢が清流派の有力者司馬壹恣(字は仲達)は漢帝国の衰退により魏の傘下に納まり、やがて丞相となって実権を掌握。子孫の司馬炎は魏の王位を簒奪。蜀、呉も平定して晋帝国を建国した(265年)。-死せる孔明生ける仲達-で知られる。
以来北方民族の侵略を受け続けた晋は遂にモンゴル系遊牧民に滅ぼされる。
420年南朝、423年北朝建国。南北朝時代始まる。

 

2. 晋滅亡の頃中原にいた有力な豪族達は難を避けて揚子江の南に移住し、中原に止まっていたのは実力のない者ばかりで北方民主族に虐げられて、衰えきっていた。

 

3. 江南の南朝は有力な豪族が築きあげてきた財力を基礎として洗練された文化を引き

ついできたのである。
南朝は ① 宗(420年~479年)、斉(479年~502年)、梁(502年~557年)、

陳(557年~588年)と続いて梁時代には百数十万人の人口を数えていた。
南朝は門閥貴族の全盛時代で建康(現在の南京)を都として、天然の資源に恵まれた土

地を有して奢多的で修篩的な文化が栄えた。東晋時代の王義(羲)之の洗練された高雅

な書は南朝の貴族の好みに適合しており、書のみならず芸術一般の価値が高く評価され

た時代でもあった。
中でも梁の武帝が王子達に習わせる為に王羲之の筆跡の中から重複しない文字千字の模

本を作らせて、これを「韻文になるように順序だてよ」と周興嗣に命じて作らせた「千

字文」であり、これは現在でも、繰り返し書の手本として使用されている。

 

4. 一方古い西晋の残骸を継承した北魏は対立する南朝との交流が禁止されたこともあ

り特異発展をする事となった。6代皇帝孝文帝は494年都を平城から洛陽に遷し、鮮卑

の旧習慣を禁じ、風俗、姓名も中国風に改め百官の俸禄制度を始める等の官僚体制を急

いだ。
イ) 3長制、-5家に隣長。5隣に里長、5里に党長を定める。
ロ) 均田法の制定。土地を耕作者に均分し土地所有を維持しようとした。この制度は唐に
  至って租調庸などの課役の規定のもととなって、支配体制の中心となるのである。

 

中国風の官僚体制のもとで、各地に配置される軍隊を担う役割は鮮卑族となり、彼等は

冷遇されて反乱のもとゝなった。孝文帝は文化人であり、又熱烈な漢文化の賛美者であ

り渇望者でもあったのである。

 

5. 龍門石窟はその漢化政策の一端として洛陽郊外に多く造られて以来唐代中頃まで

200年程造られ続けた。

 

6.   ●南朝は陳時代に滅亡(588年)   ●北朝は北周時代に滅亡 (581年)

 

7. それにしても北方モンゴル民族に支配されながらも、文化的に彼等を中華文化の継

承者とする中華文化の水準の高さと懐の深さに改めて驚かされるのである。

 

8. 南朝に比して北朝北魏の書は豊富な資料に恵まれており、清朝中期以降に多く発見

されて来た。文化的に隔絶された感のある北魏の書は独得の進化を遂げてきて
  イ.碑  ロ.摩崖  ハ.造像記、墓誌 等に多く残っている。
良く知られたものとしては張猛龍碑(522年)、高貞碑(523年) があり、張猛龍碑は

北魏の魯郡の太守張猛龍の徳行を頌する為にたてた碑で、清時代に入って碑学が盛んに

なり、北魏の代表的名品と評価されるようになった。

力強い直線的な書は魅力満点で、私も一時懸命に臨書にに励んだものだ。

個展に数点展示もしている。


又鄭道昭の鄭羲下碑(511年)は本人が石質を選んでおり磨滅が少なく、他に山東省に

登雲峯山、論経書詩、観海童詩 等数件の碑文が残されている。いずれも美しく、臨書に挑戦したが、むつかしく断念している。