和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

闘う文豪とナチス・ドイツ・(トーマス・マンの亡命日記)読む

闘う文豪とナチス・ドイツ・(トーマス・マンの亡命日記)

 

①日記は1933年3月15日から1951年まで書き続けられた。1933年1月30日ナチ党党首アドルフ・ヒトラーが政権につく、マンは2月10日ミュンヘン大学で「リヒアルト・ヴァーグナーの苦悩と偉文」と題して講演、ヒトラーを痛烈に批判した。そのあと、オランダ・フランスの講演旅行へ出発。ナチ党は国外に出たマンに帰国差し止めを通告。マンのミュンヘンの自宅には仕事場・家族・草稿等一切が残りマンは身一つで国外に放逐されたのである。日記はひと月のスイスでのホテル暮しが続いたあとから書き始められた。マンはスイスに亡命、ノーベル賞作家マンをスイス、アメリカも喜んで迎え、ことあるごとに便宜を図った。スイス亡命中に交流のあった数多くの人命を掲げておりなかでもナチスドイツの亡命者を冷静に観察している。

 

②ヒトラーは若い時から熱狂的なワーグナーファンであったことは良く知られている。

著名人が雪崩を打って権力者に迎合するが、ワーグナーがリトマス試験紙の役割を果していた。宣伝相ヨゼフ・ゲッペルス演奏曲目にも介入。これに異議を唱えたブルーノ・ワルターはポストを失い、リヒャルト・シュトラウスはいそいそとその後釜に座り、ナチ党イベントの為に「マイスター・ジンガ―」の指揮をいわれてトスカニーニはこれを拒否、フルトヴェングラーはこれを受け入れている。

 

③マンの妻カタリーナの実家の父アルフレートはミュンヘン大学教授で貴族の広大な館に住み、世界一級のコレクションも有する美術愛好家として知られていたがナチスの意に添わずに一切を奪われている。

 

④1936年9月、反ユダヤ立法「ニュルンベルグ法」成立。ユダヤ人絶滅の合法的手がかりをつくり出す。フランスでは人民戦線が結成され、スペインでも反フランコ人民戦線が成立し、反戦の気運も盛り上がる。1936年2月、日本で2.26事件勃発。世界にファシズムの波が広がってくる。

1939年9月ドイツ軍ポーランドに侵攻、第2次大戦始まる。1940年4月ポーランド制圧ののち、ノルウェー・デンマーク侵攻これを制圧。同5月オランダ・ルクセンブルグ・ベルギーに侵攻・イギリスではウインストン・チャーチルが首相に就任。戦時挙国一致内閣成立。

6月 パリ陥落 1941年6月ソ連に進撃。独ソ戦始まる。12月日米開戦。

1941年5月ノルウェーからフランスまでほぼ全ヨーロッパを掌中に収めたヒトラーは権力の絶頂にあった。1941年10月2日ヒトラーはモスクワ総攻撃を命令。マンは日々の戦況の推移を冷静に日記に記しており、巨大な諜報機関をそなえた日本の参謀本部よりも亡命中の一作家のほうがより正確な計算をしていたのである。

「枢軸国はいまは有利に立っているがやがて消耗し2~3年で追い越されるであろう」と。

マンは毅然として反ナチを貫き祖国を出るにあたっても「わたしのいるところにこそドイツ文化はある」と誇らかに語っている。

1944年マン アメリカ国籍獲得

1945年ヒトラー自殺、5月ドイツ降伏

 

⑤終戦後暫定内閣 降伏協定などの政治的交渉は進んでいるが、それはすべて「ドイツに関して」行われていること「ドイツのなか」では何一つ行われていないのだ。「今日までナチ精神を否定するどんな手続きもなければ「権力掌握」が戦慄すべき不幸であり、それを容認し有利に計らったことが第一級の犯罪行為であったことを認めるどんな言葉にも語られていない」ことに、つまり国民の「共犯の罪」が語られることをマンは待ち期待をしていたが、それはついに語られることなく、マンは苛立ちついに帰国することがなかった。

 

⑥スイスから移り住んだアメリカで47年頃から赤狩りが始まり、進歩派、リベラリストが次々と召喚され告訴されていく、それは1933年ドイツでナチ党が権力の座について反ナチスの人々の糾弾を始めた状況とそっくりで権力に迎合するジャーナリズムとすり寄る知識人の動向までまるで瓜二つであった。

マンがあれほど希望を託した国の惨状を綴らなければならなかくなってついに再びスイスに亡命することになるのだ。

極めて厳しい状況の中でマンの知性は研ぎ澄まされ信念は益々強固なものとなり、又ナチスを熱狂的に支持しその蛮行に目をつむったドイツ国民も許せなかったのである。

トーマス・マンの衆を頼らず個として闘い抜いた不屈の精神に唯々脱帽する以外にない。

作者の池内紀は過不足なくマンの反戦日記を記述している。

 

池内紀著 闘う文豪とナチス・ドイツ

(独裁者にペンで立ち向かった男)中公文庫