稀勢の里の横綱誕生と今の相撲界に思うこと

平成29年大相撲初場所は稀勢の里の初優勝で終った。

18歳3ヶ月で入幕し、横綱も指呼の間にあると思われたが、30歳6ヶ月でやっと頂点に立つことが出来た。体が堅く腰高で、不器用、受けに回ると脆さを露呈してきた彼が、このスタイルを貫いて横綱まで到達した事、入門以来土俵を休んだのは唯の一日だけ、身体にサポーターの類は一切付けづに、勝っても、負けても喜怒哀楽を現わさないことも彼の美学であろうし、頭が下る以外にない。古武士のような佇まいを持ったこの好漢の来場所以降の活躍を期待して止まない。


さて一方白鵬の千秋楽の相撲をみても衰えは隠せず、他の2人の横綱も故障が多く、下り坂は否めない。大関陣はこれまた怪我が多く期待薄であるところに、高安、御嶽海、正代と若手実力派が台頭して来て、遅咲きの玉鷲や荒鷲、貴の岩のモンゴル勢と世代交代の気配が濃厚となって来た。

 

特筆すべきは春場所入幕する宇良であるが、初場所で居反りと襷反りの2番が、近年見

ない驚きを私達に与えた。襷反りは昭和26年夏場所3日目、東小結栃錦が2mを超える巨漢不動岩を襷反りに下して以来であろう。実に60年振りの奇手であった。

宇良の凄いところはたまたま成り行きでこうなったという事でなく、狙って仕掛けている事だ。相手の右脇の下に頭を入れて左手を相手の身体に回して、身体を反らして自分の後下に倒す技で相手の力を利用し、かつスピードと足腰が強靭で、背筋力が極めて強くなければ成立しない技である。

宇良は学生相撲時代、頸の力でブリッジして前転を連続して行っており、100kgをこえる体でバック転も行っていた。学生相撲では何度も反り技を披露している。

 

これは過去昭和30年代初め、北の洋が網打ちを得意技としており、左差しの彼は左を差して一散に出る取り口で上位陣には驚異であった。右を差されて土俵際に追い詰められると相手の右腕を両手で抱え、漁師が投網を打つように右後に振る技であった。

また羽鳥山は播磨投げを得意とし、左四ッで右手を相手の右肩越しに上手を握り、自分の右後方に投げる技で、今は滅多に見る事が出来ない。

この2つの技も襷反りと共通して強い背筋力を使って投げるものである。

しかし当時の栃錦の体重は75kg、幕内の平均体重は110kg程であったと思われ、技の多種類が見られたが、現在の幕内の平均体重は実に160kgを超えており、宇良の反り技は危険を伴うことになりかねない。

 

そもそも格闘技はその勝敗の帰趨が体重差に比例しており、勝つ為に体重を上げる事を優先することは止むを得ないが、その結果として負担が足、足首、膝、腰、手首を痛める事として現われ、そこかしこにサポーターを巻いた力士が溢れている事で明らかである。

年6場所も力士には大きな負担となり、多少の怪我で休む事が出来ない。従って最後の最後まで粘って闘う事が少なく、打棄りなどはめっきり少なくなってしまった為にあっけない勝負が多くなる道理である。

平均体重が120~30kg、当時見られた切れ味鋭い出し投げや二本蹴り、蹴たぐり、内武双、外武双、波離間投げ、内掛けは見られなくなり、体力差で押しきるか、叩かれてバッタリ落ちるかの味気ない取り組みが多く、修練を重ねて身につけたスピード豊かな技を繰り出して観客を楽しませる事はなくなった。

 

今は一日に30番も稽古をすれば良い方で、以前は100番が普通であった事から稽古不足が常習化している。以前は平幕力士でも各自特別な技能を修得し「その型になれば横綱でもそうはいかん」といった力士が多く存在していた。(注)下記にしるす

何かサラリーマン化している感があり勝負師の姿に遠く及ばないのは残念の一言である。

 

最後に稀勢の里の相撲について
兄弟子だった若の里曰く「稀勢の里の左は横綱だがの右は十両級だ」の通り右手の使い方が全く駄目であり、今までは先ず立会い後は肩で当って右上手を狙うが、今後は2通りの取り口が考えられる。
1.頭で当たる。左足で踏み込んで左押っけで押し込むーーー従来どおり
2.(イ)頭で当たる。(ロ)右足で踏み込む。(ハ)上手を狙わずに前褌を素早く握って

   引き付ける。(ニ)左は得意の押っけで差せればなお良いがどちらでも良い。 

2つの有利な点は頭で当たることで相手の上体を起す。右足で踏み込むことで右脇が締まる。前褌は当ったところで一番近い所だ。取ったら引きつけることによって、相手の自由を奪う事になり体力を充分に生かせて、取りこぼしも格段に減少する。

その為の訓練は右手、特に小指、薬指の鍛錬の強化が不可欠である。左は差す事に執着せずに押っつけに専念する事だ。これが出来れば不敗の横綱になれると私は確信している。

 

(注)昭和12年頃怪力で有名であった初代の玉の海は怪我をおして土俵を続けた為に右手一本で相撲を取るようになった。その代わり右腕の強さは褌を取ったら最後、これを切れる者はいないと云われた。昭和6年入幕の肥州山は将来大関、横綱と期待されたが春秋園事件で相撲界を脱退12年に復帰した。相撲界で玉の海の右を切れるのは肥州山だけではないかと噂されて、ついに二人は顔を合わせて玉の海は得意の右褌をとった。

肥州山は玉の海の右手首を握って強引に切りにいったが、切る事は出来なかったのである。しかしあとで見る玉の海の手首の皮はべろりとむけていたのである。

現在の相撲取りが、取った褌をすぐ切られるのは鍛錬がいかに不足しているかを証明し

ている。

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