和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

孟嘗君列伝  司馬遷 作

孟嘗君 名は文、姓は田氏、田文と云われた。父は斉の威王の末子田嬰である。
「文とは死者のいわば聖記号である。死葬のとき、朱をもって胸にその絵身を加えて

屍体を聖化し、祭るときには文を冠してよんだ。出生のときに文飾をひたいに加え呪

禁とするものが産。その字の上部は文である」白川静。

田文が養父風洪に拾われたとき、文の文字があったことから文と名づけられた。
父の田嬰は那忌。田忌と共に斉の要職にあり、特に田嬰は外交に優れた力椀を発揮して

いた。又数十人の側室を抱えており、40人からの男子を有しており、田文の母は身分

の低い妾であり、当時忌み嫌われた5月5日の生まれを嫌った田嬰は文の殺害を命ずる。文の母親はこれを逃す。殺害を免れた文は、これを救った傑物風洪に育てられる。

田嬰は当時から多くの食客を抱えており、この試みは田嬰が始めたものである。

主に情報収集にあった。


大国斉は元々太公望呂尚が野に居る時に周の文王に三顧の礼をもって迎えられ、武王を助けて殷を滅ぼし、周が殷に替って天下に号令する事になった功績によって与えられた国であったが600年程を経て、田氏に簒奪された。その末裔は美貌の王女隻蘭のちの洛芭

唯一人となり、彼女は数奇な運命を辿る事となる。傑物風洪は剣を捨てゝ白圭を名乗り、やがて大商人となり、河水(黄河)の大灌漑事業に私財を投げ打つ。

彼の妹、風麗は公孫鞅の妻となる。公孫鞅は有能で秦王考公に認められて、宰相となり、奏の富国強兵を進める推進力となり、詳細な法律を次々とつくりあげ、法のもとに平等

を掲げて初めての法治国家を築き上げるが、考公死去のあと、貴族等の旧勢力の恨みか

ら殺される。しかしこの一大改革による律の力は中国初の秦による統一国家の礎を築く

ことになる。

 

一方斉は諸国の中でも弱兵で知られ国を守る事に常に苦慮してきた。

風洪は、両足を切断され死期迫る孫子の子孫である孫臏をその苦境から救出、斉の軍事

参謀に据える事に成功するや、孫濱の才能は目覚しく斉はみるまに軍事強国に変貌し一

大大国にのしあがって行くのである。


田嬰亡き後、小国●の領主となり、又魏ついで斉の宰相となった田文は孟嘗君となり、

他国の政治にあわなかった人や罪を得て亡命した人々まで招いて受け入れた為に誰も

かれも彼のもとに争って集まり、食客の数は数千人に及んだ。彼は身分を問わず、同

じようにもてなした。斉の涽王(ビンオウ)は彼を恐れ嫌って秦に放出した。

秦王は臣下の讒言を受け入れて彼を監禁し殺害を企てた。(秦の宰相を約束しての招

来であったが)田文は昭王の愛妾幸姫にとりなしを求めるが、彼女の要求は狐白裘

(コハクキュウ)で世に二つというものであった。

秦入国に際してすでに秦の昭王に献上しており、その要求に応ずる事は出来なかったが、臣下の一人僕羊が宮中に忍び込み献上品の狐白裘を盗み出し、これを幸姫に贈ったこと

から、幸姫は昭王にとりなし宰相の地位に復権するや、秦国から脱出を図る。

 

宮殿を出て函谷関(関所)についた一行だが関所の門はすでに閉まっており朝まで開く

ことはないのである。一方昭王は許したことを後悔し早馬で追わせる。関所は鶏が鳴い

たら開く規則であった事から、一行のうち祝舟の鶏のまねによって鶏が一斉に鳴き始める。門番はまだ夜が明けないのにと文句を言いながら一行を通す。函谷関をでる前に捕

まえよとの昭王の命令に忠実な臣下は関所を出てまで追うことをする事なく引き上げる。
この2人の臣下によって一行は救われる。「狗盗鶏鳴」である。


清少納言の「枕草子」の中に「夜をこめて鶏の虚音ははかるとも、よに逢坂の関は許さじ」の歌があり、日本ではこの一首によってこの故事が広まった。

やがて孟嘗君の盛名は中国全土に広まり、彼は諸侯の間で中立を保ち、どこにも属する

事がなかった。皆彼を畏怖し信頼したのである。

彼の死後息子達が跡目を争ったすきに、(薜又は薛)は亡ぼされ孟嘗君のあとは絶えて

子孫はいない。又長江河口に位置して春秋時代末期中原に覇をまさに称えんとして隆盛

を誇った越は紀元前333年当時の王句践から数えて9代目自無彊の時代で滅亡する。

長く続いた周王朝も実態はすでになく群雄割拠の時代が続くのである。

前770年頃から前221年秦の始皇帝の誕生までの春秋、戦国時代は個別に又合従連衡で攻防を繰り返し覇権を争った。従って王が英明でなかったり、有能な臣下が居なければ忽ちのうちに没落の憂き目にあったのである。
諸国は必死に人材を競って集めた。

司馬遷の史記列伝にはそれらの才能溢れる人々が多く取り上げられている。