「范蠡」 立石  優 著

時代は6世紀中頃の春秋時代、丁度孔子の活躍した時代であり東晋末期、群雄割拠の時

代でもある。

主人公 范蠡(ハンレイ)は20歳初め、楚の国から呉に入国する。

楚といえば、漢帝国の祖 劉邦と争った項羽の出身地であり、史記に王道から外れているにも拘らず、項羽は本記に取り上げられている。

 

「力 山を抜き。気 世を被う。時 利非ずして騅行かず。騅の行かざる如何すべき。

虞や虞や汝を如何せん」垓下で漢軍に包囲され、四面楚歌のうち烏江に逃れて、この歌

を残して愛人虞美人を殺して自刃している。「范増を残してさえいれば天下は彼のもの

になっていたかもしれない」

 

さて呉の国は新興国家として隆盛をきわめており、范蠡はそこで生涯の部下、天下無二の豪傑 華康にめぐりあう。呉には楚王から父、兄弟を殺されて以降、長年好敵手となる伍子胥がいて、太子光の食客となっていた軍師 孫武の書物整理(木簡、竹簡)係りとして2年間無給で働いたあと、父王を殺して王位についた太子光(闔盧)をみて、孫武の紹介状をもって越の側近 計然のもとに身を寄せる。たちまち頭角を現した范蠡は、実務家の逸材 文種と知り合うや、国の軍事、政治、行政、後方支援等の両輪として強国をつくりあげる。

 

やがて宿敵呉の国王夫差のもとに絶世の美女西施を献上、又呉の運河工事を支援、呉から密かに米を買い占める等の戦略をはかり、呉の国力を削ぎ、西施に溺れた呉王をみはからって、ついに呉を滅ぼす。

 

中原に覇を称えた越王勾践のもとに宋、鄭、衛、陳、蔡の国々が貢物を持って訪れる。

天下に号令する立場となったところで、役目を終えた自分は国を出たいと勾践に申し出

るが、勾践は「余は子に国の半分を与えよう」と引き止めるが、これは半ば本心、半ば

儀礼的な文句であった。その申し出を受ければ早晩なにかしかの口実を設けて殺される

であろうと判断した范蠡は、家族と身の回りの物をもって即座に越を脱出する。

 

その後文種に手紙を出し、越を去って斉に来るように勧めた文面はこう結ばれていた。「飛鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗烹らるゝ」狡兎が死んだいま、狗は煮られるのを待つだけではないかと。

文種は密かに出国の準備にかかっていたが、身一つで軽捷に行動出来ない性格が文種を死に追いやることゝなる。脱出した范蠡は名を鴟夷子皮と変え、商人に転換するや、短期間に巨万の富を築くのだ。更に危機を感じて、この富を捨てゝ、他国に渡っても同様に商人として成功を納めたのである。

後年漢王国成立時、軍師張良、宰相蕭何、将軍韓信の功績による建国であったが、張良は身の危険を察知して、身分を返上山中に隠棲する。

韓信は劉邦の猜疑心によって殺されるのである。魏の曹操は清流派の英才荀彧を利用したうえで殺害している。

 

つまり役目を終えた才能は自分にとって一番の危険な存在となる為に先ずは取り除く事が急務となるのをよく表わしている。

 

驚く事には、呉の孫武、越の范蠡、漢の張良、魏の荀彧(ジュンイク)、蜀の諸葛孔明、呉の周瑜(シュウユ)等 仕官する前からその名を天下に轟かしており、各国の王達は挙って獲得に走ったのである。野に居る英才を得る為に、平原君、孟嘗君等、戦国の四君はともに食客3千人と言われる埋もれた人材を抱えていた。
人材登用はすでにこの頃から始まっており、やがて隋時代に入って、官僚登用試験とし

て科挙制度が始まるのである。
広大な中国を支配する為に多くの有能な人材登用が不可避であった。

しかし作者は権力者の恐ろしさを甘くみているようだ。

范蠡や文種をそれ程警戒して居たならば、范蠡を国外に出すことは虎に翼をつけて野に

はなつようなものだからで、これ程危険なことはない。


文種は范蠡と組んだとき恐ろしい存在となる。各国が貢物を持って参集した時点で勾践

に無断で直ちに脱出したに違いない。
文種にはその時点で連絡しており、文種が行動を起したのは多分半日か一日遅れであっ

たろう。
実務家の彼は後始末を考えて遅れたのだ。また勾践が范蠡に国の半分を与えると約束し

たのは勾践が夫差に敗北し生命の危険に晒された時に、これを助けた范蠡に語った言葉

に違いない。と私は思う。