ワルキューレみる

新国立劇場にてワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」第1回「ワルキューレ」舞台稽古見学会に参加14:00~19:20(休憩1:20含む)

「ワルキューレ」は「指輪」の「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々のたそがれ」4部作の第2部である。神々、人間及び小人種族ニューベル

ンゲン等の世界をめぐる闘争である。

 

主神ヴォータンはその地位を獲得する為に様々な誓約を行い、これに縛られて身動きが出来ない。

彼の苦悩はやがて神の世界の崩壊を予言。むしろそれを切望するに至るのである。

その為に神の支配を撥ね除けて自由な英雄の出現を待望するが、その為に自らが創りだした人間はいずれも泥人間のようなもので、役立たずばかりと嘆く。彼が希望をつなぐのは、地上に降り立って人間の女性との

間につくったジークムントで霊剣を授ける。

 

永年別れていたジークムントの双子の妹ジークリンデは巡り合い、フンディングとの

不幸な結婚に苦しめられていたジークリンデを救い出したジークムントの二人は結ば

れる。

フンディングの訴えを聞いた婚姻の神でヴォータンの妻フリッカはこれを受け入れ、

ジークムントの断罪を決めるが、これは夫ヴォータンの度重なる不倫と、まして人間と

の間につくった不浄の子供にも我慢ができない仕返しでもあるのである。
これに抗し切れないヴォータンはついにフリッカの決断を苦渋の末に受け入れ、娘で

ある天翔るワルキューレの戦士達の長女ブリュンヒルデに命令して、ジークムントの

命を奪うことを指示。ブリュンヒルデはこの命をうけ実行に移すが、ジークムントの

真情の吐露を聞き、ヴォータンの真意も斟酌して2人を助けることを決意し、戦場に

赴くが、そこにヴォータンが出現し、ジークムントの霊剣を破壊し、フンディングに

殺させるのである。ブリュンヒルデはジークムントの子を宿したジークリンデを逃して

ワルハラに逃れるが、怒り狂ったヴォータンに神の地位を剥奪され追放。

人間社会に落され深い眠りにつかされて通りかゝる男のものとなり、糸つぐみ等して

人生をおくれと命令される。
しかしヴォータンも愛して止まない娘ブリュンヒルデの切望を受けいれ、卑怯者が手を

出すことが出来ないように、眠りについて人間となったブリュンヒルデの周囲を炎で包囲するのである。


全編隠喩に満ちた台詞の連続で壮大な物語となっているが、出演者全員が高い能力を

発揮し、まさに一流歌手の力量を余す事なく表現。舞台装置も、素晴らしく最後の炎

につゝまれる場面はフィナーレを飾る美しさであった。


「ニーベルングの指輪」はナチスのヒットラーが限りなく愛好した作品であるが、

ヴォータンの嘆きの中で神々を超越する英雄の出現を望む場面などを見ると、その

英雄を自らになぞらえていたのではないか。まさに宣なるかなと思わせるのである。


1955年であったかと思うが、高一頃だった私は、ラジオでバイロイト音楽祭の模様が

4日間に亘って全曲演奏が放送されものを聴くことができた。
 ファシズムに反対していた指揮者フルトヴェングラーが盟友トスカニーニの亡命の誘

いを断り、ドイツに残ったのは困難な時代にドイツに音楽を残し続けたいとの思いから

であった。しかし戦後ナチス協力者の疑いから戦犯の容疑をかけられ、演奏活動も海外活動も制限されていたが復活した。

「ニーベルングの指輪」の演奏は格調高い悠揚せまらざる演奏であった。
何よりも魅せられたのがスウェーデン出身のキルステン・フラグスタートのブリュンヒルデであった。彼女は1895年12月7日生れで当時は60歳、高音部分は苦しそうではあったが、比類ないまさに「神のよう」と謳われた声で、その後の2部も引き続いて聴いたのを思い出す。彼女の前にも後にもブリュンヒルデに相応しい歌手はいない。

 

今回の歌手の面々は、それでも現代の考えられることの出来る最高のものを表現したと

思われた。5時間に亘る演奏を深い緊張と感銘の中で身じろぎすることもなく過ごした

のである。

        当日の出演者 
        指 揮 飯守 泰次郎
        管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
        歌 手 ブリュンヒルデ  イレーネ・テオリン
            ヴォータン    グリア・グリムスレィ
            ジークムント   ステファン・グリード
            ジークリンデ   ジョゼフィーネ・ウェーバー
            フンディング   アルベルト・ペーゼンドルファー
            フリッカ     エレナ・ツィトコーワ
                          の面々であった。