孔子伝 (白川 静著)を読む

○ 孔子の人格について
孔子の一生によって完結したものではなく、死後にも発展し、次第に書き改められ、

やがて聖人の像にふさわしく粉飾が加えられた。
孔子は何の著作も残さず、言動を伝える弟子逹の文章によって知る他なく、人の思想が
その行動によってのみ示されるとき、その人は哲人と呼ぶのがふさわしい。

孔子は哲人であった。

 

○その出世については卑賤の出身であり、父母も明らかでなく、巫児の庶生児であろう

と推測される。従って「夫子を殺すも罪なく、夫子を藉(しの)ぐもの禁なし」という

外盗の扱いであった。

 

○中国の春秋、戦国時代は趙の平原君、斉の孟嘗君、楚の春申君、魏の信稜君のもとに

は各々三千人と言われる人々が自分の才能を売り込んで食客となっていた。

しかしまた范蠡(ハンレイ)のように越の功臣で会稽の戦いで敗れた王の勾践を助けて、様々な策を用い、ついに芭蕉の句にある「象潟や雨に西施が合歓の花」の絶世の美女西施を呉王夫差の元に送り込んだ。夫差は西施にのめりこんで、遂に越に敗れるのである。
呉に勝利した越の勾践に、范蠡は「飛鳥尽きて良弓蔵せられ狡兎死して走狗烹らる」の

言をして越を脱出する。中原に覇を称えた越にとっての最大の脅威は、才能ある忠臣達

となった為に彼等を排除する事となるからである。

 

漢の大将軍韓信は漢王国建設の大功労者であったが、目的達成の後に最も危険な存在となって抹殺されている。危険と隣り合わせなのである。

孔子は周公の政治を理想のモデルとして昇華させ、理想主義を掲げて諸国を巡ったが、

上記のように同様の生き方をした人が他にも多く存在していたのであり、古典の教養を持ち門下をもち、世族政治に挑戦して政権を奪取し、取れなければ、亡命して盗とよばれ、どこを祖国とするのでもない。

その代表的人物が陽虎で、孔子の競争相手であった。

陽虎はときに魯国で専制を成就しており、その後も各国で孔子は陽虎に遭遇する。

孔子にとって陽虎は危険な相手であり、その都度孔子は亡命して危険を避けている。

孔子は革命者であっても革命家ではなかったが、陽虎は革命家であり、政治的手腕に優

れていた。
孔子は様々な国を廻ってはその理想主義は国の権力者に受け入れられず、又は受け入れ

られても、孔子の理想主義とは程遠く自らその国を去っている。

孔子はことごとく挫折するが、政治的な成功は一般に堕落をもたらす以外の何もので

もない。

 

孔子は斉の国に用いられないのを怒って斉の実力者、田常の門に鴟夷子皮(シイシヒ)を樹てて去っている。(ちなみに范蠡は越を脱出したあとに鴟夷子皮を名乗っている。

また鴟夷子皮とは瀆神の罪をもって放逐する意を示す呪詛の方法で、有罪者とともに水に流すための皮袋をいう)


孔子の弟子では子路と顔回がよく知られている。子路はもと武侠の徒であり長剣を佩びた武の人で、孔子の身辺を守り、世俗的な仕事を一手に引き受けてきた一途の人である。

顔回は孔子が道をもって許したただ一人の弟子であった。孔子のいう仁を理解しえたのも彼のみであったろう。孔子は後年、魯に帰って顔回を失ったとき「ああ天・予を喪ぼせり。天・予を喪ぼせり」と長歎している。顔回は孔子の分身であった。

 

「孔子にとって亡命は天命であり、この亡命によって人間の万能性を窮める機会を得た

のである。もし孔子が魯国の一政治家としてその地位を保ちえたならば、あるいは鄭の

子産、斉の晏子のような賢人政治家として名を残すことができたとしても、周公を夢に見ることは果たしてできたであろうか。孔子はこの亡命中を「夢と影」の中でくらした。

理想と現実との相克の中に身をおいたが、その矛盾の克服を通してのみ成就しうるのである」と白川静は述べる。