ドキメンタリー映画「真珠のボタン」観る

チリ  パトリシオ・グスマン監督
1989年山形市制100周年を記念して創設された山形国際ドキュメンタリー映画祭は隔年開催されてきたが2007年NPOとして今日に至っている。
2015年度は2015年10月8日~15日開催され、上映された中の作品である。

現在岩波ホールで上映されている(11月20日まで)。


先ず映画の冒頭で現われるのはチリのアタカマ砂漠から切り出された巨大な石英の結晶で、その内部に3000年以上に亘って封じ込められている水が紹介される。

この作品は水の物語であると語られる。水は地球だけの物質ではなく、太陽系にあまねく存在し、太陽系の外にも大量の水を抱える天体は少なくない。

そこにもパタゴニアのような群島が存在するかもしれない可能性を誰も否定することはできない。

水はパタゴニヤの歴史を海に眠る「真珠のボタン」によって明らかにしてもいるのだ。


西パタゴニヤには18世紀に8,000人のインディオが居住しており、海からの恵みで安定した穏やかな生活を永く続けていたのである。が、やがてスペイン人の侵略によって一変する。スペイン人はパタゴニアの資源を略奪し、インディオを労働に酷使、あげくの果てに娯楽の対象として狩の目的とされた。睾丸1つ、乳房1つ、子供一人に値段が付けられ賭けの対象となった。

例によって教会も侵略者の一員として行動し、現地にキリスト教の伝道所を設置しインディオを集めたが、集められた彼らはここで700人が命を失っている。


現在インディオの末裔は数える程しか生存していない。末裔の一人が唄う歌か祈りの歌かの旋律はモンゴルの歌に酷似している、という事は日本人とも繋がっているのかも知れない。


次に映画は新しく成立したアジエンデ政権の社会主義的政策を語る。取り上げられていた土地を農民に返還する等、次々の民主化を断行していったが、しかしアメリカの強力な支援のもとピノチェト率いる軍がクーデターにより政権を収奪、アジエンデ政権の閣僚はすべてドーソン島の収容所に幽閉され、ピノチェト政権に反対する人々は虐殺されていった。その軍事政権は16年も続いたのである。


その後、身体に鉄道の切断されたレールを縛り付けらた死体は海にヘリコプターによって投下され、その数は1,400体に及んだいう。ほかには川にも湖にも多数の人々が投下された。海中を捜索したところ無数のレールが発見された。

その中にレールに付着した「真珠のボタン」が見つかったのである。


クーデター後も軍は今日に至るも政権に影響を持ち続けており、チリ社会に於ける最大勢力であり続けている。
政治の決定権は最終的に中道左派の政党に委ねられたが、この左派は骨抜きにされてゆく。ピノチェト独裁政権の犯した犯罪は4割が裁判にかけられたが、その他は尚そのままだ。現在のチリにはストライキ権も報道の自由もなく、すべての事々に口を挟むカトリック教会が立ちはだかっている。


スペイン人の侵略とピノチェト政権の存続から今日に至るまでそのバックボーンに居座るキリスト教とは何なのかが問われているのだ。

1537年にローマ教皇パウルス3世は「インド人や黒人や新大陸のアメリカの土着人たちも本物の人間である」旨回勅で公布している。つまりカトリック教会は彼等を人間として認めてこなかったことを自ら認めたのである。その事実はパタゴニア人虐殺からピノチェト政権まで連綿と続いているのである。


では新教プロテスタントはどうか?
1517年ウッテンベルグの教会の玄関に95箇条の提題を掲げてカトリック教会の本山ローマ教皇庁に公然と反旗を翻したマルチん・ルッターによって宗教改革は始まり各地に分散していた改革運動が集約されたと言われている。
フランスのジャン・カルヴァンはこの流れの中、1520年代パリ大学モンテギュ学寮に入るが、そこは厳格な規律が敷かれており、先輩にはエラスムス・ラブレー等のユマニストも入っていた。カルヴァンは旧教の頑迷さと激しい迫害から教義に疑問を抱き、ルッター倣ってカトリック教会と絶縁し新しいキリスト教会を創設することによって改革を行おうとした。
1525年ルッター派の人々に比較的寛大であったフランソワ一世が神聖ローマ帝国カール五世との戦いに破れ捕虜となった為に王の国内政策に反対であった旧教勢力はルッター派の人々の弾圧に乗り出し、1528年ルッターの教理は異端、邪説として排撃され、弾圧は過烈を極めた。幾人ものルッター派の人々が火刑に処せられた。


1532年セネカの「寛容について」の註釈を上梓した頃のカルヴァンはまぎれもない「ユマニスト」であったが旧教の容赦ない迫害が勢いを増し、各地で火刑台の煙が上がるようになり、カルヴァンはスイスに亡命、ここに「キリスト教綱要」発表一躍して新教派の理論家となる。

亡命先ジュネーブに新教教会の再建を果たしてよりカルヴァンは次々と厳格な方針を打ち出し、カルヴァニズムの確立の為に苛酷な刑罪を決め、厳しい闘争に突入して行く。


カルヴァンの粛清行為の中には
1.放浪者に占いをしてもらった事件
2.カトリック教会の為に聖杯を作った金銀細工師の事件
3.ダンスをした事件
4.25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件
5.ローマ教皇は立派な人だと言った事件
6.説教中に笑った事件
7.「スペインの騎士物語」を一部持っていた事件
8. カルヴァンを諷した歌を歌った事件


が上げられており狂気に陥っていく。


カルヴァンは名実ともにジュネーブの独裁者としてその理想の実現に狂奔し、多くの人々を猜疑心から火刑に処し、国外逃亡を余儀なくさせたのである。ジュネーブを固めたカルヴァンに対し、外敵の攻撃は激しさを増したが、アンリ2世のイスパニヤのフェリペ2世と組んでジュネーブを抹殺しようと図ったがアンリ2世の急死によって計画は頓挫した。
アンリ2世の死後王族達の勢力争いに新、旧教派の対立が絡み、カルヴァンもすでに備えていた軍備をもってその争いに参入、カルヴァンの死後1572年、旧教徒が新教徒を一網打尽に虐殺したことから、お互いに激しい殺し合いが続いたのである。


カトリック協会側からの弾圧は凄まじくプロテスタントの側の人々に殉教者的な意識を与え、その意識がカルヴァンを駆って防衛の為に立ち上ることになるのであるが、己の暴力は他人の暴力を招き、味方の殉教は敵の殉教を強いる事になったのである。


ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝のキリスト教開禁によるキリスト教内部の激しい闘争以来、内部闘争を繰り返し、権力と結びついて「真珠のボタン」に行きついている。