和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

今西錦司伝(斎藤清明著ミネルヴァ書房)

1992年90才で亡くなった「自然学」の泰斗、今西錦司の評伝である。

今西は1902年西陣の織物業の家に生まれる。屋号は錦屋。西陣の織元の中ではトップクラスで従業員も合せて30人の大所帯であった。その中心に祖父がおり、采配を振っていた。祖父の影響が後年の強いリーダーとなる素地を作ったと彼は述壊している。

 

早くに両親、祖父母を亡くした。父の存命中から家業を止めていたが、借家からの収入で十分に生計はたてていた。40代半ばまで無給の研究活動を続けていたが、その間研究者としてよりは、登山家、探検家として名を馳せ、名実ともに日本のリーダー格となっていた。生涯1500登山も達成している。研究者としての今西はダーウィンの進化論を受けついたが、ヒラタカゲロウの研究から「生物の住み分け」を発見。突然変異と自然淘汰のダーウィンに異論を唱え、現在の生物学が分析主義に立脚しているかぎり、種社会というものは出てこない。種社会はもとより生物全体社会までとりこんで、進化論を考える「住み分け理論」を提唱、種社会を形成している。種・個体の全体が変わるべきときが来たら皆一斉に変わるという独自の理論を展開した。今西の理論は殆んどが日本語で記されており、欧米の研究者の多くは直接触れることが少なかったが、(近年非現実的といういう意味で、日本的との批判が多かったが、批判を超えて浸透してきたようである。

 

又、霊長類の研究では人間以外の生物にも社会があるとの考えからサルの個体を個別に判断、世界の霊長学者は今や今西の説通り、時間をかけて複数の個体を追っている。日本の霊長類研究の現状は世界の先端を走っているのである。

 

今西は個人的にも実にユニークな人物で、魅力に溢れており、その著作は何を読んでも面白い。

1992年6月15日死去 享年90才

梅棹忠夫の追悼文に今西錦司の人となりが良く表わされている。

「今西はつねに学術探検のリーダーだった。青年達に対する今西の指導は徹底したものであった。つねに自然を直接に自分の目でみようというのが基本であった。そして直接の観察でえた事実をどう解釈するかを議論するのである。わたしたちは探検隊として行動しながら夜にはキャンプで猛烈に議論した。自分の目でみて自分の頭で考えよ」というのが今西の青年達に対する指導方針であった。

しかし今西は先学の学説や業績をかろんじていたわけでは毛頭無い。今西自身はたいへんな読書家であった。又今西は自由人であった。何事かにしばられることをもっとも嫌った。

 

自分のやりたいことを自分のやり方でやりとげるのである。今西はしばしば自分を野人と称していた。しかしかれは京都というもっとも都市的な都市のなかで人間形成をおこなったまったくの都会人である。「自分のことは自分でやれ」というのがかれの方針であった。わたしたちの世代はひとりひとりが自分で戦闘を行うパルチザン戦士として育てられたのである。

今西グループは情けによって結ばれた集団ではなかった。今西は情けによってチームを率いるリーダーではなく、何時でもそのメンバーを突き放してみていた。

その関係は極めてドライでまことにさわやかであった。若いメンバーの間ではしばしば団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし。ということわざが流行した。今西にはほとんど敵がなかった。なかには今西の業績と名声を貶めようと試みた人が何人かいたのを私は知っている。しかしどういわれようとも今西のほうから応戦したことは一度もなかった。

 

今西は味覚にうるさい人であった。いわゆる美食家というより味のわかる人なのである。うまい食事と酒は今西の一生を貫く主調音であった。かれはエピキュリアン(快楽主義者)としての人生を貫き通したのである。