和田 大諷

東京葛飾区金町在住

佛画・書・刻字・篆刻を制作

20数回の個展を都内、ひたちなか、ロスアンゼルス、サンクトペテルブルグで開く。過去の個展は展示会の項目をご覧ください。

 

次回鳩居堂での個展は2019年4月2日(火)から7日(日)の予定です。

 テーマのひとつが「紫式部日記」を紺紙銀泥の巻子にまとめたもので、これまでの文字より半分の細字にして上・下を一巻に纏めることが出来た。

なお 恒例の東大名誉教授大場 秀章先生の講演内容も「紫式部日記」と植物がテーマとなります。

 

著作 2014年2月

    「大諷の映画狂時代」

   2018年1月「大諷のへそ曲り

     読書日記」

 

ボクシングは若い頃からのファンにして、頭の中に過去の試合やボクサーの名前が詰まっている。

毎週月曜日のTV観戦記の記事は公平な目での厳しい批評が面白い。世界戦代表的試合は殆ど欠かさずアップしています。

 

 

サンクトペテルブルグ宗教博物館 佛画についての講義内容

    宗教博物館にて佛画についてのレクチャー

おことわり

この文章は現地でレクチャーするために準備した内容に更に加筆して完成させたものです。

レクチャーは時間の都合で実際は3分の1と短くなりましたが凝縮して「A3用紙」に佛画、石佛、淫祠等々の画を実際に見せながら講義がなされ、これが大変好評となりました。

 

佛画について話をせよとの事で少々時間を戴いてお話したいと思います。

日本の佛像彫刻は538年、百済の聖明王が佛像、経典などをもたらして積極的に勧めたことによるとされている。遠くインド、西域、中国、朝鮮半島を経て渡来したもので、朝鮮半島からは金銅佛製造に必要な黄金まで多く贈られております。

 

佛像様式の源流はガンダーラ佛に遡る考えられております。

日本に渡った佛像彫刻は、日本の精神風土、信仰形態に培われて、独自の進展をとげ多くの優れた作品を生み出した。

 

それらは、佛教伝播の最終ランナーとしての日本で佛教世界の他地域に類例をみない高貴さと、繊細さを備えたものでありました。

 

一世紀の終わり、インド、ガンダーラ地方でギリシャ人の手によると思われるギリシャ彫刻的なガンダーラ佛が創られて以来、中東アジア、敦煌の大磨崖佛と、又多くの壁画に四世紀には朝鮮半島に、そして五世紀には日本に伝えられた。

 

七世紀の前半南梁の帰化系の工人止利佛師の手による、法隆寺の釈迦三尊を始めとする、救世観音、百済観音、中宮寺の弥勒菩薩等、大陸の様式を強く残しつゝも、荘厳、秀麗な作品が金銅仏を中心に作られました。

 

七世紀後半の白鳳時代に入ると遣唐使の派遣等もあって、新しい唐様式の導入によって、法隆寺の夢違観音、山田寺仏頭、等の日本独特の美意識のうかがえる清らかでやさしい作品となってゆきます。

 

八世紀、天平時代に到ると政府の直轄する佛所、鋳造所でさかんに造佛が行われ、端麗で、しかも厳しい造形感覚に貫かれた、独自の様式が生み出されてゆきます。

東大寺の日光、月光菩薩や、戒壇院の四天王でいずれも塑像です。

 

更に九~十二世紀の平安時代に入ると木造彫刻の優品が多く造られ、佛教彫刻の絶頂期を迎えます。神護寺の薬師如来がその典型です。

 

勿論数は少ないが石佛も作られ、九州の臼杵の石佛、磨崖佛等、石佛の至宝として現在も見ることが出来ます。 十二~十四世紀鎌倉期に運慶、快慶、堪慶の天才の出現により彫刻としての完成度の高い佛像が多く作られるとともに工房による分業作業が行われ、木造彫刻の大作も集団で作られるようになりました。

しかし十七世紀江戸時代に至ると、雄渾さ、素朴さ、華麗さ、精神性は失われ、日光東照宮の建築、彫刻に見られるような俗悪で装飾過多な、職人の手仕事ともいえる、品格のないものとなっていったのです。

 

美術的にも優れた佛像彫刻は鎌倉時代で終わりを迎えるのです。

 

しかし江戸時代になって特徴的な事実が現れてきます。造佛の技術、精神が衰えてくるのと反比例するように小さな石彫刻が大量に彫られるようになります。

 

東京都にはざっと数えて約三千の寺院があります。これらの墓地には、現在ごく少なく見積もっても一寺院約百基、合計して三十万基の石佛が遺存されております。

 

それらは無縁塔に山積にされていたり、塀際に半ば泥沼に埋もれて放置されていたり、セメントで固められて塀代わりになっていたり、あるいは他のご用済みの墓石と共に、まったくただの石ころ同然に、転がされていたりしています。

 

実に江戸中期から後期にかけて江戸市中に三百五十万基の石佛が彫られたのです。

 

当時の石加工職人は江戸城築城の為、全国から集められていました。

1657年の振袖火事で江戸の大半が焼け、江戸城も被害を受け、石垣も大火をかぶり修築のため、全国から石が江戸に運ばれてきました。

修築が終わったあと、余った石が大量に石職人の手元に残されたのです。  

 

江戸中期、武士の経済支配は次第に破綻をみせ始め、経済、文化の中心は町人階級に移行していった時代である。

裕福となった豪商たちは、厳しい制度のある社会制度の中で豊かさを競って、墓標に佛像を彫る平安時代からの習慣を復活させ、さかんとなるや一般町人にも伝播し、猛烈な勢いで拡がりました。時代閉塞の捌け口となったこともあります。

 

その結果、注文生産の石佛は流れ作業による量産、既製品化へと移行し、関東一帯に拡がりました。石職人は寺と結託して売り込みに精を出したのです。

 

やがて全国にその流れは波及し、一千万を超えると思われる石佛がつくられました。

 

東京という都市は江戸当時以来、度重なる大災害に見舞われ、最近では都市再開発の泥沼にのみ込まれて、古いものがどんどん失われていっていますが、墓地の片隅にだけは、古い江戸時代の石佛墓標が、災害の跡も生々しく意外に多数残されております。

 

しかも、これらは博物館に陳列されている歴史的遺品とは違い、ある意味では、現に今も、怨霊として我々の、この社会に生きて存続し続けているともいえるのであります。

 

そこに彫られている石佛は平安、鎌倉期の佛像彫刻などと、その様相を全く、異にし、佛像の像形の規範をされている儀軌、経典などの規定を大幅に逸脱つしており、もはや、佛像と呼ぶに価しない単なる人形(ヒトガタ)なのであります。多くの美術史家や研究者はこれらの石佛を全く評価しない人が多いのであります。

 

しかしそれらが、佛教美術品として態をなさない破格のものであればあるほど、当時民衆の間で、多大の愛好を受けた、浮世絵版画等と、同様な心情を持って彫られた、江戸の町人のいわば偽らざる肖像として、あらためてみつめ直すべきではないかと思うのです。

 

東京都に現在も無数に散らばっている寺院の墓地の石佛は、江戸中期から明治維新まで、ある意味では、江戸町民の反体制的心情に発する町人達自身の墓標として、すさまじい大流行を見せた事実は私達を驚かせるのです。

 

十八~十九世紀

江戸中期、大量に造立された石佛のうち、地蔵とともに、また数では圧倒的多数を量産された観音像は、浮世絵美人がの大流行とともに石佛も人形と考えられるようになり、観音像は女性化してきました。

 

江戸の石佛は当時の江戸美人の肖像彫刻とも考えられ、当時民衆の美意識を如実に反映した人体彫刻であるとも思われるのです。

 

石佛観音像の顔容は初期には、武家の子女、子弟の為のものも多く、やゝ武家風であったが、元禄に至ると面長な、江戸趣味、浮世絵風とも云うべき容貌に変わっていきます。

 

またこれら膨大な石佛を刻んだ、無名の江戸の石加工職人は、始めから芸術作品をつくる気持ちは全くなく、一介の職人でしかありませんでした。

 

石職人が一人前になる年数は山から石を切り出すのに丸三年を必要とし、更に三年間のお礼奉公ののち、やっと給金がもらえるようになります。

石佛を彫るようになるには更に三十年の歳月がかかったといわれます。従ってこれら石佛の創造には、無数の石職人達の血の出るような努力が注ぎ込まれていたのです。

 

現在石佛をみるとき、これら多くの石職人の血と汗の努力に思いを馳せない訳にはいきません。

 

作家、永井荷風は随筆「日和下駄」の中で(1914年)こう書いています。

淫祠(邪神を祭ったやしろ)

 裏町を行こう。横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴らして行く裏通り にはきまって淫祠がある。淫祠は昔から今に至るまで、政府の庇護を受けたことことはない。目こぼしでそのままに打ち捨てて置かれれば、結構、ややともすれば取り払われるものである。それにも拘らず、淫祠は今尚東京市中数え尽くされぬほど沢山ある。

私は淫祠を好む。

 

裏町の風景にあるおもむきを添える上からいって淫祠は遥かに銅像以上の審美的価値があるからでえある。

 

本所深川の掘割の橋際、麻布芝辺りの極めて急な坂の下、或いは

繁華な町の蔵の間、又は寺の多い裏町の角などに立っている小さな祠。

 

また雨ざらしのままなる石地蔵には今もって必ず願掛けの絵馬や奉納の手拭、或る時は線香などがあげてある。

現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾にしようとつとめても今だに、一部の愚昧なる民の心を奪うことが出来ないのであった。

 

淫祠は大抵その縁起とまはたその効験(しるし)のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴?わすものである。

 

聖天様には油揚げのお饅頭をあげ、大黒様には二股大根、お稲荷様には油揚をあげるのは誰でも皆知っている処である。

 

芝日蔭町に鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば、駒込には熔烙をあげるほうろく地蔵というのがある。

 

頭痛を祈ってそれが治れば御礼としてホウロクをお地蔵様の頭の上に載せるのである。

御厩河岸の榧寺には虫歯の効験(シルシ)のある飴なめ地蔵があり、金竜山の境内には塩をあげる塩地蔵というのがある。  ( 途中略 )

 

無邪気でそして、またいかにも下賤(ゲス)ばったこれら愚民の習慣は馬鹿囃子にひょっとこの踊り、または、判じ物を見たような奉納の絵馬の拙ない絵を見るのと同じように、いつも限りなく私の心を慰める。

 

単に可笑しいというばかりではない。理屈にも理論にもならぬ馬鹿々々しい処によく考えてみると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。

 

荷風のこの文章は今に至るも基本的に変る事がない。

現代のこの東京の中でも良く見れば、そこここにこれらの淫祠を見ることが出来るし、そこには花を活けてあったり、水、酒、食べ物が捧げたあったり、石佛に帽子が被せてあったり涎掛けがかけてあったりして住民の中に定着しております。

 

私の家にも、庭にも淫祠は存在しております。民衆の中に深く根ざしたこの文化も、今は一般の家に残っているのは極めて少なくなってしまいました。

 

古くから家庭に残るこうした淫祠、及びしきたりこそ、日本文化そのものなのですが。

 

さて佛画についてですが、佛画が最も盛んだったのは、中央アジアから敦煌の石窟寺院に残された夥しい壁画の数々です。

 

力強く、生き生きとして、精彩を放っております。。

 

日本で描かれるようになる佛画は、古くは十世紀、多くは十三世紀以降に描かれましたが、日本の建築が木造だった為に、壁画は、ほとんど描かれずに、麻、絹、紙に描かれました。今でも優品をみる事ができます。

 

佛像が寺院の堂内に安置されて、常に公開を原則といるのに対し、佛画は掛軸に、或いは巻物として、収蔵庫などに保管され、特定のときに出されて飾られました。

 

現代も細々ですが、古い佛画と比べると格調の面で又、精彩の失われていることは否定できません。

 

十四世紀室町時代以降失われていった佛画の輝きはそれなりの必然性があったのですが、現在は佛画を描こうとしても無理なのです。

それは無論私を含めて、佛心のない現代人には描くことは不可能なのです。

 

私の考える現代の佛画とは、古の人が創り出し、幾多の戦火の中から守り抜いてきた、篤い信仰心の対象としての佛像の姿を、いかに美しく描き写すことが出来るかと云うことではないかと思っております。

 

一方江戸時代の民衆の美意識の直接的な反映としての、権力と対抗して造られた無数の石佛の数々、それらは寺院内に大切に守られてきた。国宝、重要文化財としての佛像とは全く別次元の必ずしも佛像とは云いがたい夥しいうち捨てられた佛像達、風雨に曝され、崩壊していき、政府の再開発によって破壊されてゆく運命にある多くの石佛。

 

時代が刻んだその美しさも又、愛惜する気持ちが忍びがたいのです。

 

この二つの流れを追って、これからも描き続けていきたいと強く願っております。

それが私の佛画です。

 

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コメント: 1
  • #1

    Miko Yoshiyama (木曜日, 05 6月 2014 04:52)

    〜それが私の仏画です〜
    この最後の短い言葉に和田先生描くところの仏陀の存在がはっきり浮かびあがってくるのを感じます..日々の地道な活動からその才能とパワーが溢れでる様に再度サンクトペテルブルクを訪れ素晴しいパフォーマンスを
    された和田先生とご一行の皆様に敬意の念と拍手を送らせて頂きます.
    (和田先生の博学ぶりにも脱帽. 頭の中をみてみたい..これは願望)