大相撲春場所を終えて(下)

☆稀勢の里
19歳で幕内にも上り将来を嘱望された逸材であったが、彼も既に26歳今のままでは到底横綱にはなれない。
原因”はなまくら相撲”にあるようだ。この体勢になれば誰にも負けないと言う形が無い。漫然と相撲をとっているようにみえる。その為下位にも取りこぼしが多く、速いまたは上手い相手に苦戦する。又自分より体力のある相手に抵抗できない。琴欧州、杷瑠都に分が悪いのは当然である。
日馬富士には速さ負け、白鵬には上手さで、琴奨菊には形があるかないかで分が悪いのである。
左の押っつけは強力なのだが押っけ放しで、自分の得意の体勢の為の武器になっていないのは得意の形が定まっていないことが残念である。

 

☆豪栄道、栃煌山、妙義龍の26歳3人衆は共に良いものを持っているが今ひとつ形が出来ていないことと、立会いの鋭さがないことから相手に威圧感を与えることが出来ないために成績が伸びない。

翻って栃若時代は幕内力士ともなると自分の形をもっている力士が多くおり個性に溢れた力士が多かった。大関松登は突進力が飛び抜けており、受け損なうと誰でもたちまち土俵の外に運ばれた。
大関琴が浜は90kgに満たない小兵であったが相撲が上手く、立会い素早く左差し、右上手を取ると胴長で足短かの体格を利用して、腰を振って相手の上手を切り、相手が焦れて上手を取りに身体を伸ばした瞬間に電光石火の左足を飛ばしての内掛けの切れ味鋭く相手の掛け倒す決まり手の70%は左内掛けであった。

 

小結、関脇で活躍した信夫山は双差し名人で双差しになるや素早い出足で常に上位を苦しめた。信夫山は脇を固める為に昼間も寝る間も両脇の下にワラを挟んで落とさないように努力していたそうである。左差しに成功するや否や一散に走り、相手に体勢を立て直す余裕を与えない、そして残されて慌てて前に出て来る相手を土俵際で網打ちの切れ味を示した北の洋右差し左上手を取ると横綱もそうはいかんと無類の強さを発揮した玉の海関脇までの栃錦は90kg足らず技能賞9回受賞し、上手、下手投げ上手・下手出し投げ、肩透かし、二枚蹴り、内、外掛け、たすき反り、内、外無双等相撲きまり手の殆どを駆使相撲甚句に相撲上手は栃錦とうたわれた。これも90kg足らずの若乃花は上手でも、下手でも取れば自分の倍近い体重差をものともせず投げ飛ばす異能力士振りを存分に発揮し、全体として低調な取り組みが多いときは、相手に存分に攻めさせて会場を沸かし最後はし止めるといった芸当もしめし、サービス精神もすこぶる持ち合わせていた。
2人とも技の切れ味、種類も豊富でその見事さは流石にプロと観客を感嘆させたものである。

格闘技は基本的に体格の大きな者ほど有利であるが近年そのこともあって体重がどんどん重くなり、結果として動きが鈍くなり、怪我も多くなり攻防ある相撲が減少してきていることが相撲離れを起こしている原因をとなっているのではないか。
土俵際の攻防も極めて少ない当時は150kg級の力士は4、5人いたが、100kg未満の力士は半数を占めており、120kgの力士は巨漢力士であった。皆研鑽を積み自分の個性を磨き特技を持って土俵に上がっていたように思う。

今滅多にない決まり手は2枚蹴り、呼び戻し、戻しとったり、網打ち、たすき反り、等現在では殆ど見ることは出来ない。
力士達はプロとしてアマチュアでは出来ない自分達が習得した努力の結果としての技の多彩さを見事さを客観的に見せる努力に著しく欠けている、と。

極めて残念に思うのである。